8.対価
その日の夜は緊張と不安で眠れなかった。曖昧な意識の中にあったのではっきりとは覚えていないが、眠りに就けた頃には小鳥が囀り始めていた気がする。目覚めの合図は、私の名前を呼ぶ父の声だった。
「陽波、起きろ!」
私の父――白瀬航は、少し掠れた声で私を何度も呼び起こそうとした。常に冷静な父にしては、やけに慌ただしい雰囲気を感じたが、眠気が勝ってベッドから抜け出せない。
「母さんが目を覚ましたんだ!」
その一声で私はベッドから飛び起きた。時計を見ると、まだ九時に差し掛かった所である。自部屋を抜け出そうと焦るあまり、体が勝手に走り出していた。勢い良く開けた扉の先には、驚いた表情をする父が立っていた。
「何で? どうして――」
約束の時間はまだ先の筈なのに。そう言い掛けて、思わず唇を噛んだ。父にそんな話をしても、首を傾げられるだけだろう。
「さっき病院から連絡があった。理由は分からないが、昨晩に目を覚ましたらしい。今から母さんに会いに行こう」
父の言葉に従い、私は急いで身支度を済ませた。髪に寝癖が少し残っているが、そんな事を気にしていられる状況ではない。父は既に車の用意をしていた。私が後部座席に乗り込むと、父は直ぐ様車を発進させた。病院までは車で二十分ほど掛かる筈だが、混沌とした心情のせいか、瞬く間に病院の駐車場に着いた気がした。受付に顔を出すと、直ぐに担当の看護師が現れて母の元へ案内される。
見慣れた母の眠る病室。看護師がその扉を静かに開ける。ベッドに横たわり瞼を閉じたままの母の姿はそこには無かった。
「おはよう、陽波、航さん」
名前を呼ばれた。懐かしい気持ちが止めどなく溢れる。茶褐色の瞳、少し癖のある髪、柔らかい声、温かい笑顔。母の面影が五感を通して頭中へ染み込んでいく。私は堪えきれずに母の元へ駆け出していた。
「母さん!」
泣き叫び、母の膝元に体を預けた。泣きじゃくる私の頭を、母は優しい手つきで撫でてくれる。
「久し振り、私の太陽。随分大きくなったわね」
私の太陽――母はたまに私の事をそう呼んだ。あなたを見ていると気持ちが明るくなるからと話してくれた覚えがある。
しばらく泣き続けた後、私は母の膝の上でうとうとし始めた。泣き疲れた事と、昨夜に眠れなかった事が祟ったのだろう。私が意識を手放そうとしているさなか、両親は互いの状況を話し合っていた。圧し殺しているが、喜んでいるのが丸分かりな父の浮ついた声が、寝ぼけた頭の中に響いていた。
目覚めると、私は母の眠っていたベッドの上にいた。慌てて上体を起こし辺りを見回すと、ベッドの端に座っている母の姿が目に入った。母は私が目を覚ました事に気付くと、いたずらっぽく笑った。
「感動の再会だったのに、まさか眠ってしまうなんて」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいのに。父さんは一度家に帰るって。またあなたの事を迎えに来るらしいわ」
「うん」
現実に思考が追いついていないのか、話したい事は無数にあるのに、言葉が出てこない。不意に母の腕が伸びて、口数の少ない私の髪に触れた。
「……髪の色、随分明るくしたのね」
「駄目だった?」
「最高よ。本当の太陽みたい」
母の褒め言葉に私は面映ゆくなった。私がもじもじしていると、母は微かに吐息を漏らす。
「……十年ぶりくらいかしら」
「うん……沢山話したい事があるんだ」
「それなら、話してみて」
言われるがままに、私は母が眠りについてから今に至るまでの出来事を話し始めた。父と二人きりの生活、疎外感に満ちた学校での日々。本当は話すつもりは無かったのに、母が昏睡してから自分の性格が歪んでいった事も口走っていた。母は時折頷きながら、ただひたすらに私の話に耳を傾けてくれた。
口を動かし続ける内に話の内容は過去から今へと向かっていく。私は母に花月の話をし始めていた。
「ちょっとした偶然だったんだけど、この病院で友達ができたんだ」
「お名前は?」
「三森花月」
花月の名前を声にした途端、母の表情が固くなった。口元に手を当て、何かを考えるような素振りを見せる。
「三森……花月さん? 何処かで聞いた事があるような」
「母さんが眠っている間に、私がここで話していたからかも」
「もしかしたら、そうかもね」
花月の話をしてから、私は彼女に礼を言わなければならない事を思い出した。まだ話したい事が残っているが、また後で話せばいい。母はもう、私の声を聞けば、答えを返してくれるのだから。
「母さん、今からその友達に会ってくるね。母さんが目を覚ました事を話しておきたいんだ」
「ご自由にどうぞ。本当はとても寂しいけれど」
「ご、ごめん」
「冗談よ。行ってきなさい」
「ありがとう、母さん」
淑やかに手を振る母を尻目にして、病室から受付に向かった。しかし、受付の看護師が口にしたのは、『面会謝絶』の言葉だった。理由を尋ねると、病状が悪化した為と言われた。
私は諦めきれず、花月の病室へ向かった。早足で廊下を歩いていると、見知った人影を見つける。樹さんだった。私は彼の姿を見つけると、慌てて側に駆け寄り、息もつかせず声を掛けた。
