双子座の夜明け
生まれたときから今に至るまで、俺は一人っ子だった。
中流階級の家に生まれ、仲の良い両親から惜しげもない愛を注がれ、幸福に生きてきた。
何一つ不満なく、満たされ、恵まれていた。
「翡翠」
赤い髪をした双子の妹なんていなかったはずだ。
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「んー君が悪いわけじゃないよ、それは」
メロンパンに噛り付きながら進藤日和は事もなさげにそう言った。
進藤日和。栗色の髪をした少女。
双子の妹である赤霧涼の友人であり、仕えるべき主人の家の使用人の妹。友人である青柳の友人。
友達の友達、知り合いの知り合い、という間柄であったはずなのに彼女はぐいぐいと話しかけてくる。少なくとも自身は話しかけやすいような性格でも見た目でもないと自覚しているがそれもまるで歯牙にかけない。
涼や蓮様と共にいるがその二人と比べていわゆる人種は違う。
目を引くような美しい容貌は持たず、突出した頭脳も持たず、魅了するようなカリスマ性も持たない。
何も特別なものを持っていないはずであったのに、俺の目には彼女は異様に映った。
何が妙なのか、人と違うのか、説明はできない。けれど彼女はその幼い態度や見た目とまるで合致しない雰囲気を身にまとっているときが度々あった。
気が付けば友達の友達、知り合いの知り合いであった彼女は俺の知り合いになっていた。
そしてどこからともなく現れて、俺に対して一方的な雑談を繰り広げることも、そう珍しくもない日常の一つと化していた。
「涼は、なぜああなのか」
だからそのつい俺の口から出た言葉は決して相談やそういったものの類ではなかった。ただ普段涼の傍にいるこの小さな同級生から見たあいつは、どういった人間なのか。それを聞いてみたかっただけだった。
「涼ちゃん?”ああ”っていうのは、蓮様一筋で、完璧主義者で猫かぶりで、ストイックで外面ましましなところ?」
「……意外と言うな、お前」
「そりゃまあ?でも涼ちゃんてそういう子でしょ?」
そういう子、その表現が妙にしっくりきた。
蓮様一筋で、完璧主義者で猫かぶりで、ストイックで外面ましまし。
あいつは俺の記憶にある限りから、ずっとそうだった。いつからかは覚えていない。いつからか覚えていないような年齢の時から赤霧涼という人間はそういう人間だった。いっそ空恐ろしくなるほど、子供のときからその人格が完成されていた。しかも今に至るまでそのスタンスはまるでぶれない。
「そういう子、か。プログラムで作られているようだな」
「んんー、作られているって言うより、あれ態と自分で作ってるんじゃないの?意識してそうあろうとしてる」
「……何のためにアレをチョイスしてるんだ?少なくとも最善ではないだろ」
あれは人気がある。人当たりもよく、成績優秀品行方正な紳士だ。けれど同時に生徒会長から目の敵にされているように、その本質は決して正しくはないと理解されてしまっている。敢えて不良を演じている今の俺が言えることではないけれど。
「なんのためにって、そりゃ白樺くんのためでしょ。正しさも厳しさも、すべては白樺くんにとって都合が良いように、じゃない?」
「……それもそうだな」
まったくもってその通りだ。
あれは主人である白樺蓮のためにすべて動いている。何をしても何を言っても、すべては蓮様のため。行動原理はすべて彼に帰結するのだ。
「そこでしょ?」
「何がだ」
「君に理解できないのはそこ。『どうして彼女はそこまでできるのか』じゃないの」
ほとんど何も考えず、ベンチから立ち上がった。
俺が勝手に中座することは珍しくない。そして普段進藤もそれを止めたりはしない。適当に手を振って、自分勝手に振舞う俺を見送るだけ。
