第1話 招かれざるお客
「いらっしゃいませ」
ふわりと笑ってカウンター越しにお客へ声をかけるのは、緩く三つ編みに編まれた、透けた水色の長い髪がチャームポイントの少女、このノワーヌの主人だ。
ただし、この少女が実は“幽霊”――な事実はこの界隈では暗黙の了解とされている。
だから本当は“少女”ではないのかもしれないが。彼女の生前を知る者は町にはおらず、いつから住み着いたのか知る者もいないので、流れものの多い傭兵達も町の人々も14、5歳の外見から自然と“少女”として扱っていた。彼女の方も否定せず、あるいは意味深に微笑みながら相手に合わせていた。
彼女の仕事はまず接客で、傭兵がカウンターまで来ると宿帳を広げ、ペンを持たせて促す。お客はまず名前と最低限の連絡先を書き、任意で伝えたいこと(例えば部屋の掃除や洗濯など)がある場合は右端の余白に記入する形式になっている。
書き終わるとざっと内容を確認して、一泊分の前金を支払ってもらうことになる。これは万が一支払いが滞った場合の保険の意味がある為、拒否するようなら残念ながら泊めることはできない。
それが済んだら、相手に部屋の鍵を手渡して。常連客ならある程度融通を利かせ、希望する部屋に通すこともよくあった。
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日もすっかり暮れて町を夕闇が包むのを窓辺から覗い、今日最後になる仕事を済ませるとユーリエは玄関の外へ出て『Crose』の札を扉に下げた。
中に戻ると、今度は扉と窓の戸締り、暖炉とランプの火の始末などを済ませてカウンター奥の部屋へ入った。
カウンターより奥の扉の向こうには簡単な事務をする為の小部屋があった。その小部屋よりさらに奥の扉を開けば小さな食卓と暖炉が、隅の階段を上がれば寝室と生活スペースが設けられている。
ユーリエはすぐには居住スペースへ戻らず、小部屋の中でふよふよ浮きながら日誌を書き始めた。
そう、彼女は幽霊であるものの普通の人のように文字を書くことができた。幽霊になっても生身の身体と変わらずペンを持ち日誌を広げることは苦ではなく、自然な行為であった。もっとも、無意識下ではすり抜けてしまうので、物に触れる時には集中する必要はあるのだが。
そんなわけで今日一日分の出来事を振り返りながら日誌を記入していると、コンコンとノック音が耳に届いた。聞き慣れたカウンターの向こう、玄関の扉からのものだった。
ノック音は、軽い音な癖に入り口とこの小部屋の扉が両方閉まっていても聞こえてくる。…嫌な予感がした。
コンコン。
正直なところユーリエはこの扉を叩く誰かに対して、居留守を使いたかった。
しかし、軽い拍子で一定の間隔を保って叩かれる扉は、このまま止むまで無視し続けるには忍耐力が必要だった。罪悪感の類は、相手に心当たりがあるだけに持ち合わせていなかったのだが。
仕方ない、と重い腰を上げてユーリエは玄関へ向かった。
扉を叩く主には何となく検討がついていた。
ノワーヌを夜に訪ねてくる者は少ないがいないわけではない。まず駆け込みの泊まり客も少なからず考えられるし、すぐ近くの酒場から戻ってきた客だ。もっともノック音以外に向こうからの声が一切聞こえないことからその可能性は低い。また、その軽い叩き方から急ぎや緊急を知らせるものでないことも察せられる。
――となれば、残るはユーリエ本人に用がある誰かなのだ。
そして扉の前に立った時、見えない向こう側から感じた気配はやはり予想を裏切っていなかった。ユーリエは幽霊になってから色々特殊な能力に目覚めており、その1つとしてある程度自分から近い距離にある気配を特定し、識別することもできるのだ。知り合いの気配なら猶のこと分かってしまう。
厄介だ。
気配の正体が分かるだけに、ユーリエは心から思った。
コンコン。
上手い追い返し方はないだろうか…。最後まで抵抗したいと思案するのを邪魔する音に、諦めて扉を開けた。そこに立っていたのは予想通りの人物、にこやかに微笑む紳士だった。
外はすっかり真っ暗だったが、玄関のランプを点けたので相手の姿はよく認められた。
明りに照らされて、茶色をベースにしたフロックコートとベスト、ズボンに揃いの帽子を胸に抱いた少年…いや、紳士だ。
どこか品があり、表情は普通にしていてもどこか楽しげに見える眼差しをしている。口元も両端が心なしか持ち上がっているように見えて、親しげな雰囲気を醸し出す好青年といった印象を抱かせる。
ただ……そんな彼の目線が床から若干浮いているユーリエとそう変わらないのが、残念な点である。本人にはかわいそうで言えないが。
「やあ、ユーリエ久しぶりだね。一泊しに来たよ」
穏やかな声音でのたまう紳士に項垂れた。
明かりに反射する鈍い金髪を乱れなく後ろで1つにし、隠すことなく露わにしたやや尖った両耳が彼の正体を主張している。
「……申し訳ございません。ここは傭兵が専門なものですから、どうぞお引き取りください」
結局追い返す名案が思い浮かばず、早口でそれだけ言って速攻扉を閉めようとした。が、紳士の方も素早かった。
表情はにこやか(に見える)なまま、右手で握っていたステッキを閉まる寸前で間に挟み防いでしまった。
「まあまあ。つれないことを言うものではないよ。どうせ昼間は寝ているから他の客には気付かれないさ」
そうだろう?
と片目を瞑ってみせる彼に眉を顰めたものの、青年の双眸が…血のように赤黒いそれが笑っていないことに気付いてしまい、ユーリエは溜め息をついた。
彼は外面がよくて普段は確かに温厚といってよいが、キレるとまずい危険人物でもあった。そして、ユーリエ1人なら幽霊の能力を使って逃げ切れても、ノワーヌの客は助けられない。何しろ『悪霊』ではないから攻撃はからっきしなのだ。
カウンター越しに部屋の鍵を渡すと、紳士は感謝の言葉を述べた。
「お礼より泊まらないでくれるのが一番嬉しいんですけど…。
ともかく明日の夜には帰ってくださいね?」
「もちろんそのつもりだよ。今夜はたまたま仕事が長引いて、家に帰るのが億劫だったんだ。
持つべき者は宿屋を営んでいる旧友だね」
いや、別に友達になった覚えはないです。
否定していつまでもカウンターに居座られても困るので、ユーリエは苦笑いでせめてもの意思表示をしてみせた。
「それに、明日の晩は知人の晩餐に呼ばれているんだ。日が暮れたらすぐ出るから安心したまえ」
その時に他の客と遭遇しても彼なら上手くごまかせるだろう…多分。
全然安心していなかったが、お願いしますよと念押しして、彼が部屋へと続く階段を上がっていくのを見送った。
彼は元人間の吸血鬼だ。
生活スタイルは夜型とはいえ、純粋な吸血鬼と違って日の光の下でも歩くことができる体質の持ち主だ。普段は周りに溶け込み警戒心を抱かせない好青年ぶりだが、油断すれば客が狙われかねないのだからそら恐ろしい。ノワーヌの評判にも関わるし…。
本当に何も起こらず、無事に明日の晩を迎えたいものだ。
そう願いながら、ユーリエもカウンターの向こうへと引き返していった。
宿屋ノワ―ヌ。
傭兵専門が売りの宿屋としてそこそこ有名で知られる老舗の宿屋である。が、その裏では招かれざる客の対応に悩まされる主人の姿があった。
多分そのうち書きなおすかもしれません。