傘の中の世界
しぶしぶといった風体をあまり隠す気にもなれず、雨の中へと歩き出す。強くなった雨が制服に濃い染みを付けていく。
「涼くん、ありがとう。助かっちゃった。こんなに雨強くなるとは思わなくて……」
「……台風が近づいてきてますから。対策をしていないようなら早く準備した方が良いですよ」
結局あれから良い打開策は見つからず、僕の傘に桃宮を入れて帰寮することになってしまった。所謂相合傘というものである。
まるでヒロインの手の中で踊らされているようで腹の奥底では静かに怒りが煮え立っている。放置してもよかった。だが僕の性格上それは不可能だった。そこまで見透かされているようでなおさら苛立つ。
以前読んだ本の、傘の中は一つの世界であるという一節をよりにもよって今思い出し苦虫を噛み潰す。傘の中が一つの世界というのはわからないこともない。多少なりとも共感できる。しかしこの傘の中の世界に僕ともう一人彼女がいるということに納得がいかない。納得も何も理不尽であるというのは重々承知だ。
「……その、私と相合傘するの、迷惑じゃなかった?もしほかの人に何か言われたら……、」
気遣うようにこちらをチラチラと視線を寄こす彼女に奥歯をぎりりと噛んだ。表情は変わっていない自信があるが、今間違いなく僕の額には青筋が浮いているだろう。
なんなんだこいつは。心底不愉快だから僕は一度たりとも相合傘なんて浮ついた言葉を口に出さなかったんだよ。迷惑も何も外堀全部埋め尽くした状態でほかに選択肢が用意されてなかっただろ。他の人に何か言われたら?少なくとも彼女が懸念するようなことは決して言われはしない。僕たちは同性なのだから無意味に下世話な方向に結び付ける物好きがそういるとは到底思えない。
気遣うような、遠慮するような『フリ』にまたイラつく。もっともそれが彼女の本心なのか、それともフリなのか僕にはわからない。ただ僕にはフリに感じられて神経を逆なでされる気分だった。
本当に嫌だ、彼女は。
彼女自身を警戒し、不快に思うと同時に、僕は毎回罪悪感に苛まれる。頭では危険を排除するためと割り切っているが、どうにも良心が追い付かない。
「……僕は別に構いませんよ。どうでもいいです。……他人に何か言われても困ることはありません」
言われたら、の話だが。その言葉は流石に飲み込んだ。
「僕よりも、貴方の方が困るんじゃないんですか?」
「えっ、私?」
そう聞くと白い頬を桃色に染める。
ああ、だめだ。生理現象であると一応理解していてもそれすら不快に思える。彼女が何をしてもきっと僕は気に食わないのだろう。
「わ、私は別に……、」
ぼそぼそと気にしないだのなんぞか言葉を紡ぐが雨のせいであまり聞こえない。私の聴覚を活用すればクリアに聞こえるのだろうが、そこまで彼女が何か重要なことを言っているようには思えなかったため、ただ言わせて独り言として処理しておく。
「貴方が、困るんじゃないんですか?……良い仲の生徒たちがいると、耳にしたことがありますが」
そこまで言って彼女の顔が硬直する。なんとなく頭の中に夏目漱石の『こころ』を思い出した。今彼女は魔法で鉄か何かに変えられてしまった気分なのだろうか。頬の赤さはさっと引いた。
「彼らの耳に入れば、困るでしょう?」
顔には出すことなく、内心でニイと三日月に口を歪めてみせる。隠さなければさぞ意地の悪い表情をさらしていただろう。見られれば沽券に係わる。
さあ彼女はいったい僕になんと返すのだろうか。きっとゲームのキャラクターならこんな無粋なことは聞いたりしない。だが生憎と僕はゲームのキャラクターなどではない。ただ彼女が勘違いしているだけだ。なんて答えを聞かせてくれるだろう。ゲームならきっと逆ハーレムをつくってもみんなチヤホヤしてくれるだろう。だがここは現実だ。一人一人が生きて意思を持つ。普通の感覚を持つ者からすれば、数股掛ける阿婆擦れにしか見えない。たとえ彼女ほど可愛く、性格が良いと言われていても、だ。それほど歪なものを作ろうとしていることに早く気が付けばいい。
「ち、違うよっ!みんなはただの友達で……か、会長は生徒会のお手伝いさせてもらってるだけの先輩だしっ、」
「誰、とも言いませんでしたが。……心あたりがずいぶんと、あるようで」
クスクスと笑ってみせると、彼女は本当に小さくひゅっと息を吸い込んだ。一挙一動に目を光らせていた僕にもその音はしっかりと聞こえ、桃色に染めていたはずの頬が青白くなるさまをじっくりと観察していた。みんな、というのはいったい誰のことを指すのか想像はできても特定はできないが、僕の言う聞かれては困る「彼ら」のうちに少なくとも黄師原は含まれているらしい。抑え気味ではあるが笑いが止まらない。ほら、身内の前以外で僕がこんなに笑うなんて珍しい、本心からの笑いだ。攻略しようとしているなら本心が垣間見れたことに喜べば良い。もっとも、何について笑われているか、笑い声が内包するものに気づいているから、彼女は何も言えず顔を青くしているのだろうけど。