けれど今日だけは違った。傷一つなさそうな小さな手が俺の制服の端を掴んでいた。
「わからないから、聞いたんでしょ?」
「…………、」
「私も答えを持ってないよ。それから涼ちゃんも明確な答えを持ってない。それでも、すぐ近くで見てきた私にも見えてることはあるよ。それからすぐ隣で双子としてみてきた君の中の涼ちゃんとも違うものを見てきたと思ってる」
「なにを、」
「無駄にはならないよ。ずっと気になってたんでしょ、涼ちゃんのこと。私の言うことは答えじゃないけど、涼ちゃんの一つの面ではあるから」
いつにない真剣な表情に気が付けば俺はもう一度ベンチに腰を下ろしていた。
いつも笑顔でへらへらしているのに、片手にメロンパンの袋を持っているのに、なぜだか彼女の話を聞くべきだと思わされてしまった。
「……なんで、涼はああも尽くせる」
「……翡翠くんは違うってことだけどいい?」
「……いい、構わない。どうせみんなわかってるだろ。あんなのと比べたら」
涼と比べたら俺の忠誠心などきっと小指の爪の先にも満たない。
ないわけじゃない。そういう教育を受けていた。幼いころは父から蓮様の御側付きになるように言い聞かされてきたから。そこからだろうが俺は彼を守るべき、という刷り込みは出来上がっている。もし自分の目の前で彼に何かがあれば俺は無条件に彼を助けるための行動をとることができだろう。
けれどきっと涼は違う。
幼いながらに知っていた。涼は蓮様のお側付きになりたがっていて、それと裏腹に両親は涼をお側付きにしたくなかった。だから両親と妹との間に軋轢が少なからずあった。俺も期待されていたからこそ涼に勝たなければいけないと思っていた。
なのに涼は違った。
「どうして涼ちゃんがあそこまで尽くせるのか、さすがにそこは発端を見てない私にはわからない。あとたぶんその発端も隣にいたはずの翡翠くんにもわからないんだよね」
「……ああ、わからない。俺たちは一緒に初めて蓮様に会った。話をした。……たった十数分。大して話もできなかった、散々蓮様に拒絶された。それなのに涼はあの時間だけで蓮様のことを妄信した」
妄信だ、あれは。もはや狂気すら帯びている。
俺は両親から期待されていたから、それに応えたくてお側付きになりたかった。蓮様を守れるような立場に立てることは誇らしかった。
けれど涼は、両親の希望に反駁し、俺の想いも立場も振り返らず、蓮様だけを見ていた。当時の彼は涼に見向きもしていなかったのに。
初めて会った赤の他人を、家族よりも自分よりも、何よりも優先した。
「理解が、できなかった」
どうして初対面の人間の手足となるために、家族を捨てることすら厭わなかったのか。
性別を捨て、自由に謳歌することを捨て、余りある才能を遺憾なく発揮する舞台も選ばなかった。
「だから『プログラム』って言ったんだね。まるで最初からお側付きとして白樺くんに尽くすことが決められているような」
「……そう、だろ。もうそういうレベルでしか考えられない」
考えられない。それ以外で理屈が付けられないのだ。
三歳児。ようやく言葉を話し、他人と意思の疎通ができるようになったような年齢の幼児がどうして初対面の人間に忠誠を誓えるだろう。
双子として、唯一のきょうだいとして何ら差異なく育てられてきた。同じものを見て、同じものを聞いて、同じものを食べてきた。
それなのに、あの時から涼は俺の知らない人間になっていた。
「白樺くんに涼ちゃんを取られたみたいに思ったんだね」
「…………いや、違う。それは違う」
そう思ったことは不思議と一度もなかった。妹を取られたことに地団駄を踏んだことも、いっそ盲目的に慕われるその姿を妬んだこともなかった。
取られたと思ったことは、一度もなかった。
