花紅柳緑の英雄、交差する鏡像 2
舞台は現代、陰気で弱気、泣き虫な主人公が、明るくて力強い友人に振り回されながら騒がしくも愉快な学園生活を送る、といったどこにでもある物語だ。
このキャラクターたちに明確なモデルがいる、ということを除いては。
「この子、キャラ盛りすぎじゃない?」
「どのキャラクターのこと?」
「赤毛の男の子。学校のヒーロー、頭も良くて性格も良くて、武道もできてスポーツ万能。優しくて丁寧でモテモテ……理想を詰め込んでいるというか、完全無欠過ぎて胃もたれ起こしそう」
「嫌い?」
「好きだけど」
彼女が僕のノートを手に笑う。
花房真。僕の秘密を知る唯一の同級生だ。
彼女は僕の妄想を書き溜めたノートを見ても馬鹿にするでもさらし者にするでもなく、ただ僕に続きを読ませろとせがんだ。
正直なところ、文学として書いているわけではないそれを人に見せるのは抵抗があった。それでも小心者な僕は人のお願いというものを断ることはできない。その結果、僕は定期的に彼女に僕が書いた妄想を見せることとなっていた。
誰もいない放課後の教室で、僕は黙々と書き綴り、彼女は僕が書き溜めた物語を読む。青春の一ページのように見えないでもないかもしれないが、僕としては薄氷を踏むような思いだった。
「弥緑くんがこの平凡な主人公、緑川くんだとして、」
「だとしないでよ」
「この赤江くんって何者なの? 弥緑くんの理想の姿? こうなりたいの?」
「まさか!」
そう答えて、その物言いだと彼にも失礼だと思い直す。
「……そうなりたいわけじゃないよ。でも緑の子には、この子が必要だったんだ」
「必要ねー。まるでヒーローか何かみたい」
なにか、ではない。まさしく彼は緑の彼のヒーローなのだ。
あの夏の公園の場面以降、赤の彼を見ることはなかった。度々緑の彼の様子を見ながら、その視線の先に赤い彼の存在を感じさせるくらいだ。それを傍から見て、僕は緑の少年の傍に赤い彼はいてはくれないのだとわかっていた。
あの一瞬、彼はようやく明るい日のもとに出ることができた。煌めく予感、彼は憧れを瞳に燃やしていた。それでもその予感は空振りに終わって、彼の傍にはヒーローなんていなくて、ただ遠目で憧れを噛み締めることしかできない。
相変わらず長い前髪と分厚い眼鏡で緑の目を隠しながら、手を握りしめて俯いているばかり。
俯く彼に駆け寄って、一瞬手を取るだけでいいのに、赤い少年は彼の元へ決して来ない。
これは僕の勝手な願望だ。僕が勝手に緑の彼を憐れんで、それから勝手に赤い彼にわずかばかりの憤りを抱いているだけで。
僕が姿を見ることができるのは緑の彼だけだ。
赤い彼には彼の友人たちや大切な人がいるのだろう。けれど僕にはそれを見ることができない。
お世辞にも、緑の彼は魅力的とは言えない。話すのはきっと上手じゃないだろうし、明るい話題の提供もできなければ人より秀でた何かを燦然と見せつけることもできない。客観的に、彼とつるむメリットがないのだ。
それでもお節介で勝手な僕は、緑の彼の救いの手を欲しがった。
その結果が、すでにノート三冊を超えたこれだ。
引っ込み思案で臆病な主人公、緑川が、ハイスペック同級生の赤江と出会うことで世界が変わっていくという青春物語。
何から何まで僕の妄想だ。ここまでくると我ながら痛々しい。
僕の目に映る幻覚のために物語を一人書き綴るとは、自慰行為にもほどがある。その犠牲になっているともいえる赤い少年にも申し訳ない。
それでも妄想でいいから、現実に伴わなくてもいいから、緑の彼に救いが欲しかった。
もしもあの日の出会いが、彼の世界を一変させたなら、どんな生活を送ることになっていたんだろうって。
「きっと、あの子はそれくらい特別なんだ。みんなの理想と憧れを詰め込んだみたいにね」
「ふうん、こういう子こそ何か弱みがあれば可愛くない?」
「ううん……」
彼女の意見は極めて真っ当だ。キャラクターの魅力として、何の欠点もない、というのはいけない。完璧すぎれば隙がなく、失敗もピンチもない。
