同志
「こんにちは」
見知らぬ女性が文化財の修復現場にやって来た。妹はわたしに「知っている人?」というような視線を投げてきたが、首を振って返した。まったく見覚えのない人だった。
「どちら様でしょうか」
仕事の手を止めて問いかけた妹の視線は女性の頭に釘付けになっているようだった。彼女の頭は丸坊主だったのだ。カミソリで剃ったとしか思えないほど青く光っていた。彼女は何も答えず、オヤジに近づいて、スケッチブックのようなものを渡した。
「法隆寺の夢殿を描いてきました」
すると、紙をめくるオヤジの顔に驚きの表情が浮かんだ。それを見て頷いた彼女は、大きな紙袋から何かを取り出して、オヤジに差し出した。夢殿の模型で、五十分の一の縮尺だという。それはまだ粗削りでプロのレベルにはほど遠かったが、ここまで仕上げるための苦労は容易に想像できるものだった。
「宮さんのホームページを見て、自分にも同じことができるかどうか試しました。といっても、私は特別な許可を得る術を持っていませんので、法隆寺内でスケッチすることはできません。それに、五重塔や金堂といった複雑で大型の建造物をスケッチするのは無理だということがわかりました。それでも、諦めるわけにはいきません。私が描ける建造物を探して法隆寺の中を歩き回りました。西院伽藍の中を歩き続けました。でも、描けそうなものを見つけることはできませんでした。落ち込んで気力が失せそうになりましたが、逃げ出すわけにはいきません。気を取り直して、東院伽藍へ向かいました。すると、私を呼ぶような声が聞こえた気がしました。その声に引き寄せられるように東大門をくぐると、正面に八角円堂の見事な建物が現れました。国宝・夢殿です。聖徳太子等身の姿を写したとされる救世観音像が安置された東院伽藍の中心堂です。瓦の上には見事な宝珠が輝いていました。私を呼んだのは宝珠かもしれないと思い、手を合わせて頭を下げました。でも、声は聞こえてきませんでした。いくら待っても聞こえてきませんでした。私は諦めて背を向けようとしましたが、その時、何かに強く引き止められました。ここを離れてはいけないというように強い力が私を止めたのです。私は手を合わせて頭を垂れ、「お導き下さい」と心の中で祈りました。お導きがあるまで祈り続けました。すると突然、何かが見えました。それは微笑みを湛えた観音様のご尊顔でした。気づくと私は観音様の手の中に抱かれていました。火焔宝珠と一体となって抱かれていたのです。私を呼んだのは観音さまでした。何も仰りませんでしたが、私はその真意を理解しました。夢殿を描けと命じられたのです。それを悟った瞬間、私は観音様の手を離れ、元の位置に戻っていました。それからは夢中になって夢殿を観察し、細部まで目に焼き付けました。そして、近くの上宮遺跡公園に急ぎました。ベンチに座ってスケッチに没頭するためです。毎日それを繰り返しました。描き切れないところは写真集を見ながら加筆していきました。そうしてスケッチを仕上げ、模型の作成に着手したのです。必死でした。宮大工になりたい一心で寝食を忘れて取り組みました。完成したらもう一度お願いに伺うことだけを考えて毎日生きてきました。ですから後生です、お二人の元で修行をさせてください。お願いします」
彼女だった。オヤジに「帰れ」と冷たく突き放された、あの彼女だった。
あの日、自宅に帰った彼女はその足で理髪店に飛び込んで、「坊主頭にしてください」と言って目を閉じた。「いいんですか?」と驚く理容師に、「剃り上げてください」と鏡越しに言い切った。天使の輪が浮かぶ美しい長髪を、理容師はハサミで、次にバリカンで、そして、カミソリで剃った。何度も「本当にいいんですか?」と確認しながら。
頭を剃り上げた彼女は、ホームページに紹介されている妹の足跡を追った。そして、夢殿を描き、夢殿の模型を作って、ここへ戻ってきたのだ。
「ただ……」
消え入りそうな声になった。
「木の声を聴くことも、木の心を感じることも、木と話すこともできませんでした。宮さんのようにはできませんでした。私は……」
声が詰まると、それまで黙って聞いていたオヤジが首を縦に振った。
「よくやったな」
声がわずかに震えていた。
「男でも、ここまではできない」
オヤジは彼女のツルツルの頭を撫でた。
「今日からわしの娘だ。宮の妹だ。だから」
言葉を切ったオヤジは彼女の手を取り、うんうんと何度も頷いた。
*
オヤジが別の現場に移動したあと、彼女がぽつりぽつりと話し始めた。
「『帰れ』と言われた時、自分の甘さに気づきました。会社を辞めて退路を断ってきたという自己満足に酔っていた自分に気づいたのです」
バカですよね、というふうに彼女は笑った。
「棟梁はそんな甘い考えを見透かして、敢えて追い返してくれたのです」
そして、あの日を思い返すような目をして、「嬉しかったです。とても嬉しかったです。実の父親のような愛情を感じました」と言った。
それを聞いて、妹は自らを恥じたようだった。オヤジの真意をわからないだけでなく、曲解して顔を見たくないほど嫌い、半年間口をきかなかった自分の浅はかさを恥じたのだろう。落ち込んだような表情に変わっていた。
わたしは妹の心の内がわかるような気がした。心の中で自分の頭をぶっているのだろうし、「棟梁になる? 当主になる? 思い上がるんじゃない!」と強く戒めているに違いなかった。
それでも、落ち込んだ表情が長く続くことはなかった。オヤジに対する尊敬の念が戻ってきたのだろう。それに、同志を得たのだから元気にならないはずがない。妹は彼女の手を取って握りしめ、覚悟のある声を発した。
「女性でも宮大工ができることを一緒に証明しましょう。私とあなたが本物の宮大工に成長していく姿をホームページに載せていきましょう。そして、もっともっと多くの人が『宮大工になりたい』と応募してくれるようにしましょう」




