狂わせたのは
知らず目を細めた。もし彼女がほんの出来心で、一瞬の気の迷いでカッターを出したというのであれば、この流れる血に慄き震える、そう思ってわざわざ丁寧にも切られたが、彼女に戸惑いや人を傷つけたことへの恐怖心はなくたが苛立たし気に僕を見ていた。
残念だ、救いのない、と心にもないことを口の中で呟いた。
「……何の、つもりで?」
「っそれは私のセリフよっ!!何であんたがここにいるの!?」
「そりゃあ、君が僕の主人に刃を向けたから、ですよ」
何もしなければ、現れなかったと続ければ赤くなっていた顔がさらに憤怒で朱が走る。おお、怖い怖いと思ってもないことを嘯いてみせた。
懲りずに再び振り上げられたカッターに背後の気配が大きく動くが気にすることもなく掌で叩いてやると、本来文房具であるそれはあっけなく折れ乾いた音を立てて地面に転がった。すでに柄だけになったカッターを振り上げたまま固まる女子生徒はひどく滑稽だった。
「ばっ、化け物っ!!」
「鏡を見てみると良いですよお嬢さん。山姥のごとき鬼の面が映るでしょうから」
それに化け物だなんて呼ばれるほど大層なことはしてませんね、とからから笑い軽く足払いをかけてやればステンと転ぶ女子生徒を上から見下げた。遠慮なく片足を鳩尾に乗せ押さえつけると、四肢を必死に動かし逃れようとする。まるで標本にされるのを嫌がる昆虫のようだ。
「蓮様、怪我は?」
「俺はないっそんなことよりお前の頬がっ……!」
半ば叫ぶように言ってから僕に近づくが、『そんなこと』で済まされては敵わない。彼の白い首は女子生徒の手の形に赤くなっていた。ほぼ無意識に鳩尾においた足に力がこもり、足の下でうめき声が聞こえた。
「これくらい軽傷です。数日もすれば治りますから。……むしろあなたの喉は大丈夫ですか?赤くなってますけど、違和感とか痛みとかはありませんか?」
「だから俺は大丈夫だって!!それに涼、軽傷ったって顔に傷なんか……!」
「今更そんなこと気にしませんよ。……それより、今はこの女の子ですね」
足の下で相も変わらずもがき続ける彼女に視線を送ると一瞬怯むが、すぐにこちらをキッと睨み上げてきた。
「何なのっ……何なのよあんたっ!!」
「赤霧涼です」
「いっつも、いつも蓮くんの付きまとって……迷惑とか考えたことないのっ!?」
「……気安く彼の名前を呼ばないでもらえますか?」
ぐっと踵に体重を乗せるとうめき声をあげる。本当は蹴ってしまいたいが、万が一にも痣になってしまうと少々面倒なことになるので舌打ちするにとどめた。
「迷惑云々の前に、仕事ですから。……あなたのようなゴミを掃除する」
「っ大体気持ち悪いのよ、女のくせにそんな格好して、しかもほかの女まで誑かして……!」
「黙れ」
「っ……!」
背中から僕を越えて踏みつけられている彼女へと言葉が投げられる。先ほどまでどこかオドオドとして戸惑っていた気配が失せてピリピリとした空気に包まれる。
「……涼のことを何も知らねえ奴が、涼を馬鹿にするな」
「な、なんでっ……何でこんな男女なんかに構うのっ!?私の方がずっと女らしくて、蓮くんの側に相応しいのに!」
呆然自失としながらもなおも追い縋ろうとする女子生徒にいっそ憐れみすら覚えた。蓮様が怒っている理由がわからない、ということとそもそも蓮様がこうも怒りを露わにしていることに慄いているのだ。そして慄きつつも苛立っている。自分の知っている白樺蓮ではないことに。自分の望む白樺蓮ではないことに。
「相応しい……?勘違いも大概にしておけ。俺がそばに置いておきたいと思うのは涼だけだ」
思わず顔を背けて唇をかんだ。
そうでもしなければ口元が緩んでしまう。単純に、ただひたすら単純にうれしかった。かつて一度は僕を御側付から解こうとしていた彼が、堂々と自身のことを認めてくれているのが、心の底から嬉しかった。まるでここにいて良いと言われているようで。場違いだと思いながらも喜びが込み上げた。
「あっは、あはははははっははは、………じゃあ、もう良いや、もう……」
突然笑い出した彼女は、またも突然静かに呟いた。5時間目開始のチャイムが響くとあたりは静寂に包まれる。
「そんな蓮くんなんていらない」
「んなっ!!」
ぐっと腹筋に力が入れられ、踏みつけていた足を取り払われる。寸の間バランスを崩すが、蓮様に近づかれないように彼のすぐ目の前に立つ。彼女はふらつきながらもこちらを、いや僕越しに蓮様を見た。
「私を見てくれない蓮くんならやっぱりいらないよね。いつまでもその女に騙され続けてもう私のことも信じられなくなって。あれだけ私のこと好きだって言ってくれたでしょ?ねえ。私と手をつないでくれたでしょ?忘れたの?思い出せないの?それならもう全部一からやりなおそ、そうしよ。一回死んで、やり直すの。それでもう一回私と会って誰にも、その女にも邪魔されないところに行くの……、」
焦点が合わない目。ふらつく身体。それでも意識はしっかり蓮様に固定され、不気味なほど饒舌に舌が回っている。ちらりと後ろの蓮様を見れば眉を顰めていた。一応の確認のため、彼女の言うことが身に覚えがあるかと聞くと小声で、あるわけないだろ、と怒鳴られた。
