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7.不帰

 樹さんの姿が見えなくなった頃に花月のいる病室に入ったが、途端に私はいたたまれない気分になってしまう。ベッドの上に仰向けになった花月は、左腕を瞼の上に乗せて啜り泣いていた。引き下がるべきか、留まるべきか、私は逡巡する。情けない事に、片足は既に一歩後ろへと下がっていた。


「花月」


 しかし私は、彼女の名前を力強く呼んだ。ここで退いたら、彼女の友人を名乗る事はできない。先程の決意は何の意味も持たない。私は自身を叱咤して、花月の近くへ歩み寄った。


「陽波?」


 花月は驚いた声を上げながら、私の方を一瞥したが、直ぐに顔の前に腕を戻してしまう。


「こんな姿、見せたくない」


 私は花月の言葉を無視して、彼女の傍らに居座った。相変わらず、彼女に掛けるべき言葉を見つけられなかったので、胸元に置かれた右手を握ってみた。それに驚いたのか、息を呑む音が聞こえてくる。初めは固く緊張していた花月の指も、徐々に私の手を握り返してくれた。


 しばらくの間、私達は互いの手のひらの熱を与え合う行為を続けた。


「ありがとう、陽波。おかげで落ち着いた」


 腕に隠されていた花月の顔は、以前よりもやつれていた。病状が芳しくないのが、一目で分かる程に顔色は悪い。


「何かあったの?」

「嫌な事を思い出して、少し苦しくなった」

「そっか……」

「何も聞かないんだ」

「今はそういうのはいいかな」


 花月の過去や家族の事に留まらず、彼女の全てを知りたいという思いは唐突に鳴りを潜めていた。恐らくは、未だ繋がれている手のひらのおかげだろう。花月の手から伝わる体温以外の何かが、私の好奇心を充足させてくれている気がした。


 自分の手元にある花の存在を思い出した私はおもむろに立ち上がり、サイドテーブルに向かった。予め用意されていた安っぽいプラスチックの花瓶に、見舞いの花を挿しながら、樹さんに出会った事を話す。


「さっき廊下で花月のお父さんに会ったよ」

「……そうなんだ」


 背後にいる花月の声色が途端に暗くなったので、思わず振り向いた。花月は窓辺へと視線を送り、私の方は見ていなかった。


「花月の事を励ましてあげてって言われたよ」

「あの人、それ以外に何か話した?」

「ううん、それだけ」

「そう」


 花月の素っ気ない返事を聞き終えると、私は花瓶に挿した花の形を整える作業に移った。作業をしながら、今しがた交わされた会話を思い返す。


 花月の声は今までに無いほど冷淡に聞こえた。もしかすれば、花月と樹さんは不仲なのかもしれない。私も決して父親と仲が良いとは言えない。しかしそれは、人と距離を取ろうとする私自身の性質から来る物であって、花月と樹さんのぎこち無く見える関係とは原因が違う気がする。


「ねえ、陽波」


 名前を呼ばれて振り返った。仄かに青みがかった瞳が、こちらをじっと見つめている。


「私達って本物に見える?」

「えっ?」


 不意な問い掛けに私はたじろいだ。質問の意味が理解できず、意図も読めない。私達というのは私と花月の事だろうか。それとも、花月と樹さんの事か。そして、本物とは一体何に対して尋ねているのだろう。思考を巡らせるのが精一杯で、私は答えを導き出せずに沈黙してしまう。


「ごめん、何でもない。気にしないで」


 口を噤んでいる私を見て、花月は諦めたように溜め息を漏らした。


「お花、ありがとね」


 花瓶に挿れられた青い花を見て、花月は優しげな笑みを浮かべる。しかし今の私には、彼女の笑顔が薄暗い情動を隠す為に作られた仮面にしか見えない。私にはその仮面を剥ぎ取る気概が無かった。先程の花月とのやり取りの中で、以前夢境で抱いた予感が――花月の本心に近付く事で、その存在が危ぶまれるという予感が――確信に変わりつつあったからだ。


 花月の心に触れられない以上、奥底に眠る暗闇の正体ははっきりしない。だが、それが彼女を蝕み続け、悪い方向へ走らせている気がしてならなかった。このまま進み続ける事で良い結果に辿り着くとは思えないが、破滅を更に早める可能性のある行動を起こす勇気を、私は持っていなかった。


「どういたしまして」


 私は謝礼の返事をすると、花月と同様に作り笑いを浮かべ、病室を後にした。臆病な私が選んだ道は、無策な現状維持だった。



 ✦



 時はあっという間に過ぎ去り、花月が母を助ける約束の日は、翌日に迫っていた。


 私達は夢境の病院の屋上で談笑している。夢境での花月との会話は、今日までにほぼ毎日行われていて、殆ど日課のような物になっていた。


 私は花月と過ごす内に、彼女が博物館を巡る事が好きだったり、実はピアノを弾ける事や、バナナが嫌いな事を知った。けれど、花月の奥深くにある核心的な部分には相変わらず辿り着けていない。約束の日に近付くに連れ、彼女の内に宿る暗闇の気配がより強固に、より明確になっている気がした。母の病が治るかもしれない期待と、花月の暗部の拡大がもたらす不安で、私の心は酷く乱れていた。


「明日はきっと大変になるから、今日は早めに切り上げようか」


 惑う私を他所に、花月は解散の合図を上げた。彼女は既に先程まで寝転がっていた屋上の床から立ち上がって、自身の病室に戻る準備を始めている。私も咄嗟に起き上がり、下階への扉に向かって歩く花月の姿を追った。


 階段を降りて、廊下に出る。右に進めば母の病室へ、左に進めば花月の病室へ。二つの病室に向かうだけの只の廊下が、運命の岐路に感じられた。恐らく、今が花月の本心を知る最期の機会になるかもしれない。


「じゃあね、陽波」


 自身の病室へ向かう花月の姿が、廊下の薄闇に霞み始めると、私はそのまま彼女が闇の中に消えてしまうような錯覚に陥った。二度と花月に会えなくなるかもしれない。そんな恐怖を感じ、私は慌てて声を上げた。


「待って!」


 振り返る花月。その表情は影に隠れてよく見えない。


「また明日会おうね」

「うん」


 花月の返答はとても明瞭で、恐ろしくなるほどの清々しさに満ちていた。結局私は、花月の口から真意を聞く事も、心の深みに触れる事もできなかった。


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