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胡蝶の夢  作者: 秋澤 えで
番外編
154/157

花紅柳緑の英雄、交差する鏡像 3

 例えば僕が、どこかにある物語の主人公だったなら、同級生であり秘密を共有する花房と青春やラブコメのような展開があったかもしれない。自分の書き留めた妄想を小説として持ち込むようなワナビーの展開もあったかもしれない。

 でも僕は物語の主人公ではなかったし、主人公の役を張れるだけの度胸も器もありはしなかった。そして彼女とてヒロイズムを演じたりはしなかったし、僕らの時間の共有は彼女にとってもほんの些細なものだった。だから大学受験の合格発表の報告で登校して、彼女と同じ大学へ行くことになったのは驚いたし、彼女には悪いが、何か始まりそうな勝手な予感の足音すら聞いた。ロマンチストというか、夢想家というべきか、そういうところは子供のころから変わらない。


 けれど変わったこともあった。

 ある時を境に、僕は緑の彼の姿を見かけることがぱったりとなくなった。

 どこの日陰を探しても、あの緑を見かけることはなく、図書館前のベンチでくつろぐ彼と猫を見ることもなかった。

 あれから、あれから彼は少しずつ変わった。


 桃色の彼女だ。

 桃色の彼女が現れてから、彼は徐々に変わっていった。

 いじめられている、ということは彼が中学生くらいになってからはないのは知っていた。彼は臆病なままだったけど襲ってくる何かに耐えたり身を守るような仕草をすることはなくなっていた。だがその一方で日陰で苔や羊歯のように過ごす静かさや穏やかさは変わらなかった。長い前髪の間、分厚い眼鏡のレンズの向こう側から新緑のような緑の目を微かに覗かせる、そんな彼だった。

 けれど高校に入ってから彼は少しずつ変わっていった。いや、桃色の彼女と出会ってから、だろう。

 丸めていた背筋は伸び、迷うにまごつく唇ははっきりと言葉を紡ぎ、恐れるような瞳は確かな意思を持った。自分を守るような前髪は切られ、直視することを恐れる眼鏡は取り払われた。

 緑の彼は、赤いヒーロー不在のまま、自分の足で立てるようになったのだ。


 僕はずっと見ていた。見ていたからわかる。

 桃色の彼女。彼女がいたから、彼は変わった。

 怯えるばかりの姿を取り去り、まっすぐと前を見据えることのできる者となった。

 けれど桃色の彼女は、常に彼の傍にいたわけじゃない。確かにある程度は一緒だっただろうがそれでもずっと一緒にいるわけではなかったし、恋人同士のような距離感でもなかった。

 彼はただ、彼女に出会っただけで変わったのだ。桃色の彼女が彼を変えようと思って変えたわけでも、献身的に彼を支えたわけでもない。

 ただ彼のきっかけとなったのだ。



 「書けなく、なっちゃったんだ」



 せっかくだからと手を引かれ入ったファストフード店であれから続きは書いていないか、と聞いた花房に、僕はそう答えるしかできなかった。

 僕は書けなくなってしまった。当然だ。僕があの妄想を書いていたその原動力は”緑の彼に救いを”というものだった。そのために救いとして赤い彼を用意した。けれど彼は赤い彼なしで救われてしまった。きっと彼は、自分の手で未来を切り開いていけるし、他人から差し伸べられる救いの手など必要とはしていなかった。

 僕は彼の姿を何一つ正しく認識していなかったのだ。

 ただただ、僕と比べて彼を下に見ていた。そうして勝手に憐れんでいたのだ。



 「僕が書かなくても、あの子は、緑の子は幸せになれるってわかったんだ」



 そう自覚した瞬間、僕はもう何も書けなくなってしまった。

 僕の物語は”緑の彼が幸せになる”ための物語だった。そのために赤い彼という舞台装置を利用した。けれど緑の彼には赤い彼はもう必要がない。であればこれ以上、何も書くことがないのだ。

 結局、緑の彼と赤い彼の道は決して交差しなかったのだ。

 そして交差しなくとも、彼らはそれぞれの道を歩いて行ける。

 執着していたのは僕だけだったのだ。



 「そっか、残念」



 彼女はただそれだけ言った。指先でつまんだポテトを放り込む彼女の口元から目を逸らした。なんとなく、彼女のことが直視できなかった。

 あまり、期待される人生を送ってこなかったからだと思う。僕の生活の中で唯一花房だけが僕に何かを求めていた。そして僕はそれに答え、提供することができた。けれどもう僕は彼女の期待に応えることができない。いうなれば僕はもう用なしという奴だろう。

