海底臘月、花運びの蜜蜂3
この美しい顔は、そんなひどい表情を浮かべることができたのか。
「がっかり、だと?」
「ええ、がっかりされたでしょう。こんな私、」
がっかりなど、するはずがない。
顔を見た瞬間、幼い日に見た愛らしい白い少女だと分かった。そのうえ俺のことを覚えていて、名前を呼ぼうとさえした。それが、どれだけ俺にとって喜ばしいことか、どれほど希っていたことか、涼は知らない。
「赤霧涼は、私の理想でした。強くて、格好良くて、何でもできて、自分の意思と力で道を切り開いていけるような、そんな人でした。……黄師原会長もそう思っていたでしょう」
「鼻持ちならない小賢しくて苦手な後輩だとは思っていたよ」
ああそう言えば、あなたはそうだった、とまた彼女は乾いた笑いをこぼす。
赤霧涼はどこまでも”俺”に対して小馬鹿にしたような態度をとっていたし、”俺”はいつだって躾のなっていない犬のように彼女に吠えていた。
彼女はおもむろに腕を捲った。日焼けなど知らないような白く細い腕に心臓が妙な音を立てた。ただの腕だというのに、見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
しかしふと、その腕があまりにも細く青白いことに気づいた。
腕だけでない。白い顔はいっそ不健康なほどに血の気がなく、身体もあまりに薄かった。
「みっともないでしょう? 貧相で、何もできない腕です」
ぞっとするような声で彼女は言う。
「子供ころからずっと、私は身体が弱かったんです。普通の人が普通にできることが、できません。人と同じように歩くことも走ることもできませんでした。脆弱で、重たいばかりの身体です」
力なく笑う彼女にかける言葉を探し、はっとして表情を引き締めた。今俺は一瞬でも、同情などしはしなかっただろうか。憐憫の目で見やしなかっただろうか。
それは許されないことだった。傲慢などという一言では済まされないような、無礼だ。
「2年前の冬、私は心臓の手術を受けました。そして眠っている数日間に、夢を見ました。長い長い、夢でした」
幸せな、夢でした。消え入りそうな囁きに耳を傾ける。
「そうして私は”胡蝶の夢”に溺れました。決して現実など思い出さないように鍵をかけ、深く深くに沈めました」
「胡蝶の夢……」
そこで俺と彼女の夢の違いに気が付く。
俺の夢は、あくまでもただの夢だった。子供のころからずっと、夜寝るときに、客観的な視点で”黄師原煌太郎”の生活を見ていた。
だが彼女はあの夢を”胡蝶の夢”と呼んだ。彼女にとって、”赤霧涼”とは追体験の依り代だったのだろう。実際に”赤霧涼”として生活し、成長してきた。夢から覚める、その春まで。
「”赤霧涼”は私とは真逆でした。誰よりも強い身体を持っていて、自信にあふれてる。誰にでも優しくて、”一番大切なもの”のためなら何だってできる、何だって投げ出せる、そんな人でした」
「涼……、」
「私は、”赤霧涼”になりたかったんです」
病弱で床に臥せてばかりの真白の少女は、誰よりも強く自由な赤い少女を夢想していた。
「みっともないでしょう? 自分の欲望を詰め込んだ”キャラクター”になりきって生きていたなんて。現実から逃げようとするみたいに、逃げ出して妄想の世界に溺れてるみたいに」
言葉が震え、苦しげに顔を歪めた。
「涼、涼、聞いてくれ」
「なんです?」
その赤い目が揺れるのを見て、本能的に何を求めているか理解した。そして俺がそれを彼女に与えるつもりは微塵もなかった。
「ここに、君を責め立てる者は誰もいない」
「なに、を」
「俺は君に罰を与えたりしない。誰も、君に罰を与える者はいないだろう」
呆然とした顔が、泣きそうに歪んだ。
「俺なら、”俺”なら今の君の姿を見て、”赤霧涼”は張りぼてだった、中身が伴わない、などと鬼の首をとったようなことを言い出す、とでも思ったんじゃないか。……君から”俺”はクズだと思われていたかもしれないが、そこまでの鬼畜生じゃないぞ、”俺”は」
