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猫又

作者: 戀一色

 世界が病んだ。「そういえば、今夜は冷え込むって天気予報で言ってたな」、考えながら瑞希は自転車を漕ぐ。晩秋の時節、街灯が煌々と映える帰り道。吹き付ける凩、寒さに耐え切れず何度も温めた手を耳に押し当てる。

 大通りを過ぎて路地へ入っていくと、空き地に辿り着く。瑞希はいつも、この空き地で、少しの間だけ過ごしていた。始まりは一年ほど前。彼が高校一年生の頃に、たまたま通ったこの空き地に猫が集まっているのを見たことであった。瑞希の家では犬を飼っているが、猫は飼っていない。猫が大好きな瑞希であるので、思わずその日は気付けば一時間も過ごしてしまった。今では十分程度だが、毎日のように入り浸っているのである。

 猫耳のついた黒のパーカーを着た青年は、空き地に寂しく据え付けられたベンチに腰掛けた。周りに生えている名の知らぬ雑草をちぎり、寄ってくる猫と戯れる。その時間はたった一つ、彼にとって最高の癒しであった。

 最初は一匹であったのが、瞬く間に増えていく。そうして猫に囲まれた時、“猫の踊り場”という伝承を彼は思い出す。これもまた高校一年生の頃、学校の古典の授業で聞いたものである。どの作品を読んでいた時のことであったかはもう記憶には無い。彼が“猫又”という物の存在を知ったのも、その時であった。猫又というのは日本の尻尾を持つ妖怪のことで、人に化けて喰らう猫のことである。オカルトじみた話が大の好物な瑞希、自身のあだ名が、猫耳のパーカーを着ていることにより転じたクロであることから、とりわけこの猫の名を冠す妖怪には何をもってか親近感が湧いていた。オカルトに限らず、未知の世界、卓越した能力、そんなありふれた空想に駆け出してしまうのが、瑞希の平生の癖であった。しかしそれは、ただ彼の幼稚な妄想癖にだけ由来するものではない。実際、彼には世間で言われているところの“共感覚”というものを持ち合わせていた。相手の気持ちが、あらゆる色のオーラになって、蜃気楼の如く、または煙のように立ち昇ってくるのである。それは、他とは違うという、頓狂でありながら確固たる自信に変わり、それが過去に変人として淘汰されるべく人間に化かしてしまったのだった。

 猫又に親近感が湧くのは、自分がこの妖怪と同じように、集団意識という刀を持つ武士に斬りつけられる側の存在であると、感じているからなのかもしれない。そう思い始めて仕舞えば最後、際限なく悲しい物語を思い出してしまうのである。

 忘れたい一心で、首を乱雑に振り回す瑞希。それから大きなため息を吐いて、隣で丸くなっている黒猫を撫で回す。

「俺だって……」

猫の群れを驚かしてしまわないように、徐ろに立ち上がりながら呟く。誰に届けて良いかもわからないその大きな荷物は、絶えず瑞希の心を押さえつけているのであった。

 そのまま空き地を去って、家の近くのコンビニへ足を運んだ。特に商品棚を物色することもなく、真っ直ぐにレジへ向かう。四、五十代ほどの男性店員。いつものようにホットミルクを頼んだ。瑞希の好物であるが、これもパーカーと同様、あだ名に帰結するのである。

 コンビニを出て、念入りに息を吹きかけて冷まそうとする。これでもかと吹きかけたあと、口をつけると瑞希は舌を、少し出して痛がった。「もう少し経ってから飲もう……」右手に持ったまま、のんびりと帰路に着くのであった。

 ホットミルクが冷え切った頃、ようやく家に辿り着いた。時刻は八時を回っている。なんの変哲も無い日常のセーブポイント。

「ただいま」

たった一言、言い残して自室への階段を登っていく。瑞希はこの時間が好きでは無かった。両親の鎮座するリビング、ドアを開けたその刹那に鉛玉を打ち込まれてしまう。そんな恐怖が彼にはあった。自室に荷物を置いた後、入浴、食事を通してケージに閉じ込められる。そこに逃れようのない息苦しさを感じるのである。会話一つとっても、地雷原を歩く心地がするのだ。身動きが取れない、その上、爆発させてしまった過去の幻影に苛まれる。それは、トラウマの百鬼夜行というべきであろうか。

 漸く自室に戻ってくると、瑞希は途端にベッドに倒れ込んだ。閉め切ったカーテン、橙色の仄かに光る照明。辺りを見回して長い一息を吐く。それからそのまま静かに瞼を閉じる。そうして夜と別れようとするのだ。しかしこの日は、なかなか繋いだ手を離してくれなかった。不甲斐なくも、幾度となくこの場所で流した涙を思い出していく。百鬼夜行は安らぎが守る、この自室にまでやってきたのだ。逃げるようにして布団で全身を覆い、小さくまとまる瑞希。結局この日は、怖がり疲れて気を失ってしまうまで眠れなかった。

 朝が迎えにやってきた。目覚ましがやけにうるさく響く。寝ぼけた瑞希は、いつもより少し遅い起床に一瞬で目が覚めた。数秒遅れて今日が土曜日だと思い出すと、暖かさに負けてもう一度布団を被るのであった。

 次に目を覚ましたのは、正午を過ぎた頃。家には瑞希たった一人だけ。せっかくの休日、ただ寝ているのは勿体無いとは思いながらも、昼食をとって仕舞うと瑞希の体は錆びついた玩具のように動かなくなる。諦めて、もう一度眠りにつこうとした時、彼は突然訪れた。

「こんな昼間に……どうしたの?モズ」

「そんな嫌そうな顔するなよ〜クロ〜。どうせ暇してるかなって思ってさぁ?」

右手にビニール袋を下げた青年が言う。百舌鳥一毅、モズとはあだ名である。まだパジャマ姿の瑞希を見て微笑んで見せた。

「もしかして、今起きたばっか?」

「そうだけど……悪い……?」

また一段と、瑞希の目つきが鋭くなる。「いや、悪かねぇけど……」と毅は頭を掻きながら苦笑を浮かべた。瑞希の部屋に着くと即座に、毅は閉め切ったカーテンを開けた。斜陽が眩しく部屋中を照らしている。気持ちは澄んだようだが、どこか喪失感のあるように瑞希は思った。

 毅が家に来たのに、特に理由のないことはすぐに判った。というのも、袋に入っていたのはコンビニで買ったお菓子や飲み物、それ以外には財布とスマートフォンしか持っていなかった。本当にただの暇つぶしなのだろうと、瑞希は少し安心した。

「二人だけで会うのは、久しぶりだな」

「……そうだね」

気楽そうに投げかける毅と、慎重に受け取る瑞希。対照な二人は、思い出話で調和された。

「昔はもっと遊んでたよなぁ〜。今は受験だから仕方ねぇけどさ。それこそもっとガキんときはやんちゃしてたよな」

「……まぁ」

次第に塩らしさが増していく。毅の語る思い出をそっちのけに、浮かぶ丁稚な幻影に辟易しているのである。

「クロもさ、もっとなんか、乱暴だったよな〜」

「…………うん」

幻影がより鮮明になり、記憶をかき消そうと首を振る瑞希。何度振ろうと消えない記憶。その当時、瑞希は今では考えられないほど活発で、それと共に、少しばかり乱暴。どちらかといえばいじめっ子に近い性格であった。多くの友達と喧嘩し、傷つけたその過去。そこに、のちの良心に呵責され生まれた後悔と、その行為の源泉には幼さにのみ宿る、制御し得ない狂気によるものだという割り切った考えが瑞希には生じるのである。多数による親切心と少数による自己弁護。この途方もない論争に、抜け出せぬジレンマに引き摺り込まれて仕舞うのである。

