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胡蝶の夢  作者: 秋澤 えで
番外編
152/157

花紅柳緑の英雄、交差する鏡像 

 子供のころから、僕は鏡映しの誰かの姿をずっと見ていた。

 その彼は、僕よりも少し臆病で、自信がなかった。そして僕よりも華やかな顔と髪をしていた。


 昔からぼうっとしていた僕は、昼夜問わず彼の姿を見ていた。夜寝ながら、夢の中でおろおろと身の置き場に困っている彼を見た。ある午後、公園の隅の木の影に座り込む彼の姿を見た


 だからどう、という訳でもなかった。

 ただ僕らは双子の兄弟のようだった。


 似ているけど、違っていて、姿が見えても触れることも話すこともできない。彼はきっと僕のことすら知らないだろう。僕が勝手に親しみを覚えているだけだ。

 日陰に隠れてこっそりと、丸めた背中を見ていると、消えてしまいたいと言っているように見えた。

 本当に小さかったころ、まだ白昼夢が僕にしか見えていないと気が付いていなかったころ、一度だけ母親に聞いたことがあった。



 「ねえ、なんであの子はいつもあそこにいるの?」



 その時の母親の驚愕と怯え切った目を見て、彼については触れてはいけないことなのだと子供ながらに悟った。

 それからは、彼は僕だけの秘密になった。


 隠すように、隠れるように、長く伸びた前髪は緑のカーテンのようにその顔を覆う。

 彼が何に怯えているのか、恐れているのか、最初僕にはまるで分らなかった。


 彼は僕だ。


 けれど僕は特に何者にも怯えてはいなかった。地味だった僕はいつも空気のようで、いつの間にいなくなって、いつの間にかいる、そんな子供だった。だからこそ害される、という恐怖がなくてマイペースに、自由に過ごしていた。



 「大丈夫だよ」



 何度か、僕は彼に声をかけた。

 隅にいなくて大丈夫。怖がらなくて大丈夫。君はどこにいたって大丈夫。


 彼の耳には届いていないだろうけど。



 「怖がらなくていいよ」



 君が僕と似た誰かなら、きっと悪いことはしてないだろう。

 誰かを害することなく、ただただ揺蕩うように生きることは、糾弾されることじゃない。

 胸を張って生きろとは僕だって言えない。でもきっと、何かに怯えたり恐れたりする必要はない。

 もし君を怯えさせる何かがいるなら、きっとそれは相手が間違っているから。


 僕は小さな双子の弟のような彼を励ましたかった。

 ついぞ、僕の声が彼に届くことはなかったけど。



 ある夏の日の公園で、僕はまた僕に似た誰かを見た。

 母親にお使いを頼まれた帰り道、お駄賃ともいえるソーダ味のアイスキャンディを公園のベンチで食べているときだった。前の道路を歩いていく同級生たちに気づかれることなくぼうっとしていると、影の中に彼が見えた。


 大抵彼は、日陰にいる。

 カンカン照りの夏の日に、深く暗い影を覆う木の下は居心地がよさそうに見えた。彼は、とてもそうは見えなかったけれど。


 僕には、彼しか見えない。

 けれどおそらく、ほかに人がいるのだろう。彼は誰かに向かって何かを言おうとして、やめるような素振りを見せていた。身を守るように、傷つかないように、俯いて背中を丸める。

 哀れで、可哀想で、情けない姿。

 それでも僕にできることはない。

 そこにいる誰かを糾弾することもできなければ、怯える彼の前に躍り出て庇うこともできない。


 きっと、一時的に僕と彼の世界が繋がっているだけなのだ。

 そんなお話を学校の図書館で読んだ。鏡の向こうには、よく似た人たちの住む、全く違う世界があるのだと。だからきっと、僕らもそうなんだ。

 鏡の中を覗き込むように、僕は彼の姿を一方的に、一時的に見ることができる。それはラジオのつまみをぐるぐる回しながら周波数を合わせるような、一瞬だけ世界が繋がるような感覚なのだ。

 励ましの言葉も、僕の悔しさも、彼にはひとひらだって届いちゃいない。


 けれどその日はいつもと違った。

 彼ははじかれたように顔を上げる。彼は夏の太陽が降り注ぐ日向を食い入るように見ていた。そして一瞬公園の出口を見て、また日向に視線を向けた。


 日向には何かがいた。


 何かははっきりとは見えない。けれど光の中にもう一つ光源があるように、そこにはうっすらとしたホログラムのような誰がいた。

 彼はその人影に向かって何か話しかける。ふらふらと日陰から出て、照り付ける光の元へ、そしてかぶっていた帽子を取った。


 今まで何度か見てきた。初夏を思わせる若草色の髪だ。

 僕は少しだけ、彼のそれがうらやましい。僕の髪は黒だ。けれど昼の光に照らされると微かに緑がかっているようにも見える。もっとはっきりとした綺麗な色だったらいいのになんて、僕はそれがうらやましい。


