正解
神楽様の一言により少し肌寒くなった廊下を沈黙が支配する。
意にも介さない笑顔の神楽様。
憐れみを込めた視線を送る瀬川さん。
蓮様は……怖くて顔を見ることができない。
そんなカオスに状況を破ったのは黙りこくっていた蓮様だった。
「寝言は寝て言え」
「蓮、寝言は寝て言うから寝言なんだよ」
馬鹿だなー、なんて笑う神楽様に青筋を浮かべる。
「大体お前にはそっちのお守りがいるじゃねぇか」
「へ?ああ、瀬川さんね。じゃあ瀬川さんと涼ちゃんを交換しようか」
ついさっきまで対岸の火事を見るようだった瀬川さんが肩を跳ねさせ青い顔で僕に助けを求める。それ以前に助けてほしいのは僕の方なんだけど?まあうっかり僕と瀬川さんが交換なんていったらもはや彼に言わせれば究極の左遷なのだろう。
「別にそんなおっさんこっちから願い下げだ、いらん」
「まあまあそういうなよ。瀬川さん結構優秀なんだよ?」
「優秀なら涼と交換する必要はないな」
「それとこれとは話が別。俺が今欲しいのは涼ちゃんの方なんだ」
無表情な蓮様から僕の方へ視線を移し微笑む。きっと世の女性方はこんな風に微笑まれたらきっと骨抜きにされてしまうのだろう。だが僕はもう鳥肌しか浮かばない。完璧に取り繕われた笑顔に寒気がする。あの笑顔の下で何を考えてるのかが全く分からない。
「お前に涼をやる気は微塵もない。それと、涼をものみたいに言うのはやめろ」
蓮様の言葉に一瞬きょとんとした顔をする。そしてまた笑みを浮かべる。今度は作り笑顔じゃない、心からの歪んだ笑顔。心底楽しそうな笑みにさっきとは違う種類の怖気を感じた。
「ははははっ、モノみたいに言うな、ねぇ?それじゃあまるで、涼ちゃんが自分の意思で蓮、お前のそばにいるみたいじゃないか」
見開かれた蓮様の赤い目が一瞬揺らぎ、寸の間躊躇するように口が開かれる。
「……お側付になったのが涼の意思じゃないとでも言うのか?」
「涼ちゃんの意思でなったと思うの?」
揺れを見逃さない神楽様はまた追いつめるように言葉を重ねる。
「神楽様。僕は自身の意思でお側付になることを選んだのです。ここにいるのは紛れもなく僕の本意です」
極力落ち着いた声色でまっすぐ神楽様の目を見返し断言する。そしてばれないように軽く、蓮様のジャケットの端をクイッと引っ張る。そんなことで窮する必要はない、自信をもって言い切って大丈夫という意味を込めて。
面白がっている神楽様からすれば僕の発言はつまらないものだろう、そう思い歪められた顔を想像したが、神楽様の顔から興の色は消えなかった。いや、それどころかまたその色が増したように思え、無意識に身震いをした。
この人はいったい何を楽しんでいるんだ?
「あんまり弟いじめちゃかわいそうデショ。いい大人がそんな小学生相手にそう詰め寄るもんじゃないよ。それに涼ちゃんからは自分の意思で御側付になったって話はさっき本人からも聞いたし」
「瀬川さんはちょっと黙ってましょうか」
予想外なところから援護射撃がきた。さっきまで僕へのロックオン宣言にたいして菩薩顔をしていたが、復活したらしく蓮様を庇うような発言をする。速攻で黙殺されたが。
「蓮は考えたことない?もし涼ちゃんがお側付じゃなかったらって?もし涼ちゃんが蓮のお側付にならなかったらさ、普通の女の子たちみたいに髪を伸ばして、スカートをはいて、かわいい小物を集めて、ほかの女の子たちと遊んで、クラスの男子に恋をして……でも、お側付になっちゃった涼ちゃんはどう?もちろん、俺は普段の涼ちゃんは知らないよ?いつもどんなことを話して、どんな人間関係を築いて、どんなものが好きか……。どんな思いでそうやって過ごしてるかなんて」
「蓮、お前はいつもすぐ隣にいる赤霧涼の何を知ってるんだ?」
饒舌に回る舌に圧される。蓮様は神楽様の言葉に手を強く握った。彼が今何を思っているのかは分からない。だがきっと優しいこの子は一般的な女の子が憧れるような可愛らしいこと、楽しいことに興じるもしもの僕を思って見当違いな罪悪感に苛まれているに違いない。
「涼は…………」
