1.夢境
今の市立病院は、月の浮かぶ夜空と穏やかな海と浜辺に咲く青い花に囲まれている。本来あるべき筈の素朴な地方都市の景観は、何処かに消え去っていた。待合室の窓辺に立った私は、大きな溜め息を吐いてから「やってしまった」と力無く呟いた。
詳細は私にも分からないが、ここは現実とは異なる世界である。母から貰った黄金色のロケットペンダントを手のひらに握って眠りに就くと、どういう訳かここに辿り着く。安直な言い方をするならば、今私がいるこの世界は『夢の世界』だ。
いつもは自宅でしか、夢の世界には入らないようにしていた。しかし、面会手続きの順番を待っている間、日頃の疲れが溜まっていたのか、眠りこけてしまったらしい。しかも、偶然手のひらにロケットを掴んだままで。私は手のひらに置かれた件のロケットを首に掛け直してから顔を上げた。
「どうするかな」
夢の中でも殺風景な待合室を、呆然と眺めながら独りぼやく。私が夢の世界に入る時というのは、現実から逃避したい事柄があって、自分の考えを整理したい時である。空虚な夢の中で思考を巡らせていると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。けれど今は、そこまで暗い気分でも無かったし、入院している母の見舞いをさっさと済ませたかった。
自分の意志で夢の世界から抜け出す方法を、私は知らない。ふとした時に目が醒めて、現実に戻る。だから、夢とは名ばかりの不都合なこの世界が、見舞いという細やかな私の望みを叶えてくれる事は断じて無い。
自宅で夢の世界に入った際は、自部屋から出る事は無かった。窓越しの海を眺めながら、心を整える為の夢想に耽るだけだ。それでもやはり、己の陰気や鬱屈を溶解したいとはどうしても思えない。本でもあれば、それを読み続けている内に目が覚めるのであろうが、ここには驚くほど何も無い。
私はもう一度、待合室を眺め回した後、硬いプラスチックの椅子から立ち上がった。
「散歩でもしよう」
とにかく待合室から動く事にした。じっとしていては何も始まらない。そう思った矢先、私にしては前向きな考えをしていると心中で自嘲してしまった。こうして改めて、己の卑屈な性分を自覚する。全く喜ばしくない思考の循環である。
待合室から離れ、宛もなく歩き回った。母の病室に向かおうか迷ったが、何故か気が引けて止めた。夢の中で現実の問題に関わるのが、何となく恐ろしかったのかもしれない。
目的もなく彷徨うのは無意味に思えたので、屋上へ足を向けた。普段とは違う夢の世界の状況を高所から確認する為だった。私の知る夢の世界は太陽が燦々と輝いていたが、今は夜闇に覆われ、外には見知らぬ青い花が咲いていた。
屋上へ向かうのにエレベーターを利用するのは控えた。夢の世界の機械を全く信用できなかったからである。仕方なく棒切れのような頼り無い両脚を必死に動かして、四階分の階段を歩いて上った。動き辛さを助長する淡い青色のロングスカートを翻しながら。屋上に出る扉の前に立った頃には、情けない事に軽く息切れしていた。
ひ弱な体を踏ん張って重い扉を開けてやると、途端に生温い潮風が頬を撫でた。扉の先では、白く冷たいコンクリートの床の上に濃紺の夜空が広がっている。天上には青みを帯びた幻想的な満月が浮かんでいて、下界に向けて煌々と光を注いでいた。
しかし、私の目に留まったのは青い月ではなく、転落防止用の柵の傍らに立つ人影の方だった。どうやらその人影は、屋上からの景色を眺めているらしい。
人影は私の存在には気付いていない様子で、こちらに背中を見せ続けている。話し掛けてみるか迷っていると、先程開けた重い扉が大きな音を立てて閉まった。扉が閉まる音と共に、人影は勢い良く振り返った。薄暗いので顔はよく見えないが、気付かれたのは確実だろう。私は居たたまれなさを抑えながら、愛想笑いを浮かべて、人影の方に近寄っていった。
「は、初めまして……こんばんは……。いや、こんにちは、かな?」
相手の正体も分からないので、取り敢えず挨拶をしてみた。挨拶は信頼関係を構築する為の基本中の基本だと、誰かが言っていた。されど、今しがた私が放った弱々しい震え声は、胡散臭さを助長させただけだろう。こんな訳の分からない世界で、こんな怪しい人物に出会ったら警戒するに決まっている。人影は微動だにせず、こちらの方を窺っていた。
そら、今に誰だと怒鳴られるぞ。相手の凄まじい剣幕を危惧して、私は両手を顔の前に掲げて身構える。だが、予想に反して、人影は朗らかな声を上げながら、身をすくめる私に向かって駆け寄ってきた。
「驚いた。ムキョウで意識のある人に会えるなんて」
恐る恐る両手を下ろし、人影の姿を確かめる。人より背の高い私からすると、一回りほど小柄な少女が目の前に立っていた。チェック柄のジャケットにショートパンツを身に着け、頭にはキャスケットを乗せている。私は彼女の服装から、古風な外国の映画で見掛けた少年の姿を思い浮かべた。
私と顔を見合わせる為か、少女は腕白な少年のようにキャスケットの鍔を上げる。キャスケットの下にあった仄白い顔立ちは甚だ端正で、精巧な美術品を思わせた。不意に風が吹き、腰まで伸びた靭やかな黒髪がなびく。乱れた髪を抑える少女の仕草があまりに美しく、背景にある神秘的な月も相まって、絵画の傑作でも見ているような気分になった。
「初めまして、私はミモリカヅキ」
美術品は装いを正した後、柔らかく、しかし芯のある明瞭な声で名乗り上げた。同時に華奢な手のひらが私の前に差し出される。カヅキと名乗る少女の容姿に見惚れていた私は、一瞬では差し出された右手が何を意味しているのか分からなかった。カヅキが首を傾げる姿を見て我に返り、私は彼女の右手を希少な宝石でも扱うように優しく握った。
「ええと、私は白瀬陽波です」
「よろしく、陽波」
初対面の相手から、いきなり下の名前で呼び捨てにされて、私は面食らってしまう。けれど、カヅキのこの馴れ馴れしさは、私には新鮮に感じられて何となく心地良かった。