客観
一定のリズムで上下する胸をただ眺めた。静かな保健室の中で唯一健やかな寝息だけが鼓膜を揺らす。何となしに耳を澄ませば、遠くに人の声が聞こえる。授業中であるこの時間にこれほど足音を立てているのはおそらく職員だろう。つい癖のように白い頭に手を伸ばしかけてやめた。黒海の言っていた通り、蓮様は軽い脳震盪であった。駆けつけた時こそ意識がなかったが、保健室まで運んですぐに目を覚ました。後頭部や側頭部に打撲はあったものの一応受け身は取れていたらしく鞭打ちにもなっていない。特に内的な痛みもなかったため大事にはせず、ひとまず様子を見るために保健室に寝かされている。次に起きたとき、痛みや異常がある場合はすぐ病院に行くことになっている。タオルで包んだ氷枕が頭の下に入れられ今は患部を冷やすだけで、他にできることはない。できることはないとわかっていても、僕は教室へは戻らずベッドの脇にいた。ふと、いつかの逆のようだなとため息を吐いた。
保健室のすぐ外から一人分の足音を拾った。ひょいと首だけで僕が振り向くと同時にがらりとドアが開けられる。そこには担任としては相応しく、いつにない真面目な顔をした藤本教諭が立っていた。
「まだここにいんのか?赤霧」
「いんのかって……養護の先生は何故か出ていったきりですし、蓮様をここに一人でおいていくわけにもいきませんから」
「つっても、今授業中だぜ?品行方正な赤霧くんはここでサボタージュしてていいのか?」
「この時間の授業は藤本先生でしょう。ならどうせ自習でしょうし、理由も理由ですから何を言われても痛くもありませんよ」
理由、と言ったところで藤本教諭は眠る蓮様に視線をやる。基本的にふざけている人だが、こんな風に真面目な顔をしていつものような軽口を叩くものだからどうにも座りが悪い。もっとも、教諭の言う通りに教室に戻るつもりは微塵もないが。一脚しかなかった丸椅子に僕が座っているため、教諭は壁に立てかけられていたパイプ椅子をずるずると引きずりよせて緩慢な動きでそれに腰掛けた。
「……白樺はどうだ?」
「養護の先生から聞いてるとは思いますが、先ほど少し目を覚ました。今は様子を見るためにひとまず眠っています。軽い脳震盪のようですが、受け身はある程度取れていたようで打撲も軽症と言えるレベルです」
今まで散々蓮様が武道を習うことに反対し内心不満を抱いていたが、今日ほど稽古をしていてよかったと思うことはないだろう。今回こそ軽症だったが、打ち所が悪ければ最悪の自体だってあり得る。
「そうか。親父さんにはさっき連絡しておいた。白樺が起きたらそっちからも連絡しとけよ。随分心配してたからな」
「わかりました」
特に話すことも思い浮かばず、適当に返事を返したまま沈黙が僕らの間に落ちた。藤本教諭が来る前の様に、ただ小さな寝息だけが聞こえる。その沈黙は僕にとってつらいものでもないのだが、藤本教諭にとってはそうでもなかったらしく、気まずそうにそわそわとした後頭を乱暴にガシガシと掻いた。
「お前さぁ……何で保健室の先生がお前を追い出さずに自分が出てって挙句俺に報告したっきり戻ってこねぇと思う?」
「……さぁ。それは僕もさっきから不思議に思ってましたから」
しばらく考えるがやはり思い当たる理由がない。教諭の口ぶりからして訳知りのようであるが、若干僕が悪い、とでも言っているように聞こえた。しかしながらやはり心当たりはない。
呆れたように藤本教諭がため息を吐いた。
「……お前ちょっとそこの鏡見てみろ。顔ひでぇぞ」
「顔……」
思わず自分の顔をぺたぺた触るがよく分からず促されるままに壁につけられた鏡を見た。自覚はなかったが、眉間にはしわが寄っていてお世辞にも良いとは言えない目つきがさらに悪くなっていた。だが教諭がひどい、という程ではない気がする。
「……そんなにコレ、ひどいですか?」
「ただでさえ目つきの悪い顔してんだ。普段はお前笑いっぱなしだから気になんねぇけど今みてぇに笑ってねェと際立つ。……お前をただの良い子としか思ってない教師じゃ逃げ出したくなるのもわかる」
おら、と指先で無理やりしわを取ろうとしてくるが、むしろ不快感にしわが寄る。グリグリと無造作に動かされる指は相手の好き嫌いにかかわらず鬱陶しい。
「それと何より目が笑ってねェ。めちゃめちゃ怖ぇ顔だぞ」
「……とてもヘラヘラなんてできる心情じゃありませんので」
伸ばされる指から逃げるために座っていた丸椅子ごと後ずさった。
