飛べ
「……あれ?白樺くんは?」
あの小事件から数日。暑さが増してきた昼休み。5時間目の理科のために化学室に移動しようと皆パラパラと席を立ち始め一様に廊下を歩く中、日和がきょろきょろと見渡した。
「ん……蓮は、なんか……呼び出しされてたみたい、で。……さっき中庭に行くって、言ってた」
「……それ、僕聞いてないんですけど」
先の昼休みに徐に教室を出ていった蓮様。てっきりお手洗いかと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。……何も逐一僕に報告しろとは言わないが、守る側からするとなかなかやめていただきたい。それに僕には言わず黒海に言っているのも釈然としない。
「……黒海に言うなら僕に言ってくれたっていいでしょう」
「いやいやいや涼ちゃん。涼ちゃんだから白樺くん言わなかったんじゃないの?」
僕の低いつぶやきに二人が苦笑いするが、真意が読めない。
「なぜ僕だとダメなんですか?」
「ま、フクザツな男心って、奴だ……。それに、たぶんすぐ戻ってくる。……次の授業の荷物も、全部持ったまま、出ていったからな。授業が、始まる前には、教室に来るだろ……」
そう笑って僕の背中をバシバシと叩く黒海とその隣でにやにやとだらしなく口元を緩ませる日和に唇を尖らせた。黒海ならばともかく日和までもが訳知り顔というのはいったいどういうことだろうか。
わけがわからないが仕方なく三人で化学室へと向かう。
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「……!あれって、蓮、だろ?」
「ああ!本当だ、白樺くんだねえ。……対峙してるのは女の子、顔はよく見えないや。……ねえ涼ちゃんどう思う!?」
「どう、とは?」
三階の窓からは青々とした中庭が見える。一面緑と言っていいような風景の中で、日光に当たりそれを反射させる蓮様はとても目立ち、目を引いた。呼び出し、中庭、男女の高校生……まあつまりはそういうことなのだろう。
「どう見てもあれは告白でしょ!?……もし白樺くんが付き合うことになっちゃったらどうするの!?」
「いや、どうするのって……。普通に考えてどうしようもないでしょう。蓮様が付き合いたいと思うのであれば、その意思を最優先しますし。……まあ強いてあげるのであれば、僕が守る対象が増えてしまい面倒、というくらいですよ」
「……!てっきり涼は、告白現場なんて、見たら……全力で邪魔しに行くものかと……!」
「黒海は僕を何だと思ってるんですか?」
もっとも、蓮様に対峙しているのが桃宮であれば、このように悠長に言うことなどできない。間違いなく攫いに行く。向かい合っている女の子は黒髪でスカートの丈も校則通り、いかにも真面目そうな風体である。主人が付き合いたいというならどの相手であろうと止めないが、おつむの弱そうな女の子であればきっと眉間にしわを寄せただろう。
「でもな……やっぱ彼女とか、できたら……あんまり俺らと、いられなく、なりそうだな……」
話が聞こえないだろうかと窓の桟に身を乗り出してつまらなそうに言う黒海に日和が賛同する。
「そうそう!今までは涼ちゃんにべったりだったけど、彼女ができたらそっちにべったりになっちゃうんだ!」
「……それは、寂しいですね」
「「!!」」
窓の外にくぎ付けだった二人が突然僕の方にぐるんと顔を向ける。まるで示し合わせたかのようなタイミングとその勢いに一瞬たじろいだ。しかも二人して何やら期待するようなまなざしの上に口の端が微妙に上がっていて絶妙に気色悪い。
「な、なんですか?急に」
「いやいやいや……だって、なあ?」
「だって、ねえ?」
クスクスと笑いだす二人に胡乱な視線を送るもどこ吹く風。どうにも今日の昼休みは疎外感を感じてばかりのような気がする。グダグダとしている間も、階下では話が進んでいく。