苛立ちはある程度霧散した。全く愉快なものを見ることができなかなか満足した。適当なところで笑いを押し込め、外面の良い優等生の笑顔を浮かべて見せた。彼女には今まで一度たりとも向けていない、綺麗な顔だ。
「……なんて、ね。冗談ですよ。ただまあ貴方はとても魅力的な人ですから、騒ぎ立てるような人もいるかもしれません。もし何かあったら僕に言ってくれればこの件については対処しますよ。そもそも一応傘に入るように誘ったのは僕ですから」
突如として機嫌よく饒舌にしゃべりだす僕にしばらく桃宮はあっけにとられていたが、すぐに僕に合わせたかのごとく笑って見せた。相変わらず整った顔だ。顔色も多少良くなり若干青さが抜ける。もっとも口元が引き攣っているのが隠しきれていないことに目聡く気づく僕にはその笑顔さえも愉快の種でしかない。
「び、びっくりしたぁ……その、先輩とか他の男の子たちと仲が良いからって色々杏ちゃんから聞かれたりするから、つい反応しちゃって」
「それはそれは。何にせよ、妙なことを聞いてしまってすいません」
一応和やかな雰囲気を取り繕ってみる。彼女の住む寮、B棟までもうそう距離はない。これならこれ以上僕を不快にさせる要素はきっとないだろう。先ほどの問いはそれに対する牽制でもあった。これを機に是非引いてほしい。逆ハーレムなんて奇妙なものを目指さないで普通の女の子のように誰か一人を好きになるような平和な恋でもしていればいい。
だが彼女は強かった。
「あ、ねえ涼くん。知ってる?同じ傘の中で話をしてるとお互いの声が魅力的に聞こえるんだって」
微かに浮かべていた笑みが引き攣るのを感じる。先ほどの僕の言葉は冗談として受け取ったらしい。よく言えばポジティブ、悪く言えば厚顔。少なくとも僕は後者の方が先に頭に浮かんだ。彼女は飽く迄もストーリーらしく進めたいらしい。イレギュラーにもめげなかった。
「……私の声、どんな風に聞こえる?」
持っていた傘の柄がミシリと悲鳴を上げる。身長差のせいで自然上目づかいになる彼女はきっとどんな男だって赤面してしまうほど可憐だ。だが僕は男ではないため額に青筋を浮かせる材料にしか成り得なかった。
「……さあ?着きましたよ。……それから、台風の対策は急いだ方が良いです」
「え、ちょ、まっ、ありがとうっ!」
寮の前まで来て無理やりエントランスに彼女を押し込み、至極適当に彼女の問いに返事をする。振り向くことなくさっさと僕も寮に向かった。先ほどまで腹を抱えて笑いたかった気分はすでに失われている。彼女は僕を苛立たせる天才であるようだった。最後のあの質問さえなければもう少し印象を回復できただろうに。もっともあれがなければ乙女ゲーム的要素は状況だけなのだろうが。雨に濡れた右肩が冷たい。ほぼ無意識に彼女が濡れないよう傘を傾けていたらしい。刷り込みのごとく人に気を遣う自分にため息が出る。癖だとわかっているがほとんど誰彼構わず発揮されるようで我ながら鬱陶しい。あるに越したことはないのだが。
結局僕は彼女に性別について言わなかった。今回の話の流れからして、間違いなく彼女は僕の性別を勘違いしている。だが言う気にはなれなかった。もし僕が性別を教えたとしたら、彼女はどうするだろうか。少なくとも何らかの不信感を抱くだろう。最悪攻略対象を僕から翡翠に変えるかもしれない。それは、それは困るんだ。翡翠は僕の大事な兄である。彼女が完全に逆ハーレムを狙っているとわかった以上、身代わりのように今更彼にバトンタッチするような真似は決してできない。
一瞬僕が全力で彼女を攻略してほかの生徒を巻き込まないようにすることも考えたが、そうなればすぐに僕の性別は知れるしばれた後にどうしたら良いか全く想像がつかない。それに攻略しに彼女に接触しようとすれば蓮様も自然と彼女に近づくことになる。そうなれば本末転倒も良いところだ。
彼女に今回警告をしてみたつもりだが全く堪えてはいないようだった。何をするにしても、彼女が引いてさえくれればすべてが丸く収まるというのに。
風が轟と吹き、傘が軋む。
ああ、ひとまずは僕も寮の窓に台風用の雑巾を用意しなくては。きっとルームメイトの彼女は台風が来たらテンションが上がり、まともに話ができないだろうから。
雨水を吸い、重くなった靴が水たまりをパシャリと踏んだ。




