本当は気づいていた
あれから自分がどうやって家まで帰ったか覚えていない。
部屋の隅には臙脂色のランドセルが転がり、気づけば僕は膝を抱えて部屋の角で蹲っていた。
着物に着替えることもせず、帰ってきたときのままの格好で考えていた。いや今の今まで考えることもできなかった。頭の中に何かが浮かび、認識する前に消え、再び浮かぶ、ただその繰り返し。障子の隙間からは橙色の光が細く射し込んでいる。部屋の中は薄暗く時計を見るともう五時半を回っていた。
蓮様のもとへ行くでもなく、道場に行くでもなく、母様の手伝いをするでもなく、膝を抱え込んでいるだけでもう半刻も経っていたらしい。
考えたいのに考えることを身体が拒否している。ぼうっとする頭を振るでもなく障子の隙間から見える橙に染まる空を無感動に見つめた。
握りしめていた手を開いてみると爪が手のひらの皮膚を破り血が流れていた。痛みを感じることもなく、畳が汚れるのは嫌だなと思いハンカチを握らせる。藍色の布を黒く染めた。
僕はどうして気付かなかったのだろうか、いや気づこうとしなかったのだろうか。
僕の立っているこの場所は、本来赤霧翡翠が立つべき場所だった。なのに、今僕は、当然のごとくこの場所に立ち、そして、笑っている。
場所から追いやられた彼は、日陰で日を望んでいる。
ーーそんなことは最初から分かっていた筈だろう?
ーー今更何を言っているの?
ーー主人公を追いやって、スポットライトの下に立った気分はどうだった?
誰かからの質問がひたすら胸の奥へ積み重なっていく。
仕方なったんだ。僕が生きるためには。
誰かのために生きていないと自分が消えてしまいそうで……。
ーー自分が生きるために、目的を勝手に定めて、兄の未来をゆがめて、人気者になる気分はどう?
仕方なかったんだ。
ーー仕方なかった?イレギュラーの所為で日向へでることの許されない彼にそう言うつもりなのかい?
違う、そんなつもりはなかった…あのときは余裕がなかったんだ、だから……。
ーーじゃあ余裕のある今、君は御側付きの立場を彼に譲ることができるんだね?
そんなこと、今更……。
ーー大丈夫、六年生になったらもう一度御側付きを決め直すことができる。
ーーその時君が、翡翠に負けるだけで良いんだ。簡単なことだろう?
今更蓮様のもとを離れるなんてできない。
ーーそうだよね。彼は君の大事な大事な生きる目的なんだもんね。彼にいてもらわないと困るんだよね?
そんなことない。彼は私にとって無条件に言える大切な人。
ーーほらまた、君は彼を利用している。四年前は生きるために。そして今は御側付きを辞めないために。
ーー君とって主人とは利用するべき対象なんだろう?
違う。
違う。
違う。
ーー違わない。君はまた目を逸らしているだけだ。
ーーイレギュラーである君が、役者の幸せを食いつくしているんだ。
ーー何、それを恥じる必要はない。君はそうでもしなければ生きられない寄生虫なのだから。
黙れ、違う、僕はもう強くなった。誰かに頼らずとも、生きていける。
ーーじゃあもう君はこの場所に立つ理由はない。早く役者をもとの立ち位置に戻してあげると良い。彼はきっと喜ぶよ。日を浴びて笑うことができる。そして君は日陰で一人の傍観者として彼らを見ていると良い。
ーー本当は気づいているんだろう?
…何を、僕が気づいていると?
ーー…そうして君はまた目を逸らす。その結果を見るといい。日陰で過ごす彼を見てごらん?
目を逸らしてなど、いない。
ーー本当は、気づいているんだろう?
…黙れ。
ーー君は気づかないふりが大好きなんだね。
黙れ、お前に何が分かる。
ーー何だって分かるよ。だって君は僕だから。誰よりも君のことを知っている。
お前なんて、僕は知らない。
ーー目を逸らさないで。いい加減現実を見るといい。
ーー本当は気づいているんだろう?
