3.受難
引き続き私達は病院の屋上で夢境の情報の擦り合わせをした。私は夢境が現実から隔絶された世界だと思っていたが、カヅキが言うには夢境で起こった事は多少なりとも現実に影響を及ぼすらしい。そして、彼女は夢境から現実に干渉する方法を一つだけ知っていると言う。
「これを見て」
カヅキはジャケットのサイドポケットから、重々しい金属の塊を取り出した。回転式の拳銃だ。洗練された彫刻のようなカヅキの手中に、暴力の象徴が存在している事に、私は言い様のない不快感を覚えた。
「これは元々、ロザリオだったんだ。私が夢境に入る為に必要なアイテム。私は『手形』って読んでいるんだけど、陽波もそういうのがあるでしょ?」
「うん、私の手形はこのペンダント」
私はフライトジャケットのポケットからロケットペンダントを取り出して、手のひらに置いた。
「夢境に入ると、銀の十字架は銃に姿を変える」
カヅキは銃口を天上の月に向け、狙いを定める所作をしてみせた。
「そしてこの銃は、私が知る限りで現実に干渉できる唯一の手段なんだ」
「……それは、どうやって?」
私が尋ねるや否や、カヅキは階下に向かう扉へと歩を進めた。
「付いてきて。今からそれを見せてあげる」
カヅキは不敵な笑みを見せた後、扉の向こうの薄闇に溶けていく。私は慌てて彼女の背中を追った。
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意気揚々と前進するカヅキに向かって、銃に関するいくつかの質問を投げ掛ける。カヅキは銃には六発の弾丸が込められていて、今は二発だけが残っていると教えてくれた。発射したであろう四発の弾丸の行方については、詳しく答えてくれず、代わりに「これからのお楽しみ」と言われてしまった。いたずらっぽく笑う彼女の顔を見てしまうと、それ以上の追求をする気は起きなかった。
小柄なカヅキの背中をしばらく追いかけていると、彼女の足がある部屋の前で止まった。私達が今いる場所は、重篤な患者が入院している病棟で、目の前の部屋はその内の一室である。ただでさえ不穏な気配が漂うこの空間において、目の前の部屋は更なる異様を、白い扉の隙間から吐き出していた。私はこの部屋から滲み出す空気が死の匂いであると直観した。
先程からカヅキの足が動かない所を見ると、目的地はこの部屋なのだろう。しかし、私の本能的な恐怖心は扉に手を触れる気概すら奪っていた。隣に立つカヅキの様子を伺うと、銃を持つ手が震えていた。
「この部屋には、何が?」
「私の銃を必要とする人がいる。ただ……ここはかなりしんどいかも」
その言葉の意味はよく分からなかった。まだカヅキの手は震えている。堪らず「怖いの?」と聞いた。彼女は「少しだけ」と答えた。大丈夫かと、再び声を掛けようとする寸前、カヅキは銃を持たない左手をジャケットの内ポケットに突っ込んだ。そこから青いリボンを取り出し、私の前に差し出す。
「陽波、これで髪を束ねてくれないかな」
「……いいよ」
私は躊躇いなくカヅキからリボンを受け取る。明るい夜空に似た群青色のリボンは、滑らかな肌触りをしていた。カヅキの艶やかな黒髪を梳くように纏めていると、彼女は「これはおまじないなんだ」と呟いた。おまじないというのは物事を上手く収める為の儀式であろうか。この部屋で彼女が何をするかは私には分からないが、余程の大事である事は推察できた。
「終わったよ」
私は受け取ったリボンで、纏め上げた後ろ髪の中程を結んでやった。きめ細かな黒い髪と滑らかなリボンの生地が夜半の闇と調和する。束の間、目前に青黒い深淵が現れたかのような錯覚に捕らわれた。
「ありがとう」
まどろみの不意を突くように、カヅキの微笑みがこちらへ向いた。薄い白磁のような肌に青黒い頭髪が重なり、儚げな色彩を放つ。彼女の笑みは幽玄な陰りを帯びていて、まるで死別に悲嘆する未亡人のような気配を感じた。カヅキの妖艶な容貌が目の毒に思えた私は、微かに視線を逸らした。
「陽波、大丈夫?」
私の顔色を覗き込んでくるカヅキの視線は、今まで通りの幼気なものだった。先程の妙な気配は消え去っている。ほっと胸を撫で下ろした私は「大丈夫」と力を込めて答えた。
「なら……開けるよ」
右手に銃を構えたカヅキが部屋の扉を徐ろに開けた。扉の先に見えたのは、何の変哲も無い病室。無地の白い床と壁、月明かりを吸い込む窓、ベッドを取り囲む僅かに透けた白いカーテン。サイドテーブルには小さな花瓶が置かれ、見舞いで贈られたであろう赤い花が飾られている。本当に何の変哲も無い病室。しかし、カヅキの表情は未だ緊張していた。
カヅキが部屋に足を踏み入れる。それに続いて、私も足を動かそうとしたが、カヅキは手のひらで静止の合図を送ってきた。目前の少女は気の毒そうな表情で私の顔を見つめている。
「やっぱり、この部屋に入るのは私だけの方がいいと思う……」