けれど彼は僕のノートにおいては緑川を救うための舞台装置に過ぎない。要するに隙や欠点というものを必要としていないのだ。
でももしこれを小説という体にするのであれば、この弱気な緑川にも何か一点、光る才能があってもいいかもしれない。それもまた、一つの救いだ。それに僕は緑の彼の姿しか見ていない。だから彼の才能も知りようがないのだ。もしかしたら僕の知らない彼の魅力があるのかもしれない。そうならば赤江にも何か欠点があっていい。実は臆病な一面があるだとか、自信たっぷりな表情の裏側には虚栄心や卑屈さがあるだとか。
「……うん、いいかもしれない」
「でしょう! 何か親しみやすさとか入れてみてよー。強気で勇敢なとこ以外も見たい!」
「花房さんって赤江が好きなの?」
「可愛いんだもん! かっこよさを詰め込んでるのが逆に可愛いというか、絶対裏があるというか。実は腹黒でもいいし、実は価値観が狂ってるとかでもいいし」
あれがいいこれがいい、なんて好き勝手言う彼女の言葉をほどほどに聞き流しながら「完全無欠な赤江くん」のキャラクターを切り崩していく。
そうしてようやく、赤江は緑川を救う人から対等な友人になれる気がするのだ。
「え、この女の子誰? 突然現れる転入生、天真爛漫でかわいらしい……今までのキャラクターたち違いすぎない?」
「いや、本当に僕もそう思うよ」
驚きの声を上げる花房に全力で同意しておく。僕もまさかこうなるとは思わなかったのだ。
相も変わらず僕は緑の影の幻影を見ていた。
時たま現れては消える、陽炎のような彼は僕と同い年くらいの姿になっていた。もっとも、相変わらず前髪は長くて眼鏡は分厚くうつむきがちな泣き虫だ。制服が変わったことからおそらく高校に入学したのだろう。ただ中学生の時の制服とはあまり変わらず、もしかしたら中高一貫校かもしれない。いつも俯いて、時々怯え、ときたま憧憬を目に宿す。中学生の時からあまり変わらなかった。けれど明確に一つ変わったのだ。
僕が学校の図書館にいるとき、彼は外のベンチで座っていた。睡蓮が庭の池に浮かび、新緑生い茂る木が風に揺れる。珍しく彼は穏やかで、ちょうどベンチに座っていた学校で飼われてる白い大きな猫があくびをした。
なんとなく、僕はそれから目を離せなかった。
僕は幼い日から彼を憐れんでいた。友達もいない、自信もない。泣いてばかりで日陰から出ていくだけの勇気もない。ヒーローの訪れに予感の足音を聞きながら何もできず、変わらない日々を送るだけの彼を、可哀想だと、何の悪意もなく純粋に思っていた。
けれどどうだ。今の彼は怯えても、泣いても、焦燥としているわけでもない。初夏の光を遮る木々の下、木漏れ日の中で穏やかに本を読んでいる。
必ずしも、幸福とは同じ形をしているわけじゃない。
今の彼は、珍しく幸せそうだった。穏やかで静かな昼休み。傍らに猫、うららかな日に心地よい木陰、ただ一人本を読む彼のどこがかわいそうなのだろう。
「……余計なお世話過ぎたかな」
彼の妄想の中でだけでも幸せになってもらおう、なんてあまりにも烏滸がましすぎた。彼には見えても聞こえてもないのに、謝りたくてしょうがなくなる。勝手に覗き見ておいてかわいそうとは何様のつもりか。
楽しみにしている花房には申し訳ないが、妄想を書き綴るのもこれで終わりにしよう、そう思って踵を返そうとした僕の視界の端に何かが動いた。
目を瞠るような桃色。
こちらが見えていないのをいいことに凝視してしまう。
あれは誰だ。
静謐さを感じさせた緑の彼の傍に桃色を湛えた少女がいた。人好きのする笑顔で緑の彼に話しかける。おっかなびっくりといった風に何か話す緑の彼。焦る彼を許すように優しく微笑む桃色の少女。
なんだ、あれ。
しばらくすると彼らの姿はすっと消えて、僕は一人チャイムの鳴り響く図書館に置き去りにされた。
「遅刻……」
