雲肌を食む鳥
棚に整然と並ぶ本や教科書、簡素な机の上には自身の身体に関する書類に使い慣れた携帯。嫌というほど見た病室だった。鼻先には常に消毒液の匂いが付きまとい、白いドアの向こうからはバタバタとした足音に話し声、輸液ポンプがけたたましく鳴る音が聞こえてくる。
ふと何の気なしに首筋に手をやると、縫った跡がぽこりと膨らんでいるのが指の腹でわかる。窓の外では疎らに植えられた梅が花を綻ばせていた。
春が来ていた。
タイミングよく目を覚ました私はまるで本当に冬眠から目覚めたようだと、一人思う。
一つ、どこからか軽い音がする。ここしばらく聞いてなかったはずの足音だが、すぐにその持ち主がわかり口元を緩めた。パタパタとこちらへ近づいてくる。私が送ったメールを見たのだろう。目が覚めたと知り、すぐに駆けつけてくる子を私は一人しか知らない。
「涼ちゃん!」
「ここは病院ですよ。もう少し静かにお願いします」
決して軽くはないはずのドアを跳ねのけるように勢いよく開け病室に飛び込んでくる。そのまま突進してくるかと思われたが、ギリギリの至近距離で急ブレーキをかけた。
「涼ちゃん、えと、えとねっ……!」
「はい、落ち着いてください」
さらさらとした明るい色のショートボブを撫でる。荒れていた呼吸を整えるように少し深呼吸をして、それからうっすらと涙の膜の張った瞳で私を見上げた。
「おはよう、涼ちゃんっ!」
「おはようございます……日和」
にぱっと太陽のように快活に笑う日和は、夢の中の彼女と同じ言葉を私に贈った。
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「それにしても、身体良くなって本当によかった!」
ニコニコとしながら丸椅子に座り足をぶらぶらさせる日和は微かに目元を赤くさせているが一目で上機嫌だということがわかる。
「ええ、このまま良くならないままかと思って諦めていたのですが」
成功率が25%を下回る移植手術だった。ほとんど自分の意思などなく受けさせられた手術で、もはや成功しようと失敗しようとどちらでもいいと考えていた。しかし術後の昏睡状態から目覚め、こうして生きている。すべての管を抜かれ、腕に点々と残る赤黒い針の跡を指先で触れた。いまだ脚や腕は萎えたままだが、そう遠くないうちに、健常者と変わらないくらいにはなれるだろう。
「涼ちゃんの目が覚めなかったらどうしようってずっと怖かったんだよ。でもちゃんと待っててよかった」
「……本当に待っていてくれて、ありがとうございます」
もし、彼女が待っていてくれなかったとしたなら、私はずっとあちら側にいただろう。きっと、進藤日和、彼女こそが夢と現を繋ぐ鍵だったのだ。
からっぽの鞄に本を詰める。少しずつ、見慣れた棚から物が姿を消していく。窓の外の桜は未だ開花していないが、つぼみを膨らませ枝をほのかに色づかせていた。
「あっ!そういえばこれやった?『Ricordi di sei colori』のweb版が配信されたからスマホでもできるって言ったでしょ?どうだった?どうだった?」
「……言ってましたっけ?」
「言ったよぉおっ!」
感想聞くの楽しみにしてたのにっと項垂れる日和に思わず申し訳なさがこみ上げる。わくわくからの落胆、感情がわかりやす過ぎるのは彼女長所ともいえるが、罪悪感を感じやすいのも事実だ。
簡単な話だ。
私に乙女ゲーム『Ricordi di sei colori』の内容を吹き込んだ友人は、他でもないこの進藤日和だったのだ。
どおりで夢の中とはいえ、彼女がやたらとヒロインに好感を抱いていたり、ヒロインのピンチにも動じなかったわけだ。早耳であるのも当然だ。ゲームをやりこんでいた彼女は最初から全てを知っていたのだから。
「……でも、内容とキャラクターは大体覚えてますよ。あなたから随分プレゼンされましたから」