その表情は、本当に”俺”のことをそう思っていたようで、苦笑いしかでない。”俺”が”赤霧涼”を苦手としていたのと同じように、彼女もまた”黄師原煌太郎”のことを苦手としていたのだろう。
「涼、君は”白鷺涼”でありながら”赤霧涼”を演じていたことに罪悪感を抱いているのだろう」
「…………、」
「だがそれは何の意味もない、君の中で完結した事象だ。罪でなければ罰もない。演じていて何が悪い。誰だってどこかに必ず自分をよく見せようと演じる部分がある。それを誰が罪だと呼ぼうか」
「……でも、みんなが会いたかったのはこんな”涼”じゃないでしょう」
弱々しくて、嫋やかで、他人の助けを必要とする、そんな自分を誰が望むだろうか。
「人のせいにするなよ」
「へ、」
思わず口から出た言葉はもう帰らない。だがそれでよかった。
「がっかりしてるのは皆じゃない、周囲じゃない。他でもないお前だ白鷺涼」
赤い目が見開かれて、零れ落ちそうに揺れる。
「誰がお前のことを責めた? 期待外れだと詰った? 詳しいことを俺は知らない。だが奴らがそんなことを言うか。言うはずがないだろう。癖の強いお前の友人だったのだから。責めるのも詰るのも、お前だけだ」
「私、は」
「自分のことくらい、無条件で愛してやれ」
白鷺涼が、どんな生き方をしてきたのか、俺は知らない。どんな家族がいて、誰とどんな話をしてきたのか。
白鷺涼は、愛されるのに理由が必要だったのか。
赤霧涼は、認められる理由付けのために、あれほどまでに奔走していたのか。
だとすれば、白鷺涼も赤霧涼も本質はさして変わりはしないだろう。
役に立たなければならないと、責め立てるのは彼女自身だ。
「笑いたくないなら笑うな。自分を安売りするな、卑下するな。君は価値ある人間だ」
気が付けば、彼女は泣いていた。静かに涙を流し、それから子供のように顔をくしゃくしゃにして控えめな嗚咽を零しながら泣いた。
俺の夢見た真白の少女の泣き顔は、俺が思っていたよりずっと汚かった。
だが手が届くと勘違いしてしまいそうなほどに、人間らしかった。
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会った時よりも、血色のいい顔で彼女はカフェラテを啜っていた。
「それにしても、煌太郎さんはどうしてすれ違っただけで私だと気づいたんですか? 随分見た目が変わっているでしょう」
「夢で初めて会ったとき、お前がどんな姿をしてたか覚えているか?」
しばらく考え込むようにして、それから思い当たったように噴出した。
「ああ! 確かあの時は女装して……」
「変装、だろう。”白樺蓮”の架空の妹のふりをしていた。道理でどれだけ調べてもお前のことが出てこない」
一瞬余計なことを言った、と焦るが涼は気にする素振りも見せない。大方屈辱を晴らすために白樺蓮のことを調べていたと読み取ったに違いない。
「あの変装していた涼をそのまま成長させると今の君の姿になるだろう」
皮肉なことに今の涼の姿は俺が夢にまで見た理想の彼女の姿だった。彼女は知らないだろう。ただこの現実で生きていてくれることが、どれほどの救いになっているのか。
話した時間はまだ1時間にも満たない。だがもっと多くの時間を涼と過ごしていたような気がした。
「じゃああの時、あなたが掴んだ腕は”白鷺涼”のものだったんですね」
今日初めて見る、何の憂いもない晴れやかな笑顔だった。
あの日あの時見た彼女は、確かに”赤霧涼”ではなかったのだろう。俺自身にもわからなかった。あの白い少女だからこそ惚れたのか、それともハンカチを拾ってくれた優しい少女に惚れたのか、それともその両方だったのか。ただ俺が夢見ていたのは”赤霧涼”ではなく、白鷺涼だったのだろう。
粗雑で荒っぽくて、加減も知らない馬鹿な”俺”。あの軽率な行動が、今の涼の心の欠片の救いになったのなら、世間知らずの糞餓鬼のあの行動も、少しだけ許せるような気がした。
