海底臘月、花運びの蜜蜂1
俺は、その白い髪を知っていた。透き通るような白い肌を、柘榴のような目を知っていた。
全身がしびれて、皮膚が粟立つのを感じた。
俺が彼女を呼び止めようとしたとき、彼女もまた俺を見た。
幼いころに見た夢。
華奢で小柄な白い少女。夢の中よりずっと成長していた。
小さな口が俺の苗字だったものを、呼んだのだ。
だから俺も呼んだのだ。
「赤霧涼……!」
俺はもうあの白い雛のような少女が、赤く気高い少女だと知っていた。
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たとえば、初恋の人が夢の中で会った少女だという奴がいたら、きっと十人中九人が鼻で笑い、一人は精神を疑うだろう。
そうであることを俺は知っていたから、誰にも言うことはなかった。
ずっと昔から見ている夢があった。
夢の中で俺は”黄師原”と呼ばれていた。”黄師原煌太郎”と呼ばれる人間を俺は俯瞰するように夢で見ていた。子供のころから鼻持ちならない糞餓鬼で、生意気ばかり。親の七光りを全力で輝かせているような子供だった。
顔はまさしく俺の顔だったが、あんまりな態度だったため、子供のころからその姿は俺にとっての反面教師であった。
どれもこれも夢だ。すべて夢だ。それは知っていた。
それでもその夢はいつだって鮮明で、授業の内容などに至っては夢の中で予習をしているようなもの。就学してから勉強で困るようなことは一度もなかった。鮮明な夢はそれだけに疲れるが、それでもメリットの方が大きかったうえ、夢の内容をコントロールするすべなど持っているはずもなかった。
その日の夢はパーティ会場のような場所だった。鼻持ちならない御曹司である黄師原煌太郎はパーティ会場では父親の傍で澄ました顔をしてある程度”いい子”にしていた。けれどそれにも途中で飽きて、会場の廊下へと出ていく。
一人になって廊下のソファにでも座ろうかとしているとき、後ろから声を掛けられたのだ。
「あの、すいません」
控えめで、けれど明確に”俺”に向けられた声だった。一人になりたかったのになぜ話かける、とでも言いたげな愛想のない返事をするが、彼女の手には俺の使っている紺のストライプのハンカチがあった。”俺”が中で落としたのを彼女が拾ったのだ。
その時”俺”は初めて彼女の顔を見た。初めてその小さな少女のことを認識したのだ。それまでぼやけていた少女の姿が露わになる。
長く伸ばされた白い髪、透き通るような肌、淡い色のドレス。そしてひときわ目立つ柘榴のような赤い目。
あの瞬間、その顔を見た瞬間、俺はきっと恋をしたのだ。その感情の名前も、表現の仕方も知らずとも、俺は彼女に恋をした。
何の打算もなく、ただの純粋な善意でクソガキな”俺”に声かけた。
少しでも長く視界に入れておきたくて、少しでも傍に置きたいだなんて、考えて。何もわからない馬鹿な”俺”はその細い腕を掴んだ。自分より幼い子供の腕を、まるでお気に入りの玩具がどこかへ行ってしまわないように握るような遠慮のなさで。
”俺”は彼女の迷惑そうな顔にも気づかない。
ああ、やめろ、やめてくれ。
無理に名前を聞こうとするな。パーティに呼ばれている人間なら後でいくらでも調べられる。女の子の腕を力任せに引っ張るな。彼女はお前のものではない、ぞんざいに扱っていいものでもない。
そして、もう一人白い子供が現れる。
「おい、何してる」
不機嫌そうな不遜な声。
喚き散らす”俺”を視界の隅に入れながら、俺は乱入してきた白い少年を見た。
白い髪、白い肌、ルビーのような透ける赤い目。
アルビノの知り合いは俺にはいない。けれど俺はその顔を知っていた。
”赤羽蓮”