明確な違和感。
進藤にすべて話す必要はない。俺は彼女の言うことをただ聞くだけでもいい。
進藤とてすべてを知っているわけでもない。家族の話を深くする必要もなければ求められてもいない。
誰かに聞かれれば碌なことにならないのはわかっている。もしかしたらどこかで迷惑をかけることになるかもしれない。
けれど無意識に、なんとなく、彼女になら言ってもいいんじゃないかと思えた。
信用に値する人格、というわけではない。だが彼女と話をしているときいつも感じていた。
「……俺は、涼に捨てられたと感じていた」
話をするのに、話を聞くのに、彼女はその実どこまでも興味がないのではないだろうか、と。笑顔を振りまくのに、楽し気な言葉が口からこぼれるのに、まるで壁越しに見えない誰かと話をしているように見える。目の前の人間を見ているようで、全く見ていない。
けれどその距離は冷たさを感じさせるものでもない、どこか居心地の良さすら感じさせた。
「物心つく頃には、あいつはもう俺たちのことを顧みてなかった。いつだって何よりも蓮様のことを考えて、蓮様のためだけに行動して、お側付きとして発言した」
俺は唯一無二の片割れだと思っていたのに、涼にとってはそうでなかった。
それがひどく腹立たしくて、暗い穴に突き落とされるように悲しかった。
「……なんで俺は捨てられたんだ」
涼に見てもらいたくて、剣術も豪さんから教えてもらった、父から仕事の話を聞いた、少しでも強くなれるように山を走ったりした、置いていかれたくなくて勉強も一生懸命した。
けれどそのどれもが、涼の足元にすら及ばなくて、いつも涼の歯牙にかけられることもなかった。どこか困ったような、けれど安堵したような表情で俺を見ていた。
努力しても努力しても、届かなかった。
涼が努力をしていたことも知っていた。けれどそれでも納得できなかった。
どうしたらあの完璧な双子に、対等に見てもらえるのかわからなかった。
「あいつに勝てるところがあれば顧みるんじゃないかと思った。どこか秀でたところがあれば、あいつが目を瞠るんじゃないかと思ってた」
でも俺は決してあいつには勝てなかったし、秀でた才能の一つもなかった。
人よりできたとしても、俺はいつでも赤霧涼の劣化版だった。
「んー君が悪いわけじゃないよ、それは」
話過ぎてしまったと、こんな重い話をして困らせたのではないかと思ったのに、小さな彼女はメロンパンをかじりながらこともなさげにそう言った。
「そこはね、涼ちゃんが悪い。うん。涼ちゃんが悪いよ」
きっと涼にとって一番の友人だろうに一欠けらの擁護もすることなく、「涼が悪い」と言って捨てた。
「い、いや、でも俺にもたぶん足りないところが、」
「……今まで全然気づかなかったけど、翡翠くんって涼ちゃんのことが大好きなんだね」
猶更涼が悪い、としたり顔でうなづいた。
「言い方悪いかもしれないけどね、たぶん翡翠くんの言うとおりだよ。涼ちゃんは君のことを捨てた」
わかっていたのに、自分で言った言葉なのに心臓を掴まれたような心地になった。嫌な汗がジワリと滲む。
俺は唯一の双子の妹に捨てられたのだ。
「て、いうより涼ちゃんはたぶん何もかも捨てちゃうよ。白樺くん以外の全部を」
そこでようやく理解した。
この進藤日和は涼の異常性を知りながら、その妄信の異様さを知りながら傍にいるのだ。
「白樺くんを守ることが最優先事項。だからそれが脅かされるとき、涼ちゃんは自分の持ってるもの全部を投げ出すよ。立場も、友達も、プライドも、それこそ家族や兄弟だって」
「……それは、」
「私のことも涼ちゃんは捨てるよ」
無表情で進藤は言った。
「捨てるよ」
その言葉は身体を抉られるように鋭かった。
