双子座の夜明け2
それはまるで夢から覚めるようだった。
いや実際、俺は寝ていた。そして起きた。それはいつも通りのことだ。けれど寝ているその間が、違った。
長い長い、夢を見ていた。
しかしいまだにアレが本当に夢だったのか、判断が付かない。
夢にしてはあまりにも整合性が取れすぎていて、五感もはっきりしすぎていた。
夢の中の俺は、赤霧翡翠と呼ばれていた。
大きな家に住み、隣に住む白樺家に仕える由緒正しき旧家で、人より優れた才能や力を持っていた。
そして、双子の妹がいた。
同じ赤い目を、髪をもち、誰よりも完璧であろうと奔走していた、小さな片割れがいた。
現実の俺は白野翡翠だ。
一戸建てに住み、中流階級の比較的恵まれた家庭に生まれ、優しい両親から育てられた。容姿こそ優れていたが、突出した才能や力はない。良い意味で平凡だった。非凡だといえる点はアルビノであることくらいだろう。
白髪赤目の一人っ子だ。
兄弟はいない。
「翡翠、」
なのにどうして、俺の名前を呼ぶ妹の声は、こんなにも鮮明なのだろう。
なぜだか忘れたくなくて、覚えている限りのことをノートに書きだした。
夢の中のことを一生懸命思い出して書くなんて、まるで幼い子供のようだと自嘲しながら、それでも書くのをやめなかった。
赤霧翡翠、涼、白樺蓮、青柳仁、進藤日和、桃宮天音。
誰一人として知っている人間はいない。誰もが現実で会った覚えのない人間だった。なのに夢の中の彼らは悉く鮮明だった。
SFやファンタジーのような考え方は嫌いだ。けれど夢想せずにはいられない。
もしかしたらこの世のどこかに彼らは存在しているんじゃないだろうか。
もしかしたら俺が見たのは夢ではなく前世の記憶か何かだったんじゃないだろうか。
馬鹿馬鹿しいと鼻で笑われそうな妄想。けれど笑い飛ばす気にはなれなかった。
両親の名前を、白野光、千里という。
二人とも純日本人らしく黒髪に黒目。目を瞠るような美形だ。
夢で見たのと違うのは、父の髪と目の色と名字だけだった。
「……父さん、」
「ん、なんだい?」
「赤霧涼って、知ってる?」
「んー聞いたことないな。若手の俳優とか小説家かい?」
聞いてみても、両親は何も知らないようだった。
俺だけが、妹のことを知っていた。覚えていた。
何も変わらない。両親から愛されて、期待されて暮らしている。
なのに何かが足りない気がしたのだ。
いるはずのない片割れが、いなくなった気がしたのだ。
身体のどこかが欠けてしまったような感覚。
涼と俺は決して仲の良い兄妹ではなかった。感覚を共有するでもそっくりな趣向を持つような一心同体の双子でもなかった。お互いてんでバラバラの方を見ながら、ぎこちなく過ごしていた。
それでもあいつがいないと妙に胸が涼しかった。
ふと思う。
俺には両親がいる。夢の中でも同じように。
けれど涼には今この両親がいないのだ。
この世に涼が存在しているかはわからない。けれどここに両親がいるのであれば、涼にはこの両親がいないのだ。
夢の中で、俺ばかりが両親に構われ、涼が白樺家に入り浸っていたように。
蓮様が今涼の傍にいるとは限らない。
なら涼は今、きっと一人なのだろう。
いるはずの片割れがいない。
この感覚を、この世のどこかにいる涼も感じているのだろうか。
同じ方を向いていなくても、常に傍にいなくても、同じことを感じていなくても、俺たちは唯一無二の存在だった。
**********
あれから一年、俺は何もできてはいなかった。
それも当然だ。いるかどうかすらわからない人間の探し方などわかるはずがない。姿形どころかフルネームすらわからない。俺も髪色も名字も変わっている。きっと涼も変わっているだろう。
わかっている情報は「涼」という名前だけ。
見つけるすべはない。けれど無理だと諦めることができるほど、俺は現実主義者にもなれなかった。
高校2年の春休みが終わるころ、次年度から受験生ということもあり、姿の見えない双子に費やせる時間は限られていた。
聞き慣れたチャイムが鳴らされる。
父は仕事、母は買い物で外出、対応できるのは俺だけだった。
通販を頼んだ覚えもないし、両親あての荷物か速達の類、それか宗教勧誘あたりだろう。そう思いながら階段を降り、玄関へと向かう。
「はい、」