大企業赤羽グループの次男。俺より一つ年下の、いつも澄ました顔をした子供だ。奴は赤髪で白髪ではない。けれどその顔は寸分たがわず俺の知る奴の顔だった。
何より彼女はこう言った。
「蓮様」
縋るように、安心するように、奴の名前を呼んだのだ。
先ほどの”俺”に向けた作り笑いではない。
まだ自分の感情にすら気が付けない”俺”を見守りながら、俺は自分の恋が夢の中でさえ叶わないことを知った。
夢の中で出会った嫋やかな少女は、初めて会ったときにはすでに他の男のものだった。
”白樺蓮”は彼女のことを妹だと言った。”俺”は納得していたようだが、妹が兄のことを様づけで呼ぶものか。
俺は彼女の名前すら知ることができなかった。
夢から覚めた俺はベッドの上で呆然とするしかなかった。
初めて好きになった人間は、夢の中で出会った白い少女だった。
それから現実でも彼女が存在しないか調べた。特に赤羽蓮の周辺を念入りに。けれど奴に妹がいるなどという話はどこにもなかった。同じパーティに出席しても、その少女の影も形もなかった。けれど赤羽蓮を見れば見るほど、夢の中で見た”白樺蓮”と瓜二つだった。
そのあたりから疑問が生じた。
俺の見るあの鮮明な夢は本当にただの夢なのか。
夢であれば知らないはずのことや知識にないことは出ないはずだ。けれど俺は夢から知識を得ている。だが逆に現実の知人も常に出ている、俯瞰しているが自分によく似た”俺”や両親、使用人たち。そしてそれほど関りがあるとは言えないはずの”赤羽蓮”。
あの夢はただの夢ではない。支離滅裂な思考や記憶の重なりでも、日中の記憶の整理の際のバグでもない。あの夢は完全に独立した何かだ。
黄師原煌太郎は俺であり、俺でない。
性格も違えば思考回路も違う。けれどあれは間違いなく俺だ。初めて夢を見たときから、迷いなく俺は”俺”を自分自身だとなんの違和感もなく認識している。
だから俺は笑い飛ばせなかった。すっかり忘れてしまうこともできなかった。
赤羽蓮と同じように、あの白い少女もこの現実のどこかで生きているのではないかと、思ってしまったのだ。諦められなくなってしまったのだ。
それ以降夢の中で”俺”は白い少女に会うことはなくなった。
そして高校生になった俺と”俺”は、あの日の白い少女が気高く力強い男装の麗人だったのだと知った。
勝ち誇った”白樺蓮”の顔に、”俺”は歯噛みしていた。以前のように怒鳴り散らしたりはしない。渦巻く感情も、驚きも、再会の喜びも、嫉妬も綯交ぜにして、飲み下そうとしていた。何が悲しくて4年前の失恋を”俺”に再現させようというのか。
”俺”はなにもしなかった。できなかった。ただ初恋の少女の前で再び醜態を晒すことだけは何とかこらえていた。山岡鉄司に抑え込まれながら、俺は”白樺蓮”と”赤霧涼”を見ていた。
それからしばらくして、夢は霧に埋もれていくように消えていった。
かつてのような鮮明な映像を見ることはなく、じわりじわりと、これは夢なのだというように、夢の中の世界は散り散りとなり、高校3年になるころにはその夢を見ることはなくなった。
そのあとも似た夢を見ることはあった。けれどそれはどれも明確な”夢”だった。かつて見た夢を、壊れたビデオで再生するような、飛び飛びで、脈絡もストーリー性もない。
ただ、白い彼女の姿だけはどれだけ見ても、褪せることはなかった。
馬鹿みたいだとため息をつきながら、鮮明にまだ”思い出せる”彼女に安堵していた。手に入らなくても、もうあの夢の中の世界であることができなくても、俺の記憶の中で姿を見られるだけで満足できた。
ある日俺はかの赤羽蓮が婚約者を作ったという話を風の噂で耳にした。