クスクス笑いながら言うとしえ折れていたのが一変、水を得た魚のように日和は顔を上げて口を開く。
「本当!?ほとんど一方的でも涼ちゃんに語りまくった甲斐があったよ!どうどう!?好きなイベントとか好きなキャラとかいる?赤?白?黄色?緑?青?紫?」
「あれ、黒はいないんですか?」
興奮したように捲し立てる日和に若干引きつつ首を傾げた。
「え、うーん……黒はあげない!涼ちゃんでもあげない!」
「あげないって……黒海は日和のお気に入りですか」
「イエス!それで、涼ちゃんは?」
「そうですね……、」
なんとも奇妙な心地だった。今も半身を夢の中に浸しているような。
つい数日前まで生き、10余年も共に過ごしていたというのに、今こうして虚構の世界であると当然のごとく話しているのだ。頭では理解している。所詮はゲームの世界の話であり、先日までの生活は一月程度見続けていた、ただの夢なのだ。
「白樺蓮、ですかね」
今はもう、敬称を付けることすらない。舌の上にのった彼の名前は、違和感にざらついていた。
なぜ初対面の白樺蓮を、あれほど守ろうと思ったのか。
桃宮が私に言ったように、それは私が赤霧涼であるためだった。彼が私を見てくれれば、名前を呼んでくれれば、私は赤霧涼としていられたのだ。白樺蓮の御側付であれば、常に私は赤霧涼としての姿でいられた。夢の中で、確かな自身の存在を感じられたのだ。
蓋を開けてしまえば、崇高な忠誠心の正体はひどく利己的なものだった。
間違えようもなく、彼は大切だった。私は私の夢を守るために、彼の存在は必要不可欠だったのだ。だから彼が強くなると焦りを覚えた。必要とされなくなっては、『御側付の赤霧涼』という存在意義が揺らいでしまうからだ。
ただ、それだけではないという思いもある。
初めて屋敷で彼の姿を見たとき、時間を忘れるほどに目を奪われた。それは彼の美しさからだった。それから、自覚こそしなかったが同情もあった。私は赤霧涼である間、一度たりとも『私』のことについて思い出さなかった。名前も、年も、境遇の一つたりとも。それでも知らず知らずのうちに、ほとんど外に出ることなく幼少期から病室にいた自分自身と、生きることを諦めていた白樺蓮を重ねていたのだ。
そこではたと思う。
同情し、彼に手を差し伸べた『赤霧涼』。私は果たして、誰かに手を差し伸べられたいと思っているのだろうか。
「やっぱり!?そう言うと思った!」
「想像通りでしたか?」
「んふふふ。それがさ、すっごい面白い夢を見たの!」
「……面白い夢、ですか」
上機嫌に笑い、楽しそうに頬を染める日和。どうにもこの子は本当に楽しそうに笑う。見ているだけで幸せをおすそ分けしてもらうように、少しくすぐったい。
「あのね!このゲームの世界で生きる夢を見たの!」
「このゲームの……?」
「うん!それでね、もとの話とは結構変わってて、赤霧翡翠にイケメンの妹がいて、白樺蓮がすごいとっつきやすい性格で、黒海八雲とも仲が良いの。それでね、その三人と私も仲良くてね、毎日みんなで一緒にいるの!ちょーっとヒロインに当たりが強かったけど、楽しかった!」
「…………、」
思わず、言葉を失う。
同じ時期に、他人とほとんど全く同じ夢を見たというのだろうか。眠っている長さも状況も違ったというのに。しかも聞く限り性格まで似通っているときている。
そんなことがあるのだろうか。
「……奇遇ですね。私もよく似た夢を見ていました」
ポツリとそういえば、日和はその大きな目をまん丸に見開かせる。ややあって、少しだけ彼女は笑った。私が言ったことが本当か否か、それはきっと日和にとってどうでも良いことなのだ。そして彼女が次に言い出すこともまた、なんとなく私はわかっていた。
「楽しかった?」
「……ええ、とても」
「幸せだった?」
「はい、本当に幸せでした」
夢の中と同じように、日和は問う。ただこの後に彼女の言うことは、きっと異なる。