「ねえ煌太郎さん。私来月から大学生になるんです。白鷺涼は初めて実家を出て、田舎から出て都会で暮らします」
口の端にミルクの泡をつけた彼女は楽しそうに言う。
「馬鹿みたいなことなんですけど、私の宣言を聞いてくれますか?」
「聞くだけ聞こう。楽しみだ」
「私の物語はここから始まるんです」
少しだけ目尻と鼻を赤くした彼女は自分自身に言い聞かせるように、見届け人たる俺に伝えるように口を開いた。
「何もできない、惰弱で卑屈な”白鷺涼”は今日でおしまい。一人でなんだってできる理想の子”赤霧涼”の物語はもう終焉を迎えました。私はただの”白鷺涼”、手術前よりずっと動けて、どこかへ行ける足もある。ここからは私の、私のための物語です」
美しい柘榴の瞳はもう揺れていない。窓から差し込む日の光を吸い込み輝いていた。
誰よりも弱くて、誰よりも強くなることを願っていた彼女は、胡蝶の夢から覚めて2年。ようやく本当に自由になれたのだ。
「もし私が、また弱い私になりそうだったら、今日みたいに叱ってくれますか?」
「……君がその時、俺のことを思い出して、泣き言を言いに来る相手を求めているなら」
「あなたからは来てくれないんですね?」
「君が自分から弱音を吐きに来ないときなら、それを支えるのは君の周囲の仲間の役割だろう。求められないまま行ったところで、それはきっと君の足を引っ張るだけだ」
自分からなんとかしたいと願うなら、その時は今日のように水を向けるくらいのことはしてやろう。
偉そうに言う、と彼女は少しだけ不平を漏らして、残っていたカフェラテを飲み干した。
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運営にテントへと戻るとイベントは変わらず恙なく行われているようだった。その中パイプ椅子に腰かけうなだれている鉄司を見つけた。
「すまない、今戻った。何かあったのか?」
「お帰り。いや、ちょっと昔の知り合いに会っただけだよ。久しぶり過ぎて少し疲れた」
珍しく疲労感をにじませる鉄司に、よほどキャラクターの濃い知人でもいたのだろうとあたりをつける。良くも悪くも面倒見のいい彼のことだ。面倒ごとでも押し付けられたのだろう。
「そういう煌太郎は、なんだか機嫌がいい? 何かあったの?」
「……俺も古い知人に会ったんだ。もう、会うことはないと思っていたんだが」
「へえ、どんな子?」
どんな、と言われて少しだけ困惑した。
彼女とはどんな人間だろう。
劣等感に苛まれ、自罰的で自信がない。不器用で視野が狭い。自分が入り込んだ夢の世界にいつまでも囚われ、一人で雁字搦めになっている。
「実直で、不器用。だが何とか前に進もうとするような、そんな奴だ」
その評価が正しいのかわからない。
きっと涼は、その仲間とともにいるときは見栄っ張りで落ち着いた自信家の仮面を、今も被っているのだろう。
理想に近づこうと足掻く、それの何が悪いと言おうか。それは彼女が望んだ努力なのだ。
生きづらい少女だ。だが彼女はそれを望んだ。ただ弱く、泣き言を吐いてばかりの日々を彼女は拒み続けるだろう。同情を受け、憐憫を受け、そうして周囲を動かすことはきっと彼女にとっては簡単だろうに。彼女はそれを許さない。
だがせめて俺の前では泣き虫で素直で、嫋やかであれ。無用な期待も失望もありはしない。演じる必要なんてない。
手に入らなくてもよかった。自分だけのものにならずともよかった。傍らにいなくともよかった。
ただこの現実で生きていてくれるだけ、俺の不毛な長い長い初恋が報われる気がするのだ。
きっと今彼女は彼の仲間たちと合流していることだろう。人ごみではぐれたことを怒られながら、この楽器の音や人々の声に紛れて笑っていることだろう。
手助けが必要なら、時間も手間も惜しまない。
どうかいじらしい真白の少女が、この世界で少しでも楽に生きられるように。
読了ありがとうございました!