どうも田舎の旧家の娘を嫁にするとのことらしい。変わったやつだな、と思いながらもまあ赤羽蓮だから、と思えば納得もできた。婚約者なんてものは時代錯誤だ。昨今では政略結婚なんてものを行ってもあまりメリットがない。赤羽グループほどの大企業であればなおさらだ。うまみがほとんどない。
けれど俺には奴がわからない。現実でも、夢の中でも、腹の読めない無表情なやつだった。仲間内では笑っているところを見たことはあったが、仲良くおしゃべりなどする間柄ではなかったし、俺も話しているときに”夢”に関する襤褸が出そうなことを懸念して積極的に話しに行くことはなかった。
夢は夢だ。じわじわと消えていく。鮮明な異世界のようなあの夢は既に失われた。もう手元に残るのはすり切れた記憶ととうに失われた一瞬の恋だけだった。
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大学生になって、経営の勉強をしながら父親の会社で勉強をするようになった。
大学生活は自由度が高く、知識も経験も、求めれば求めるほど手に入った。努力と環境とやる気さえあれば、いくらでも手を伸ばしていける。
「煌太郎、少しは息抜きでもしたらどう?」
白いテントの中に入ってきた鉄司にそう言われ眉を顰めた。
街中を舞台とした音楽と踊りの祭典の運営には俺は参加していた。夕方から夜にかけてがメインで、昼時の今は年齢の低い層がお面をしながら楽器を叩き練り歩いている。
「息抜きが重要なのはわかる。だがそれは少なくとも今ではないのは確かだ」
「いや、今だよ。この祭りは夜まで続くんだ。少しでも休めるときに休みなよ。お昼ご飯も食べてないだろ」
「あとゼリーでも食べる」
「君が休まないと、っていうより姿を消さないと他のスタッフが委縮して休めない。君は君の意地のための他のスタッフのコンディションを下げるの、煌太郎」
淡々と責め立てられ、あっという間にテントから追い出されてしまった。
言っていることはもっともだが、他のスタッフを委縮させた覚えはない。俺に見えていないものも、あるのかもしれないけれど。
幸い都会の中心であるため食べるところにも休むところにも困らない。ただ交通規制された道路も歩道も人で溢れかえり酔いそうになる。早々に適当なレストランか喫茶店にでも入って腰を落ち着けたほうがいいだろう。
人の声、足音、風の音。
楽器の音色、激しく打つ音、歌う声。
出演者たちの色とりどりな衣装が視界で踊る。
その中で、一際目を引く色があった。
なにもない色。人波に揺れるように流されるように、揺蕩う白があった。
日の光を反射させる長い白髪、雪のような肌、そして節目がちな赤。
それはまさしく俺が夢で見た真白の少女の姿そのものだった。
かつての記憶よりずっと大人になっていたが、それでも見間違えるはずもなかった。あの夢の中の白い少女は”赤霧涼”が変装した姿だ。だが高校のころの赤霧と今目の前にいる白い少女は似ていない。
知らず知らず人混みの中で足を止めていた。そう悪目立ちしたからか、それとも本当に偶然か、彼女はつと顔を上げた。
白い睫毛に縁どられた赤が、見開かれる。俺のこの感覚が間違いでないことを証明するように。
小さな口は”俺”の名前を形どった。
ああ彼女は、”俺”のことを”黄師原会長”と呼んでいた。
彼女は今の俺の名前を知らない。そして俺も、彼女の今の名前を知らない。だから呼んだ。
「赤霧涼……!」
どこかへ行ってしまわないようにと、反射的にその腕を掴んだ。決して痛くならないよう、抵抗すれば簡単に外れるほど、緩く。
彼女は緩やかに、懐かしむように、微かに笑った。
そうして、俺は今ここにいる彼女が、劣等感を抱くほど強く狡猾であった”赤霧涼”という少女ではないことに気が付いた。




