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胡蝶の夢  作者: 秋澤 えで
番外編
146/157

仙桃の夢、千秋の現、水仙の微睡み

瑠奈様よりリクエストいただきました「ひな祭りの時の凉ちゃん」です

時系列は、白鷺涼として、迎えた最初の3月です

 田舎には、ずいぶんと雪が降る。

 山も畑も、一面雪に埋もれ、白以外の色を忘れたように、すべての音を吸い込むような景色がどこまでも広がる。冬はまさに隔絶された場所だった。雪が降ることが比較的珍しかったあの場所が懐かしい。降り積もる雪に浮き足立ち、雪合戦をした。手足が冷たくなることも、鼻の頭が冷たくなることも気にすることなく。ただただ純粋に楽しんでいた。


 はあ、と息を吐けばふわりと白い煙が出て、それから真っ青な空に溶けていった。

 雪の上に落ちた椿、鋭いあの痛みも今は遠く。誇りに思いながらも疎ましく感じていた、皮膚の引きつりも縫合痕も、この身体には存在しない。


 あの場所に置いてきたものはすべて、夢で、何もかもが嘘だったのだろうか。

 この田舎に身を置きただ足踏みをする脆弱な私には、それを確かめる術を持っていない。


 ただ今私の手元にあるもの。それだけが真実で、すべてだ。


 もしあの場所に戻れるとしたら、その選択肢を与えられたなら、私は果たしてそれを手にとるのであろうか。




**********




 この田舎にも、春が来た。重々しい雪は春の日差しにとかされ、軟らかな雪解け水となって小川へと流れ込む。雪の下で押し固められていた地面からは、黄色の花が顔を見せ、凍り付いてた木は待ちに待ったように膨らんでいた蕾を綻ばせる。


 春が来た。



 「涼ちゃーん!おめでとう!」

 「……いや、何がおめでたいのですか、日和。特に祝われるような覚えは、」



 相も変わらずいつでもどこでも元気いっぱいな日和は今日も今日とて元気が有り余った様子で飛びついてくる。体格差があるためかろうじて受け止められるが、割と限界だ。私の体力の戻り具合を見て日和も一応手加減しているのだろうが、日和の加減ひとつで吹き飛ぶことが目に見えている。今の私では日和を抱え上げたり危なげなく受け止めることはきっと無理だろう。



 「おめでたいよ!今日は桃の節句です!」

 「……おめでとうございます?」

 「おめでとう!それはそうと、桃の節句といえば?」



 唐突なこともこの日和にとっては答えの決まっている質問も慣れたもので。



 「お雛様、ですか?」

 「そうだけど他には?」

 「雪洞?」

 「ブー!それはお雛様の付属品として換算します!」

 「……ではいつものように日和お得意の花より団子、でしょうか?」

 「私の答えのさらに先の私の本意を言わないで!そうです!あられ!菱餅!甘酒です!」



 うれしそうにクルクルと私の周りを跳ねるように歩きながら桃の節句の食べ物をあげていく日和に、なぜかひどく安堵した。

 どこにいてもまるで変わらない。いつも笑って、好きなものを好きだという彼女はただただ暖かい。



 「それからおめでたいことその2!」

 「あれ、食べ物以外にまだ何かありましたか」

 「うふふふ、涼ちゃんてば知らん振りして!」

 「何のことでしょう?」



 によによと笑うこの笑顔には覚えがあって、なんだか居心地が悪くなる。

 かつてはこの顔が言わんとすることがわからない鈍い時期もあったけれど、今はわかる。この顔がどういうときにされるものか。そして私はこの顔がとても苦手だ。もちろん、楽しそうな日和を見るのはうれしいのだけど、この手の話はどうも苦手だ。



