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4.病根

 僅かに気力を取り戻せたとしても、この異形の部屋に長居する気は起きなかった。一刻も早く用事を済ませるべきだと、私はカヅキの横顔に視線を送った。カヅキは私の顔を一瞥した後、小さく頷きながら部屋の中央にあるベッドに向かって足を進めた。


 ベッドの周囲に垂れ下がっていた白いカーテンは、粘性の血液が濃密に染み込んでいて、赤黒く変色している。血に染まったカーテンの向こうがどうなっているかは視認できないが、先程から嫌という程聞こえてくる打撃音や叫声のおかげで、ベッドの上に何かがいるのは分かり切っていた。


 しかし私には、真っ赤に濡れた布地の先にいる者の正体を暴く勇気が、どうしても起こらなかった。恐怖に狼狽える私に反して、カヅキはその繊細な白い手指で躊躇無く血塗れのカーテンを掴んだ。


「この先にはきっと良くないものが待ってる。陽波は目を閉じていてもいいよ」


 カヅキは私が嘔吐した事に対して配慮しているのだろう。その優しさは嬉しいが、私は一方的な擁護や慈悲を求めている訳ではない。


「私は誰かの陰に隠れているだけの人間にはなりたくない。あなたと一緒に同じ物を見て、聞いていたい」


 私が希望を伝えた途端、カヅキはカーテンから手を離し、愁眉を含んだ微笑を浮かべる。私の決意を耳にして、どうしてそんなに悲しそうに笑うのかと尋ねようとしたが、声は喉に詰まってしまった。


 何故か私は、彼女の懐に潜り込む事に対して、相当の恐怖を感じている。今置かれている異常な環境のせいか、カヅキの奥底に沈んでいた暗闇が、微かだが表面に漏れ出しているような気がした。しかし、カヅキの心の深みに触れる行為は、彼女の存在を喪失させる結末へ導いてしまう予感があった。それは、私には耐え難い苦痛である。


 私はカヅキに対して、自身の心情を幾度か吐き出してきたが、カヅキの本心は霧に隠されたように見えてこない。手で触れられる距離にいる筈なのに、私と彼女の間には目に見えぬ不断の大河が横たわっていた。私が思い悩む傍ら、カヅキの顔にいじらしい笑みがふっと戻ってくる。


「それって、愛の告白か何か?」


 思いがけない質問に、私は酷く動揺した。


「ち、違うから」

「ふぅん、そっか……」


 カヅキが何か含みのある表情で俯いたので、私は僅かな期待に胸を膨らませた。しかし、それもほんの一瞬で、彼女の口元に歪んだ笑みが残っている事に気付いて、私は大きな溜め息を吐いた。


「揶揄うのはやめて」

「ごめんごめん!」


 誠意の感じられない適当な謝罪をしながら、カヅキは再び真紅のカーテンに手を触れる。そして、私の方へ振り返り最後の問い掛けをした。


「もう開けてもいいんだよね? 陽波」

「いいよ、カヅキ。あなたが傍にいてくれるなら、私は怖くないから」


 私の返答に対して、カヅキは眉を顰めながら、消え入りそうな微かな声で何かを呟く。その言葉は私の耳には届かなったが、彼女の唇の動きは「ごめん」と言っているように見えた。何を謝っているのだろうか。しかし、私が尋ねるよりも前に、血に滴るカーテンは音を立てて開かれた。


 幕開けの後には、地獄のような光景が待っていた。


 血痕と肉片に塗れたベッドの上には、一人の少年が仰向けに倒れていた。彼の腹には巨大な腫瘍の塊が樹木のように生えている。その腫瘍は、強いて言うなら、人の上半身に近い形をしていて、少年の顔に向かって棍棒のような奇怪な腕を振り下ろしていた。腫瘍の怪物が放つ甲高い奇声と、少年の肉が弾ける音が辺りに響く。黒々とした不健全な色彩の血飛沫が、私達の足元を濡らした。


「……ひどい」


 気付かぬうちに、私は手のひらで口元を隠していた。不快な光景に吐き気を催したというより、歪な腫瘍に虐げられる少年の姿があまりに不憫に見えたのだ。耐え難い悪寒に襲われ、私の体は自ずと震えてしまう。


「陽波」


 不調を示す私の体を案じたのか、隣りに立つカヅキに肩を抱き寄せられた。彼女の体から伝わる温度は、この悪夢のような世界では途方もなく優しい物に感じられる。互いの体温が触れ合う状況に当惑した私は、はにかみながらカヅキの顔色を伺った。


 しかし、彼女は恐ろしくなるほど冷淡な視線を腫瘍の怪物に向け、慣れた手つきで銃を構えている。カヅキの表情はあまりに真剣で、如何わしい私の思考は露と消えた。微かでも浅ましい欲望を抱いていた事を、私は独りでに後悔した。


「この銃の力を、今から見せるよ」


 カヅキの指が銃の引き金に絡みつき、銃口が怪物の中心を狙う。私は緊張で強張った体を微かに丸めた。身構える私の姿を一瞥すると、カヅキは引き金に掛かる人差し指を静かに動かした。


 パンッ。


 銃声は想像していたよりも、軽やかで呆気無かった。しかし、空気の入った袋が破裂した程度の音でも、腫瘍の怪物には致命的な傷を与えたらしい。仰け反った怪物の胴体には小さな穴がぽっかりと空いていて、しばらく痙攣した後、完全に動きを止めた。そして、少しずつ黒い霧のような物に姿を変えながら、その存在を消していった。腫瘍に苛まれていた少年の口元は、穏やかに呼吸を繰り返している。