「お〜い、聞いてる〜?」

「あ、あぁ……ごめん、なんて……?」

毅の声で、瑞希の葛藤は台風が如く通り過ぎていく。

「おいおい、しっかり聞いといてくれよ〜。今はもう、アレ、やってないのか?」

先ほどまでの温かな視線が、少し温度を下げ、瑞希の両腕に落ちる。

「……うん。今はやってないよ」

瑞希はパジャマの袖を捲り、そっと両腕を毅の方へ差し出してやった。冷たい視線は、依然として瑞希の腕を突き刺す。

「だから、安心していいよ」

彫像のように固まる毅に、瑞希は優しく投げかけた。魔法が解けたように、腕を凝視していた顔は、破顔した。

 リストカット――刃物を用いた自身の否定とも言えるその行為を、瑞希は頻繁に行っていた時期がある。契機は、小学校を卒業し中学校に進んだその年のことであった。実のところ、小学校の時に瑞希は恋心を萌芽させていた。それが実り、花を咲かせたのが中学入学後の夏頃であった。一足早く咲いてしまったその花を、他は見逃さなかった。それは、妬みや嫉みの類ではない。今では瑞希はそう思っている。ただ、何処か物珍しげなその花を、手折りたくなった。そんな、幼稚で純粋な狂気から数段進んだ、他者を顧みぬ享楽的な好奇心が、潜在的に隠れているのだと、そう折り合いをつけているのである。今でこそ、そうは思えているものの、当時はそんな余裕は無かった。“アダム”と“イヴ”のあだ名を用いて、バレていないつもりか、根も葉もない讒誣に勤しんだり、下校するのを尾行したり。それだけで咲いて間もなく、厳しい寒さを知らぬ花を枯らすのには、充分であった。次第に目に見えて弱っていく彼女。

「私、このまま家出して、何処かで死のうかな」

とまで言い出す始末であった。人に頼ることはできなかった。人間全てが、敵のように、瑞希には思えたのだ。自分も、相手も、どちらも救えぬまま、蜘蛛の糸の届かぬ地獄まで落ちていく。リストカットに出会ったのは、そんな時であった。

「てか、なんであんなこと始めたんだ?なんかテレビとかで見たのか?」

「……わからない。あんまり覚えてない……」

なぜその行為に及んだか、瑞希は今でもわからないままでいた。ただ、瑞希にとっては、内なる声に従った。それだけのことであった。

「あーいうのって、痛くなかったのか?」

矢継ぎ早に飛んでくる質問。埃を被った粗大ゴミたちを漁るように懸命に思い出そうとする。

「痛くは……無かった」

最初は、小さな傷だった。普通にしていても、他人に見つかることのないぐらいの、その程度の傷であった。心の余裕が無くなれば無くなるほど、痛みは感じなくなり、傷の深さも大きさも、加速的に悪化していくのである。

 初めてそれがバレた日のことを、瑞希は鮮明に覚えている。木々が葉を落とし始めた頃。木工室に偶然落ちていたカッターナイフの折れた刃。それを見つけた時には、もう遅かった。気づけば手首は鮮明な赤に彩られ、視界が心臓の鼓動と共に脈打つのである。

「あんときは俺もびびったよ。ごめんな。止められなくて」

先ほどの視線に感じた温度より、更に冷えた声で毅は言う。はっきりと言ってしまえば、毅に非は微塵もない。だと言うのに繰り出されるその謝罪に、瑞希はまた更に押しつぶされそうになる。ただ無言で、大きく首を横に振る。

 その後は、疾風の如く片付いた。と言うより、片付けられた。目撃者の多数いる中での自傷行為。当然騒ぎにならない訳もなく、すぐさま授業の担当教員に報告。そうして担任、次いで親へ。迅速に情報伝達は行われた。その後の世界は瑞希にとって、嫌になるほど温かった。それまで関心を向けてくることの無かった親、担任、そして嫌がらせをしてきた当事者までもが、優しさを向けてくる。感謝をすべきだとはわかっていても、どこか気味悪く思わないではいられなかった。

 リストカットは、長く続いた。その行為が、精神を安定させる術として、垢のように染み付いてしまったのだ。そしてそれが、更なる苦しみを呼ぶとは、その時の瑞希には、悟ることは出来なかった。バレなければ貼られることの無かった、精神の脆弱性を持つ人間、所謂メンヘラというレッテル。向けられる奇異の目。苦しみから逃げようと手に取った禁忌――自分を傷つけるという行為は、また更なる苦しみに繋がっていった。

 苦しみから苦しみへの一方通行を辿る間に、生温い優しさは通り過ぎていった。瑞希が別の苦しみに悶えていると言うのに。周りの人々は皆、苦しみのどん底から、瑞希が這い上がることが出来たとそう思ったのだ。

「本当、今が元気そうで良かったよ。あんときは放っておいたら死ぬんじゃねぇかって思ったもん」

これだ。そう、これだ。瑞希は思う。瑞希本人としては、あの日から何も変われていない。進めていない。立ち直れていないと言うのに、周りだけは進んでいく、置いていってしまう。やめてくれと願うのは些か我儘か、そう思ってしまうが故に、本当の事を言えずにいる。理解が段々離れていく、人の道を外れ、獣道へと堕ちていく。そんな感覚に苛まれるのだ。

「そんな訳ないじゃん!やめてよね」

瑞希は微笑んでみせる。否定は出来ない中で、これが精一杯の返しであった。しかし毅が、瑞希にとって、自分の事を何も理解をしてくれない敵、と言うわけでは無かった。寧ろ、その敵はもっと身近にいた。

「……あぁ〜……。最近は、家族とは、どう?てか、今親いないよな?大丈夫?」

「うん……大丈夫。……まぁまぁかな」

瑞希にとって、最大とも言うべき敵は、家族であった。事が起きてから暫くの間は、腫れ物に触るような態度であった。しかしそれが過ぎると、態度は豹変してしまう。

「またそれで病むんでしょ!?」

瑞希の頭に、霰のように強く固く降り注いできた。何度も聞いてきた呪詛のような言葉。親からの理解を得る事を、諦めさせた最後の一撃。あまりの嫌悪感に、衝動的に大声を上げてしまう瑞希。

「うわ!びっくりした……なんだよいきなり大声あげて……どうかしたのか?また、なんか嫌なことでも思い出したのか?」

「……ごめん。まぁ、ちょっとね……」

迫り来るトラウマの津波に、呑まれそうになる。

「ほら、これ、気落ち着かせる為にさ、飲めよ」

持ってきたビニール袋から何か取り出す毅。放り投げられて瑞希が受け取ったのは、手のひらサイズの牛乳であった。

「これ温めて来いよ。あれ、パックのままレンジで温められたっけ?」

「……昔それやって、失敗した。破裂してレンジが牛乳塗れ。親に怒られた」

側から見れば、取るに足らない小さな失敗。けれども瑞希にとっては思い出すだけでも腹立たしい物であった。

 牛乳をマグカップに移して温めた後、毅の元へ戻る。そのとき。またもや呼び鈴が鳴る。

「あぁ、なつじゃねぇか?俺、来る前に連絡しといたんだよ」

扉を開けると、毅の言う通り、そこには、なつと呼ばれる少女が立っていた。犬飼夏海。毅と同じく瑞希とは付き合いの長い親友だと言える。

「ほんっと!もっと早く連絡しなさいよ!気づかなかったじゃない!」

スポーツドリンクを片手に佇む彼女が言う。ジャージ姿で、全身からは湯気が立っている。

「あぁ、既読が遅いと思ったら、ランニングでもしてたのか?」

「えぇ、退屈だったのよ。そしたら知らない間にメッセージが来てたから……」

 部屋に入って、雑な乾杯をした。瑞希はホットミルクで、夏海はたまたま持っていたスポーツドリンクのペットボトルで、毅は瓶の栄養ドリンクという様子だった。

「にしても、久しぶりよね。いきなり呼び出して、何かあったの?毅」

「いーや、特に何も。ただ、久しぶりに声が聞きたくなったんだ」

「……いつも、学校で会って話すのに……」

瑞希がぽつりと呟く。「学校とはちょっと……違うじゃん?」と毅は陽気に笑って返す。

「それに、最近、クロが大丈夫かなぁって、心配になったんだ」

「ふーん。そういうことね。まぁ、今まで沢山苦労してきたものね?瑞希」

二人にまじまじと見つめられ、バツが悪そうにする瑞希。夏海の言う通り、中学入学後、初めて虐めと呼べる事態に出会ってから、少なくとも。普通とは言えない道を歩んできた。