 「蓮くん、こっちくるんでしょ?」

 「……そうですね」

 「嬉しいんでしょ?」

 「……そうですね」

 「嬉しいけど表にそれだすのがちょっと恥ずかしいんでしょ?」

 「ちょ、ひよ、」

 「前みたいになぜか堂々と好きだとか言えなくて、なぜだか少し恥ずかしくて?」

 「ごめんなさい日和、本当、本当に勘弁してください恥ずかし死にます……、」



 今にも死んでしまいそうな私と対照的にきゃあきゃあと姦しい悲鳴を上げてみせる日和に頭を抱えた。

 この田舎に戻ってきてから、蓮様と再会することができた。かつてとは形も立場も何もかも違う。すべてが夢であったのだと割り切り捨てていこうとした私に、彼は手を差し伸べて見せた。立場も時間も距離も、夢か現かという曖昧さもすべて飛び越えてきた彼は、かつて僕が見ていたような、純粋な子供でも、守るべき主でもない、赤羽蓮という一人の人間として生きていた。


 名前も見た目も少しずつ違う。けれど彼は彼だった。かつて長い時間をともにすごした蓮様であることに変わりはなかった。

 蓮様改め蓮さんは私と日和が住んでいる田舎ではなく、街の方に住んでいる。誰もが知っているような世界有数の大企業の御曹司。そのあたりは変わっていなくて少しだけ笑ってしまった。そんな蓮さんは定期的にこちらへやってくる。当初はこの田舎の学校に転校するなど散々駄々をこねていたが、この田舎は不便な場所。しかも高校生で大学受験も控えていることもあり、周囲からの説得でようやくこういった形に落ち着いた。



 「ずっと探してたんだ。少しでも長く涼と一緒にいたい」



 というのが彼の言だが、流石にそんな我侭も通るはずはなく。今では一月に一回ほどこの田舎へと遠路遥々やってくるのだ。来てもらうばかりで申し訳ないのだが、私の体力を鑑みると私から会いに向かうのはあまり現実的ではない。けれど先月、彼が来る予定だった日は見事に大雪に見舞われ交通機関が悉く麻痺。その結果蓮さんがここへくるのは2ヶ月ぶりのことだった。



 「待ちに待った春!雪に邪魔されることなく逢瀬ができるんだぜ!?喜ぼう涼ちゃん!」

 「…………!」

 「涼ちゃん、涼ちゃん、無言で叩こうとしないの。言っておくけど今の涼ちゃんが私叩くと涼ちゃんの手のひらが骨折しそうで怖いの。からかったのは悪かったから自愛して」



 貧弱な抗議はなんとも微妙な理由で受理される。いつかは私が手加減する側だったのに、今では日和に気を遣われる始末。不甲斐なく思うのだがこればかりはどうしようもない。



 「ま、ま、蓮くんをお迎えするために準備しよ?雛祭りしよ?」

 「はぁ……雛祭り、といってもうちでは何もしないのですが」

 「え、お雛様出さないの!?」

 「……わざわざ出す必要も祝う必要も特にはないでしょう」

 「あんまりおうちに居たくないのはわかるけど何かしよーよーねー!」



 雛人形を出したのは果たしていつが最後だっただろうか。幼いころはきっと出していた。しかしここ数年はその姿を見ていない。面倒、というのももちろんあるが、周囲が私に興味がなくなったというのもあるだろう。元気であった幼いころは、盛大に行っていた。けれど私に何も期待されなくなってからは、こういった行事というものとはまったくの疎遠になっていた。