黒海は顔は見えないと言ったが、僕にはしっかりと表情まで見えていた。顔を赤くしながら何やら一生懸命話している。見る限り蓮様はひたすら聞いているだけのようだ。彼女を見て数日前のアグレッシブな少女を思い出し苦みを覚えた。
「……ま、大丈夫ですよ。何にも変わりはしません」
蓮様はあの子と付き合ったりはしませんよ、という言葉は流石に飲み込んだ。余計なことを言って、また日和につつかれては敵わない。
「でもさ、もしかしたら変わるかもよ?」
「……そうなれば、子離れだと思って諦めますよ」
そう顔を見ることなく返せば日和と黒海そろって呆れたような顔でため息を吐く。そして二人でこそこそと話しては僕の方へどことなく恨みがましそうな視線を送った。何がいけなかったのかはわからないが、僕の返事が気に入らなかったことは理解でき、思わず舌打ちしそうになるのを必死に止める。今日のこの二人はいったい何なのだ。
二人を視界から追い出すように窓の外へと目を向けると、何やら雰囲気が先ほどと違う。
少女の声は先ほどより格段に大きくなりトーンも上がっている。顔が真っ赤なのは変わらないが何故か愛らしいという印象を受けずなんとなくしわを寄せた。
そこでやっと気づいたらしい二人も窓から身を乗り出し、中庭に立つ二人を見下ろした。
「……不穏な雰囲気、だな。口論……ってわけじゃ、なさそうだ」
「ええ、口論というよりもひたすら彼女がどなっているだけのように見えます」
傍観している間にも彼女の声は大きくなり、話している内容も聞き取れるようになってくる。キンキンとした金切り声が耳に痛い。
「……告白した、振られた。からの逆上って感じだね」
恋する女の子は怖いねーと笑う日和だが、どうにも僕には笑えなかった。
離れてみていても感じる。彼女は異常だ。
徐々にあったはずの距離を詰めていく彼女がついに蓮様の腕をつかんだ。
「おいおい……これ、流石にまずいんじゃ」
強く捕まれたらしく蓮様が顔を顰めてその手を軽く、おそらく軽く振り払った。だがその行為になおさら彼女は逆上する。
このままではまずい。彼にはよほどのことがない限り女性に手を挙げてはいけないと教え込まれている。武道をやっているが故の彼の手加減は今この状況において最善とはとても言えない。
嫌な予感が胸にせりあがってくる。
「なんで――――、のに――っ!!」
何やら彼女が叫んでいるのが聞こえる。一挙一動見逃さぬように彼女のすべてに気を配った。そして彼女はスカートのポケットに手を突っ込み、そこから細身の棒のようなものを取り出した。
蓮様の顔は驚愕に染まり、女子生徒は嬉しそうに口角をあげてみせた。
「……!あれ、なんだ?何を、出した……!?」
「日和、僕の教科書とノートお願いします。先に化学室に行っていて構いません。先生には適当に話しておいてください」
「え、ちょ、涼ちゃんは!?」
戸惑う日和に持っていた用具をすべて押し付け、窓枠に足を掛けた。
「それじゃ、行ってきます」
「はっ、涼ちゃんっここ三階っ……!」
「涼っ!?」
ぐっと桟を蹴ると同時に二人の声が僕の身体の後を追うが一瞬で遠くなる。ふわっとする浮遊感に酔いつつ両足で中庭に着地する。足を痛めるかとも思ったが膝をうまく使えたらしく、痛みもしびれもない。それだけ確認したのち二人がいる場所までダッシュする。生い茂った木の中から飛び出すとカッターを片手で振り上げた女子生徒が見え、途中まで冷静だったはずなのに一気に全身の血が沸騰するような感覚に陥った。
ぐわりと腹の底から現れる何かのままにそちらへ走り出す。彼女の左手は蓮様の白い喉を締め、右手は軽薄なカッターを振り上げる。
無論、間に合わないわけもなく、二人の間に身体を滑り込ませた。
ザッ、という音ともに振り下ろされた薄い刃は私の頬に赤い線を一筋引いた。
「えっ……!?」
「っ涼!!」
前後からの驚愕の声が上がりニィと笑って見せた。後ろでは次いで咳き込むような声が聞こえる。
ついっと顎を伝った血は一滴だけ地面を汚す。
僕の頬を切った張本人に無感動を装い目をやれば、ひどく憎々しげにこちらを睨んでいた。