「中学校の時の彼女ちゃんの相談に乗ってたの、今でも覚えてるわ〜」

「あれ、あいつは一人目だっけ、二人目だっけ?」

「二人目の子よ。重い病気があった〜っていう」

二人目の子――中学二年から高校入学直後にかけて付き合っていた相手のことである。リストカットの件は、どこから話が漏れたのか、瞬く間に広まってしまった。しかしそれが、多くの人間との関係を生み出した。そこに優しさや温情などは微塵もなく、ただ面白がってのことであった。常に視線を感じる上、リストカットの真偽を問うものまで現れた。とある場所では腫れ物のように、また別の場所では玩具のように、たった一人“猫宮瑞希”という人間として扱ってもらえないそんな日々に、嫌気がさした時、彼女に出会ったのである。

「あれ、最初はどこであったんだっけ?」

「ちょっと!あんまり昔のことを……」

「……えっと……委員会の時、だったかな」

止めようとする夏海の言葉を遮り、瑞希は返す。当時、瑞希は保健委員会に所属していた。というのも、ただの気まぐれで、事件後のカウンセリングなどで、保健室の担当教諭と親しくなったので、なんとなく参加してみよう。そんな調子であった。

「そのときに……二人の女の子に出会って……て言うか、何回かこの話、したよね……?」

「あれ、そうだっけ、忘れちまった!」

「相変わらずの鳥頭ねぇ……?そこでその子たちと仲良くなって、その時の彼女の相談をその子たちにするようになったんでしょ?」

夏海の言う通り、そこで出会った二人の女子二人に、悩みを打ち明ける事が多くなった。というのも彼女らは、瑞希に起こった一連の流れを知っていた。

「私たちでよかったら、なんでも話聞くよ」

そんな甘言に、飛びついてしまったのだ。当時の彼女ともども虐められてから、彼女は大きく変わってしまった。二人堕天をしたままに、瑞希の離れるのを酷く恐れた。

 中学二年になってから、作為があってか、二人は離れたクラスに分けられた。瑞希が一組、その彼女が八組。全部で九クラスあり、瑞希の学年は別館を一つ、一階から三階までを使っていたので、会いにいくのに取り越し苦労をするのである。とは言え、未だ充分に恋情は残っている二人であった。

「寂しいから、休み時間は毎回来てね」

それが、与えられた恋の試練であった。授業が終わるとすぐ、瑞希は階段を駆け上った。多少の無理をしてでも、会いにいく時間を作った。それは正しく、愛着の成せるものであった。

 そんなある日のことであった。どうしても時間が作れず、一度だけ。彼女の元へ行けないということがあった。

「もう私のこと、嫌いになったの?」

それが彼女の反応だった。その瞬間、瑞希の中で、何かの切れる音がした。積み上げてきた信頼と恋情が、一瞬にして瓦解した。否、最初から積み上げることなど出来ていなかった。そう感じるや否や、急速に、桃色の炎は鎮火されていったのだ。

「後から聞いて思ったんだけどよ。どうして嫌いになったのって聞かれてすぐ、別れようとか、そーいうことを言えなかったんだ?言ってすぐ別れたら面倒くせぇことにはならなかったのに」

「そう簡単に言えるものな訳ないじゃない!それに、その時はまだ、気持ちの整理がついてなかったのよね?瑞希?」

「……まぁ……そうだと、思う……」

そんな中、出会ったのが二人の女子たちだった。「そんな子、別れちゃいなよ」と彼女らは口々に言う。それを聞けば聞くほど、別れた方が良いのだと、よく咀嚼もせずに飲み込んでしまう。そしてそのまま、別れを告げてしまったのだ。

 別れるまでの道のりは存外、平坦では無かった。これもまた、瑞希の後悔の種となるのである。それは、瑞希の内に住む優柔不断なる心――中途半端な同情の心によるものだった。単刀直入に言ってしまえば、傷つけてしまう。そう変に気を遣ってしまったのだ。どうにか穏便に済ませよう。臆病な心が空回りした瑞希がとったのは、当時二人の間で行っていた交換日記。そこに「もう君とはつきあえない。別れたい」そんな旨を書いて渡したのである。当然、当時の彼女は納得するわけもなく、自分のもとへ押しかけてくる。彼女の必死さに少しの恐怖を覚えた瑞希は、友人に頼んで極力接触を避けるようになってしまった。それが瑞希にとって、今も後悔している悪手なのである。

 決して平坦ではない道のりだったが、終わりは案外呆気なかった。帰り道に待ち伏せされていたものの、瑞希自身で驚くほど、冷静に言葉を紡ぐことができたのだ。そうして、一つの恋の終焉を迎えたのである。

「でもまさか、その後すぐに彼女作るだなんて思わなかったわよ。また同じことを繰り返さないか心配だった」

「そうか?あの子だったら大丈夫そうかなぁとか思ったんだけどな?なんて名前だっけ?」

「えっと……確か、川野、川野佑香さん」

委員会で出会った女子たちの内、次の彼女になったのがこの佑香であった。瑞希にしては、今でも信じ難い話だが、知らぬ間にこの佑香と、もう一人の女子と二人して瑞希のことを好きになっていたらしい。それをうっかりこの佑香が口を滑らせたことによって、天秤は佑香に傾いてしまったのだ。

「まぁでも、すごい早かったよな。どうして付き合おうと思ったんだ?」

「……あの子なら、別に大丈夫かなって……」

特別な思いは、無かった。ただどこか、安心ができた。それだけの理由で瑞希は、交際を受け入れたのである。

「そんなんだから、また失敗したのよ!本当、私たちが見てなかったら今ごろどうなってたか……」

呆れた口調で吐露する夏海。苦い顔をしている。

 二度目の花は、前よりも早く枯れ始めた。しかしきっかけは同じで、他者からの手折りである。この手の手法は、火種に空想によるデマを焚べるのが常套句ではあるが、今度の場合、それが陰湿では無かった。世間で許容される、所謂、いじり。そしてその境界を越えた虐めへ。利己的な好奇心の享楽性の突き動かしたものであった。

「そっちの方は、ようやく、クロが俺たちに相談してくれてなんとかなったけど……川野さんの方はなぁ……」

毅は腕を組み、大きく頷いて言う。「そうね……」と夏海も便乗して返す。瑞希はここで、やっと勇気を出して二人を頼ることが出来た。しかしながら、嫌がらせについては対処出来ようとも、どうにもならない問題を瑞希は、否、佑香が抱えていた。

「まさか命に関わる病気を持ってたなんてなぁ?」

「私は気を引きたいだけの嘘だと思ってるんだけど……」

「でも……授業中に過呼吸になって保健室に運ばれるとか、結構あったし……」

俯く瑞希は、そう静かに返した。佑香は、肺に重病を抱えていた。瑞希と付き合っている間、長期休暇に入ると、検査のために病院に入院したり、会って話しているといきなり泣き出して「私、あと七年しか生きられない」などと言い始める次第で、瞬く間にクラスでの嫌がらせとの板挟み状態となった。

 それでも、瑞希は佑香から離れなかった。しかしそれは、障害の与えられた恋への熱中、盲目になっているに過ぎなかった。

「残り時間が、どれだけ短くたって、最後まで好きで居続けるよ」

それが、瑞希の佑香にかけた言葉であった。そのまま二人は高校へ進学。瑞希は、毅と夏海と同じ公立の高校に。佑香は私立の高校に入学した。距離が離れ、話す時間も短くなるにつれて、次第に二人の心の距離も遠ざかっていった。