 「……はあぁぁぁあ、」

 「ため息なっが!流石に傷つくよ!?」

 「……雛人形はおそらく蔵にあるでしょうが、わざわざ出すには私の体力が持ちません。ので、」

 「ので?」



 きらきらとした目で見上げる日和はきっと私が何を言い出すのかもうわかっているのだろう。期待にあふれたその目に思わず笑ってしまった。



 「春らしい和菓子でも作りましょう。お雛様は不在ですので、お菓子パーティに変更です」

 「やっほい!流石涼ちゃん分かってる!」



 まあ言っても菱餅やあられを作るのはあまり現実的ではないため、その辺は既製品に。家で作るなら饅頭やお汁粉あたりだろう。幸い、もちの類は未だ家にあったはず。

 ひな祭り感はやや薄れるが、ようするに日和は甘いものが食べられれば満足なのだ。




**********




 甘い香りが台所に満たされる。



 「いいねーいいねーお汁粉!甘いし温かいしお腹にもたまるし!お汁粉は幸せの味がする」

 「お汁粉で幸せになれるなんてコスパがいいですね」

 「うん!小さなことで幸せになれるのが人生を楽しむ秘訣!」

 「おばあさんみたいなことを言いますね」



 鍋の中で小豆がコトコト煮えていて、その隣ではいつかに作ったものと同じ饅頭が蒸されていた。

 甘いものは人を幸せにする。口では笑うがそれは日和に同意したい。甘くて美味しい、それを味わう間は他のどんなこともどうでもよくなるくらい幸せになれるのだ。甘味の前では悩みも不安も無粋なもの。ただただ幸せをいっぱい口の中に頬張ればいい。



 「……、」

 「……日和、つまみ食いは駄目ですよ」

 「さすがに熱い鍋の中のものをつまもうとは思わないよ涼ちゃん」



 くるくるとお玉でかき回される鍋も中に熱い視線を注ぐ彼女に苦笑いをする。早く食べたい、おいしそう、と顔に書いてある。



 「……そっち、浅い小皿があるので持ってきてもらえますか?」

 「え、うん。……この小さなお皿でどうするの?」

 「甘くなりすぎていないか、味見をしてもらおうと思ったんですよ」

 「涼ちゃん大好き!愛してる!」

 「はいはい、ちゃんと冷ましてから口の中に入れてくださいね」



 嬉々として小さな小皿にふぅふぅと口を尖らせて息を吹きかける日和はいつもに増してより幼い。下手したら小学生くらいにすら感じてしまう。妙なところでやたらと大人びて見せるが、基本的にはやはり幼子のようだ。


 ふと、鍋と蒸篭の隣を見る。そこにはお汁粉たちを作る前にお店で買ってきたあられの袋があった。が、すでにあられの袋が開封されている。もちろん、すでに更にあけたということはなく。



 「……日和さん日和さん」

 「なあに涼ちゃん?」

 「机の上にあったはずのあられさんたちがどこかへ行ってしまったようなのですが、どこへ行かれたのか心当たりはありませんか?」



 途端に視線があちらこちらへと彷徨いだす。その反応を見ただけであられたちの行方は知れたも同然なのだが。



 「……倉のお雛様のところ、かな?」

 「貴女のおなかの中でしょう、日和」

 「ごめんなひゃい!」



 よく伸びる餅のような頬を引っ張ってやれば半泣きで搾り出される謝罪のことば。謝るくらいならつまみ食いなどしなければいい。どうせすぐにばれるのだから。煮え滾るお汁粉のつまみ食いを諦めた結果、色とりどりなあられが犠牲になったらしい。



 「……仕方がありません。蓮様を駅まで迎えに行ってるついでに近くで買ってきます。日和は鍋と蒸篭を観ててください」

 「え、一人で大丈夫?行き倒れたりしない?」

 「さすがにそこまで軟弱じゃあありませんよ。……蒸篭の饅頭はあと五分ほどですが、つまみ食いしちゃ駄目ですよ」



 鍋から立ち上る幸せな香りに顔を蕩かす日和に一抹の不安を覚えながら、携帯と財布を持って家を後にした。




**********




 カランカランと下駄が音を立てる。幸が解けたことで漸くこの音を聞けるようになった。けれど吹きすさぶ風はまだまだ冷たく、着物とは相容れない暖かさのみを重視した白のスヌードに鼻先を埋めた。

 駅までの道のりは一キロもない。ゆっくり歩いて店に寄ったところでおそらく蓮さんがつく時間には間に合うだろう。よく晴れた青い空に、下手くそなうぐいすの声がした。


 ふと、隣を小学生たちが駆けていく。春休みも間近になって浮き足だっているのだろう。小学生の時間は、確かひどく長かった。一日一日がとても長く、今の一年とあの頃の一年では牛歩と矢ほどの差があるだろう。


