喉奥の小骨
流れていく景色が語る。やあ、戻ってきたのかい、と。
――君のいなかった時間は、こんなにも変化をもたらした。
――今更、なぜ君は戻って来れたんだ?
滑らかに肌に張り付く革に頬を預けながら、わたしは頭の中に割り込もうとする声を締め出そうと足掻いた。目の前を轟音と共に走り抜けていく古ぼけた電車でさえ、わたしをじっと見据えながら責めているようだ。
――大丈夫だなんて、どうして思える。
うるさい、と。気付いたらわたしは呟いていた。
◇
父はとても昔堅気な人だった。男尊女卑の亭主関白主義はもちろんのこと、彼は一人娘であるわたしにすら、「女の幸せは結婚しかない」と事あるごとに自説をこんこんと語った。
例えば、小学校の授業参観で誰よりも手を挙げた時に。
例えば、中学で学年一位の成績をとった時に。
男より目立っては駄目だろう。男に勝とうとしてどうするんだ。父はそんな風にわたしを詰っては、最後に必ず「だから男が欲しかったんだ」と吐き捨てるように言った。わたしはそのたび、家では絶対の父に言い返すことも出来ず、かといって涙を流せるほど素直でもなく、ただ俯いて床を一度殴っていた。
なら、もう一人つくればよかったんだ。
思ったことが、なかった訳ではない。けれど、一度わたしがぽそりとそう言ったのを聞いた母が、蒼ざめながら微笑むのを見てしまってから、わたしにはその一言が言えなくなった。そう言ったところで、それは父ではなく、身体が弱く二人目を望めなかった母を傷つけることになる。そしてそんな母だけが、気掛かりだったのだけれど。
いつ頃からだろうか、わたしは漠然と、家を出ることを考え始めていた。
それを実行に移したのは、大学への進学を控えた春だった。わたしは両親になにも告げずに、家を出た。住所はもちろん進学先さえ話さず、入学金やその他の学費もなんとか奨学金で賄い、生計を立てるためバイトを探し、セキュリティーもなにもないボロアパートを根城にした。
すべてが自由で、新しかった。
男と対等に渡り歩いても文句ひとつ言われず、むしろ周囲はそれを褒めてくれる。充実している、と心から言えた。わたしは合っているんだと、そう思っていた。
だから、まるで喉の奥に引っ掛かる魚の小骨のような、わずかな違和感の正体を言い当てられた時、わたしは怒り狂うことになる。
――君は、でもまだ足りないって顔してるじゃないか。なんでか分かる? 結局君は、やっぱり父親に褒めてほしいんだよ。
社会に出て、もう何年も経っていた。それなりに上手く成功し、社会的な地位も上がった。それでもまだ貪欲に先へ進もうとするわたしに、わたしを口説くか口説かないかの絶妙なスタンスを保っていた男が、言葉巧みにわたしの昔話を誘い出して、唐突にそう切り出した。
――君はいつか、父親が自分を認めてくれるのを待ってる。自分を探して、よく頑張ったって言ってくれるのを待ってるんだ。
――ねえ、君はそれを何年待った? もう待つだけでは何も変わらないことは、分かってるんじゃないのか?
わたしはその時、男にこう吐き捨てた。あなたみたいな男が、一番嫌い、と。
◇
うるさい、と呟いたわたしに、左側から「大丈夫?」と声が掛かった。ハンドルを握る男が、目の前を見据えながらも、意識をこちらに傾けてくれている。
「緊張してるんだろ?」
わたしを心配する時、彼はいつも少しだけおどけてみせる。わたしが笑えるように、武器を携えられるように。だからわたしも、いつの間にか聞こえなくなった声を遮るように、大丈夫と微笑んで応えてみせるのだ。
大嫌いな男は、いつの間にか最も愛しい男に変わっていた。小骨を取り去る努力を惜しまない、面倒なばかりの女を構い倒した男に遂に結婚にまで持ち込まれ、わたしは今に至る。
――会いに行こう。
言い出したのは彼だった。どうやら住所まで調べておいたらしい。
――小骨を取りに行こう。
そう言った時の彼の満面の笑みは、わたしの一番好きな表情だった。
彼と両親が、実は今日で三度目の対面だとわたしが知るのは、それから何時間か後の話である。
はい、ちゃんとお膳立てをして彼女を連れていった用意周到な男のお話でした。
作者のイメージとしては溺愛系まっしぐらですので、彼女を更に傷つけそうな両親だったら彼は会いに行かせないんだと思います。
二回も面会して「よし、これなら彼女は泣いて喜ぶだろう」(ついでに素直に彼に「ありがとう、愛してるわ♡」くらい言ってくれるかも…)と判断したなかなか策略家な彼。
ちなみに両親はそれはもう出来る男な彼を、既に信用して信頼すらしています。
きっと結婚してからも、そつなく孫とか見せに行くんだろーねー。
うーむ。
他連載のへたれんちょに見習わせたい、行動派な彼ですな(ちなみに誰とは言いません)。