なんとなく、本当に何の根拠もないがなんとなく今日の藤本教諭は不気味だ。いつもと何かが違う。流石に教え子が怪我したって時に普段の態度だったら張り倒したくなるが、ここまで態度が違うといっそ不気味だ。
「というより、付き添いに来た生徒の顔が怖いから、なんて理由で普通置き去りにしますかね?」
先ほどから思っていたことだが、やはり藤本教諭は理由が分かるようでしばし言葉を探すように視線を彷徨わせた。
そして予期させるようなことを何一つ言わず、無造作に蓮様の頭に手を伸ばした。
「っ……ほら、こういうことだってぇの」
「……何が、でしょう」
ほとんど何も考えることなく伸ばされた腕を取り簡単な関節技を決める。条件反射のようなものだが、ふと何故危害を加えるはずがないであろう藤本教諭の腕を締め上げているのだろうと我に返る。教諭を見れば冬だというのにうっすらと汗をかいていて、ああ僕のせいかとすぐに力を抜いた。
「いってぇ……お前本当に容赦ないな」
「こういうことって、どういうことですか?」
「無視かこの野郎。……顔だけじゃねェ全体的にピリピリしすぎなんだよ。もう過剰反応って言って良いくらいにな。今だって少し白樺に触ろうとしただけで締め上げるとか、警戒しすぎだ。保健室の先生がいるときもそんな感じだったんだろ。他から見りゃあ蛇に睨まれた蛙、というか。なんにせよ身の危険を感じるくれぇにはお前、威嚇してんだよ。……気持ちは分からんでもないが、もう少し余裕を持て」
面倒くさそうに言う藤本教諭に返す言葉もないが、なんと人に言われようとも無意識でほぼ条件反射のようなものなのだから仕方がない。蓮様に何ごともなければ僕だってこうも警戒したりはしないし、再び目が覚め無事が確認できればいつも通りに戻るだろうと想像もできる。今回は特例の特例なのだから甘く見てほしい。
「それから、こいつが階段から落ちた原因だが一応黄師原から大体のことは聞いた。黄師原が階段に来る前から桃宮と、黄師原の取り巻きみてぇな奴らは揉めてたらしい。そんで、その揉め事に黄師原が止めに入ったが逆効果。そのちょうど揉めに揉めてるところでたまたま白樺が通りかかって、二年の女子が桃宮を突き飛ばしたのをかばって白樺が落ちた……、大体こんな風に訊いてるが、お前が知ってんのもこんなんで間違いないか?」
「ええ、おそらく。最初の揉め事云々は知りませんしどうでも良いのですが、蓮様が通りかかってからの一連のことは僕の見ていた通りでした」
「まあ結果だけ言っちまうと一応御咎めなし、だ。せいぜい桃宮を突き飛ばした二年の女子や揉め事起こしてた連中に指導が入る程度だろうな」
なんだその不服そうな顔は、と言われまた寄っていたらしい眉間を指でぐっとほぐした。教諭につつかれるより自分で治す方がましだ。
「僕個人で言えば不服ですが、客観的に見れば妥当だと思います。蓮様も軽傷ですし、いわば彼が勝手に階段から落ちただけですからね。桃宮は庇われただけ、二年女子は一応未遂という扱いでしょうし、諸悪の根源ともいえる黄師原ですが一連の事故に直接かかわっているわけではありません」
でも僕は、不服です。
途端に教諭は顔を険しくする。
「仕返しとか、考えるんじゃねぇぞ」
「しませんよ。流石にこの件で仕返しなんてすることは理不尽です」
不服だ。しかし不服ではあるが納得していないわけではない。強いてあげるなら揉め事を起こしていた連中が皆悪いとは思っている。彼はそれに巻き込まれただけだと。だが言ってしまえば蓮様が勝手に首を突っ込んだのだ。自分が身代わりに、などとは思っていないだろうが衝動的に助けたいと思ってしまったのだろう。その思いに従い生まれた結果なのだから責任はすべて行動を起こした本人にある。それは蓮様もわかっているだろう。それなのに僕が何かしようとするのは無粋だ。
「本当か?」
「本当ですよ。もちろん、蓮様が彼らに怒りを向けたとしても止めます。……落ち着けば僕も理性的に動けますから」
「理性的、ねぇ……、」
「……先生は僕を一体何だと思ってるんですか?」
茶化すように言えばいつものように『赤霧涼』を揶揄するような言葉が軽口と共に吐かれると想像し聞いた。
「……今この学校で一番あぶねぇ奴、だな」
その想像はいともあっさりと裏切られてた。
無意識に蓮様の方を向いていた顔を藤本教諭の方へ動かすと、ここに入ってきた時よりも真剣な顔をした教諭と目が合い、思わず顔を引き攣らせた。




