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胡蝶の夢  作者: 秋澤 えで
高校生
118/157

無実の罪人

茹だるような暑さは日々増していく。容赦なく照り付ける日を睨みつけた。ぞんざいに突っ掛けた下駄がぶらぶらと揺れる足からカランという軽い音を立てて飛んでいった。ほんの少しの距離だが、縁側から腰を上げるのが億劫で飛んでいった下駄を放置した。腰かけた板間独特の冷たさを味わうため、ごろりと背中を板に預け、火照った頬をぴたりとくっつけた。ひんやりとした木の感触に一息つくも、数分もしないうちに体温によって温められるであろう板を思い次の避暑地に思考を飛ばす。打ち水をするには早すぎる。壁に沿うように立った木からは蝉の大音響が垂れ流される。なぜああも鬱陶しく鳴くのかと眉間に皺を寄せた。その木の根元には、すでに力尽きた同胞がいるにも関わらず素知らぬ顔で鳴く奴らは随分と滑稽だと柄にもなく嗤う。


どこからか近づいてくる足音が板を伝い耳に飛び込む。キシキシと控えめに鳴く板に耳を澄ませば、思い当たる人物があり、それならばとだらけきった姿勢を正すこともなく、彼が来るのを待つ。汗の所為でまとわりつく袖を肩のあたりまでたくし上げた。指先が肩の引き攣りに掠めた。



「おいおいお嬢ちゃん、一寸挑発的な格好じゃぁねえの?」

「……それは見る人間の下心の有無に依りますよ、瀬川さん」



ぼうっと眺めていた天井に、想像通りの顔が飛び込んだ。


彼の言う挑発的な格好、というのは足を揺らしていたせいで乱れた裾であったり、寝っ転がったせいで肌蹴た袂のことをいうのであろうが、だからどうもあるまいと鼻で笑った。裾から除く腿は消えない傷を日にさらし、袂の中はさらしで覆われているのだ、これに挑発される人間などいない。あからさまにため息を吐いた瀬川さんから目をそらすようにのそのそと上体を起こした。縁側から見る夏の庭は、先ほどと寸分と変わらず在る。飲む?と差し出されたコップにはなみなみと麦茶で満たされ、小さく礼を言い受け取る。


縁側に腰掛け、片方だけ下駄を履いたまま一口口に含んだ。冷え切ったそれがするすると喉を流れていった。僕の隣に、瀬川さんが徐に腰を下ろす。失礼だとは思いながら、この暑いときに隣に大きな人がいると暑さが増すようで嫌だと内心顔を顰めた。無論、些か理不尽だと自覚もあるため口には出さない。



「暑そうだねえ、お嬢ちゃん」

「暑いですよ。暑さには弱いんですよ。何もする気になりません」



課題は、と聞かれ帰省する前にすべて終わらせたと答えると、真面目だねえとからから笑われる。暑さに耐えかねるように、麦茶の中の氷がコロンと高い音を立てた。



「最近どうよ」

「どう、とは……。もう少し具体的にお願いします」

「じゃあ、最近翡翠君とはどうよ」



息がつまる。保健室であったときの兄を思い出した。悲しみや苦しみ、様々な感情を煮詰めた形容しがたい表情。そして意味深な言葉。



「……なぜ、兄さんのことを?」

「いやぁさ、こっちの白樺兄弟の仲はお嬢ちゃんのおかげで割りと何とかなったし、赤霧兄弟の方はどうなのかなって。小学生の時よりかはマシだと思うけど」」



しがないおっさんのお節介だよ、と言って懐から取り出した煙草に火をつけた。その白樺兄弟は今嘉人さんと話があるらしく、ここにはいない。憎らしいほど青い空に紫煙がたなびく。言い淀む僕を促すように瀬川さんは大きな手で緩慢に僕の頭を撫でた。僕と同じように熱い手は不快なはずなのに振り払う気にはなれなかった。むき出しの左足を、日差しがじりじりと焼いた。