「……終わった?」


 呆けた声で私が呟くと、カヅキは優しげに笑った。


「終わったよ」


 途端、赤黒い部屋の内装が清潔を感じさせる白い部屋に戻り始めた。同時に、柔らかな陽光が窓から差し込んでくる。私達は眩しさに目を細めながら、窓の外を眺めた。燦爛たる光を放つ太陽が海の向こうから顔を出し始めている。


「私は夢境で太陽を知らないんだ」


 カヅキは視線を外に向けたまま言った後、私の方へ振り向いて問い掛ける。


「あの太陽は陽波のもの?」


 答えは決まっていた。


「うん、私のものだよ」


 いつの間にか私達は、互いに声を上げて笑っていた。こんなに笑ったのは久し振りだった。


 しばらくして、カヅキが部屋を立ち去ろうとした時、私は少年が横たわるベッドの傍らに皺だらけの紙が落ちているのを見つける。気になって紙を拾い上げてみると、それは三人の家族が描かれた幼気な絵だった。絵を裏返すと、縒れた大きな文字が目に入る。


『もうたたかないで』


 その文字列がどんな意味を持っているのか、直ぐに想像が付いた。


「カヅキ――」


 名前を呼んだ瞬間、カヅキが首を横に振っているのが見えて、私は思わず口篭ってしまう。黙り込んだ私の代わりに、今度はカヅキが口を開く。


「体の病気に見えても、心が原因になっている事がある。どういう訳か、夢境はそれを目に見える形に変えるんだ。私はそういう形の事を『幻象(げんしょう)』って呼んでる。そして、私の銃は幻象を撃ち倒せる。この男の子に何があったのかは分からないけれど、現実で彼を蝕んでいたであろう病気の原因は消えた筈だよ」


 幻象の説明を聞いて、私の心中に浮かんだのは母の事だった。


 私の母――白瀬岬(しらせみさき)は、私が小学生の頃に昏睡状態に陥った。その原因は全く不明で、今もこの病院のベッドの上で寝たきりになっている。もしかすれば、カヅキの銃があれば、母を助けられるかもしれない。


「カヅキ……一緒に来て欲しい所があるんだ」


 堪らずに願いを口走っていた。しかし、何も言わずにカヅキは頷いてくれた。私達は少年が穏やかに眠っている姿をもう一度だけ確認すると、朝日に包まれる病室から静かに抜け出した。



 ✦



 カヅキを連れて母の病室へ向かう最中、私は母が倒れた時の事をふと思い返していた。当時は何がなんだか分からなかったが、諭すように母の容態を説明する父の姿はやけに印象に残っている。


 私の人格に大きな影響を与えたのは、母の病そのものよりも、それを配慮する周囲の人間の反応だった。過剰に私の事を心配する父。母の見舞いに行く度に、機嫌を尋ねてくる医師や看護師。特異な事情を他の生徒に周知させる教師。それを伺ってか、余所余所しく話す生徒達。誰と関わっても、微妙な距離感を覚えた。彼らの真意や本心が読めない。そうして私は、いつしか他人に疑心を抱くようになっていた。


 他人との関係を歪にする更なる問題は、私にしか認識できない世界の存在だった。カヅキいわく夢境の事である。母が病に伏せてからおよそ一年、私は偶然にこの奇妙な世界の門を開いた。既に精神が屈折していた私には、夢境の存在を他人に明かそうという意思は失せていた。夢境というのは私が見る幻覚であり、幻覚を見てしまうのは、心に負担が掛かっている為で、その原因は意識を失ってしまった母にあるだろう。人に話しても、そんな結論を出されるに決まっている。今でもその考えは変わっていない。


 私は、問題が全て母に紐付けられてしまう事を心の底から嫌悪した。決して罪の無い母の存在が、私を不遇に追い込んだ災厄と見做されている気がしたからだ。しかし誰も彼も、私の事情を知るや否や、私から母の病を連想する。そういった先入観によって、幼ない自我は次第に歪んでいき、私は自分という存在が母の病の付属品か何かなのだと考える程になった。

 

 ある程度歳を重ねてからは、そこまでの極端な思考は消えたが、後遺症はしっかりと残留している。自分を表現する行為は相変わらず不得手で、他人に対する猜疑心も未だに解消されていない。今の卑屈な私が出来上がったのには、そういった経緯がある。


「陽波には助けたい人がいるんだよね?」


 物思いに耽っていると、不意にカヅキが尋ねてきた。


「うん。私の母さんがずっと前から寝たきりなんだ。カヅキなら、もしかしたら助けられるかもと思って。……ごめん、図々しいよね、そんなの」

「それが陽波の為になるなら、絶対に助けてあげる」


 カヅキの確信を持った言葉に少し泣きそうになった。私の事をここまで案じてくれる人に、これから出会えるだろうか。閉塞しかけていた私の心に光を差し込んでくれたカヅキ――夢境という特異な世界を共有し、私という存在を認めてくれた人。


 私は彼女から感謝し切れない恩を貰っている。もし母の病を治してくれるならば、私は彼女に一生を捧げてもいい。静かな決意を胸に秘めながら、私はカヅキに感謝を告げた。


「ありがとう、カヅキ」


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