数学研究会
数学を愛するすべての方へ。
数学を好きになりたいすべての方へ。
数学が苦手なすべての方へ。
美しく神秘的な数学の世界を、少しでも感じていただければ幸いです。
数学が好きだ。
そう言うと、大抵の人間は驚く。驚いて聞く。「本当に?」と。
逆に僕は聞き返す。「嫌いなの?」と。
そう言うと、大抵の人間はすぐにうなずく。うなずいて言う。「もちろん」と。
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「起きろ!」
そんな声と共に、丸めたテキストが僕の頭で、パコンといい音を立てた。……痛い。
起きろということは、僕は寝ていたのか。僕は目をしばたかせ、机に突っ伏したまま腕時計を見る。
朝の8時20分。高校に入学してからの長い付き合いの割に、デジタル時計にはまだ傷1つ付いていない。
心地よい眠りを中断された僕は、思わずまた眠りの渦に巻き込まれそうになる。
「昨日は何時まで起きてた!」
「あー……いや、寝てないです」
しっかり敬語だったはずなのに、僕の答えに教室は爆笑の渦に包まれる。びっくりして顔を上げると、みんな僕を見て爆笑していた。
「え?」
「ほら、騙された! モノマネの篠塚をナメんなよ!」
「…………」
僕は頭を2、3度振って目を覚ます。眠っていた脳細胞が活動を始めた。
ここは教室。今はHR前。窓の外に見えるのは、花がところどころの枝にしがみついている程度の桜の木。朝まで本を読んでいた僕は、クラスのムードメーカー・篠塚にテキストで叩かれて――。
「篠塚ー!」
「そんなに怒るなって!」
僕は笑いながら立ち上がり、篠塚を追いかけた。丁度いい眠気覚ましだ。
走りながら、学ランのボタンをいくつか開ける。校則違反だけど、構うもんか。
坊主頭からわかるが、篠塚は野球部のピッチャーだ。
そして僕は、数学が好きで仕方ない、いわゆる帰宅部。
――足で勝てる確率は0に限りなく近い。近似値。『≒0』とでも表すか……。
しばらくして、勝てるはずもない鬼ごっこは5分ほどで終わりを告げた。鳴り響くチャイム。なんとなく漂う残念そうな空気。
僕は再び学ランをきっちり着込み、机に置いておいたメガネをかける……篠塚のテキストが置きっぱなしだ。
「篠塚ー……」
本人に返そうと振り向いた僕に、まっすぐに飛んでくるガムテープボール。大きさは野球ボールくらいだろうか。どちらにしても大した速度ではなかったから、軽くかわす。
「きゃっ!?」
僕がかわしたボールはドアの外に飛んでいき、可愛らしい声を発して床に落ちた。……いや、そんなわけがあるか。声を発したのはボールじゃなくて――女子だ。
「2年5組って、ここですか?」
セミロングの髪。大きな目。小柄な身体を白と紺のセーラー服に包んでいる。
……そのとき僕は、いや僕たち全員が、パニックに陥っていた。
僕たちが今いるここK高は、コアSSH指定校であると同時に、男子校だ。当然クラスには、学年には、学校には、男子しかいい。
「君……。いや、あの、あなたは?」
「あ、わたし杏里っていいます」
綺麗に結ばれた紺色のタイが、艶やかに光っている。上向きのまつげと、ピンク色の唇が『女の子』を感じさせる。テレビでよく見るアイドルに、どことなく似てる気もする。
おーい、杏里くん。そう言いながら、森川先生が机と椅子を抱えてやってきた。
「あ、ここですよね? 2年5組って」
「そうそう。……あ、きみ」
「はい?」
森川先生は、僕らの担任だ。変わった先生が多いK高で、また一段と変わった先生で、僕の所属する数学研究会の顧問だったりする。
ニコニコする杏里と僕を見比べたあと、先生は僕の耳元に口を寄せて言った。
「杏里くん、きみとこれから長い付き合いになるかも」
「は?」
聞き返すも、答えは与えられなかった。にっこりと微笑む杏里さんに、僕は曖昧に微笑み返してから教室に入る。
「転校生を紹介します。N県の同じくSSH指定校から来た、杏里くん」
「杏里です。よろしくお願いします」
「みなさんも知っている通り、ここは男子校です」
森川先生がいつになく真剣な顔で言うから、僕らも思わず真剣な表情になって聞いた。
「しかし彼女は家の方の都合で転勤になったとはいえ、どうしてもSSH指定校で学びたいという希望で、特別に編入しました。
K高の編入試験は、知っていると思うが簡単じゃありません」
またものすごい理由だ。SSH指定校でなければいけない理由でもあるんだろうか。そう思いながら、1番前の席の僕は杏里さんを見た。
「彼女がSSH指定校で学ぶことを希望した理由は――」
と、そこで言葉を切る先生。「あなたが言うべきですね」と言わんばかりに、後ろへ一歩後退。
杏里さんが、ぺこりと礼をする。
「はじめまして。杏里です。好きなものは数学です」
ハキハキとした、綺麗なよく通る声。アルトかソプラノか、微妙な高さだな。
……と、落ち着いて考えられたのは、その自己紹介からしばらく経ってから。僕はそれより前に、彼女の発言が気になった。
『好きなものは数学です』
数学が好き。『得意』じゃなくて『好き』。僕以外に、こんな子がいたのか。
「わたしがこの学校――SSH指定校のK高に来た理由は、数学研究会に入って、もっと数学を学びたいからです。
1人だけ女子っていうのは、みんなも落ち着かないかもしれないけど、仲良くしてください」
そこで再びぺこり。彼女が顔を上げたとき、目が合った。慌ててそらそうとしたけど遅い。まぶしいほどの笑顔が向けられる。
そうか。僕はようやく合点がいった。SSH――スーパー・サイエンス・ハイスクール。科学技術、理科、数学教育に重点を置いたカリキュラム開発を推進しているため、数学を深く学ぶ環境としては申し分ない。
しかし。僕はさらに考える。残念なことに、現在SS数学研究会の部員は僕1人だ。5人以上いたらしい3年生の先輩たちは、この春卒業してしまったから、僕は入れ替わりに数研に入ったことになる。
「女子1人だけで、何かと困ることもあるだろうから、みんなで助けてあげてください。
……あ、ちなみに数研の顧問は、私ですので」
「そうなんですか! よろしくお願いします」
「前の彼も数研ですからね。色々と話を聞くといいですよ」
「数研仲間だね。よろしく」
あちゃあ。僕は頭を抱えたくなった。
森川先生も、とんだ爆弾を投げてくれたもんだ。
目の前には、杏里さんの綺麗な笑顔。
背中には、クラスメートたちの嫉妬と好奇の目。
……HR終了の、チャイムが鳴った。
ちょっと使いづらかったので、他の投稿サイトで連載することに決めました。
小説投稿サイト「アットノベルス」にて、「数学」で検索していただくとヒットします。
タイトルは「恋する数学者」