変わる物語
最近、やたらとめまいを起こすことが多くなった。
「…………っ、」
「涼ちゃん?……体調悪いなら今日はもう帰ったら?」
ぐらついた頭を軽く抑えると隣にいた日和が気遣うように背を撫でた。
体調が悪い、というわけではない。はずだ。唐突なめまい以外に何の症状もない。普通に運動してもいつも通り人並み以上に動けるしふらつくこともない。なんでもないときに限って、めまいに襲われる。何をしてるわけでもなく、今のようにただ廊下を歩いているとき、ふと立ち上がった瞬間など、それは本当に唐突で予期させるような症状も行動もない。心当たりもないため防ぎようがない。あまりにもひどくなるようなら病院にも行こうと思えるのだが、いつもそれは多少ふらつく程度で数秒立ち止まったりしゃがんだりしていれば収まる。痛みもない。ただ数秒視界が暗転するだけだ。そのためどうにもこれを重大なものとは思えない。
「あー……いや、大丈夫です。もう収まりましたから」
しばらく深呼吸をすればじわじわと視界が戻ってくる。わずかにあった痺れも霧散しもういつも通りだ。
「本当に大丈夫?あんまりどっか痛いとかない?」
「大丈夫ですよ。少し寝不足かもしれませんね。……ただのめまいですし、すぐに元に戻りますから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
不安げに眉間に皺を寄せる日和の頭を髪が崩れない程度に軽く撫でる。普段は子供じゃない、とか何とか言って抵抗するのだが、今日は抵抗しないらしい。どうにも気を遣われているらしく申し訳なくなる。しかし本当にめまい以外には何の症状もないのだ。対症療法などは行えない。熱を測ろうとしているのか、背伸びし僕の額に手を伸ばす彼女に合わせ少し身をかがめる。小さな手はひやりと冷たくびくりと身を固めた。
「手、冷たいですね」
「……私の手が冷たくなっちゃってるから涼ちゃんに熱があるのかもよくわかんない」
不満げな彼女の手を取って温めるように手で包んだ。
秋の色は失せ冬が足早に近づき身を冷やした。つい先日まで美しく葉の色を変えていたイチョウや紅葉は裸にされ、寒々しくその枝を晒している。生徒たちはブレザーの上から上着を羽織、ちらほらとマフラーを首に巻いている者もいる。
天原学園高等部に進学し、もう半年を過ぎた。高校一年でいられるのもあと4か月ほどだ。僕の知っているゲームが終わるのも、あと4か月ほどだ。
だがゲームのシナリオを逸れるヒロインは、いったいどこへ向かおうとしているのか。
当初懸念していた逆ハーレムエンドだがおそらくもう心配する必要はない。彼女が何を考えているのか知らないがシナリオにあるイベントを悉く無視し、自分の好きなように動いているらしい。本来ならばもっと時間がかかったはずの緑橋と黄師原の問題はほぼ解決してしまっている。シナリオ通りであれば学年が終わる直前に全員の問題が解決する、快刀乱麻のような爽快さがあったらしい。よく友人がそう言っていた。快刀乱麻に解決し、そこから全員を一気にすがすがしくフるのが楽しいのだと。
彼女の歪んだ楽しみ方はともかく、もはやこれからどうなるのかとんと見当がつかない。むしろここは本当に私の知っているゲームの世界なのか、それすら怪しい気がしてきた。先日のこともあり、意識がぐらぐらと揺れる。すがるように、小さな手を握った。
「涼ちゃん?どうかした?」
「いえ、何も。小さな手だな、と思いまして。すいません、もう行きましょうか。蓮様と黒海もそろそろ教室に戻ってくる頃でしょう」
握っていた日和の手を離し、教室へと向かう。運悪く藤本教諭に捕まった僕らは進路指導室と国語科準備室に資料を持っていくように言われてしまったのだ。逃げようにも逃走前に捕獲され見事に承ることになってしまい、全く異なる場所にある二部屋へ二手に分かれて向かうことになった。時計を見れば昼休みが終わり5限が始まるまであと10分もない。しかし次の授業はどうせ藤本教諭の授業のため遅れたところで大した御咎めはないだろうと高を括り足を速めることすらしない。下手したらあの人こそ遅刻してくるのだ。問題はないだろう。がやがやと騒がしい廊下を日和とのんびりと進む。
「あ、ちょうど白樺くんたちも帰ってきたところみたい」
そう日和の指す廊下の突き当りに見慣れた二人の姿が見えた。しかしそこには何やら人だかりがあり、少々見えづらい。
「あれ、何なんでしょう。もうすぐ予鈴が鳴るのに、あんなところでたむろするなんて」
「だね。見たところほとんど女子みたいだけど……」
「ただ階段の前でああされてると邪魔ですね」
その塊から何やら声が聞こえるが、人数の所為か内容までは聞き取れない。しかしその塊の中に一瞬桃色の髪が見えた気がした。よくよく見ればその女子の集団の中に、金髪の男子生徒がいることにも気が付いた。
「あれ……黄師原会長の取り巻き、かもしれません。顔はわかりませんが黄師原会長いますし」
「え、涼ちゃん見えるの?……ほかに知ってる人いる?」
「あーたぶん桃宮さんもいますね。一瞬見えました」