******




「『わかりやすいだろ?』ねぇ……。青いなぁ」



結局、保健室で翡翠と話した内容をかいつまんで話した。翡翠が不良を演じて見せる理由。そして自身と僕を対比するように並べたこと。これは完全に僕ら双子の問題だった。他人によって解決できるとは思っていない。いや、だからこそ、こうして第三者人話すことによって客観的に自身を、彼を見たかったのかもしれない。促されるままに、とぎれとぎれに詰まりながらも第三者の冷静な大人に話して聞かせた。


ことのすべてを聞いた瀬川さんは苦笑いをして煙を吐き出した。



「とりあえず、お嬢ちゃんは、お兄ちゃんとの確執は総じてそこにあると思ってんのね」

「……はい。何をどうすればいいのかも、わかりませんが」



笑い交じりに、また瀬川さんが青いな、と呟いた。思わず睨んでしまうのも仕方がないことだろう。こちらはずっと悩んでいることなのだ。青いなどという感想とともに一笑に付されては敵わない。



「兄さんは僕と双子であることに何か思うところがあるように感じます。同じところなんてほとんどないのに、他人からは双子というセットで扱われるのを嫌っているのではないかと」

「どうだろうねえ、微妙なところさ。翡翠君はさ、たぶん同一視されることも、比べて違いを指摘されること、その両方がいやなんだよ」

「それは、」



そんなことを言われてはどうしようもない。似ていない双子の僕らは同じ日に生まれたということと、色彩くらいしか同じところはない。にもかかわらず、同一視されることを嫌がっているのかと思ったが、瀬川さんいわく違いを指摘されることも嫌だと。では僕は双子の兄に何をすればいいのか。

困惑する僕に、また瀬川さんが喉で笑う。



「どちらでもあり、どちらでもない。翡翠くん本人すらそれをわかってないよ、たぶん。今も彼は悩み続けてるさ。でもそうやって悩むことは翡翠くんにとって必要なことだろうよ」

「必要……?」



じじじ、と燃える煙草の先に視線をやり、ダルそうに立ち上がった瀬川さんは僕を置いて近くの部屋へと行ってしまった。茫然としながら彼の言っていた言葉を咀嚼するがまだ、足りない。まだわからない。しばらくすると灰皿を片手に瀬川さんが戻ってきた。何事もなかったように、もとの位置へ腰を下ろす。



「翡翠くんが悩んでることはさ、ひどく難しいことであると同時に、この上なく簡単なことさ」



わからない、という視線を送られた彼は真面目腐って煙を吐いた。



「要はさ、アイデンティティの問題なんだよ」

「アイデンティティ……じゃあ、今の兄さんは自我同一性の拡散状態、何ですか?」

「そうだね。随分と長引いてるけど。簡単に言うと、第二の誕生をうまく遂げられなかった状態に近い。前に言ってたよね、中学に上がる前に翡翠くんと手合せしたって」

「ええ、勝負こそつきませんでしたが、それからは以前のような険悪な状態にはなってませんでした」



険悪な状態にはなっていない。それまでと違い、冷静に話をすることができれば、なんでも雑談をすることさえもできる。だがそこにはいつだってぎこちなさと、言葉にできない後ろ暗さが付きまとっている。きっとそれは、お互いに。僕らの間には、得体のしれない感情の塊が常に横たわっている。



「本人としてはそれでけじめをつけたんだろうよ。お嬢ちゃんに対する対抗意識とか、劣等感とか、その辺の諸々をさ。でもそれは完全じゃあなかった。……そもそもの話、翡翠くん自身がお嬢ちゃんに依存的だった」

「兄さんが、ですか?……依存なんてないと思いますけど」


「何も依存の形は目や態度に見えるものだけじゃないよ。常に敵視したり、意識する、それも依存の形。それまでの翡翠くんのアイデンティティはお嬢ちゃんを中心に作られてたんだよ、たぶんね。翡翠くん自身、双子っていう言葉に振り回されて、どこかで自分とお嬢ちゃんを同一視してた」