 彼は一つ二つ、何かに話しかける。手を掴むような、引き留めるような仕草で。

 ふと俯いてばかりの彼が、はじかれたように顔を上げた。長い前髪の隙間から鮮やかな緑の目が輝いた。


 その視線で、僕はようやく彼の視線の先の人物が一瞬だけ見えた。見えた気がした。


 彼よりも少しだけ背の高い、着物の少年だ。


 まるで幽霊のような幽かな姿なのに、小さく結われた赤髪が、ザクロを閉じ込めたような赤目が、彼はここに生きているという実感を与えさせた。


 緑の彼とは似ても似つかない、堂々と溌溂とした佇まいをしていた。


 薄い唇が、素早く動く。背の低い緑の彼に諭すように、赤い少年は言葉をかける。

 その時、僕は今までに見たことのない緑の彼の表情を見た。


 あれは憧れだ。

 美しいものを見た時、カッコいいものを見た時、人はそんな顔をする。

 薄暗くて眠ってしまいそうな日陰から、日が燦々と降り注ぎ走り出してしまいたくなるような日向へと、緑の彼は憧れた。


 声が聞こえなくてもわかる。


 『ありがとう!』


 緑の彼は赤い少年に、輝く瞳でそう言った。



 赤い少年はきっとヒーローだった。

 日陰から引っ張り出して、日向まで連れてきてくれる、そんな憧れ。


 けれどだからと言って緑の彼の何かが大きく変わったわけではなさそうだった。

 それからも彼の前髪はずっと長かったし、おどおどと怯えた態度も変わらない。

 だが変わったこともある。彼は決して泣かなくなった。理不尽な何かに身を縮めても、恐れるように足が震えても、彼は決して屈しなかった。

 髪の隙間から見える緑の目は確かな意思をもって、今も赤い憧れを燦然と燃やしていた。


 彼のヒーローが現れることは、それからはなかったように思えた。

 彼がもう一度あの憧れを明確な対象に輝かせることはなかったし、僕もあの赤を日向の中で見ることはなかった。


 あの赤い少年は彼にとってのヒーローだったのに、どうしていなくなってしまったのか、と僕は不思議な気持ち9割、理不尽に詰りたい気持ち1割で首を傾げた。


 緑の彼の辛い生活は変わっていない。

 もし彼の生活に赤い少年が寄り添っていてくれたなら、彼の学校生活はもう少しだけ楽しい者であっただろうに。


 赤い少年は、日陰でしょぼくれる緑の少年の救いだったろうに。


 




 「これ、素敵ね」



 そう言ったのは同級生の女の子だった。

 溌溂としたグループからは外れるけど、蝶のようにグループを転々とする自由な子。

 その子の手には僕の誰にも見せたことがないノートがあった。



 「そ、それはっ……!」



 らしくもなく緑の彼のように動揺する。

 僕のモットーと言えば動じず、のんびりと揺蕩うように。なのに今の僕は人生で一番動揺して、背中には厭な冷汗が流れていた。



 「なんで君がそれをっ」

 「なんでって、日本史の授業って移動教室でしょ? 机の中見たらノートが入ってて、前の人が忘れたのかなーって」

 「なんで中見るの……!?」

 「だって中見たら内容とかで誰のノートかわかるかなって思って。優しさよ、優しさ」



 だって表にも裏にも名前が書いてないんだもの、なんて言う彼女は悪びれもしない。そして僕と言えばどもりながら聞いてもしょうがないことをぼろぼろと口からこぼす。頭のどこか冷静な部分で時間稼ぎをして何とかいい言い訳を探さなくては、と思考を高速回転していた。

 もっともすでにこの状況は詰んでいて、僕にできることは何もないことはわかっていた。

 僕にできることは彼女が僕を最悪の状況に叩き落さないか、何とか交渉することと、これから僕が受ける辱めという辱めを先どって想像することで、その衝撃と痛みを緩和する方法だけだった。



 「弥緑くんって小説とか書くんだね」



 にんまりと笑う彼女と対照的に、僕は血の気が引いていくのを感じていた。

 ああいっそこのまま気絶できたらいいのに。



 「この話、このノートより前があるでしょ。私読みたいなあ」 



 まるで肉食獣だ。そして小説とも呼び難い僕の妄想が書き綴られているノートを人質に取られた今、僕はただ震えるガゼルにしかなれない。

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