3、殺しの向かない真夜中に
ナオと出会ったのは、ほんの二、三ヶ月前のことであった。
自分はそれまでも裏社会に生きてきた。人を殺せと命じられ淡々と葬った。騙し、脅し、殺す、その繰り返し。
初めて人を殺したのは高校生の頃だった。自分は片親で、酒を飲みカッとなって手を挙げてくる父親と二人暮らし。ある日、嫌気がさしてナイフを向けた。
気づけば血溜まりと、魂の無い肉塊が転がっていた。気味が悪いと思って台所に向かい、手を洗った。次の日が燃えるゴミの日だったので、細かく刻んで猫砂と一緒に捨てた。
その重さは今でも覚えている。
そんな父親はクズもクズで、借金まみれであった。黒服とグラサンが、いつも家の戸を叩いて金をせびっていた。耳を閉じて、いないふりをし続けた。
ゴミ袋を捨てた後、そんな日々も捨てられたと思っていた。安易な考えは、あっけなく消沈する。弱みとして向こうに死を握られ、利用される側となった。
なので途中で高校もやめ、友人とも彼女とも縁をきり、闇の社会へ身を投じた。
それから何十年と人の命を奪い続けた。
手が血と怨嗟で塗れ果てていた、そんな時。
その日は煌々とした月が出ていた。
人殺しには向かない夜。
「殺したの?その人」
カラコロと鈴のなるような声。
あどけない顔をした少女がそばにいた。
栗毛色の髪を、左右の耳の下で結っている。ゴムには流行りのキャラクター。
女の子の後方には、灰色めいた髪の男がいた。シワの深い肌、黒いスーツ。すらっと伸びるステッキが彼を支える。
――――不気味だ。
普通なら大人であれば電話をするなり、手をつれて逃げたり、悲鳴をあげたりするだろう。
そのようなそぶりもみせず、まるでボールを追いかけた孫の背を見つめる優しげな顔。この状況下でその和やかな表情はミスマッチである。
なんといえばいいのかわからず、生唾を飲む。
なるべく穏やかな口調で肯定した。
「……そうだよ」
少女は目を大きく見開く。
「いつ殺したの?ついさっき?」
影のない素朴な疑問。
眸子に月明かりが差し込まれる。瞳に微かな期待が宿っていた。
「これこれ、困らせるんじゃあない」
老人は近づいて、少女の頭に手をのせる。
優しく髪を撫で回した。
彼女は片目をつむり、体をひねって抵抗する。「やめて」の言葉には、気恥ずかしさが混じっていた。
「孫が申し訳ないね」
「い、いえ」
翁の瞼はだいぶ垂れ下がっていた。
開いているのかどうか判別がつかない。なんなら、見えていないんじゃないか。
孫娘は祖父の方に顔を向ける。それから期待に満ちた顔をして「あのね」と口を開いた。
遺体の方に指を向けながら。
声に出されたら、まずい。
そう思って少女の口元を抑える。
「むー!」
声帯から出た音は、手のひらに吸収される。
彼女は、手足を大袈裟に動かし、暴れ始めた。自分の体勢が少し崩れる。
振動と同時に、ポケットから金物が落ちた。
慌てて拾い上げ、左手に握る。
刃先はいつでも急所をつけれるよう、彼らに向けていた。
少女はピタッと動きを止める。表情がロウのように強張り出した。
「それで、我々を殺そうというのかね」
口火を切ったのは向こうだった。
釈然とした態度で、片眉をわざとらしくあげる。把握したかのような振る舞い。
見えていないと思ったのに、見透かしている――?
堂々とした試すような圧。
殺人現場を見られたことは何度かあった。
予定外の殺人は処理に時間がかかる。
しかし、見られたからには消すしかない。
彼らは皆祈るようにこちらを見つめる。それから両手を強く握りしめていた。こぼれ落ちんばかりの涙をたたえる。
そうして掠れ声で命を乞うた。
それがどうだ、この老人は。
レールから逸脱しすぎた、その弁慶の如き態度。
命の手綱はこちらにあるはずなのに。試されるような態度に、左手は勢いをなくす。
ナイフはポケットへと戻って行った。
覇気だけでない。自分の持つ第六感が警鐘を鳴らした。こいつらは殺すなと。
子供から距離を取る。
「すまなかった」
彼女に頭を下げる。雫は今にも落ちそうであった。全身の革張りが溶けたのか、彼女は祖父の元へ縋る。服にシミを作った。
「ナオ、落ち着きなさい」
「う、ぐっ、ひぐっ」
「怖かっただろうが、それより目の前に死体があるだろう。そちらに目を向けなさい」
「う、ううっ……は、ぃ」
「ちゃんと食べなさい。でなければ死んでしまうよ」
食べなさい?
言葉の真意が汲み取れない。
食べるというのであれば、想像つくのはひとつ。しかしあの死体をーー?
促された少女は自分の前を通りすぎる。
それから遺体の傍らに膝を落とした。
「見ていてご覧」
優しい眼差しを彼女に向ける。
とりあえず老人のいうことを聞き、女の子を見つめた。
鼻をぐずらせ嗚咽を漏らす。堪えるようにし、遺体に手をかざした。
すると青白い丸い塊がにゅるりと姿を表す。小さな手のうちにスポッとおさまった。
「あれが魂だよ」
「たま、しい」
呆気に取られる。開いた口が塞がらない。
「あぁ。あの子はあれを食べなきゃ生きられない。人の生を齧らなければ、死んでしまう」
淡々と老人は語る。
「しかし魂には鮮度がある。それが体から出るのは、死んでから十五分以内だ」
火の玉に唇をつけ、それから丸ごと彼女は飲み込んだ。
「頼みがある」
男の方に顔を向ける。
開かない瞳は、確実に自分の顔を見つめていた。
「あの子のために、人を殺してはくれないか」