つらつらと、なんでもない風に語ってみせる瀬川さんから目が逸らせなかった。第三者でしかないあなたに何がわかる、と言ってしまえばそれだけの論。すべてを見透かしているように思えてしまうのは、どこかでそれに納得してしまっているからだろう。それは推測で空論でしかないとしても、それに可能性がないなんてことはない。



「それで依存しつつも、年齢的に健全に第二の誕生、アイデンティティの確立が行われようとした。それでも、お嬢ちゃんに対する依存的思考が邪魔をした。……おじさんから見る限りだけど、お嬢ちゃんはなかなか変わってる」

「かわっ……、」


「一個人として確立しようとしてる時に目に入ったのが、全く変わらない自分の片割れだ。片割れは変わらないのに、自分は変わろうとしている。変わるべきだと考えている。だが自分と一緒のはずの片割れは変わらない。不安になるだろうよ。お嬢ちゃんはさ、俺から見ても昔から全く変わらない。変わらないどころか初めて会った時からもう完成されてるように見えるのね。大人が子どもの姿してるみたいにさ」



ヒヤリ、そんな音が似あう汗が流れた。暑さなんて一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃。そんなにも僕はわかりやすかっただろうか、と考えるが気が付いたときには子供ぶるのを放棄していた気がする。ぼろを出してしまわないように、持っていた麦茶をぐっと飲み込んだ。


無理やり意識を、翡翠の話へと戻した。



「では、兄さんが今も不安定なのは、僕の所為なんでしょうか?」



そう訊くとぶはっと吹き出し笑い出した。口の中から一気に噴出された煙は行き場を失ったように僕らの周りを揺蕩う。こちらは真剣に話をしているのに、あんまりな反応にムッとした。それに気が付き瀬川さんは軽く謝る。



「ごめんごめん、怒んないでよ。でもさ、お嬢ちゃんの所為じゃあないよ。まして依存してた翡翠くんの所為でもない。誰の所為でもない、誰が悪いわけでもない」

「……どうすれば、翡翠は、翡翠になれますか?」

「ふっはは、そんなのおじさんの知るところじゃあないね。それは誰も知れないよ。お嬢ちゃんや俺にできることなんかなぁんにもない。どれだけ言って、何をしても、どうにもならんさ」



自身が自身でない。それは決してこのくらいの年であれば珍しくはない。でも今の状況はひどくこんがらがっているように見える。自身が自身ではないことを自身は自覚する。自身が自身であろうと苦心するのはどこか不自然に感じてしまう。しかもその一端を、無意識とはいえ僕自身が負っているのであれば、なおさら。



「僕にできることはないんですか?……原因の一つが僕だとしても」



知らず俯き加減になっていた僕の隣で、瀬川さんは深くため息を吐いた。そして短くなった煙草を灰皿で捻る。そして少し痛いくらいに僕の頭をワシャワシャと撫ぜた。



「お嬢ちゃん、己惚れちゃあいけない。今の翡翠くんは自分で考えて『わかりやすいアイデンティティ』を構築してる。それに人が横から口をはさむモンじゃあない。お嬢ちゃんも同じように確固とした『アイデンティティ』をもってる。誰かのため、なんて薄ら寒い理由でそれを曲げちゃあいけない。お嬢ちゃんのそれは今、蓮くんのため、が至上でしょう?下手にあっちこっちに手ぇ伸ばしてちゃあ、何にも手が届かずに自分が倒れる、なんてことにもなりかねないからねえ」

「僕は……、」



瀬川さんの言葉が胸に突き刺さるようであった。どれもが机上とはいえ正論。そして僕が思い悩むところまで暴いていった。その、僕が掲げる『アイデンティティ』が、本来、僕でなく翡翠のものであったなんて彼に言ったなら、どんな顔をするだろうか。今兄が迷っている理由は、僕が彼から彼自身を奪ったから、なんてわかっていた。ただこうして、全く違う視点、第三者からの視線でこうも分析されると、殊更に明らかであった。そして、目に見えるものに手を伸ばし、手が届かぬまま倒れることに、とは全くもって妙であった。この人は僕が考えていることがすべてわかっているのではないかと思えてくる。