 佑香は、部活での人間トラブルによって気を酷く病み、ストレスを瑞希にぶつけるようになった。

「話しかけてこないで、もう別れたい」

などといきなり連絡が来たかと思えば、やっぱり嫌だ。幾度と無く繰り返した。そうする内に、瑞希の方に嫌気が差してしまった。

 瑞希は、高校に入ってから、中学時には入りたいと思っていたが、入学と共に廃部になった文芸部に入部した。瑞希は読書が好きだった。それは、物語の中に入り込み、無情な現実から逃れることができるからであった。そんな中で、似たような仲間を多く見つけ、瑞希の生活は全く新しいものに変貌していった。その過程で、佑香に振り回される事に苦痛を感じ、関係を断ち切りたいと考えるようになったのである。

「あん時は大変だったわよね〜。私と毅で、どうやって別れたらいいかって瑞希からの相談に乗ってさ〜」

「あぁ……んなこともあったなぁ……何言ったか覚えてないけど。でも、今が幸せならいいじゃねぇか!」

「うん、そうだね……」

話が一段落ついて、瑞希の顔にも明るさが戻ってくる。三人は顔を見合わせて、三者三様に希望を浮かべた。

 三人で話し始めて二時間が過ぎ、日の傾き始める頃。毅がバイトだと言うので、解散する事になった。

「今日は楽しかったぜ!またいつでも話そうな!困ったら力になるしさ」

「そうよ〜。また恋に悩んだら、私に相談しなさいね〜!今の彼女さんと、仲良くやるんだよ!」

「……うん、ありがとう……」

 二人を送り出して部屋に戻ると、そこには日常が戻っていた。けれどもこの時ばかりは、何か物足りない。そう感じる瑞希であった。

 二人と入れ違いで、瑞希の母親が帰ってきた。

「今、毅くんと、夏海ちゃんに会ったけど……さっきまでうちに居たの?」

「……うん」

蛇に睨まれたように、身が竦む瑞希。母親は、決して怒っているわけではない。瑞希にだって、それはわかっている。しかし、しかしなのだ。心の古傷が、自然と開いてくるように感じられるのである。

「また、あの時みたいに迷惑かけてないでしょうね?あの子たちの優しさに、いつまでも甘えてちゃダメよ」

瑞希は無言で頷いた。自室のドアをいつもより丁寧に締め切り、大きく、溜め息を吐いた。二階の窓からは、今にも沈もうとする夕陽が鮮明に映った。もうすぐ夜が来る。

 その日の夜は、いつもより感傷的な、そして自己否定的なものになったのであった。

 その翌日、日曜日。瑞希はわけもなく書店へ向かった。目当ての本があるわけでもなく、ただ、活字に呼ばれているような、そんな気がした。

 瑞希が文芸部に入ったのには、特に理由はない。そもそも、瑞希は昔、あまり読書が好きでは無かった。中学でのあの事件までは、運動が大好きな、風の子と呼ぶに相応しかった。それが、数々の抑圧を経て、運動さえもする気力のなくなった。そんな状態のときに勧められたのが読書であった。初めて読んだのは、太宰治の『人間失格』で、当時の瑞希の拠り所になったことは間違いない。主人公の、絶望の淵に立ち、数奇な人生を辿っていくその様に、瑞希は自己投影を成した。極寒の闇世界に暖かさを感じたのだ。そこから読書に夢中になることは無かったが、時を経て高校入学時、入部の決め手にこの出来事があったことは、言うまでもない。

 文学との邂逅は、良くも悪くも瑞希の心を動かし続けた。勇気を与えたことも、辛いことからの逃げ場になったことも、悲しみを共に明かした夜もあった。作品を一つ読めばその度に、自分があの暗いどん底から少しずつ這い上がることが出来ている。そんな様に思えるのである。

 この日手に取ったのは、一作の中篇小説であった。初めて聞くような名前の作家。表紙の、一面の赤の上に麗しく添えられている『独白』の文字に、引き込まれた。背表紙までもが赤で染められていて、あらすじも特に書かれていない。開いてみるまで、何があるかはわからず、それはパンドラの匣のように思える。

 一日を費やして、読破した。内容といえば、日記の体をしていて、日々の不満などを記していくうちに瑣末な不快感さえも拭い去ることも出来ず煩悶し続け、仕舞いには自殺をしてしまう。そしてその日記が一夜にして遺書に変わり果ててしまう、そんな結末であった。読み終えた瑞希は、後味が悪く思った。違和感が絶えなかった。自分の心の中に、酷いしこりが出来てしまったように思えた。心に蟠りが残ったまま、お供にしていたホットミルクを飲み干した。その熱は確かに体の中へ飛び込んでいったが、心だけは暖まらぬままであった。



 胸につっかえを残しながらも、新しい世界は訪れる。気温はますます下がっていて、辺りは霞の立ち上る、白日神秘的な世界が、扉を開いた先に広がっていた。自転車のサドルについた水滴を払っては手に白い息を吹きかける。そうして、冬の寒さを実感しながら登校する。瑞希の家から学校までは、凡そ四十分。到着する頃には、すっかり体は暖かくなっていた。

「あ、やっと来た!遅いわよ!せっかくわからないところ聞こうとしてたのに……!」

「それは俺、悪くないじゃん!」

既に登校していた夏海、次いで毅が瑞希の元へ寄ってくる。自分の荷物を出すより前に、夏海のわからない問題を教えてやる瑞希。すると、他にもわからなかったクラスメイトがぞろぞろとやってくる。五分足らずで瑞希は囲まれてしまう。一通り解説してやると、周囲は感嘆するのである。

「流石瑞希よね〜ありがと!」

冬の白天に吊るされた太陽に負けじ劣らじ、明るい笑顔を瑞希に向ける夏海。便乗して、他のクラスメイトも口々に瑞希を褒める。瑞希は昔から、要領が良く、学業には困ることは無かった。その点に於いては、他人からの信頼を厚く得ているのであった。

「ほんと、次元が違うよな。尊敬するわ」

不意に耳にした言葉。瑞希は周りにバレぬ程度に固まる。高校に入ってから、瑞希は淘汰されぬよう、懸命に立ち回った。それはおおかた成功したが、別の苦しみへ直面する事になったのである。他人を想うこと、それ即ち他人に溶け込むこと、自分を抑え込む苦しみ。それは、無いわけでは無いが、瑞希にとってあまり問題では無かった。なぜなら“皆んな同じようにしている”というテンプレートをなぞった答えに、苦しみを投げ込むことができたからである。何よりも問題となったのは、淘汰されぬ人間という理想像を追い求めたその先に、尊敬や賛美という名の、また別の淘汰、排斥が待ち受けていたことである。比喩の込められた“人間じゃない”や“化け物”という言葉も、素直な賞賛も全て、瑞希を撃ち抜く銀の弾丸となるのである。周りは無意識に引き金を引く、撃ち抜かれるたびに、誰も理解してはくれないと、強く感じるのである。

 これは、部活にも言えることだった。読書にのめり込む一方で、自分で書くという事にも、瑞希は興じる事になった。初めこそ、なかなかに苦戦を強いられたものではあったが、めきめきと力をつけて行ったのである。小さな文学賞に応募し、最初は第一次選考すらも突破出来なかったものが、今では高校に錦を飾ることもあるのだ。そんな瑞希の姿を見た後輩ならば、憧れるのは無理もない。しかしこの、同じ世界に生きる仲間だと思っていた人間達からの敬遠というのは、瑞希にとって、耐え難く苦しいものであった。だが唯一。その苦しみに寄り添ってくれる救世主が居た。

 長い学校での一日を終えると、瑞希は図書室へ急ぐ。その救世主に会うためである。

「あ、クロ〜!待ってたよ〜!」

「クロって呼ばないでって……何回言ったらわかってくれるのさ……」

謝りながら、和かに笑みを浮かべるのは、猪又紗良。瑞希の現在の交際相手である。親しくなったのは、部員の少ない文芸部であるが、二人以外の部員がそれぞれ事情により部活を欠席してしまった時だった。紗良は、瑞希と似た境遇にたっていた。無口であるが、容姿端麗の名を体で表す容貌は、青春の真盛りを駆け抜ける男子から絶大な人気を博していた。それを快く思わない他の女生徒に、嫉妬を原動力に淘汰されたという訳である。