呆けていたせいで、図書館で授業の始まる鐘をきいてしまった。さっきまで彼の座っていたベンチで、白猫が寝そべっていた。
「誰よこの女!」
「なんで言い直したの」
「こんなセリフ他で言うことないと思ったから」
やめようと思っていた妄想のノートに、結局僕は桃色の少女のことについて書き足した。名前は桃宮。高等部からの転入生で天真爛漫、美しく、優しい彼女は平凡な緑川と距離を詰め始める、といった展開だ。
「いやいやいや! 完全無欠とかもう私の赤江くんで十分だから! 定員オーバーじゃない!?」
「僕もそう思うよ……」
「これからどうするの、彼女は何をするの!? 彼女の目的は! ラブコメみたいな展開にならないよね!?」
「僕にもわからないよ……!」
「なんでさ作者でしょ!?」
がくがくと揺さぶる花房に僕は言葉もない。
僕にもわからない。彼女の目的は一体何なのか。
これがある種の物語なら、平凡で地味な男子高校生の日常が、不思議な転入生によって変わっていく、みたいな展開かもしれないが、それはもう赤江でやった。同じ物語の中で2回同じ展開がある、なんていうのは認められない。
もちろん、あちらの緑の彼に赤い彼はついていない。出会いはあったが、変化はなく、彼は今も平凡で地味な男子高校生だ。ラブコメ的展開もあり得るかもしれない。彼だって決して容姿が整っていない、という訳ではないのだ。きっと前髪を切ってコンタクトに変えて堂々と歩けばモテるようになるかもしれない。ラブコメルートなら桃色のヒロインと出会ったことで自分の自信を取り戻して最終的に結ばれる、みたいな流れだろうか。
「……いや解釈違い」
誰もいない図書館で呟いた僕は、桃色の彼女を自分のノートに書くつもりはなかった。妄想の中では緑川の世界は赤江で完結しているし、緑川は恋愛要素を望んでいない。愉快で自由な男子高校生として、赤江との日常を楽しむのだ。
それでも桃色の彼女を登場させてしまったのは出来心だ。
安定している緑川と赤江の関係に新しいキャラクターを放り込んだらどうなるのか、と。
恋愛要素を入れてもいいし、もっと別の思惑が桃色の彼女にあってもいい。
「面白そうだったから、出来心で……」
「う、うう……わからないでもない。いつもわちゃわちゃ二人もいいけどそこにさす不穏な影、みたいなのでもおいしい……」
うめき声をあげる僕らの奇妙なこと。ここで忘れものでも取りに来たクラスメイトがいたらなんて言い訳をしようか。
正直、この後どうなるのか僕にもわからない。
緑川を大きく変えるのか、それとも緑川を何かに利用したいのか、はたまた揺さぶりをかけたいのは赤江の方なのか。それは今後の幻影の動きと僕の妄想にかかっている。現時点で判断できる要素が少ないため展開については僕もわからない。
もう一度続きを書こうとして、ふとペンを持つ手を止めた。
緑の彼以外の幻影を見るのは赤い彼の時以来だ。それ以降誰の姿も見ていない。だから図書館にいるとき、すぐに違和感に気が付くことができなかった。けれどあの一瞬を思い返して首を傾げた。
赤い彼を見た時、鮮烈な光を、輝く赤を今でも鮮明に思い出せる。けれど彼の容貌はほとんど見えなかった。彼の雰囲気や髪色、目の色くらいしかわからなかったのだ。ノイズ交じりのホログラム。
けれど桃色の彼女は違った。明確に僕は彼女の姿が見えたのだ。見たこともないはずの女子の制服に、肩より少し長い桃色の髪。緑の彼と同じくらい鮮明に彼女の姿が見えたのだ。
「なんで……?」
「何が?」
いつの間に口から出ていたらしく、花房が聞き返す。
花房にはノートを見せているが、僕が見ている幻影の話はしていない。幻覚が見えるなんて言ったら、病院に行けと言われてしまうに決まっている。そうでなくとも、桃色の彼女の姿が明瞭に見えたからと言って彼女が何か解決してくれるわけでもない。
「なんでもないよ」
僕は何も書く気がしなくてノートを閉じた。
その時教室にさす西日のせいで、彼女の髪が桃色の見えたのはただの偶然だろう。