嫌な予感がした。最近は大人しいかと思ったが、あのヒロイン様と攻略キャラクターが一緒にいるところに遭遇して良い目を見たことは一度だってない。ヒロインにとってのイベントは他人にとっての災難なのだ。しかもよりにもよって蓮様が彼女の近くにいる。今まで散々彼女に近づかないように画策してきたのに、今にもトラブルが起きそうな場面の側に彼がいては元も子もない。だが彼がわざわざ誰かのため、ましては気に喰わない黄師原のために道を変えてやるなんてことをするとはとても思わない。おそらく彼らはこのまま直進し、塊が階段付近を占拠するところへ行き、その階段を通り二階の教室へと向かうだろう。本来ならそこで誰がどんな理由でもめていようとも、関係のない話だ。だがこれは違う。だめだ。なんていったって揉めてるのはヒロイン様。そしてその近くには攻略キャラクター。おそらく現在進行形で黄師原とのイベントとかそんなところだ。そんなイベントに攻略キャラクターの一人である蓮様が行けばどうなるか。まず間違いなくイベントに強制ログオンだ。
「っ絶対面倒なことになりますね……。行きましょう」
「ちょ、行きましょうって、涼ちゃん!?」
のんびり、なんてとても言っていられず走ってそのトラブルの場所まで急ぐ。正直僕も攻略キャラクターとして数えられるかもしれないが、蓮様のフォローさえできればそれでいい。
やはりヒロインはヒロインだ。うんざりしつつ足を動かした。前方で二人が階段に差し掛かる。本当なら声を出して止めたいが、後方に気を取られたばっかりに前方の集団への注意がおろそかになってしまうのは避けたいため僕が急いであの場に行くしかない。
ざわり、集団の空気が動く。そして集団に埋もれていた桃色がパッと視界に写った。そして彼女は後方、階段の方へ姿を消しそうになった。ひやっと肝が冷えた。しかしそれよりも彼女が落ちるよりも早く見慣れた白が彼女の側に走り手を掴んだ。
そして階段の上へ押し戻された桃色の代わりに、白が視界から消えた。
息が止まり血の気が引く。放心する間も許さず階段へと無心で走った。
「蓮様っ!!」
呆然とする集団など目もくれず階段の下を見れば力なく倒れる主人の姿が見えた。すぐに階段を下り状態を確認する。
「蓮様、聞こえますかっ?」
「違う、あたしの所為じゃない……!あの一年が勝手に落ちただけ!」
「そもそもは先輩が天音を突き落とそうとしたからじゃないですか!」
「蓮様、わかりますかっ?」
「何で白樺蓮がっ……、」
「あたしの所為じゃない!」
名前を呼びかけるが反応はない。簡単に確認するが出血しているところはない。全身を打っているようだが骨が折れているところもないように見えた。呼吸もしているし脈も正常。素知らぬように鳴る予鈴がやけに白々しかった。
「涼っ……蓮は!?」
「……たぶん大丈夫です。大きな外傷は見られません。脈も呼吸も正常です」
いつの間にか階段の上にいたはずの黒海が僕の隣に来ていた。遅れて日和も階段の上に姿を見せる。気づけば女子の集団の半分近くが姿を消しており残ったのは数人の上級生らしき女子生徒と、見覚えのある顔ぶれだった。
「白樺くんっ……わ、私の所為で。私が落ちそうになったのを白樺くんが庇ってくれて……私っ、ごめんなさい……!」
「違う、もとはと言えば俺の所為だ。俺がもっと強く言っていれば……済まない。赤霧!白樺蓮は俺が教室に運ぶ。お前は誰か教員を呼びに、」
「黙れ」
ぐっと片腕を蓮様の身体の下に入れて抱き寄せる。我に返ったらしい黄師原が僕の腕の中の蓮様に手を伸ばそうとしてきたのをばしりと叩き落とした。
「よりにもよってあんたが触るな。どんなトラブルがあったのか知らないが、原因はあんただろう。諸悪の根源がこの人に触るな……」
「涼、落ち着け……。軽い脳震盪だから、そんなにピリピリするな……」
一瞬傷ついたような顔をした黄師原に一瞥だけくれてやり、残りの腕の彼の身体の下へ入れて揺れを極力少なくしながら持ち上げた。黒海に窘められたが彼自身常になく苛立ってる。
「あー……、黒海、僕らはこのまま保健室に移動するので、一旦職員室に行って養護教諭がいないか見てきてください。保健室にいないと養護教諭を呼びに行かなくてはならないので。日和は教室に行ってください。もう予鈴がなっているので藤本教諭は教室に向かっていると思うので、僕らが保健室にいることとこのことの次第を分かる範囲で良いので伝えてください」
「わかった。……気をつけろ」
「と、とりあえず教室行ってくるね!」
ばたばたと走っていく二人の後に続き揺らさないよう慎重に一階の保健室へ足を進めた。ぐったりと両腕にかかる重みにグッと歯を食いしばった。吐き出すあてのない苛立ちが腹の底で煮立つ。
「涼くん、私も一緒に保健室に行かせて……」
「失せろ」
相変わらず神経を逆撫ですることしか言わない桃宮を睨むとびくりと怯えたように肩を跳ねさせた。更に苛立ち思わず舌打ちが溢れる。
「……後で詳しい状況を教師が聞きに来る。あんたも会長も、説明できるようにしておけ」
これ以上時間を割きたくなく、二人の返事を聞く間も無く再び足を動かした。
無心になってただ一分一秒でも早く、と唇を噛んだ。主人が危険に晒されたことへの怒り、自分の不甲斐なさへの苛立ち。そして何より圧し殺したのはじわじわと胸の奥から込み上げてくる仄暗い思いだった。