 お互いの悩みを打ち明けたことを皮切りに、関係性はより密なものになって行った。重なった視線遮るものは何もなく。夏海や毅に相談した時の、夏海の不満そうな態度でさえ、その時の瑞希には斟酌しかねるほど夢中だったのである。それは紗良も同じことで、遂にはどちらかがはっきり告白する。ということもなく交際に至ったのである。

 瑞希の心は、天高くまで舞い上がっていた。漸く似た境遇に生きる仲間を見つけたことに、往年の苦しみは払拭されたように思えたのである。

 瑞希の幸せと、紗良との絆とを、文学がより盤石なものにした。互いの書いた作品を批評し合ったり。互いの好きな作品を相手に勧めたり。そこには各々の好みが生じるが、決して歪み合うことはない。熱く語り合うことはあっても、排斥することはない。これこそが、自分の追い求めた理解である。瑞希はそうまで思えたのである。

「今回書いたやつは……どうだった?」

「良かったよ〜!瑞希の世界観って感じ!綺麗な青春の物語だったね!」

夕日の照った紗良の顔は、瑞希にとっては百億ドルの夜景にも勝る景色であった。一日の授業が終わってから部活の始まるまで、少しの間時間がある。他の部員は、開始時間直前にやってくるのでそれまでは二人だけの時間。この時間に、暖かなうたた寝のような心地を二人は見出すのである。

 紗良との恋は、瑞希の中で一等星となり燦然と輝いていた。その輝きは暗闇に覆われていたその心に手を差し伸べる救いの他にならなかった。何となく出会った文学というものが、瑞希を銀河まで送り出した。手の届かぬものと思っていたその遥か先、星を掴み取らせたのである。彼女との時間に於いてのみ、走馬灯の如く現れる自己の悲劇の回顧。それをしないで済むのであった。

 そんな一日の幸福の絶頂たる時間は、彗星のように過ぎ去っていく。部活が終わると、この日は二人で一緒に帰る事にした。帰ると言っても方向は一緒ではないので、瑞希が送っていくのである。高校から紗良の家まではそう遠くはない。歩いたとしても二十分程度のところにあった。冬の澄んだ空気に映えた街灯の光に迎えられて、儚く、煌めく結晶のような時間を過ごす。

「もう、十二月だね。一年ってさ、段々と早く終わるように感じるよね」

体の右側に自転車を押しながら、空を仰いで瑞希は言う。俯きながら歩いていた紗良は急に駆け出す。そして数メートル先で立ち止まり、振り返った。

「私はね!瑞希といろんな思い出を作ることが出来て、濃密な一年だったよ!とっても充実して長く感じたなー!」

無邪気な笑みを向ける紗良。冬に舞い降りた天女、逃すまいと瑞希は走って追いつく。お互いは顔を見合わせて、声をあげて笑う。

 紗良の家に着いた時、仕事から帰って来たであろう彼女の母親と出会った。すでに瑞希は顔見知りで、関係も良好である。

「いつもありがとうね。クロ君」

「クロはやめて下さいって言ってるじゃないですか……」

紗良によく似た顔で笑う母親。一緒になって笑う紗良の横顔に、瑞希はつい見惚れてしまう。

「あ、そういえば、クリスマスは二人で何処かに行くのかしら?」

二人揃って首を振る。「あちゃー」と、額に手を押し当て、母親は笑う。

「イルミネーションでも観に行ったらいいじゃないの。ここからならそこまで遠くないし」

「え!いいじゃん!瑞希、そうしよ!行こう!イルミネーション!」

紗良は目を輝かせて、真っ直ぐに瑞希を見つめる。その期待に応えて、瑞希は首を縦に振ってやった。新たに出来た聖夜の予定に、心を躍らせながら、自転車を漕ぐのであった。

 来る十二月二十五日。すでに終業式は終わっていて、冬季休暇に入っていた。午前から、昼過ぎにかけてには、早めの部活納めがあり、その後、二人で昼食をとってから目的の場所へ向かった。電車に三十分ほど揺られ、バスに乗り換え、少しの徒歩。昼食が少し遅かったので、着いたのは夕方五時ごろになった。日は傾き切っていて、さまざまな色の光が夜を艶やかに彩っていた。神々しく光を発する木や、長く続く光のトンネル。それを抜けた先に待つメイン会場の荘大かつ優美なその景観は、神聖な世界に迷い込んだかのようであった。二人は、呆然と立ち尽くし、ただ互いの手を強く握り締めるのみである。

 そんな真冬の夢から醒めてしまわないように、帰りも二人は、余韻に浸り続けた。この日も、瑞希は紗良を家まで送って行った。

「今日は、ありがとうね!すっごく……楽しかった!」

「うん、こちらこそありがとう。また来年も、行こう」

紗良は一瞬、顔をこわばらせて、それを掻き消すように花笑んだ。それは、二人の見たイルミネーションの放つ色彩の如く繊細で、儚さを感じられるような、そんな笑顔であった。

 それから再び学校の始まるまで、二人が会うことは無かった。それでも、話をしたいと思った瑞希は紗良にメッセージを送ってみるものの、いつまで経っても返事が返ってこない。それどころか、既読すらつかない始末である。いつもはその日のうちに返事の返ってくる紗良にあるだけに、あれこれとよからぬ不安を抱えてしまう瑞希であった。急に愛想を尽かされたのか。だとしたら何が原因なのか。別れ際に見せた、いつもとは少し違う儚げな笑顔は……。結局、返事のないまま冬季休暇は明けた。新年最初の登校日、勇気を出して紗良のクラスを覗いてみた。しかしそこに姿はない。酷い悪寒が、瑞希の全身を走った。その日は午前中で学校は終わり、帰り際に紗良のクラスの担任に声をかけられた。人の目の少ないところへ場所を移し、たった二人、対峙したその時、自分の中の直感が、悪い方向へアクセルを踏み切ったように感じた。

「ここ最近の紗良さんに、どこか変わったところはありませんでしたか?」

鋼鉄のように冷たく、重く響くバリトン。瑞希はそこで全てを悟った。けれども、頭でわかっても、考え得るその事実は畢竟、口に出せるものでは無かった。

「いえ……特に。最後に二人で遊びに出かけた後、急に連絡がつかなくなってしまって……」

「……そうですか……」

閉口する担任。続く沈黙。間が開けば開くほど、瑞希の中で冷静に整理がついてくる。身に余る悲しみに、背後から殴られたように思えたが、事実の冷たさは、滴るはずの雫でさえ凍らせてしまった。

 それから、瑞希はことの顛末を聞いた。瑞希の思った通り、自殺であった。首を包丁で切ったことによる出血多量だという。けれど、二人で遊びに行ったその日でなかった。紗良の死んだのは、昨日、のことであったという。瑞希に声を書けたのは、休み中に唯一あったのが瑞希であったこと。紗良と交際をしていたこと。瑞希宛に遺書が残されていたことが理由であると、担任は語った。そして、封筒を取り出し、渡した。表面に“瑞希へ”と書かれている。勇気を振り絞って、中の手紙を読んでみた。


瑞希へ


 急にお別れすることになってごめんね。ひと足先に、天国へ征くことにしました!沢山の想い出をくれてありがとうね。周りがどれだけ私のことを攻撃してきたって、瑞希が味方でいてくれて、私のことを分かってくれたから。とっても助けられたよ!私はもう、耐えられなくなっちゃった。この苦しみが、ずっと続くと思うと。でも、分かって欲しいのは、瑞希が私の味方じゃなくなったとか、そんなことは無いの。ずっと続くこの苦しみの傍らに、必ずしも瑞希が居てくれるとは限らない。そう思えば思うほど、不安になっちゃったんだ。なら、まだ居てくれるうちに、持っているうちに。失ってしまう前に、幸せなまま……私は先に行くけど、上から瑞希のこと見てるよ。こんな私でごめんね。大好きだったよ。じゃあ、またね!


