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壁の時計は午後九時二十分を指している。
歩は会場内の楽屋にいて直人が仕事を終えるのを待っていた。
真冬である。石油ストーブに火を点けて暫く経つので部屋の中は徐々に温まってきたけどまだ寒い。
化粧を落として衣装も脱いで灰色のパーカとスウェットパンツに着替えた。首にはマフラーを巻いて靴下を二重に穿いている。元々体力がないので温かくしていないとすぐに風邪を引く。
楽屋には大きな鏡台があってパイプ椅子が四個並んでいる。他にキャメルの革の一人掛けのソファーと赤い革のソファーがある。中央には事務机が二つ向かい合って置かれている。小さなキッチンがあって小さな食器棚の上にポットがある。
歩はストーブの前のパイプ椅子に座っている。
「苛々する」と不意に單が呟いた。演技中はアップにしていた髪を今は下ろしている。胸まである長い髪を單は左手で乱暴に掻き回す。
單はソファーに座って目の前の鏡を見ている。
單はいつも不機嫌である。今は赤いアイシャドウが余計に凄味を増す。
ソファーの肘置を左手で握り締めている。その手や肩が震えている。それを見て舌打ちした單は泣きながら鏡台の上の金属製のケースを右手で取る。右手で蓋を開けて右手で錠剤を取って口に入れる。同じ右手でペットボトルの水を飲む。ゆっくり深呼吸をして鏡を見る。
「今日の演技よかったよ」
龍水が言うと單は鏡越しに彼を睨んだ。「よくねえよ」言いながら鏡越しに歩を見る。
「見るな」
歩は目を逸らして項垂れた。
龍水浩章は笑っている。單の隣に座っている彼は派手な衣装を着ている。水色と黄色と緑のカーテンみたいな衣装である。
顔全体をドーランで白くして目の周りを黄色く塗って唇に赤い口紅を塗っている。
龍水は鏡を見ながらオイルで顔の化粧を拭い取る。
素顔はあっさりしている。皺が少ないし痩せている。黒い髪は長めで一重の切れ長の目が知的である。三十代半ばぐらいに見えるけど本当は五十歳である。
彼は音楽好きでテクノもポップスもクラシックも聴く。
彼が全員のメイクを担当するので歩も夕方にメイクをしてもらいながら歌が上手い歌手の話をした。
彼は美空ひばりは別格だと言う。
單は鏡を見ながら化粧を落としている。目の周りにクリームを塗って延ばすのでアイラインが滲んで広範囲が赤黒くなる。
直人は勝手口の前の床に座っている。彼は演技が終わると舞台機構の点検をする。少し前に楽屋に戻ってきて今は右手で足に包帯を巻きながら左手に鉛筆を持って業者の注文用紙に文字を書き込んでいる。彼の衣装はまだ濡れている。
單は空中ブランコ、龍水は大道芸、直人は動物の調教師。
單と直人は華やかな容姿もあって観客からアイドルのように扱われている。龍水はトークが巧みで観客に絡むのが面白い。
団長の始位俊介はアクロバットが得意で体力もあるので大きな装置を使って危険だけど迫力のある演技をする。とても盛り上がる。
鏡に單が映っている。單が歩を見ている。目の周りが黒い單の瞳に吸いこまれそうになる。緊張した。体の中が熱くなって手が震えた。眩暈がしそうになっている。涙が出そうである。
單が横を向いた。唇が厚い。
歩は右手で目を擦る。左手で頭を掻く。フードに埋もれていたイヤホンを探り当てて装着すると單の背中を見ながらポケットの中のプレーヤーのボタンを押す。
海外のロックバンドの曲を聴く。グランジというジャンルの曲らしい。前に單と一緒に聴いた。單は外国の派手で反社会的な曲が好きである。單も歩もクラシックも好きである。チャイコフスキーとサン=サーンスが好きである。『オルガン』が好きである。
暫くすると直人が歩の傍に来た。ティッシュで歩の鼻を摘むので遠慮せずに鼻をかむ。直人はそれをゴミ箱に捨てて歩の前に屈む。チューブに入ったクリームを押し出して適当に歩の顔に付けるのでそれを指で延ばす。
彼は立ち上がると歩に手を差し伸べた。その手を握ると直人は強く握り返して歩を引っ張った。楽屋を出る。