私はもう夢から覚めてしまったから。
そっか、と消え入りそうな声と共に悲し気に笑う。
「これ、お母さんから涼ちゃんに渡すようにって……」
申し訳なさそうな表情で私に封筒を差し出した。厚めの和紙、彼女が好んで使う淡い鳥の子色の雲肌麻紙。受け取りひっくり返せば予想通り彼女、母であった。母の顔はほとんど思い出せない。それほどに私たちの距離は遠かった。姿かたちはまったく靄がかかったようにはっきりしないのに、彼女の字だけは覚えていた。神経質そうな細い墨に唇を噛んだ。それに気が付いたらしい日和が気まずそうにうつむいたのが目に入りハッとした。
「……確かに受け取りました。そうお伝えください。まあ、」
固い封筒に指を掛け両手で躊躇なく引き裂く。厚めだったため破くことができるか怪しかったが、やはり彼女は彼女だった。上等な封筒、上等な便箋、上等な墨を使っても、そのどれもがひどく薄っぺらなものにしかならない。それを裏付けるように、張りぼてのような立派な封筒の中身はたった一枚、便箋が入っているだけだった。萎えた手で破り捨てるも、容易い。
「読むかどうかは別の話ですが」
「涼ちゃん!?よかったの?」
「構いません。どうせ話の内容は想像がついています。それに、言いたいことがあるのであれば自分で言いに来ればいい」
仇敵を見るがごとく、千々になり小さなゴミ箱へと舞うように落ちていく、繊維を引いた便箋に視線を落とす。まるで図ったかのように、本文の一番言いたいであろう文字が見えて眉を曇らせた。
「……読んだとしても何も変わりませんから」
病室に顔を出すこともない。ごくごく稀に人づてに届く手紙は非常に簡潔で事務的なもの。何よりその内容はいつだって決定事項なのだ。
「でもっもしかしたら考え直してくれるかも……!」
「日和」
もはや興味の失せた便箋から視線を外し、どこかすがるような憂色を浮かべて言葉を継ごうとする日和の頭を撫でることで止めさせる。
「ありませんよ、すでに決まったことでしょうから」
他人事のはずであるのにまるで我がことのように考え憂い、不安で身体を硬直させる彼女に目を細めた。何も変わらないことは、日和もわかっていたのだ。きっと誰よりも私の近くにいたであろう彼女は私の母のこともわかっている。あの人は私になんの興味もない。強いて言うなら、今まで利用価値のなかったもの、手術が成功したことにより有用なものになったというだけの認識だろう。
わかっていたから、たぶん彼女は私にゲームを進めた。わかっていたからこそ、彼女は念押しでもするように、たとえ夢の中の話だとしても、幸せだったかを聞いたのだ。
「本当に、馬鹿馬鹿しい」
それに対して、何もできない自分自身が何よりも馬鹿馬鹿しい。
赤霧涼なら、何かできたのだろうか。
「……片付きましたし、そろそろ行きましょうか」
「うん……」
何年も見続けた病室の風景との別れだというのに、寂しいとも清々するとの思わず何の感慨も抱かなかった。きっとこれから行くところもここと代わり映えしないようなところだろうから。
まとめた荷物をつめたスーツケースを引く。ぐるりと部屋の中を見渡し、忘れているものがないかを確認する。
「ああ……、」
片付けるべきものなのか、それとも看護師がもともと処分するものだったのかは分からないが、ベッドヘッドのすぐ上に、名札を見つけた。紙製のそれは現在唯一、このからっぽの部屋にいた住人を示すものだった。持って行っても結局捨てるだけのものだとわかっていたが、ガラスのプレートから名札を抜き出した。左端に貼られた黄色のシールは、つい先日まで赤色だった。緑色に張り替えられる前に出ていくことになったが、はたして私は病院にいる間、早々に退院していく緑色のシールを貼られた患者たちを羨んだことはあっただろうか。がらんどうの胸に一点のシミを残した。
私は『白鷺涼』と書かれた名札を上着のポケットの奥に、押し込んだ。