 毎日毎日、濃密な時間を過ごしていた。毎日が平凡で、それでいて特別で。仕方のない友人にため息をついたりしながら、それでも一日一日が楽しかった。

 今の生活に不満があるというわけではない。ただ子供としての時間の流れを照らし合わせてみると、ひどく空虚な気持ちになるのだ。それはきっとあの赤髪の誰かになっていたという経験からではなく、きっと大人になってから子供時代を振り返る、そんな誰にでも訪れる空虚さだ。


 あれが夢なのか。

 これが夢なのか。

 きっと、あれが夢でこちらが現実だ。


 けれどあちらにいたころは、こちらのことは夢見心地であった。

 どちらが夢でどちらが現実なのか、それはわからない。


 でも今こうして、少し冷たい風を頬で受けるのも、芽吹いた緑を視界に映すのも、そのすべてが本物だ。



 ふと、前方に小さな影が見えた。

 桃色のポシェットを肩にかけた、小学生。

 その影はすっと角へと姿を消した。

 それがやたらと目について、気が付けばその曲がり角へ足を向けていた。


 小さな人影はフラフラと道を歩く。小走りのような足取りは小鹿のようで、動きに合わせてポシェットが揺れる。

 小さな白いスニーカーは軽快な音を立てる。それを追いかける下駄の音が、どこか遠くに聞こえた。

 既視感を覚える。


 いや、この小学生に遭遇したことは恐らくない。ないはずだ。

 こんな風に誰かを追いかけたことがあっただろうか。こんな風に、知らぬ背中を追ったことがあっただろうか。


 少女と私の間を、モンシロチョウが横切った。

 茶色がかった柔らかそうな髪がふわふわと風になびく。

 あるはずがないのに、どこかで感じた感覚だった。



 「……待って!」



 知らず知らず、声を出していた。 

 どこか遠くに聞こえていた音が戻ってきて、自分の声がやたらとクリアに聞こえた。

 前を走っていた少女が振り向く。 

 大きな子供らしいまあるい目、雪のような肌に朱色に染まる頬。小さな口が開かれる。



 「おねえちゃん、だあれ?」



 そう言われ、私は答えられなかった。

 濁流のように押し寄せる思考と記憶に、口の利き方を忘れてしまった。

 誰、とは。



 「わたし、は、」



 少女は、見覚えのない少女だった。私は一度たりとも彼女に会ったことはない。少なくとも、小学生の知り合いなどいない。そして彼女もまた私のことなど知らない。

 なのに、反射的に思ってしまった。いや、どこか胸のどこからか浮き上がってくるような疑問だった。

 私は、誰だろう。


 彼女は、誰だろう。



 「……ここ、」

 「……あ、え、」

 「ここ、どこ?」



 丸い目が一気に涙で縁取られた。




**********




 迷子だったらしい少女の手を取り、私はとりあえず駅前の交番へと向かっていた。

 少女曰く、この地元の子ではないらしく祖父母の家がこちらにあり、少し早い春休みとして来ていたらしい。道理で他の小学生と違ってランドセルを背負っていないわけであった。



 「おねえちゃんの着物キレイだねー」

 「ありがとうございます。この地域だと和服も珍しくありませんよ」

 「お雛様みたいでいいねー」



 声を掛けて間もなく号泣しだした少女は、私が持っていたあられをいくつか食べさせると嘘のようにコロッと機嫌を直した。単純なことは全く結構なことだ。これであやしても泣き止まなければどうすることもできず途方に暮れていたに違いない。