「涼ちゃんって才能の塊で何でもそつなく熟せると思ってない?」
「……まあ。できるだろ、あいつなら」
「できないんだよね、これが。涼ちゃんは本当に不器用で、自信がなくて、自己評価が低くて、臆病なんだ」
それは一度たりとも考えたことのないものだった。
あのいっそ傲慢なまでの自信家が、不器用で臆病だなんて。
進藤の目には俺とは違う涼が映っていた。
「どこが……?あれはいつだって自信満々だし臆病どころか威風堂々だろ」
「涼ちゃんってさ、たぶんやろうと思えば何でもできると思うよ。でもね、『やれる』って思うまでにすごく時間がかかるんだ」
いまいちぴんと来なかった。
涼は余裕ありげに微笑む。それが何でもないことかのように。当然のごとくそれができるとでも言うように。涼が蓮様を不逞の者から守るとき、負けるかもしれないなどとは微塵も考えていないだろう。『やろう』と思ったときにはすでに『やれる』確信がある。そうでなければああも迷いもなく手をあげることはない。それ以前に何も考えず反射で動いているようにも見える。何を考えるでもなく、主人に危険があるから動く。それだけ認識して後は何も考えず目的達成のためだけに動いているのではないだろうか。そしてその根本には妄信がある。
「んーとね、例えば一個ハードルがあるとするよ?翡翠くんはそれをどうする?」
「どうするって……、跳ぶんじゃないのか、普通。乗り越えるだけなら跨ぐだろ」
「うんうん、それが普通だよね。それでうまく跳べる人もいるし、うまく跳べなくて転んだりハードルを倒しちゃう人もいる」
私もハードルあんまり得意じゃないし、と半分ほどの大きさになったメロンパンを食べやすいように袋から出した。
「で、もちろん涼ちゃんはハードルなんて当然のように跳べるわけ。普通の人が跳べるならきっと余裕で跳べちゃうから」
「……だろうな」
「でも涼ちゃんが思わない。思えないの」
思わず怪訝な表情で進藤を見る。けれど彼女は冗談や嘘を言っているようではなかった。淡々と事実を言うように重ねる。
「涼ちゃんは自分の能力を低く見積もりすぎてて失敗しちゃう『もしも』を考えすぎちゃうんだ」
もしも失敗したら、もしもうまくいかなかったら、もしもできなかったら。
もしも、とは不安だ。最悪の状況を想定することだ。
それ自体はきっとあるだろう。涼は完璧主義者だ。最悪の想定や小さなミスですら網羅するように予測し備える。
けれどそれ以前の問題として、想定とは自身の今までの成功経験および失敗経験や、自分自身の持つ能力を加味して立てるもの。俺の知る限り涼に失敗経験はない。どんなことでも完璧に熟してきた。確かに、些細な失敗や他人は気にしなくても本人だけが気にするようなレベルのものはあったかもしれない。だがそれを差し引いたとしても余りある結果を涼は持っているはずだ。
「もしももしもって考えすぎて備えすぎるの。さっきの例えだと腿くらいの高さのハードルを棒高跳びの要領で跳ぼうとするんだよ」
「……はあ、」
「ん、さては伝わってないね」
頭の中では低いハードルに向かって棒を持って走り出す涼の姿が再生される。あの澄ました奴にそんな滑稽な様はどこまでも似合わなかった。
「まあ大は小を兼ねるっていうのが基本思考なんだと思う。小さいよりは大きい、ちょうどいいよりかは大きいほうが安心ってね」
わからないでもなかった。けれど涼に当てはまるかといえばそれは否だろう。イメージだが、あいつは無用の長物と鼻で笑いそうだ。
「……悪いがそうは見えない」
「見えないのはそう見せないようにしてるからじゃない?」
何でもないように言う。
「だって赤霧涼はいつだって、完璧で万能で品行方正余裕綽々でなきゃいけないって、思ってるから。そう見えるように涼ちゃんは頑張ってるんだ」