「ま、こんだけ頭ぁ悩ませても結局なるようにしかならないよ」

「そんな無責任な……」

「無責任で良いのさ。思い悩むことに責任取らなきゃならないって誰が決めた?勝手に他人のあれこれに語ることに責任取るなんざあ言っちゃあいけねえよ。こんな世迷言に責任云々言うのはただの傲慢だし、何より野暮だ」



新たな煙草に手を伸ばすことなく、手持ち無沙汰な左手が仕事を終えたライターを弄ぶ。カチカチと音を立てるそれは決して安物ではないが見るからに高価なもの、と見えるものではない。使い慣れているらしいそれはところどころこすれ塗装が剥がれているが品の良さは損なわれていない。返す言葉が見つからず、ただそれを眺めた。



「ま、餓鬼が責任だあなんだあって気にする必要はないさ。ただ自分のしたいようにすれば良い。責任取りてぇってぇのは大人になってから十二分に味わえるからよ」

「……はい」



わかったのか、わからなかったのか、自分ですらわからない。ただ、返事をする。咀嚼するも消化しきれない。しかし吐き出すだけ吐き出せたのはいい機会だった。壁の向こうに意識を向けると障子が閉まる音がした。



「……さあて、いい歳したおっさんが柄にもなく語りすぎたかなぁ?」

「いえ、久しぶりに話ができてよかったです、本当に」



ほとんど氷の溶けた麦茶を飲み干すと、瀬川さんもそれに倣うようにごくりと飲み干した。コップの結露が流れ、捲り上げた腕を伝う。



「にしても、本当にお嬢ちゃんは昔っから変わらないよね。妙に大人びて落ち着きがあって、おまけに現実主義者。そんでもって異様なまでに甘え下手。子供らしさはないけど、子供であることを利用するほど大人じゃない……おじさんの見立てだと、初めて会った時から、見た目は子供、中身は高校生くらい、かな?」

「まさか、気のせいですよ。思い出補正ってやつですね。…………にしても、瀬川さんイイ性格してますね」

「んー?何のことー?」



徐に立ち上がりぐぐ、と伸びをする。僕よりも大きな身体からは不穏な音がぱきぱきと聞こえてきた。彼の話のおかげか、気が付けば汗が引いていた。たくし上げた袖をもとに戻し乱れていた着物をササッと整える。



「壁の向こう、兄さんがいるのに気が付いていたでしょう?壁挟んだ向こう側に本人いるのに話始めるので驚きました」

「ま、それを止めずに堂々と乗っかったお嬢ちゃんも大概さ」



盗み聞きをする気でもなかっただろうに、結果的にすべて話を聞いてしまっただろう双子の兄に心にもない謝罪を贈る。こうも自身が人からどう思われてるかを分析されるのはあまり気分のいいものではないだろうが、彼にとっても僕にとっても良い機会だった。すでに閉まっているであろう障子の向こう側を思う。



「俺らにできるのはこんなもんでしょーよ。あとは翡翠くん次第だね。……こう、さ。一気にことをひっくり返せるようなヒーローみたいな人間が現れてくれれば、ことは早いだろうね」



凝り固まった価値観とか、本人も気が付いてない傾向を全部ひっくるめて取っ替えてくれるような、さ。



彼のヒーローという言葉で俄かに桃色の彼女が思い浮かんだが、彼女はヒロインだし、厄を運んでくる可能性もあるのだと振り払った。


奥の方から二つ分の足音が聞こえ、瀬川さんと二人して顔を見合わせる。話が終わったらしいお互いの主人を出迎えるべく、縁側から重い腰を上げた。


放り出された片方の下駄が、うっすらと空の茜色に染まっていた。

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