違う。違う。
ーー聞け。イレギュラーは退出の時間だ。
聞きたくない。
ーー君大切な生きる意味、主人はもう君なんて必要にしていない。
ーー君のこの世界での仕事は終了だ。
終らない!まだ、
ーー君はもう
ーーいらないんだ。
「黙れぇっ!!」
頭の中で響いていた声は、勢いよく額を文机にぶつけた途端吹き飛んだ。
それでもなお僕の頭の中ではあの声の残響が居座り続ける。
分かってたよ。
本当は最初から、分かってた。
翡翠を押しのけたことも。
分かってたよ。
最近感じ始めてた。
蓮様にはもう僕が必要ない。
彼の周りにはもう、人がいる。
四ツ谷、前村、日野…。
彼はもう一人じゃない。
違う、彼は最初から一人じゃない。
雲雀様、嘉人様、さよさん…蓮様が気づいていないだけで、彼の周りにはいつでも人が居た。
彼の視界を覆っていたのはもしかしたら僕なのかもしれない。
靄がかかっていたように霞んでいた思考が晴れていき、冷たい文机にくっつけたままの額から冷やされるように身体が、心が冷めていく。
自分がしていることを知っても、まだ僕は翡翠にこの立ち位置を返す勇気なんて、大切な人を手放す覚悟なんて持ち合わせていない。そしてどうすればこの場所を去ることなく、翡翠に詫びることができるだろうと、そう考える僕はやはり成長なんてものを知らない弱虫なのだろう。
頬を何かが伝うが拭うこともしない。だって頬を濡らす正体なんて『赤霧涼』が知るはずのないものだから。明日になったらもう、いつもの『僕』で居るために腫れることのないように冷やさなければいけない。それでも今の僕にはいつもの『僕』ではいられないから。
僅かに開けられたままの障子からはもう橙の光は覗いていない。そこにはただの黒があった。
『僕』でいてはいけないのに、『僕』でいることに縋ろうとする。
『僕』に縋っているのに、『僕』ではいられない弱虫。
無音で流れていた涙が僕を嘲うようにポタリと小さな音をたてた。泣きたいのは兄貴の方だと。
「……涼」
一人だけだったはずの空間を揺らす声が突然現れた。
襖が開けられ、黄色い廊下の灯りを背に立つ黒い影。
足音にも、襖が開かれる音にも気付かなかった自分に苦笑いをする。
「お帰りなさい、父様……」
「……何か、あったのか?」
部屋に入り、電気をつけることなく文机に突っ伏したままの僕の隣に座った。
「……特に何かがあったわけではありませんよ」
何もなかった。数年前に何があったかを今日自覚した。それだけのこと。
「何もないわけじゃないだろう?今まで何があっても泣かなかったお前が泣いているんだから」
そう言いながら父様が涙を指先で拭った。
「いえ、何もなかったんです。本当に……」
少しだけため息をついて大きな手が僕の頭をそっと撫でた。
「本当か?何かあったなら言ってくれないか?辛いなら父さんがなんとかしてやれるかもしれない。話すだけでも変わるかもしれないぞ?」
「……大丈夫ですよ」
「無理はしなくていい。俺たちは家族なんだから」
父様の言葉が苦しくて、下唇を強く噛んだ。しかししばらくして口元が何となく緩んだ。
「……一つ聞いても良いですか?」
「何だ?」
「僕と翡翠、どちらの方が愛していると言えますか…?」
僕の脈絡のない質問に一瞬だけ息をのんだ。
そして真っ暗な部屋の中でも、彼が困ったように顔をゆがめる顔が確かに見えた。きっと真面目なこの人なら、僕が求めている返事をしてくれるはず。きっと僕に聞くのだろう。
「……涼、お前はどんな答えが欲しいんだ?」
ほら、僕が望んでいた返事。生真面目で優しいこの人は決してどちらとは言わない。僕の真意を測りかねている。そんな父様が僕は大好きだ。
「翡翠だけを愛していると、僕はそう答えて欲しいんです……」
僕の掠れた声に眉を顰めるのが分かった。当然だ、自分ならともかく何故兄の方なのか意味が分からないだろう。
「翡翠だけを見てくれませんか……?」
「……分かった」
一言そう言って立ち上がった優しすぎる人の顔を見上げることは僕には出来なかった。
「理由は聞かない方が良いか?」
「はい、すいません……」
再び襖が閉められる。きっと翡翠の元にでも行ったのだろう。それで良い。
可愛い気のない妹よりも兄の方を構ってあげて。
僕を愛さなくて良い。翡翠だけを愛してあげて。
それが勇気も覚悟ももてない弱虫な僕にできる本来の主人公への罪滅ぼし。
だからもう少しだけで良いから、僕をこの場所に立たせていて?
時間切れになるその瞬間までは。