「…………ああ、」
ようやく腑に落ちた。
涼はあくまでも見えるように振舞っていたのだ。
知ってたはずだった。一緒に暮らしていたのだから、あいつが努力していたことなど。その分量は知らない、その内容は知らない。けれど何もせずに何もかもできていたわけではないと思い出した。
完璧に、余裕に見えるように努力していた。そしてそう振る舞い理由など、涼にとって一つしかない。もしももしもと恐れるのも、最悪の事態を想定し続けるのも、唯一をすべてにおいて守るため。
「蓮様のためか」
「んははは、半分正解かな」
思わず眉を顰める。
わからなかった。明確に。あれの行動原理は一から十まで蓮様であるはずだ。主人のために働き、主人のために話し、主人のために振る舞い、主人のために努力を惜しまない。
赤霧涼という白樺の御側付きとはそういう機構だ。
「それは間違ってないよ。きっと涼ちゃんにとっては満点の答えだから」
「……じゃあお前の中では半分間違いってことか」
「うん。あくまでも誰も正解は持ってないんだけどね。涼ちゃんでさえも、気が付いてないよ」
それは唐突だった。
腹に穴でも開いたのではないかという得体のしれない感覚。鳩尾あたりに何か冷たくドロドロしたものを注ぎ込まれるような、不安とも恐怖とも、虚無とも言い難い筆舌に尽くしがたい悍ましい感覚。
何も変わらない。何も起きてはいない。
遠くから部活動に励む声が聞こえ、頭上からは吹奏楽部の音が降ってきて、穏やかな風に中庭の木々がさざめき夕日は仄かに温かい。そして目の前の少女は先ほどと何ら変わらず俺を見ていた。いつの間にか食べ終わっていたメロンパンの袋はくしゃくしゃに丸められていた。
「半分は白樺くんのため。それから残り半分は涼ちゃん自身のため」
進藤は俺が一歩たじろいだのを見ていた。見ていたはずだ。夕日を反射させる橙の瞳は俺を見ていた。俺を見ながら、誰かを見ていた。
目の前に座るものなんなのか、わからなかった。
「涼ちゃんはね、縋ってるんだ」
自身の中で半分間違い、といったのに、進藤はまるでそれが普遍的真理であるかのように断定口調でいった。聞いてはいけないものを聞かされるようで耳をふさぎたかった。それなのに俺は目を逸らすことさえもできなかった。
「彼のために尽くすことに、縋ってるんだ」
引きずり込まれるように思考が無理やり再開させられる。
縋る、とはまた涼とは違ったイメージだ。どちらかといえばあいつは縋られる側、頼られる側だ。一番前に、一番上に立ってその後ろに立つ人間をひっぱりあげる。
彼は、無論蓮様のことだ。そして蓮様に縋っているという言葉はやはり似合わなかった。過保護と思うことはあれど、縋っているわけではない。同時に蓮様が縋られているようにも思えなかった。俺の知る限り、彼は誰かに何かを与えるということをしない。ただ良くも悪くも”ある”だけだ。
蓮様と涼との関係はどこまでも一方的だ。涼が蓮様に尽くし、守る。そして蓮様がそれを享受する。明確な報酬もなければ名誉もない。涼の考えそうなところだと「蓮様がご無事であることが何よりの報酬です」といったところだろうか。きっと彼は縋られたところで何も応えはしないだろう。応え方も、きっと知らない。
涼のそれは、依存や自己満足の類だ。
「……涼には、縋る理由がない」
何より、理由がない。
縋る、とは、何かに頼ることだ。救いを願うことだ。神にしろ藁にしろ、それによりリターンがあるのが大前提だ。
あの涼にとって、リターンがない。
なによりなぜ涼が縋るだろうか。
涼はきっと、誰に頼ることなく何もかもを手に入れることができる。その努力と、生まれ持ったものを駆使して。