紗良より


 瑞希の頭の中を、心臓の拍動が支配した。次第に気持ちの悪いテンポで、誰かの歔欷が瑞希の耳に届いた。やけに視界がぼやけるので気づいた。その瞬間、全身の力が抜けて、崩れ落ちた。

 それから先のことは、瑞希は覚えていない。翌日、瑞希は高熱を出して、学校を休んだ。自室の中、何かから逃げるように、携帯を開く。ただひたすら、紗良とのトーク画面を眺める。既読の文字は未だつかない。つくはずがないというのに、瑞希は確認を繰り返す。何度も、何度も。その度に凄惨な事実を再確認し、自らの傷を一回、また一回と抉り直すのである。夢から醒めてくれと願わんばかりに、携帯の電源をつけては、トーク画面を開いては消して、またつけて……繰り返すうちに、午前が終わっていた。予め用意してもらっていた昼食を、やっとのことで食べ終えた。腹を満たしたと思えば、今度は赤子のように泣き叫んだ。少しでも、遣り場のないこの悲しみを、洗い流そうとするように。布団に包まり、その中で。枕に顔を押し付けて、濡らして。軈て泣き疲れて、瑞希は眠ってしまう。窓から差した光が、目尻に残る雫を宝石のように輝かせた。

 それから三時間ほど経った時、インターホンの音に、瑞希は起こされた。体を左右に揺らし、足音を鳴らして、その先で扉を開けると、夏美と毅が、冷色の塗られた顔で立っていた。

「……あれ、二人とも……この時間は授業じゃ……」

「ん?今日は授業は午前で終わりだぞ?」

「そ、で瑞希が来なかったから、少し心配になって来たのよ」

瑞希にはいつも眩しく見えていた二人。しかし今日は、明瞭にその姿を捉えることが出来た。

「……そっか。お見舞いに来てくれたんだ。ありがとう……」

「……あ、あぁ。なんていうか、その。猪俣さん、の事は、残念だったな」

ぎこちなく発話する毅に、横から叩く夏海。憔悴し切っている瑞希の目からでも、二人がとても気を遣っている事は明らかに分かった。

「……どうして、紗良のこと……」

「え、瑞希、あんた覚えてないの?昨日私たちに話したこと」

愕然としたような、呆気に取られたような、表情を固める夏海。毅は思わず、足元に目を遣った。

「駐輪場であんたを見かけた時、今までに無いくらい落ち込んでたから何があったのか聞いたの。それであんた『紗良が死んだ』って一言だけ。覚えてないの?」

少しずつにじり寄ってくる夏海。全身が微かに震えている。

「……うん。覚えてない」

「……そうか」

ぽつりと一言。毅が放った。玄関先で話していては、瑞希が可哀想だと二人が気を遣うので、会話の場所は瑞希の部屋へ移った。三人に注ぐ橙色が、静寂をも包み込む。

「あんたは、大丈夫よね」

「……大丈夫って……?」

夏海の言葉が、重厚な空気を切り裂いた。

「彼女ちゃんのあと、追ったりなんて、しないわよね」

「…………うん。しないよ。大丈夫」

言葉の往来のその間隙に、夕方五時の時報が鳴る。やけに煩く、耳に残った。窓から見える空も、いつもより鮮やかに、ブルーアワーの目立った。逢魔時、瑞希の心は、終始何かに魅了されているようであった。

 瑞希の返答に、少しは安心したのか、二人の顔に卒然と明るさが戻った。けれども瑞希の目には、二人の背後から呑み込まれそうなほど暗く美しい濃紺の靄が見えるのである。二人はそれに気づくわけもなく、顔には安心を浮かべながら帰り支度をする。

「何かあったら、ちゃんと、私たちに相談するのよ」

「俺たちは、クロの味方だからさ」

続けて何かを言おうとして、口がもごついたのを、瑞希は見逃さなかった。それと共に、背後の靄がさらに高くまでたちのぼり揺らめくのもである。

 二人を見送る瑞希の胸中は、妙に騒がしかった。親の帰ってくるいつもの時間までは、まだ時間があった。もう一度ベッドに入って、目を閉じる。そうして、邪悪な夢魔に出会うことの無いよう、祈りながら眠るのであった。

 それからの瑞希は、誰からみても明らかに憔悴していった。誰に何を聞かれても生返事をするばかりで、四六時中上の空である。紗良を失った衝撃は、大きすぎるあまりに紗良との記憶そのものを消そうと瑞希を嗾しかけた。けれども心に刻まれた思い出は、消えるどころか滲んでじわじわと心に広がるばかりであった。何をするにも気力の湧かぬまま。豪雪に埋められたように、前進することの出来ないでいるのである。

 自分の身の幸せが逃げていけば、付き合ってくれていた周りの多くの人間さえもが離れていく。弱りきった心ながら、瑞希はそう思った。というのも、瑞希の元気が失われた時から、徐々に寄ってくるクラスメイトが減っていったのである。それは、“優秀で善人な猫宮瑞希”という神話を途絶えさすまいと、重ね続けたメッキが剥がれ始めたことを意味していた。人は他者のうちに鬼を見る。突如として、笑顔に引き攣りが見られ始めたこと、視覚には無くとも感じられる負のエネルギー。攻撃はせずとも、離散していくのには充分であった。

 瓦解した砂上の楼閣のその跡地には、殆ど何も残っていなかった。残っていたのは、その楼閣の立つ、ずっと前から咲き続けていた盤石たる二対の巨木であった。しかしながら、この時から、萌芽する新たな関係に瑞希は惑わされていくのである。

 ある日の休み時間。夏海や毅は、瑞希に気を遣って頻繁に近づかなくなり、孤独を成すこととなった。居た堪れない気持ちで机に臥して寝ていると、枕にしていた腕に感触があった。

「あ、ごめんね。これ、英語の課題……置く場所もう少し考えればよかった」

「あ、いや……大丈夫……。ありがとう。久遠さん」

瑞希の返事に、慎ましく笑ったのは、久遠友海。クラスメイトの中で一番交流の少なかった人物に等しかった。「最近、ずっと元気ないね。どうかしたの?」

視線を合わせるために、机の前にしゃがみ込む友海。真っ直ぐなその視線に、言葉は詰まると思われたが、予想に反して瑞希は自然と発することが出来た。

「最近、結構辛いことがあってさ」

「それはそれは……。何があったの……って、これはあまり言いたくなさそうだね。仲の良さそうな百舌鳥一くんや犬飼さんには話したの?」

理路整然と、友海は話し続ける。だというのに、微塵も冷たさは感じなかった。

「話したけど……あんまりあいつらには迷惑かけたく無くてさ」

「うーん。そっか。じゃあ、私が聞こうか?」

急な友海の提案に、今度は言葉を詰まらせる瑞希。

「どうして、そんなこと……」

「ただ気になっただけ!いつも弱みを見せることのない猫宮くんがそこまでになっちゃった理由。知りたいなって」

理由はともあれ、とにかくありがたかった。親友でもない、別の逃げ場を瑞希は求めていたからである。人前では、あまり喋りたくないという瑞希の意向で、放課後に話す時間を設けることにした。自席に戻って行く友海を、瑞希はつい目で追ってしまう。「あれだけ自分に興味なさそうだったのに、不思議だな」そう考えたのち、また机に臥すのであった。

 話を聞いてもらえると思ってしまうと、頭はそのことで満たされてしまった。授業も碌に頭に入らず、ただ単純に伝えようと自分の記憶を探るのみである。その過程で、何度も思い出したくのないトラウマに襲われたか、それは定かではないが、その時ばかりは後に待つ救いの手を信じて、流れる記憶の遡上を止めるべきではないと進み続けた。漸くその時がやってくると、魂と抜けたような手つきで帰宅支度をする瑞希のもとに、友海はやってきた。

