1-1
地上十メートルの高さに設置されたロープの上を慎重に歩く。シルクのシンプルなドレスは胸元に白いバラのコサージュが付いている。パールやレースで飾られた白いパラソルでバランスをとる。
舞台の端から端まで渡り終えると観客が拍手をした。スカートを摘んで頭を下げる。
照明が消えてホールは暗くなった。暗闇の中で歩は舞台袖に退く。
巨大な水槽が舞台上に降りてくる。円筒型の水槽に照明が当たる。
スカートの裾を引きずって仮設の足場から降りた時「お疲れ様」と声が聞こえた。
調教師の連記直人である。
直人と歩とは二歳しか年が違わない。歩は十七歳、直人は十九歳である。
直人は背が高くて容姿が優れて美しいので客に人気がある。どちらかというと甘い顔だけど滅多に笑わない。
出番が近い直人は水槽の方を見ている。水槽は青白くライトアップされている。
直人の腕を掴もうとした時、後ろに肩を引っ張られた。驚いて振り向くと單が大きな手で歩の肩を掴んでいる。
單はお姫様みたいなドレスを着て茶色の長い髪をアップにしている。美人なのでそんな格好がよく似合う。繊細なようで大造りな独特な雰囲気を放つ單の美貌に憧れる。
駒坂單は直人にほぼ並ぶ長身である。年齢は二十八歳。瞼に赤いアイシャドウを入れた切れ長の目で歩を見ながら神経質に細い眉を歪める。
俯いて茶色いドレスの腰から小さな金属製のケースを出す。中のガムを摘んで口に押し込む。顔を上げて再び歩を睨んで低い声で言う。
「どいて」
直人が仮設の階段を上がっていくと單は苛立った様子で広がったスカートを乱暴に触りながら俯く。
「ごめんなさい」
謝って道を譲った。だけど單は足を動かさない。歩を見て歩の肩を突き飛ばした。パラソルが床に落ちた。
「何だ?」
舞台袖の椅子に始位俊介が座っている。
真っ黒のスーツを着た大柄な彼は還暦を越えている。端正な顔立ちをしていて品が良くて紳士風で年配の女性客は大抵始位を目当てにしている。だけど彼は皮肉屋で暗くて残酷で奥さんを殺したなんていう噂まである。
「なんでもありませんよ、団長」
單は始位に向かって微笑むと歩が降りてきた階段を上がっていった。
始位は歩を見て楽屋に帰れと言う。
パラソルを拾って通路に出るドアに手を掛ける。だけど始位がこちらを見ていないのを確認するとすぐに緞帳の間に隠れて天井の近くにいる直人を見上げた。
直人はフライ・ブリッジの上で胡坐を掻いて水槽の中を見ている。彼がいるのは客席からは死角になっている所である。
ゆっくりと照明が明るくなって水槽の中の大きな魚が見えてくる。
虹色の鱗は美しい。だけど裂けたような口や爛れて腫れ上がった頭は醜い。体長はシャチほどもある。
舞台の照明が濃い青に変わる。
水槽の底にはサンゴと砂利。
直人は水槽の上から水中を見ている。
魚は直人が水面に手を浸けると敏感に反応して見上げた。
直人が飛び込む。プロの選手のような美しい軌道で水槽の底まで潜っていく。クロールで上や下、端から端へと泳ぐ。魚の体に沿ってぐるりと回る。
魚がじゃれるように横に倒れて直人に凭れかかるとそれをかわして微笑む。魚の腹を撫でて魚の背中に自分の背中を乗せて魚の体に沿って泳ぐ。