信頼も、実績も、金も、友人も、何もかもを掌握して見せるだろう。現時点でもそれは十分できる。そして大人になればさらに拍車がかかるだろう。あれは他人を操るのがうまく、それに伴う罪悪感も何もない。
何もかも自分で手に入れることができるのに、どうして蓮様に縋る理由があるだろう。
涼に何か、欠けている部分があるとでも言うのだろうか。
「あるよ。涼ちゃんは縋らなきゃやってられないの。みんなよりたくさんのものを持っているけど、みんなが持ってるものを、涼ちゃんは持てなかったの」
じわじわと、何か妙なものが咽喉までせり上がってくる。
「……ある、わけがない」
あるわけがなかった。
みんなが持っていて、涼が持っていないもの。そんなものはありはしない。
だってそれじゃあ涼が持っていないものを俺が持っているようだ。
「涼ちゃんは持てなかったものを白樺くんに求めてるんだ。けどその自覚は涼ちゃんにないし、白樺くんも何を涼ちゃんに与えているか知らない」
「…………、」
「涼ちゃんはね、白樺くんが無事に健やかにあることで、それをもらってるんだ」
『「蓮様がご無事であることが何よりの報酬です」』
勝手なイメージの涼の言葉だが、きっと当たらずとも遠からずな言葉のはずだ。
そしてよく似た文字をとる進藤の言葉は、それと全く違う色をしていることは理解した。
涼も知らない、蓮様も知らない、俺も知らない。誰も知らない何かを、この少女は知っている。
「翡翠くんはさっき言ったよね、涼ちゃんに勝てるところがあれば顧みるんじゃないかと思ったって」
「……ああ、言ったが」
突然話が随分前に戻って戸惑う。しかし進藤はそれが当然の流れのように話した。
「涼ちゃんはいつだって、君のことを顧みていたよ」
馬鹿馬鹿しい、と一笑に付したくなる安っぽい言葉だった。けれど笑い飛ばせるようなものではなかった。今のこの少女が言うのであれば。答えでなくとも、確かに彼女から見た赤霧涼の姿なのだ。
「涼ちゃんは白樺くんに縋ってるんだ。でもそれを邪魔できる人間はいない。当然だよね。涼ちゃんは完璧であろうとしたし、一欠けらの欠陥も瑕疵も作らないように奔走してた。でも唯一、それを邪魔できる、現状を変えかねない存在がいるよね」
「……それは、」
「翡翠くんだけが、正当に涼ちゃんと御側付きを交代することができる」
「俺は、」
確かに、当初俺が御側付きになるはずだった。けれどきちんと選び、勝負し、そして涼は勝利とその座を手に入れた。
もはやそれは覆らない事実だ。今更俺が取って代わることはありえない。考えたことすらもなかった。
「もしも涼ちゃんが大怪我して仕事が熟せなくなったら?もしも翡翠くんの能力が涼ちゃんを凌ぐものになったら?大人の事情で誰かが挿げ替えを画策したら?」
ありえないことだった。けれど条件を詰めていけば決してその可能性はゼロではなかった。
「いつだって翡翠くんだけが、涼ちゃんにとっての脅威だったんだ」
敵意さえ、向けられたこともなかった。
気が付いたらいつだって涼は蓮様だけを見ていた。彼にだけ笑いかけ、彼とだけ対等に会話をした。
その半分も、涼は俺に向けようとしなかった。
ただ、タイミングが悪かったのだと思っていた。お側付きという役職を奪い合う立場であるがために、仲違いをしてしまったのだと。
けれど進藤の言っていることが事実であったならば。
「涼ちゃんはいつも、君のことを感じていたよ」
俺はあいつの心のどこかに居場所を得ていたのだろう。
「……一つ、」
それを無関係の進藤に言う必要があるかといえばきっとないだろう。けれどここまで無責任に、自由にかの双子の片割れについて語った相手になら、言ってもいいのではないかと感じたのだ。
「一つ、気づいていたことがある」
「なあに?」