「じゃあ涼ちゃんは?もしお側付になってなかったらって考えたことない?ほかの女の子に憧れたことがない?」
思いつめたような蓮様の応えを聞くことなく屈託のない笑顔で同じ質問を僕に吹っかける神楽様。
質問に蓮様はびくりと震え、怯えるように僕の答えを伺う。不安げに揺れる赤い瞳に軽く笑みを浮かべてみせた。
「――考えたこともありませんね。物心ついた時からお側付になることだけを考えてましたので。よそ見など、まして憧れなど抱いたことはありません。それに僕はあまり可愛いものが似合うような顔でもありませんし、そういうものより機能性を重視します。女の子と遊ぶことだって別にしようと思えばできますし、何より今の交友関係に何も不満などありません。僕はお側付になったことを幸せに思っています」
ヘラりと締めくくるように笑ってみせる。思い通りの反応も答えも得られず残念だったな、という神楽様への嘲笑も添えて。
「蓮様の知っている僕が、僕の全てです」
神楽様ではなく今度は蓮様に言うと安心したように僕を見る。だがやはりまだ蓮様の目には戸惑いと自責の念が見て取れた。
いい加減このネタで弄るのはやめるだろう。そう思い神楽様の顔を見ると、神楽様は――
神楽様は笑っていた。
心底愉快と言わんばかりに口の端を釣り上げて。
ゾクリと嫌悪感が体中をめぐる。
何でこの人はこんなに、こんなにも楽しそうなんだ?
自分の発言を思い返しても上げ足を取れそうなところや失言にあたるような言葉など見当たらない。僕の言葉はすべて事実で後ろめたいところや突っ込まれて困ることなんてどこを探してもあるはずがない。返しは完璧だったはずだ。
つうっと嫌な汗が頬を伝う。スッと至極自然に神楽様は僕と距離を詰め、問う。僕は身を引くこともできずただ魔法にかけられたかのように動かない身体を扱うこともできず、神楽様の問いを聞いた。
「……どうして。涼ちゃんは、お側付になりたいと思ったの?」
それは微かな囁きでありながらこの場にいるものにはしっかりと聞こえただろう。
再び問われた理由に喉が締まる。乾ききった舌が顎に張り付く。無駄に激しい病気なのではないかという程の動悸。
「そ、れは……」
僕は、どうして……?
――本当は気付いてるんだろ?
不快な声がまた、反響する。
何故、どうして――?
ぐるぐると質問が頭を、心を駆け巡る。
わずか数秒のはずなのに、数分にも、数時間にも感じた。
神楽様の顔が視界の大半を占める中、視界の端で蓮様の顔が見えた。
今どんな表情を浮かべているか、なんて読み取る余裕もない。それでも、僕は――。
泳いでいた目を神楽様に合わせる。
「……物心ついたころには、すでに蓮様のお側付になることを目指していました。きっかけや理由などは覚えていません」
「覚えてもいないのに今でも蓮のそばに居続けるの?すごいね。でもその程度の覚悟なら、そのうちポッキリ折れちゃって……蓮のそばにいることにも飽きちゃうんじゃないの?」
視界の隅でびくりと跳ねる蓮様。ギュッと両手を握り俯いている。
蓮様がどうとかじゃない、僕が思っていること、それが正解だ。
「きっかけは覚えてません。何を思ってそんな覚悟を決めたのかも覚えていません」
勝ち誇ったように口角が上がり、神楽様の視線は一瞬、ほんの一瞬だけ蓮様に向けられた。
「それでも、きっかけなどは些細な、些末なものです。僕はこの数年間蓮様のそばにいて、蓮様をずっと誰よりも近くで見てきました。そのうえで、僕は蓮様のお側にいたいと思っているのです。今の僕の持つ覚悟は、幼いころに抱いた脆弱な覚悟ではありませんので」
ざまあみろ、と神楽様に笑ってみせると神楽様の笑顔は崩れ、苦虫をかみつぶしたような表情に差し替わる。崩れなかった顔を崩すというのはなんとも快感だ。クスクスと笑い言う。
「作り笑顔よりそういうお顔の方が素敵ですよ?」
「それはどーも。そういう君は勝ち誇ったような笑顔より焦ってる顔の方がずっと可愛いよ」
うふふふ、あははは、という効果音が付きそうなくらいの作り笑顔で交戦する。さっきのような重々しい張りつめた空気が少しだけ緩んだ。