 どうしようもなくて、アイスティのストローを軽く噛んだ。

 「ていうか結局、あの途中出てきた桃宮って子は何だったの?」

 「……なんだったんだろうね。わからないや」

 中途半端に出した彼女は全くもっと蛇足となった。正直なところ、彼女の登場シーン以降、すべて削除してしまいたいくらいに。

 僕の妄想はやはり完結していたのだ。冴えない緑の少年を、力強い赤い少年が日陰から連れ出す。そんな物語。それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。そこに桃宮というキャラクターをぶち込んだせいで完全にバランスが崩れた。

 当初の通り、暗雲をもたらすキャラクターでもよかった。けれどちらちらと姿を見かけた桃色の彼女は決して暗雲ではなかったし、緑の彼に希望すらきっと与えた。臆病なその背中を撫でてそっと押してあげていた。

 だが僕の物語で手を引く役割は赤い少年だ。すでにその役割は必要性を失っている。だからと言って妄想の中のキャラクターを物語のために悪役や邪魔者にしたくなかった。彼女はそんなことをしていなかったと言えるからだ。

 桃色の彼女は緑の彼の背を押した。けれど決して執着はしていなかった。赤い彼と同じように、桃色の彼女にも世界があった。緑の彼以外の友人もいただろうし、仲間もいただろう。ただ赤い彼よりも、緑の彼のことを顧みていて、傍にいた。

 彼女はきっと、彼に必要な距離にいて、彼に必要な勇気をもたらした。

 本当の救いは、赤い彼じゃなくて桃色の彼女だったのだ。



 「桃宮が出てからのことは、忘れてほしい。僕の話にはいらない人だったんだ」

 「なにそれー謎を残すねえ。……そんな無気力な先生に、これ以上聞いても意味がないかもしれないけど、ちょっと聞いてみたいことがあったんだ」



 花房はそう言って布巾で指先を拭いスマホを操作した。

 軽快な音楽と光とともに何かのゲームのホーム画面が表示される。



 「これ、知ってる?」

 「リコーディ、ディ、セイ、カラーリ……? 有名なゲーム? 僕あんまりゲームとか詳しくなくて」

 「Ricordi di sei colori、乙女ゲームって奴」

 「乙女ゲーム?」

 「まあ要するに、女主人公がキャラクターの男たちを落としてハッピーエンドを目指す恋愛ゲームよ」

 「それ僕がやってるわけなくない?」



 少し呆れ気味に彼女を見るが、いたって真面目な顔をしている。

 タップされることなく放置されているホーム画面では動画がゆるゆると続いていく。彼女の言った通り、次々とキャラクターたちが出ては消えていく。

 そうして僕は愕然とした。



 「……なに、これ」



 流れていく画面に一人の少年が映し出された。



 「ゲームよ。弥緑くんの書いてたお話のキャラクターそっくりな子がいる、ね」



 そこには僕にしか見えていないはずの、緑の彼がいた。

 分厚い眼鏡、鬱陶しく伸びた緑色の前髪、その隙間から見える怯えたような新緑の瞳。まさしく僕の知っている彼だった。彼の下にはファンシーなフォントで「緑橋優汰」と書かれている。



 「君、そんな名前だったんだ」



 ストン、と何かが自分の中で落ちてきた。

 子供のころから見続けてきた幻影の名前を、たった今初めて知った。

 しかしこの状況を思い出しハッとする。



 「まって、待って待って待って、僕こんなの知らないよ! パクったつもりもないし!」

 「わかってるから落ち着いて。様子見たらわかるわ。本当に全然知らないみたいだし」



 そもそもパクッてたとしてもノートに書いてるだけだから何の問題もないと思うけど、とフォローを入れられるがそういう問題ではない。複雑な心境なのだ。



 「何より、弥緑くんは中学生の時からノート書いてたでしょう?」

 「……ノートに書き始めたのは小学校のころだよ。本当はもっと長いんだ」

 「え、それも読みたいっ、違う。今はそれじゃない。このゲーム、今はアプリが出てるけどこれの前はゲームソフトで出てたの。それが出たのが私たちが中学3年の時みたい」

 「……じゃあ、僕が書き始めた時期と、全然合わない」



 カロ、と音を立てたアイスティのストローを咥え啜る。半ば薄くなりかけたそれを流し込みながら得も言われぬ感覚に浸っていた。

 彼は僕にだけ見える幻覚や妄想だと思っていた。名前も住んでいる場所も知らない子。

 だがもしかしたら彼が見えていたのは僕だけじゃないかもしれない。このゲームを作った会社の人とか、あるいはライターかデザイナーか。



 「弥緑くんの書いた緑川くんにはモデルがいるの?」

 「……いるよ。でもモデルは見た目だけ。僕はそのモデルの名前も知らないし、どんな声や性格をしているかもよく知らない。見た目以外は全部自分の頭の中で補完して書いてるから」