「やあ、ようやく見つけたよ、白野翡翠くん」
扉の前に立っていたのは赤髪赤目の美丈夫。スーツの男を一人連れ、胡散臭い笑顔で俺にあいさつをした。
「それとも、赤霧翡翠くんって呼んだほうがわかるかな?」
「っ白樺、神楽様……!?」
目の前にいたのは夢の中で会ったことのある白樺家長男の白樺神楽様だった。
「ああ、うん、うん!よかった!もしこれで君が何も知らない子だったら俺が完全に不審者になるところだったよ」
「貴方も、覚えていらっしゃるんですね」
「当然、何もかも」
白樺神楽様。年が離れていたせいで蓮様と比べて接触は少なかったが、面識自体はある。にこやかでありながら、有無を言わせぬ迫力がある。髪色が変わろうと、そこは全く変わっていなかった。
「ところで、君の御両親はなにか覚えてる?」
「……いえ、両親は何も。覚えているのは俺だけです」
「だろうね。うちも両親も後ろの瀬川も覚えてなかったよ」
そこでようやく後ろに控えていたのが神楽様の傍で働いていた瀬川さんだと気が付く。瀬川さんも面識はある。涼が入院していたとき、数度言葉を交わしたことがある。軽く会釈すると瀬川さんも会釈をする。けれどその訝し気な表情からして、俺が誰なのかもわかっていないのだろう。
「俺の周りで覚えていたのは弟、蓮だけだ。いや本当、意味の分からない”夢”だよね」
「蓮様も……!」
「ああ、それと自己紹介が遅れたね。俺の名前は赤羽神楽、弟の名前は赤羽蓮。赤羽グループの長男だ。本当に赤羽ともどこかの企業とも関係のない場所に君がいたから見つけ出すのにずいぶん時間がかかっちゃったよ」
一年、一年の間俺には何もできなかったけれど、この人は一年だけで俺というなんの特徴もない一般人を見つけ出した。その手腕に思わず唾を飲み込む。赤羽グループ。経済事情に詳しくなくともその名前くらいは聞いたことがある大企業だ。生まれは違えど、このご兄弟の境遇は以前とさして変わらないようだった。
「……ご存知かとは思われますが、俺は白野翡翠と申します。俺の周囲にこのことを知っている人は誰もいません」
「ああ、君一人ってことだね」
「神楽様、貴方はどうして俺を、」
「うんうん、まどろっこしいのはよくないね。単刀直入に用件を言おう」
後ろの瀬川も大分怪しんでいるしね、と芝居がかった様子で手を叩いた。
「君を探していたのは用件が二つ。まずは一つ目。君が欲しいんだ」
「……はい?」
「まあ具体的に言うと、うちに就職する気はない?今高校2年だよね。卒業後、いや大学卒業後の話だけど、赤羽グループに来ないか?」
それはあまりにも唐突だった。けれど神楽様は笑みを浮かべながらも冗談を言っているようにもからかっているようにも見えなかった。
俺を探していたのはまだ理解ができる。同じ境遇の人間を探したかった、状況のすり合わせをしたかったなど、いろいろあるだろう。けれど会社の方で俺を抱え込むメリットはないはずだ。今の俺はいたって平凡、突出した才能もなければ目を引くような成績もない。
「なぜ、俺を?自分で言うことでもありませんが、今の俺にはあの頃のような力も血筋もありませんよ」
「そうだね。傍から見たらそうだ。けど俺からしたら違う。ほかの人間と違ってすでに性格が把握できてる。身辺調査もすでに済んでる。何より今のうちに唾をつけておけば大学を卒業してうちへ来る頃にはその辺の人材と比べればずっと使えるようになってるだろう」
なんとなく、理解できた。
この人はそういう人だ。使えるものを使う。無駄を嫌い、スマートにこなすための最短経路を笑顔ではじき出す。けれど彼には敵が少なくない。だから敢えて胡散臭げに振舞い、隙を見せる。面倒な輩をあぶりだすために。この人は、完璧ではない。
「君は信用できる。信頼するに値する。一度決めたら、決して不義理に裏切ったりはしないだろう?」
弟に構いすぎて嫌われ、距離感を測り違え、必要以上に他人に踏み込ませない。それこそ、こちらでも信頼を置いているのは瀬川さんくらいなのだろう。
けれど俺はこの人がどういう人か、ある程度知ってる。不可思議な”夢”の記憶を抱えながら、けれど学生のように夢想している時間もなければ、子供のように懊悩する時間さえもないのだろう。
「……だから、」