 「おばあちゃんの家にはねー、おっきなお雛様があるの!」

 「大きな……?」

 「たくさん段々があってねー、さんにんかんにょとごにんかんにょがいるのー!」



 随分女雛が多いようだが、それを指摘することはせず、笑うにとどめておいた。些細なことだ。わざわざ訂正する必要もない。

 つないだ左手がポカポカと温かい。子供とはこんなにも体温が高いものだったかと独り言ちる。

 桃花と名乗った少女は泣いていたことも忘れにこにこと足取り軽く私の真横を歩く。何の邪気も感じず、初対面の人間は自分に危害を加えないと信じて疑っていない様子だった。愛くるしい笑みを浮かべては、とりとめもないことを好き勝手に話している様は、高い声で囁く小鳥のものとよく似ていた。



 「駅にお母さん居るかなー」

 「とりあえず、お巡りさんに言えばすぐお母さんも来てくれますよ」



 この田舎は良くも悪くも情報の伝達が早い。交番に連れて行けばきっとすぐに母親の耳にも届くこととなるだろう。

 からころと下駄がいつもより緩慢な音を立てる。小さな子どもとこうして歩くのは、きっと初めてだ。普段、こんな小さな子供とかかわることはない。らしくない状況はどこか滑稽であると同時に、なぜだか温かく感じた。


 この少女は、今までに一度も会ったことはない。けれどどこかで会ったことがあると感じてしまう。

 この子は、彼女によく似ていた。天真爛漫で笑顔を振りまく、桃色髪のヒロインに。何の憂いも悩みもないという風に、ただただ愛を渡せば愛が返ってくると、無警戒であれば無警戒になってもらえると、信じて疑わない。きっともし、私が何も知らなかったとしたら、あの彼女もこの子供のように感じていたのに違いない。


 愛されれば愛を与えたくなる。無警戒なら無警戒で相対したくなる。

 当時の私はそれが嫌だったのだ。常に身内以外の誰もを警戒していた私にとって、無警戒の相手に腹を見せることも、相手を選ばず愛を振りまく彼女が理解できなかった。いっそ恐れすら感じるように。


 結局、最後の最後まで、彼女が一体何だったのか、私にはわからなかった。

 あのどこか不自然さを感じさせる継ぎ接ぎの彼女は、果たしてどこの誰であったのだろうか。

 不完全な世界でヒロインとして不自然に踊る彼女。今もし彼女に会ったなら、私は彼女になんと言うだろうか。

 おかしな継ぎ接ぎの世界は、この世界でもいまだその影をちらつかせていた。



 「あっ、ちょうちょ!」

 「はい、手はつないでてくださいね」



 少し灰がかった蝶を追おうとする小さなを手を引いた。風に弄られるように、それとも誰かを惑わすようい飛ぶ蝶は、酢漿草の生える土手の向こうへと消えていった。



 「……桃花ちゃんは、春が好きですか?」

 「うん!好き!」



 何気ない質問に、少女は大きくうなづいて、空いている方の手を指折り数えた。



 「えっとねー、チューリップが咲くでしょー、桜が咲くでしょー、お雛様も飾るしー、春休みもある!」

 「楽しいことがいっぱいありますね」

 「そーでしょー!」



 ぴょんぴょんと跳ねるようにへたくそなスキップをする少女は喜びを隠すことなく、あれもこれもと言葉を重ねていく。

 暖かい太陽も。香る梅も。道の端の蒲公英も。宙を舞う蝶も。新しく買ってもらえた春色のワンピースも。氷の溶けた学校の池も。

 全部全部、うれしいと。



 「春になると、水仙のラッパが鳴るの」



 それはいつかどこかで読んだ話だった。



 「水仙が咲いて、黄色いラッパで皆を起こすの。冬の間寝てたカエルも、クマもみんな目を覚ますの」



 春になれば目を覚ます。

 それはいつか誰かに言われた気のする言葉だった。



 「春だよ、皆起きてって。楽しい音でみんなを起こすの」



 水仙のラッパが鳴るころに、皆々目を覚ます。

 春眠暁を覚えずとも、麗らかな春は微睡から皆を引き上げる。

 どれほど深い眠りに落ちても、どれだけ現実と紛う夢であろうとも、平等に春はやってきて、厚い氷が解けるように現へと導くのだ。

 僕もまたきっと、春の日に起こされたのだろう。



 「っお母さん!!」

 「あっ、」



 繋いでいた手は一瞬のうちに振り払われ、すぐ傍の生垣へと消えていった。その背を追おうとしたところで、生け垣の向こうから女性の声が聞こえた。娘を心配し、それから無事に会えたことへの喜びをにじませるそれは、間違いなく少女の母親のものだった。