唐突に吐き出されたカヅキの言葉に、私は突き放されたような気分になった。私は不満気に「どうして?」と語調を強める。
「とても辛い思いをするかもしれないから」
そう話すカヅキの顔色には、一切の明るさが感じられない。俯いた彼女の頭に乗るキャスケットが、その暗い表情に更なる影を落としていた。きっと彼女の言葉は真実なのだろう。一見すれば何の脅威も感じないが、この部屋の中は脆弱で臆病な私にとっては絶望的な環境なのかもしれない。だが、ここで諦めるのは嫌だった。
カヅキとの出会いは、前に踏み出す機会になるかもしれない。自分を変えたい。もっと彼女に認められたい。燻っていた本心がたちまちに燃え上がる。
「私、カヅキに出会ってから、自分を変えられるって思えたんだ。……でも、ここで足を止めてしまったら、カヅキから離れてしまったら、一生前に進めない気がする。だから――」
「分かった」
私が言い切る前に、カヅキは入室を承諾してくれた。
「この部屋は私達の領域じゃないから、見たくない物が見えるし、聞きたくない物も聞こえてくる。体が傷付く事は無いと思うけど、心は傷付くかもしれない。もし、どうしようもなく辛くなったら直ぐに部屋を出て。それだけは覚えておいて欲しい」
カヅキの真剣な声色を聞いた私は、緊張のあまりぎこちなく頷いた。すると、静止の合図を出していたカヅキの手のひらが、部屋の外にいる私に向けて差し伸べられた。空かさず、その手を取る。私は彼女の白い手に引かれながら、無機質な病室への侵入を始めた。
互いに取り合った手からカヅキの温もりが伝わり、私の中の彼女に対するぼやけた感情が明確に象られていくのを感じる。その生まれて初めての感覚をもっとゆっくりと味わっていたいと思った。
だが、この部屋に満ちていた狂気は、一切の猶予も私に与えてくれはしなかった。
無骨な床に両足を置いた瞬間、脳を揺さぶるような不快な金属音が鳴り始め、同時に何かを殴りつけるような音が断続的に響き渡った。聞き取る事はできないが、しかし確実に罵言だと思えるような叫び声が部屋中をこだましている。
目眩を覚えながらも、周囲の様子を伺う。白を基調とした部屋の内観は一変しており、床も天井も赤黒く光る瘡蓋の様な物でびっしりと覆われていた。
只でさえ不快なこの空間において、最も嫌悪を抱かせるものは、饐えた肉と濃厚な血を混ぜたような悍ましい臭気だった。鼻腔に手のひらを当て、呼吸をしないように努めたが、毒気は既に私の腹の中へと忍び込み、隅々まで舐め尽くしている。私は悪心に耐え切れず、その場に跪き、唇から半透明の胃液を勢い良く漏らした。
「陽波」
カヅキは息を荒らげる私の傍らへと歩み寄り、背中を優しく撫でてくれた。病的な模様が浮かぶ床に溢れた酸性の体液が、良く磨かれたカヅキの革靴をじっとりと侵していく様子が目に映る。
「靴……汚してごめん」
錯乱しているせいか、見当違いの謝罪をしてしまった。本当に私が謝りたいのは、大言を吐いた癖に結局は彼女の足を引っぱってしまった事だ。先程まで抱いていた独り善がりな覚悟――そのあまりの軽薄さを、私は深く恥じ入った。
「気にしないで。夢境で汚れても、現実では汚れないから。……こっちこそごめんね、もっと部屋の状況を話しておくべきだった」
「カヅキは……平気なの?」
「うん。ここより酷い所を知ってるから」
そこは何処なのかと聞く余力も今は無い。これ以上に酸鼻を極める空間の話を、一片でも耳の穴に入れたくはなかった。
「立てそうかな?」
「ごめん、もう少し待って欲しい」
「分かった」
「本当に……ごめん」
私は浅ましく咽び泣き、無様な姿を晒していた。しかし、カヅキは吐瀉物に触れる事を全く厭わず、両の膝を突いて私の背を緩やかに抱擁してくれる。
「大丈夫、大丈夫だよ……」
カヅキは耳元で囁くように、私の醜態を慰めてくれた。これまでのカヅキの言行に、あらゆる過失を容赦する聖性を垣間見た私は、このまま彼女のたおやかな体に縋ってしまおうかと、貪欲な逡巡を脳裏に浮かべた。
しかし、それでは何も変わらない。
私は心中で叫び、カヅキに触れようとした淫縦な手を、爪が突き刺さる程に力強く握り締めた。自ら苦痛に苦痛を重ね、唾棄すべき怠惰や怯懦の払拭に努めた。歯噛みして、手指に更なる力を込める。一筋の鮮血が拳から流れ落ちるのを認めると、私は平静を取り戻し、カヅキの抱擁から脱する為の行動を起こす。
「ありがとう、カヅキ」
急に振り返って、感謝の言葉を告げた。そこにはぼんやりと口を開けて、驚いた表情を浮かべる少女がいた。彼女はあらゆる罪を赦したり、悔悟を浄化する超越者ではない。全く普通の女の子だ。私がぎこちなく笑ってみせると、彼女は微笑みを返してくれた。不意に抱擁が解かれ「立てる?」と尋ねられる。私は「もちろん」と精一杯の強がりを言ってみせた。
カヅキは徐ろに立ち上がって、再び手を差し伸べてくる。私はその温かい手を掴みながら、今一度カヅキの隣に並び立った。