「じゃあ、話そっか。どこで話す?」

「このまま、待ってたらみんな居なくなるから、待っていればいいんじゃないかな……」

ぞろぞろと教室を出て行くクラスメイトの中で、教室に残っている瑞希に気づいたのは、やはり毅と夏海である。そうではあるが、先の一連の流れを見ていた二人は、瑞希に声をかけることをしなかった。「きっと瑞希なりに何かをしようとしている」瑞希を長く、近くで見てきた二人だからこそ下せる判断であった。

 暫く待って、誰もいなくなった時、二人は前後の席に腰掛けた。

「で、何があったの?」

吐息の多く混じった、優しく暖かな声。それに釣られて自ずと本音が漏れ出してくる。紗良との関係、そして死。遺書のことまで。現在の瑞希の衰弱に関わるのはこれらであるが、遂には、過去の幻影に苦しめられるという、平生の苦悩までもが掘り出されていく。

 一通り話し終えたあと、金の輝く空に似合わぬ雨が瑞希に降り出した。

「……今まで辛かったんだね。ほら、これで涙拭きな」

差し出されたハンカチ。一角の端に、彼女の名前が刺繍されている。

「……うん……。あり、がとう……」

素直に受け取り、涙を拭いて返した。親友以外には、初めて見せる涙。友海の顔は、一段と柔らかになったように見えた。背後には、夕日によく似た色の靄が揺れている。

「話してくれて、ありがとうね。今日はそろそろ終わりにしなきゃだからさ。また、私でよかったらいつでも話聞くからね!」

「うん……ありがとう」

二人で校舎を出て、駐輪場へ向かう最中に貰った飴玉を、家に帰ってもただ眺めるばかりの瑞希であった。



 全てを打ち明けたその日を終えても、友海は変わらず優しさを瑞希に施し続けた。少しでも辛そうな素ぶりを見せれば声を掛け、瑞希の依頼に応じて話を聞いてやる。それだけでも、瑞希の心は救われるというのに、加えて肯定までしてやったのは、奥底に小さく揺れる哀しき恋情を養わないわけがなかった。友海の優しさに触れるたび、その心は風船葛のように膨れ上がって行く。ついにそれが破裂してしまったのは、初めて相談に乗って貰った日から一ヶ月も経たぬ日のこと。もはや習慣になってしまった相談の時間のその中で、事は起こった。

「なんだか、このままじゃ好きになっちゃいそうで困ったな……」

嘘と真、継ぎ接ぎされた言葉をつい発してしまった瑞希。幸か不幸か、その言葉はしっかりと友海に届いていた。

「いいよ。好きになっても。寧ろなってよ」

瑞希が初めて、失ったことによる傷が埋まったと思えたのは、その時だった。恋による穴を埋めるのは、また恋でしか無かったのである。

 新たな魂の幸福は、雪解けとともに訪れた。最初は友達、相談相手の延長線であったが、時を経て、そこには青春の色が装飾されていった。瑞希自身の苦悩については、悉く話していた甲斐もあり、友海は懸命に瑞希の為に尽くした。

 恋愛の充実とともに、何もかもが右肩上がりに回復している。瑞希はそう思った。けれども、幸せの最高到達点まで及んだ時、幸福に澄み切った心は恐怖心により汚染され始めた。恋による自身の革命で打ち出されたこの偉大なる幸福が、消えてしまうのではないか。そう自らを自らの手で蝕んでしまい始めたのである。

 恐怖心から、より一層瑞希は愛を渇望するようになった。その頃にはもう、向けられる愛を素直に信じることが出来なくなっていた。一つ貰えば二つ、二つ貰えば三つ。どんどんと友海を縛り付けて行く。気づいた時には、もう遅かった。かつて瑞希のもとに現れたイエスは、愛という名の十字架に、磔にされ死んでいた。

「ごめん。もう、別れよう」

そう言われたのは、あまりにも唐突なことであった。瑞希はようやくそこで、狂気とさえ呼べる自分の性を自覚した。そして、いとも簡単に自分の弱み、トラウマを教えてしまった自分を恨んだ。

 ますますの雪解けに反して、瑞希の心は凍えて行くばかりであった。自分の全てを曝け出してしまっていた分、失ったことによるダメージは、以前のものと比べ物にならぬほどだったのである。しかし今回は、学校を休むことはなかった。それでも、体の神経中に毒が回ったかのように、体はゆっくりと力を失い、動かなくなってくる。その顔に、もう笑顔は咲かなくなっていた。親友の二人に相談したのも、その時になってのことであった。あまりにも見ていられない様子の瑞希に、二人が心配になって声をかけてきたのである。その日の帰り、瑞希がいつも猫と戯れていた空き地に寄って、三人は話した。

「へぇ〜。そんなことがあったのか、もっと早く相談してくれれば良かったのに……まぁ!そう気を落とすなよ。またいい人が見つかると思うぜ」

希望を諭したその声に、瑞希は首を縦に振ることはできなかった。ただ黙りこくっては涙を流すだけである。夏海はというと、うんともすんとも言わず、ただじっと瑞希を見つめているだけであった。

「だと……いいね。でも、あの子の姿を見るだけで、凄い嫌な気持ちになるし、この先、またそんな相手を作るのは嫌だから……もう恋はいいかな」

まだまだ肌寒い風が、三人の隙間を埋めるように吹く。ベンチに座っていた瑞希は急に横たわり、天を仰いだ。目の前に広がる、鱗雲のかかった夕焼け。とてもじゃないが、美しいとは言えぬその空に、両手を伸ばす。

 毅はこの日も、バイトがあるというので、先に帰ってしまった。残されたのは瑞希と、先ほどから何も喋らぬ夏海。近くにいるのに、遠く離れてしまっている。沈黙には、そんな寓意が込められているように瑞希は感じた。

「あの……夏海……?」

「……私じゃ、ダメだったの……?」

遂に口火を切った夏海。そこから発される問いに、瑞希は絶句してしまう。

「ずっと前から瑞希のことが好きだった。けど、今の関係を崩したく無かったから……」

続けられる独白。懸命に頭を回して返す言葉を考えてみるものの、適切な答えを導き出せない。

「でも私は……!瑞希が苦しそうなのは、もう見たくない。ねぇ、私じゃ、ダメなの?」

再度かけられる問い。並々ならぬ想いがあることを、瑞希は肌でひしひしと感じた。

「ずっと私に相談してきてくれたでしょう?私だったら、瑞希の心に傷を治せる。理解してあげられる。私だったら……」

徐々に掠れていく声。体は目に見えて震えており、右手にもつペットボトルは強く握りつぶされている。

「……ありがとう。でも、今までたくさん迷惑かけてきたから。これ以上、夏海に迷惑はかけたくない」

「迷惑、迷惑って!私の手の届かないところで苦しんでる方がずっと迷惑よ!どんな想いでずっと見てたと思ってるの……」

風に吹かれて、夏海の涙が地面に滴る。

「いいじゃん……どうせ諦めるなら、最後、私のこと、彼女にしてよ……」

弱々しく呟き、そして瑞希の胸に顔を埋めるように凭れ掛かる夏海。答えるかのように、瑞希はそっと、夏海を抱きしめるのであった。

 毅にはしっかり報告することにした。

「おう、そうか!んまぁ〜そっちの方が俺的にも安心かなぁ。なんか困ったら、今度は俺の方に相談してこいよ!」

などと豪快に笑いながら、毅は言う。ただの三人の親友から、関係性の少しの変化があると言うのに、依然として変わらぬその態度に、瑞希は安心を覚えた。夏海の方は、以前よりも近い距離に居られるようになったことがあってか、心配症な一面をよく見せるようになった。とりわけそれに不快感を覚えるわけでもない、そして夏海に対しては、親友として積み上げてきた好意はある。そう思う瑞希なので、この関係を解消したいとも思わないのである。だというのに、虚無感が瑞希の胸を締め付けていた。どうにかこの虚無感の正体を探りたい。そう思った瑞希は、ひたすらに自分の内世界へ飛び込んでいった。この虚しさの理由はなんなのか、それを乗り越えた先で、自分がどうしたいのか。探そうとすればするほど、抜け出すことのできない沼へ、螺旋状に堕ちてゆく。日に日に睡眠時間は減っていく。最初は五時間ほど眠れていたものが、三時間に、そして遂には一睡も出来なくなるほどに。それが五日ほど続いたところで、瑞希の体は悲鳴をあげた。倒れた後の夏海の焦った様は途轍もなく、落ち着かせるのに毅は骨を折った。