 わざわざあいさつに行く必要もないだろう。彼女が無事親の元へと帰れたのであれば、それでいい。


 少女は決して彼女ではない。

 いや、たとえ彼女だとして、私はかける言葉もまだ見つかっていないのだから。


 少し遠くから、電車が迫ってくる轟音が聞こえた。

 雪解け。白の世界に、花が咲いた。芽吹き、舞う彩り。線路を辿った鉄の箱に乗って、春がやってくる。

 私はもう振り向くことなく、駅へと足を向けた。


 いつかもし私が、彼女を探すようなことがあるならば、それまでに何を話すか決めておこう。




**********




 「涼っ久しぶり!」

 「ええ、お久しぶりです。そしていつもご足労いただきありがとうございます、蓮さん」



 赤い髪がふわふわと風に揺れ、いつも通り大型犬のように駆け寄って満面の笑みを浮かべた彼は、ぶつからないように行儀よく直前で止まって見せた。

 機嫌よく口角が上がっているが、そこにどこか悪戯染みた子供くささを感じた。こういう顔をしている時の彼は、いつも私を驚かせようとしているのだ。この上機嫌っぷりから、たぶん困らせるような悪戯ではないのだろう。困らせるようなことをする時の彼は悪戯っぽく笑いながらも、怒られたらどうしようというような色を赤目に乗せているから。



 「蓮さん、何か企んでおいでで?」

 「さて!まあこっち来てみろ!」



 ぐいぐいと私の背中を押して、駅の方へと誘導する。両掌が背中に触れていて、その部分だけ嫌に温かい。そう言えば、彼は年中体温が高かったと思い出す。



 「こっちに何かあるんで、す……?」

 「……は、」



 押されるがままに足を向ければ改札の前あたりからこちらを見ている青年がいた。どこにでもいそうな目立つところのない青年は一つ、間抜けな声を上げてから私たちへと詰め寄った。



 「カラーリングが、逆、だと……!?」



 声を聞いてすぐに分かった。私の背中から蓮さんが笑う声が聞こえる。



 「お久しぶりですね」

 「な、なんか涼が……違う……御淑やかしてる……!?怪物、らしさは、どこへ……!?」



 無礼な言葉を次から次へと吐く口はこの口かとほほを摘まめば「無言の抗議すら、女子らしい……キモチワルイ……」と言い出す始末だったので、お望み通り下駄で脛を蹴っておいた。


 今日は、いい日だ。



 

 夢は必ずいつか覚める。

 覚めてしまった夢は惜しいだろう。届かないそれに手を伸ばすことは虚しいだろう。


 けれど現とてきっと捨てたものでもない。

 現実味のないこの現実で、おかしな夢の欠片を集めて行こう。

 いつか夢かと疑いたくなるほどに、この世界を楽しもう。

 息苦しいこの世界。快適に生きるために足掻いて何が悪い。

 笑われようと無様であろうと、私は私の大切を探す。


 忘れる必要なんてない。捨てる必要なんてない。

 訪れた春は、冷たさに閉ざす雪をさらっていった。

 けれど春は、冬を消すためいるんじゃない。

 春は、夢を忘れ去るためにいるんじゃない。

 私たちに、新しい世界を、新しい一歩を見せるために、春はいるのだ。


 どの世界でも、春の陽気は平等にあたたかい。

読了ありがとうございました!


リクエストありがとうございました!ただ他のリクエストもいただいているのですが、とりあえずかけそうな部分を……

久しぶりに涼たちを書けて楽しかったです!

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