「狂ってる……」
「……でしょうね。現実と妄想の区別もついていないんでしょう」
小声で会話を交わしている間にも彼女はひたすらぶつぶつと呟き続けている。先ほどよりも声量は落ちているが早口になっており、より悪化したような聞くに堪えない妄想を垂れ流している。誰がどう見ても正気ではない。
いったい何が彼女をここまで狂わせたのか、理解ができない。以前自分に迫ってきた女の子など、彼女に比べれば全く可愛いものだ。
しばらくぶつぶつと呟いていたが、その呪詛のような言葉にはとても終わりが見えない。いつまでも有害な情報を垂れ流すラジオを放置するわけにもいかず、隙を見て自分のネクタイで彼女の両手を拘束する。彼女はほとんど抵抗することなく捕縛された。もはや彼女の両目は僕など映しておらず蓮様だけを見つめていた。
両手を拘束するだけで抵抗される心配がないのならこれだけでいいが、正直僕や蓮様の精神的安全のために猿ぐつわと目隠しがほしかった。だがしかしそこまですると正当防衛が言い張れる気がせず、両手を縛り凶器であるカッターを押収し簡単な身体検査をするだけにとどめた。彼女が持っていた凶器はカッター、それ一つだけであった。
******
とりあえず拘束はしたが、やはり校内で起きたことなので校内で処理すべきと判断し、三人で職員室へ向かうことにした。
職員室に入れば、5時間目の授業中という微妙な時間であったため、授業を持っていない教師が多くいてみごとにてんやわんやとなった。簡単にことのあらましを先生方に伝えると、女子生徒の担任らしき教師が顔を真っ青にしていた。あれよあれよという間に被害者と加害者は別々の部屋に連れていかれた。しかもこの別室での聴取では今までほぼ無抵抗であった女子生徒が、蓮様と離れるとわかるや否や全力で抵抗をし始め、一悶着あった。結局彼女は何かわからない、言葉にならない叫びを口から流しながら数人の先生に取り押さえられつつ連れていかれた。
「赤霧……それ、切られたのか?」
当初は僕も蓮様とともに話を聞かれる予定であったが、いつもおちゃらけている藤本教諭の珍しい真剣な質問により、保健室コースが確定した。
「いえ、別に。皮一枚切られただけですからすぐ直りますよ。痛くもありませんし」
「だめだ。お前からの話は白樺と同じ内容だろ。お前はとにかく保健室行って来い」
大きなかさついた手で頬と撫でられ親指がグッと頬骨のあたりをなぞった。ピリリとした痛みに何なんだと顔を顰めると、教諭の親指にはまだ固まっていない赤が付着しており、そこでやっと思ったよりも出血していることに気が付いた。慌てて制服のシャツに血が付いていないか確認すると、服よりも傷の心配をしろと、いつもよりかなり加減された手つきで頭を小突かれた。それがひどくむず痒かった。
「良いか、必ず保健室に行けよ。放置すると悪化するかもしんねえ。一応こんななりでも女なんだから顔に傷がつくようなことは避けろ」
「そんなに言わなくとも行ってきますよ。それに、女云々の前にすでに傷だらけですから、時すでに遅しというものですよ」
軽口を叩いてこれ以上しつこく念押しされる前に、と職員室から出て一階の保健室へと向かった。
******
人っ子一人いない廊下を歩き保健室の前まで来て立ち止まる。ドアにかけられたプレートには「外出中」の文字。先ほど校医は職員室にはいなかったが、いったい彼女はどこへ行ったというのであろうか。どうしようと思案して、一応ドアに手を掛けると予想外なことに鍵は開いていた。しかも開けたドアからは室内の冷気が漏れ出す。外出しているのに鍵もかけずクーラーも付けたまま。どういうことだろうと思いながらも勝手に入らせてもらう。つんとした消毒液の匂いに眉をあげた。
ふと、思い出した。
中学一年の時、図書室で鼻を掠めた匂いはこれだ。鼻を通るようなスッとした匂い。なぜ図書室であの匂いを僕は感じたのだろうか。消毒液とは無縁の場所であるにも関わらず。
首を傾げつつも、頬を垂れる血に我に返り利用者名簿に簡単に記入事項を書き入れて勝手に棚を漁らせてもらう。校医がいなくともこのくらいの手当てなら自分で済ませられるだろう。
棚から消毒液とガーゼ、テープなどを引っ張り出す。壁につけられた鏡を見ると、流れる血をそのままにしていたせいで顔の半分が真っ赤に染まっていて、B級ホラーのようになっていた。適当に流れた血を濡れたタオルでふき取ると頬骨から顎のあたりまでスパッと切れてしまっている。どうやら錯乱していた彼女はずいぶんと思い切りが良かったらしい。カッターで切り付けたにしてはきれいな傷である。しかしながら、先ほどまでは大して痛くもなかったが、いざ傷を見てしまうと途端に痛いような気がしてしまい困る。
恐る恐る消毒液に浸したガーゼを傷口に持っていくと、突然後ろのベッドのカーテンがシャッとあけられたのが鏡越しに見えた。驚き勢い余ってガーゼを思いっきり傷口に押し当ててしまう。
「いっ……!」
「……何してんだ、涼」
悶絶する僕に呆れた視線を送るのは、ベッドで寝ていたらしい、髪の乱れた翡翠だった。