「涼は、俺のことを見てはいなかった。努力して強くなってあらゆる力をつけて、それで俺を歯牙にもかけないほどにまで鍛え上げた」
「うん、そうかもしれない」
「けど、どうしてかはわからないが、涼は俺に『負い目』を感じていた」
理由はわからない。けれど涼のあの迷ったような視線が、何か言いたげな口元が、伸ばされてはおろされるその手が、確かな罪悪感を物語っていた。
確かに両親は俺が御側付きになることを望んでいた。また通例であれば赤霧の男子が白樺を支えることになっていた。けれど明確な規定があったわけではない。左右していたのはあくまでも感情論であり、実際には俺と涼、どちらも等しくお側付きとなる権利を有していた。
そして涼は俺からそれを勝ち取った。努力により、味方なぞいなくとも、反対も物言いたげな視線もものともせず、涼はなりたいものになったのだ。
俺は涼より弱かった。単純な力も、技術も。そして何より俺には涼ほどの忠誠心などなかった。
だから俺は、なるようになったとしか思わなかったのだ。
あいつが努力していたことは知っていた。どれだけ蓮様のことを想っていたかも知っていた。
いやきっと、誰もが納得していた。涼の強さに脱帽した。
なのに涼だけが、俺がなるべきだったんじゃないかって思っていた。涼だけが、その実自身が御側付きになることを認められていなかったのだ。
「あいつが御側付きになるのは当然の帰結だ。なのに涼は俺に対して『負い目』を感じていた」
それは今まで敢えて口にすることがなかった、口にする必要がなかったことだった。
あいつは綺麗に面を被ってみせる。きっと誰も気が付いていないだろう。俺だって、なんとなくしか感じられない。けれどそれは勘違いなどではない。それだけは確信を持って言えた。
「……そっかぁ」
「何か知ってるのか」
「んー、知ってるかもしれない」
「なんだ」
「私が言うべきではないよ、それは」
なぜか饒舌だったはずの進藤は口を閉ざした。けれどそれは拒絶するようなものでも、機嫌を損ねたようなものでもなく、どことなく困っているようだった。あいまいに笑い下げられた眉を見ると、先ほどまでの得体のしれない気味の悪さは完全に霧散していて、それどころかいつもよりしおらしくさえ見える。
いくらでも誤魔化しができた。性別が違うから、自身が妹であるから、周囲から望まれていなかったからなど、適当な理由はつけられた。だが進藤はどの言葉で濁すわけでもなく、明確に口を噤んだ。
「……言っておくと、それは君にとっても周囲にとってもくだらなくてどうでもいいこと。でも涼ちゃんにとってはとても重要なことだったんだ。だから涼ちゃんはいつまでも君にきちんと向き合うことができなくて、ぎこちないんだよ」
「……何度か話はした。建設的な会話も事務的な会話も、些細な雑談も、今はできる。それでもまだ涼は俺と向き合ってないか」
「努力はしてるんだよ。何より翡翠くん自身が歩み寄ってる。でもそれこそ罪悪感や負い目を感じてる根本は解決してない。それとそれはもう君たちの問題じゃなくて涼ちゃん自身の問題」
「涼自身の……、」
そもそもの原因は幼いころの自分にあった。
お側付きを目指し涼をライバル視し、挙句の果てに負けて拗ねて、涼を自分から遠ざけた。だから少しでも修復しようとして、自分なりに涼へと近付いた。俺が勝手に拗ねて怒って避けていただけ。涼は怒ってなどいなかった。むしろ戸惑いながら俺に手を伸ばそうとしていた。
「翡翠くんは頑張ったよ」
微笑みながら掛けられた言葉は称賛しているようにも憐れんでいるようにも聞こえた。
それがおそらく、進藤日和との最後の話だった。
冬の終わり、春の色を帯びた日の注ぐ、中庭でのことだった。
長かったので二話に分割です
後半また投稿します