 後日、毅に連れられて瑞希は心療内科を受診した。初めは夏海も同伴したがったが、それで夏海まで精神がやられてしまっては困るということで、付き添うことはさせなかった。親には内密にし、保険証をこっそりと持ち出した。医師の診察を受ける前に、別室で事前に自身の状態について話す時間があった。ここでもまた、かつてしたように勇気を出して自分の全てを告白した。帰ってきたのは簡素な言葉で、その後の医師の診察の結果も睡眠障害に終わった。「もっとしっかり話を聞いたりして調べないとわからないので、また来てください」そう言われたが、行く気にはならなかった。

「睡眠障害か。これからちゃんと通って、治るといいな」

「……うん。そうだね」

肯定するその心のうちでは、酷く悪寒がした。恐らくこれは、毅に対して嘘をついたことによるものではない。瑞希はそう直感した。蓋し自分は、もう全てを諦めているのだ。そう考えた。夏海との関係に、謎の虚無感を感じるのも、全て諦念によるものだと判ったのである。その上で、瑞希の心のうちに秘めたる心願をも明視し得たのだった。

 その次の日に、本当の想いを夏海に打ち明けることにした。どんな関係にあっても、結局瑞希にとっては大事な人間に変わりない。それは毅もそうではあるが、何故か夏海にだけは言っておこうと心が呼びかけたのである。この日は日曜日だが、両親とも仕事が入ったということで、家には誰もいなかった。「少し話そう。うちまで来てよ」メッセージを送って、瑞希は夏海を家に呼び出した。それから十分後、夏海はやってきた。

「急にどうしたの……?話がしたいだなんて……あと、昨日の病院はどうだったの?なんともなかった?」

「あぁいや、それを今日話そうかなって思ってさ」

心配そうな目で見つめる夏海。いつもと同じ、真っ直ぐな視線である。

「結果から言うと、睡眠障害だって」

肩の荷が降りたように、リラックスした姿勢をとる夏海。余程この事が気がかりだったのだろうと瑞希は思う。

「ただ、もっとちゃんと診察したいから、また来てくれって言われてさ」

「そっか」

優しく、俯きながら仄かに暗い返事をする夏海。

「でも、俺は行かないことにしたよ」

顔を上げて驚愕する。「なんで……」とただ一言返ってくる。

「俺、気づいたんだ。俺はもう、全部を諦めちゃったんだって。俺はもう、疲れたんだ。死にたいんだって」

急な展開に夏海はついていけておらず、口を開いたままでいる。

「だから、夏海とはここでお別れにしようって。そう思ってさ」

「……嫌だ。嫌だよ……」

首を激しく振りながら、震えた声で夏海は言う。

「きっと、これ以外の方法で、自分自身を救う方法は無いんだよ」

「……嫌だよ。もっと、ちゃんと探そう?きっと他に方法があるはずよ、瑞希が元気になれる、前を向ける方法が……」

夏海とは対照に、ゆっくりと左右に首を振った。

「なら、私もついて行く」

「な、何を言ってるのさ。ダメだよ、そんなことしちゃ」

「瑞希が私の言うこと聞いてくれないなら、私だって瑞希の言うこと聞く必要ないもの」

あまりに切羽詰まっていて、夏海の表情は一転して、澄ましたのになっていた。

「俺は……夏海に死んでほしくないな……」

「私だって一緒よ。瑞希に居なくなって欲しくない。だから、もう少しだけ、付き合っててよ。それでどうしてもって、私に死んで欲しくないって思う以上に死にたくなったら、その時は……」

言いかけて閉口した。今度は笑みを浮かべて瑞希を見つめる。

 瑞希の希死念慮は、結局のところ、まだまだ愛のしがらみに勝るものでは無かった。そうして、夏海の提案を受け入れることになったのであった。



 木々が沢山の恋を知った頃、春休みに入った。夏海との生死の攻防から二週間ほどが経った。不思議なことに、楽しいと思える事が、幸せだと思える事が、瑞希の中で増えて来た。終了式の日、三人で休み中の計画を立てる為、帰宅途中の空き地へ集まっている。

「やっぱどっか行きてぇよな!三人で!」

「そうねぇ。瑞希は……どこか行きたいところあったりする?」

楽しげな二人。今の心地は二人のおかげであるのだと思うと、瑞希は感謝の気持ちでいっぱいになる。

「二人と一緒なら、どこだっていいよ」

柔和な笑顔で、瑞希は返した。

「なんて素晴らしいことを言うんだお前は!俺は嬉しいぜ!」

「えぇ、そうやって言ってもらえるだなんて、幸せまであるわ。ねぇ……瑞希?」

突然神妙顔つきになる夏海に、訝しむ。

「瑞希は、あの時の選択、後悔してない?今、幸せ?」

「うん。後悔してないし、今、凄く幸せだよ」

笑顔の満開になる夏海。「あの時の選択?なんだぁ?それ」何もわかっていない毅。その三つ巴の一角で、瑞希は急激なフラッシュバックに見舞われた。走馬灯の様に、今までの嫌な思い出がストロボの様に脳を駆け抜けて行く。確かに言葉通り、あの時死ななかったことを後悔していないし、現在、幸せだと思えている。それは瑞希にとって不変の事実である。しかし、幸せだと思えたその瞬間に、舞い散る桜吹雪の如き、トラウマのフラッシュバックに苛まれるのである。幸せに恐怖すら覚えるのである。一通り苦しんだ後、幸せとトラウマとを混ぜ合わせる様に首を振る。

「クロ?どしたんだ?お前」

「いや……なんでもないよ」

そう返した時、先ほどとは違う視線を感じた。目線を遣ると、夏海と目が合った。心配そうなその視線、そして背後に見える夜空にも勝るほどの黒ずんだ靄に、強い安心感を覚えた。そうして、瑞希は得心した。

 思えば、ずっと苛まれて来たトラウマを克服する努力はしてこなかった。中学生での二度の虐めを味わった時も、そこからリストカットに走った時もである。高校に於いてだってそれは例外ではない。尊敬という名の疎遠に苦しんだ時も、それを解消する為に努力することはしなかった様に瑞希は思う。紗良が死んだ時も、友海と別れを成した時も、そのトラウマを克服する心の整理をしたかどうか……。夏海に死にたいと伝えた日から今日まで、幸せに生きる努力をしたか……。瑞希は、自分を愛してくれる、そして理解してくれる人間を、自堕落に臨んでいるだけに過ぎなかったのだと悟ったのである。希望が怖かったのである。トラウマや、精神的な脆弱性が、瑞希自身の価値として染み付いていたのである。そんな価値を無くしてしまうのが怖かったのだ。そうして、本当の意味での孤独に辿り着くことを、何よりも恐れていたに過ぎなかった。

 希望が怖いと言うのに、人と共に幸せになろうとしている。持ちたくない希望の為に生きていると言うのに、何故か心地は悪くない。瑞希の持つ狂気的な承認欲求は、いつのまにか他人を、そして自分自身をも化かしてしまう猫又に育ってしまったのであった。

「あ、猫だ、昼間っからこんなとこに来ちまって……昼寝でもしに来たのか?」

 毛の黒い妖艶な猫は、ベンチに佇む瑞希の隣に座し、瑞希にすり寄って鳴いてみせた。

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