 「じゃあもしかして赤江くんもモデルがいる?」

 「一応ね。でも緑川以上にモデルの原型はないよ。ほとんどモデルはいていないようなものだよ」

 「赤江くんってこんな感じ?」



 数回タップして映像が切り替わる。

 赤い髪に赤い目の少年。

 笑顔で他のキャラクターに話しかける少年のイラストの下には「赤霧翡翠」と書かれている。



 「……違う。この子じゃない」



 赤い少年の姿を見たのは1度きりだった。けれどはっきりと言える。あの赤い彼はこんな顔をしたりはしない。こんなに愛想はよくないし、誰にでも懐く人じゃない。

 でも、ふと思った。僕の作った赤江は、もしかしたらこの赤霧翡翠が近いのかもしれない、と。きっとこんな彼に緑の少年が憧れていたなら、二人は友達になっていたかもしれない。



 「僕の書く赤江にこの彼は似てるけど、モデルとは逆に全く似てない。……気がする」



 あの公園で見た少年はまだ小学生だった。けれど違うと断言できる。あの彼は人懐っこくはない。もっと孤高で、気高い子だ。



 「ふうん……いったい何なんだろうね。偶然も偶然。そもそもこの緑橋くん自体、弥緑くんに似てるし」

 「似てないよ、さすがに。態度とかはもしかしたら似てるかもしれないけど」



 ゲームの中のキャラクターに似ている、なんて言われるのは初めてだ。だが二次元のイラストと三次元を生きる人間が似てる、というのはさすがに無理がある。



 「いや、似てる似てる。カラコンして緑のウィッグしたらノーメイク余裕で緑橋くんコスいけるって」



 突然伸びてきた花房の手に驚き避けることも払うこともできず、僕は彼女にされるがまま髪をかき乱される。眼前に落ちてきた前髪に視界を遮られ、なるほどこれが緑橋の視界なのかと諦めの境地で花房を眺める。



 「ほらやっぱ似てる! 弥緑くんも――」

 「……何? どうしたの」

 「い、や、何でもないよ。うん。あんまり似てたからびっくりしただけ」



 そう言ってパッと手を引く彼女に首を傾げた。



 「そ、それよりも途中で桃宮さんって子出てきてたでしょう。ハイスペックお嬢さん」



 ハイスペックお嬢さん、と彼女のことを呼んでいたのを初めて知る。



 「あの子、何者かはわかった」

 「何者か……? 書いてた僕もわからないのに?」

 「これ。 さっきのアプリのイベントシーンなんだけど」



 またスマホの画面をタップしてストーリーのシーンのスクリーンショットを僕に見せる。

 青い髪の少年と誰かが話しているイラスト。少年は楽し気な笑みを湛えて雑談しているようだが、片方の少女は顔が見えない。見えない、というより書かれていない。輪郭はわかるが、顔の造形の書き込みされていない。顔の造形がなくても問題のないアングルでのイラストでしかないのだ。

 それでも髪色がわかるだけで情報は十分だった。



 「これ、桃色の女の子……!」

 「桃宮天音っていう女の子。デフォルトの名前なの。プレイヤーは主人公桃宮天音を通してゲームをするの。こっちの子の名前も一致ね」



 違和感がするするとほどけていくのを感じた。

 どうして桃宮が緑橋を救えたのか、その中で執着もなにもなかったのか。

 桃宮にとって、それはゲームだったのかもしれない。緑橋という一人のキャラクターを篭絡するための手法の一つとして、彼の背を押すというものがあったのかもしれない。もし桃宮というキャラクターが、すべてのキャラクターたちに手を出そうとすれば、すでに救われた緑橋にはそれ以上絡む理由もないのだろう。

 緑橋が終わったから、次へ、という思考回路だったのかもしれない。

 僕はなんともやるせなくなって、冷めてふにゃふにゃになってしまったポテトを口に押し込んだ。

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