目の前が広がって、ひどく息がしやすくなった。
「喜んで。神楽様が望まれるなら、是非、尽力させていただきます」
頭を下げれば二人分の息をのむ声が聞こえた。
傲慢にも振舞っていたのに、断られるかもしれないと、その顔の裏で考えていたのだろう。理解できている。傲慢に振舞うふりをしながら人の機微を読み取る力は十分に持っている。
「おいおいおい、少年、大丈夫か?そんなんこの人の奴隷になるようなもの……、」
「瀬川は黙ってて。……いいのかい、そんな簡単に了承して。俺が頼んだ側だけど、即答できるものでもないだろ」
二人して戸惑った顔をしているのを見て、俺は初めて、あの日涼が見ていた光景を目にした。
「問題ありません。貴方について行っても、それは決して間違いではないでしょう?」
瀬川さんからすれば顔を合わせてまだ数分。神楽様からしてもそう関わり合いは持っておらず、こうして話をするのも両手で数えられてしまうほど。
にも関わらず人生を左右する決断を下したのは信じられないかもしれない。
けれど俺はようやく涼の見ていたものを見られた気がしたのだ。
人から見ればたった一度、数分話をしただけ。
だが俺にとっては、一年間誰にも言えない”夢”を抱え、姿の見えない妹に手を伸ばし続け、何も進展しないまま時間だけが流れる焦燥感が終わった瞬間なのだ。
誰にも言えず何もできなかった俺を、この人は見つけ出してくれた。俺の見た”夢”が俺だけのものではなかったのだと証明してくれた。
それにどれだけの価値があるか。きっと俺にしかわからない。
たぶん、涼にも何かあったのだ。この視界が開けるような、希望の光を目にしたような明るさを、あの日の蓮様に感じたのかもしれない。
「俺を見つけ出してくれた。貴方のお力になる理由は、それだけで十分です」
「…………やっぱ似てるよ君は」
誰に、と言わずとも、わかりきっていた。
「さて、一つ目の用事は済んだ。詳しい話はまた話すよ。正直ここまでスムーズに話が進むと思わなった。本当は二つ目を盾に一つ目を受領するように迫るつもりだったんだけど」
「いつもの貴方らしい手口ですねぇ」
「瀬川うるさい」
瀬川さんに”夢”の記憶はないらしい。けれど彼らの距離感は以前見たときのままだった。厳しくて横暴な神楽様と忠実な部下でありながらのらりくらりとし文句だけはきっちり言う瀬川さん。相変わらずだが、きっとこの二人の間にもいろいろとあったのだろう。記憶を持っていないのに相変わらず神楽様から逃げ出せていないのは思わず笑いたくなってしまう。
「それで、もう一つというのは」
「ああ、それはね」
赤い目を細めて、ひどく楽しそうに神楽様は口を開いた。
「君のかわいい片割れに会いに行く気はない?」
この人にはきっと一生敵わない気がする。
ある春の日、長い長い”夢”がはじけた。
赤霧翡翠が何なのか、俺にとって誰なのか、俺は知らない。
赤霧翡翠が白野翡翠になったのか、白野翡翠が赤霧翡翠になる夢を見ていたのか。
霞を掴むようなそれを証明することはできない。その方法も知らない。
この世のどこかに彼方で出会った人間たちが本当に生きているのかも、記憶を保持しているかも知らない。
誰も俺のことなんて知らないかもしれない。俺が赤霧翡翠だと気が付かないかもしれない。
でも会いに行かずにはいられない。
未だ雪が残る畑が電車の車窓を流れていった。
あいつは俺のことなんか気にしてないかもしれない。俺のことなんか忘れてるかもしれない。
最悪それでいい。生きていてくれているなら、もうそれでいい。
俺のことを忘れてたら、その頭をひっぱたいてやろう。
それから前みたいに戸惑ってどうしたらいいかわからないといった顔をしたあいつを思いっきり抱きしめてやろう。
進藤日和は「涼が悪い」と言った。
確かにそうかもしれない。相談一つせず、自分の中に抱え込み、気味の悪い負い目や罪悪感を抱えている。
でもその抱えている荷物を半分持ってやるのは別におかしなことではないだろう。
あいつはきっと渡したがらないだろう。責任感が強くて、自罰的で完璧主義なあいつは、人に頼るのがとてつもなく苦手だ。
だから抱えているものを奪い取ってやるところから始めよう。
戸惑ったなら頭を撫でてやろう。
俺は涼の双子の兄なのだから。




