春は曙、夢現
バタバタという足音を抑える余裕もなく、廊下を走る。気持ち悪いほどに、音がない。それこそ自身の立てる跫と息遣い以外、何も。以前にも似たような感覚を味わった、と頭のどこか冷静な部分で感じていた。
あの時は、代わりにひどい蝉の声が響いていた。
窓から柑子色の日が差し込み床に、壁に、淡い染みを作っていく。誰の姿も見えないのはもう皆下校したからなのか。窓の外で部活に勤しむ生徒の背型が見えないのは部活が休みだからなのか。僕にはわからない。
「教室っ……!」
何故か教室に向かわなければならない気がした。教室に行けばきっと蓮様がいる。黒海も、日和もいる。
他に誰もいなくとも、彼らだけはあの教室に変わらずにいると確信していた。皆下校しているのなら彼らもいないはずであるのに、それが頭に過ることさえなかった。
蓮様に会ったら、きっと心配していただろうから、謝ろう。それからもう少しちゃんと体調のことも話す。黒海もたぶんこんな時は皮肉も口から出さず、言葉少なに気を遣うだろう。らしくないから僕が笑い飛ばせばいい。日和はきっと泣きかけてる。僕以上に心配性でよく見ている彼女は普段あまり不安を表に出したりはしないけど、振り切れると恥も外聞もなくなる。
それでいつものように四人で駄弁って、笑って、それから寮に帰ればいい。
桃宮の言っていたことなど、聞かなかったことにしよう。彼女に僕の何がわかるというのか。何もかも知らないというのに。いや、もしかしたら僕が寝ぼけて見せた夢か幻の一種なのかもしれない。彼女がわざわざあんな妙なことを言い始めるはずがない。そもそも彼女は本当に桃宮だったのか。
上り慣れた階段を一つ飛ばしに駆け上がり、淡い色の廊下へ足を踏みいれる。走りながら横目で見たA組の教室の中には誰もいなかった。がらりとした教室に、所狭しとと机と椅子が並ぶ。柑子色が溢れかえる一方で、ひどく影を濃くさせていた。
「…………、」
D組の教室の前で足を止めた。他の教室は窓も扉も開け放たれていたのに、この教室だけぴたりと遮断するように占められている。中から話し声は、聞こえない。
どくどくと全身に血を送り出す音を耳元で聞きながら、いつもより重く感じる腕を上げ取っ手に手を掛けた。異様な雰囲気だというのに、扉はいつも通りからからと軽い音を立てて開いた。
「お帰り、涼ちゃん」
「ひよ、り……、」
柑子色の空間に、日和がいた。
いつもの教室に、蓮様も黒海もいなかった。ただ、日和だけが、いつもと変わらないとでも言いたげに、そこにいた。
「ただい、ま、です」
「身体、大丈夫だった?」
「ええ、今は……」
半ば放心状態で、フラフラと日和に近づくと支えるように側に寄ってくる。ああ、いつもの日和だ、と安心した。
「もしかして、桃宮ちゃんに会った?」
「……はい、目を覚ましたら隣にいました」
なかなか怖かったです、と言うと日和は苦笑いをする。どうやらさっきの桃宮は僕の夢でも厳格でもなく、正真正銘の桃宮だったらしい。
「それで、ヒントはもらえた?」
「ヒント、ですか……」
『白樺蓮がいて初めて、貴女は「赤霧涼」になれる。』
『どうして涼くんは、白樺くんが大切なの?』
激しいめまいと吐き気に襲われ、膝を突く。
何が言いたいのか、わからない。
「涼ちゃん、大丈夫?」
「……すいません、その話はあとでも、」
「ごめんね涼ちゃん、時間がないの。春はもうすぐそこだから」
意味が分からない、という言葉は喉で押しつぶされた。まるで胸を上から押さえつけられるような苦しさと圧迫感。時間がない、とは。すぐそこに来る春、とは。わからないことが多すぎる。