「樹さん、さっき受付で花月の事を聞いたら、面会謝絶と言われました。花月に何があったんですか? 教えて下さい!」
唐突に現れては、まくし立てるように話す私を見て、樹さんはかなり驚いていた。
「どうか、どうか落ち着いて下さい、白瀬さん」
何度も諭すように宥められ、私はやっと平静を取り戻した。樹さんが「少し座りましょうか」と言って、廊下の端に置かれた長椅子に腰掛けたので、私もそれに続いた。
「取り乱して、すみません」
「気にしないで下さい。今朝は私も似たような状態だったので」
「それで、花月に何があったんですか?」
「朝から目を覚まさないそうです。外部からの刺激にも全く反応しないと担当医が言っていました。まだ原因は分からないそうですが……」
樹さんの話を聞いて、私は身震いした。先程までの母と同じ状況ではないか。母の目覚め、花月の昏睡。その二つの現象に因果が無いとはとても思えない。
昨夜、花月は恐らくあの銃を使った。その時に何か不慮の事故が起こったのかもしれない。……できる事なら、そんな経緯があったと考えたかった。しかし、最後に夢境で花月と話した時に感じた後ろ暗い気配を思い返すと、彼女は母を助ければ自分が意識を失う事を知っていたのだと勘ぐってしまう。仮にそうだとして、花月はどうして自分を犠牲にする選択をしたのだろうか。
「花月の病の原因は、多分私のせいなんです」
「え?」
樹さんは唐突に自責の念を口にし始めた。花月の病原の考察に夢中だった私は、彼の言葉に驚きの声を上げた。
「私は花月の実の父親ではないんです。花月は不幸があって両親を失い、そのショックで記憶も曖昧で……。あまりに不憫だったので、父方の伯父だった私があの子を引き取りました」
私は黙って、樹さんの次の言葉を待った。
「私達が家族になってから、また不幸が訪れました。私の実の息子――花月にとっては義兄に当たる『葉一』が花月と共に事故に遭い、命を落としました。花月は一命を取り留めましたが、葉一の死に対してあの子は強い後悔と責任を感じていたと思います」
花月が養子であった事も、義兄がいた事も初耳だった。花月が家族について話す機会が少なかった理由や、私達が本物に見えるかという質問をした意味がようやく分かり始めた。
「事故で病を患い、ここに入院した花月は精神的に不安定な状態でした。当時の私は度重なる不幸に追い詰められていた事もあり、あの子に対する接し方を間違えてしまった。今思えば本当に恥ずべき事です。私はあの子の本当の父親にはなれなかった」
俯く樹さんに対して、私は何と声を掛けていいか分からなかった。彼の抱く苦悩は、人生経験の浅い私には到底答えられない重さを持っていた。
「……しばらくして花月の心は落ち着きましたが、病状が回復する気配はありませんでした。本来ならば、とっくに退院していてもおかしくない程度だったのです。担当医は何か心因的な問題があるかもしれないと話していましたが、それは恐らく私の事だと思います」
樹さんの話を聞いている内に、幻象の事を思い出した。夢境において可視化される病の形。樹さんが病因となっているかは定かでは無いが、花月にも何かしらの幻象が取り憑いているかもしれない。しかし、例えそうだとしても私には幻象を打ち砕く術が無い。
「白瀬さんにこんな話をしても困らせてしまうだけですね。自分の弱さが情けないです。本当に申し訳無い」
「いえ、話して下さってありがとうございます。……軽率な物言いかもしれませんが、花月の事、どうか諦めないでいてあげて下さい。……私も諦めないので」
私が言うと、樹さんは顔を上げて微かに口元を緩めた。
「そうですね。白瀬さんが仰る通り、私も諦めません。力強いお言葉をありがとうございます」
私と樹さんは互いに感謝と励ましの言葉を告げ合うと、その場から離れた。私は母のいる病室へ戻る事にした。衝撃的な事実を何度も見聞きしたせいか、どんな顔をして母に会えばいいか分からなかった。今はまだ憶測でしかないが、花月が犠牲になった事で昏睡状態から回復できたと知ったら、母は何と言うだろう。
深呼吸をしてから、母のいる部屋に入った。扉が開いた事に気付いた母は、柔らかい笑みと共に私を迎えてくれた。
「おかえり、陽波。お友達には会えた?」
「今日はちょっと会うのが難しいみたい」
「それは残念ね」
「また次の機会に会う事にするから……」
次の機会。果たしてそんな物はあるのだろうか。もし花月が自身を犠牲にして、母を目覚めさせた事が真実ならば、もう一度彼女と会うには、また別の誰かを犠牲にする必要があるだろう。ふと、そんな思案を脳裏に浮かべている自分の恐ろしさに気付き、身の毛がよだった。
「陽波」
芯のある母の声が私の名を呼ぶ。私はすかさず何事も無い素振りをした。しかし、母はまだ私の言動が気になっている様子だった。
「何かあったのね」
「別に、何もないよ」
作り笑いを浮かべる。他人に余計な心配を与えない表情を作る事は私の特技だった。
「陽波」
再び名前を呼ばれた。母の澄んだ瞳が私の姿を鮮明に捉えている。一時の視線の交差の後、私の中にある何かが崩れ落ちる音がした。
「母さん、話したい事があるんだ」
私は震える声で母に告げていた。