ただ、いつもどおりはもう手に入り得ないことだけは、確かにわかった。
「苦しい?」
「……ええ」
小さな手が頬を撫でた。
「私ね、涼ちゃんのこと大好きだよ」
頬を撫でていた手は移動し、宥めるようにゆっくりと背中をさすった。肩越しに、小さな背中が目に入った。
「だからね、涼ちゃんに幸せになってもらいたかった」
凛としているわけでも、張っているわけでもない。ただその静かな彼女の声は何のよどみを感じさせることもなく、僕の心の奥深くへと浸透していった。
「どんな形でもよかったの。涼ちゃんが笑っててくれるなら」
「日和……?」
「ねえ涼ちゃん。誰よりも動くことのできる身体は好きだった?」
「ええ、とても……、」
背中をゆるゆると撫でる手に促されるように、自然と口から言葉が零れた。
「学校に行って、友達といられるのは楽しかった?」
「はい……、」
バクバクと大きな音を立てていた心臓は、もう緩やかな鼓動を打っていた。
「私や黒海くん……白樺くんといられて、幸せだった?」
「ええ……、」
教室にあるはずのない、嗅ぎなれた匂いがつんと鼻を突いた。それは暖かな色に染まるこの空間に相応しくなかった。
誰に何を言われるでもなく、僕は理解していた。
「本当に、とても……私は幸せでした」
胸の奥底に沈めておいた思いが、記憶が大きな浮力を持って意識の水面に顔を出そうとしていた。
僕はずっと知っていた。すべての答えは最初から僕だけが持っていた。それからずっと目を逸らし続けていた、それだけの話だった。
ゆったりとしたテンポで打たれる鼓動を耳の側で聞きながら、ぬくもりに誘われるまま瞼を下ろした。
なぜ私は友人がやっていただけのゲームのことを、忘れることなくずっと覚えていたのか。
友人とはだれなのか。
なぜ私は蓮様が力を付けることに危機感を覚えていたのか。
なぜ初対面の彼を、こうまで守りたいと思ったのか。
なぜ、彼を大切だと思っていたのか。
「そっか」
瞼を持ち上げずとも、日和が笑っているはわかった。小さな手が、僕の赤い髪を梳く。
「もう春なんだ」
「ええ、春が来ます」
「それじゃあもう時間だね」
まるでタイミングを計ったように、チャイムが鳴った。
大きな音が、静かすぎる校舎に響き渡る。空気を震わせる振動は、微かに私の指先を痺れさせた。
長い長い、余韻を残す。
唐突に、カシャッという音に続くジー、という機械音を聞いた。
見えなくともわかる。きっとこれが、最後の思い出なのだ。
瞼越しに見えていた夕日が、遮られる。睫毛を震わせると彼女の温かい掌をくすぐった。手に遮られ、赤かった視界は黒にのまれる。
「涼ちゃん、」
小さな声が鼓膜を震わせる。
「おはよう」
重い瞼を、こじ開けるように持ち上げた。嫌というほど見慣れた白い天井が目に写る。嗅ぎなれた消毒液が嗅覚を支配する。
「ああ……、」
首をずらせば微かな夏虫色のカーテンの間から白んだ空が見えた。ブリキ人形に油を指すことを忘れたような身体を無理やり動かす。腕を引けば細い管が引き留めるように揺れ、身体を起こせば文句を言うように首に繋がった先の点滴がからりと音をたてた。足を床につけるとひやりと寒さが伝わった。
窓を遮る布を緩慢な動きで引く。シャッと音を立てて真白な光が無機質な病室に飛び込んだ。
山の端は煙り、窓越しにシンとした冷たさを感じる。
「全部、夢だったんだ」
悲しいのか、苦しいのか、それとも虚しいのか。胸を占める感情が何なのかわからないまま、私の頬を水滴が滑った。




