第33話
セヴラールが反射的に振り返ると、そこには二十代後半と思しき一人の男が立っている。警戒したニーナはASSに手を伸ばすが、その動きはセヴラールによって制された。
「大丈夫だ、ニーナ。アイツは敵じゃない」
「……」
それでもなお警戒心を剥き出しにしたニーナが男を見据えていると、男は再び口を開く。
「やはりお前だったか、アグラシア」
「あぁ、久しぶりだな。と言っても三ヶ月くらい前にも会ったか」
セヴラールの口振りから二人が旧知の仲であることを悟ったニーナはわずかに警戒を緩める。男はタイミングを見計らってニーナに視線を向けた。
「その子が例の?」
「そう、俺の娘だ。まぁ、養子だけどな。でも、可愛いだろ?」
自身の背後に隠れてしまったニーナの肩に手を置き、セヴラールが自慢げに言う。男はニーナの前まで進み出ると頷いて首肯した。
「なるほど。お前が猫可愛がりしている理由が何となく分かった気がするよ。ところで……お嬢さん、お名前は?」
「………………」
男の問いを拒絶するようにニーナは無言で顔を背ける。だが男は気分を害した風もなく苦笑すると煙草を取り出して火をつけた。
「失礼、人に名前を尋ねる時はまず自分から名乗るのが礼儀だったな。俺は帝国陸軍で総務部総務課長を務めているロターリオ・ブランダイス。階級は少佐だ。主に人事や経理に関する業務を担当している。卒業後の配属先で苦労するようなことがあれば声をかけてくれ」
「……ウェルキエル帝国学院一年、ニーナ・アグラシアです。セヴ……父から、お話は伺っております」
アイスブルーの瞳が細められ、感情を押し殺した事務的な口調がわずかに乱れる。ニーナは冷静を装いながらも内心で数十秒前の自分を呪った。総務部と言えば卒業後の進路を大きく左右することで有名な部署である。そして総務課長ともなれば人事の最高決定者と言っても過言ではない。その人物に恩を売っておいて得をすることはあっても損をすることなど有り得ないのだ。
「そう固くならなくてもいい。先日の中間試験では災難だったな」
「……」
肯定すべきか否定すべきかの判断がつかずニーナはしばし黙り込む。するとそれを見かねたセヴラールが二人の会話に割って入った。
「悪いな、ブランダイス。この子は一人で街も歩けないほどの人見知りなんだ」
直後、セヴラールの膝裏を何の躊躇もなくニーナが蹴り飛ばす。途端に体勢を崩されたセヴラールは小さく呻くと抗議の声を張り上げた。
「何すんだ、本当のことだろ!」
「どこがよ! 脚色まみれじゃない!」
「嘘をつくな! 昔はどこに行くにも俺の後を付いて回ってたくせに!」
「昔の話でしょ!」
体裁を取り繕うことも忘れ、ニーナが叫ぶ。セヴラールからしてみればフォローしたつもりなのかもしれないが、ニーナにとってはありがた迷惑もいいところである。総務部にコネクションを作っておくというニーナの計画は早くも終焉を迎えかけていた。だが。
「お前の娘は面白いな、アグラシア。ウチの部署に欲しいくらいだ」
ロターリオから見た場合のニーナの評価は決して悪いものではなかったらしい。その嬉しい誤算にニーナは内心でほくそ笑む。総務部は後方勤務の花形である参謀本部と比肩するほどのエリートコースである。ニーナは出世などには微塵の興味もないが、後方で安全に過ごすには最も適した部署と言えた。
「えぇ、是非」
故にニーナは得意の営業スマイルを駆使してロターリオの言に答える。するとニーナの隣でセヴラールが水を差すようにポツリと呟いた。
「総務部は忙しいぞ」
「……」
セヴラールの余計な一言をニーナは視線のみで黙殺する。安全な後方勤務に勝る部署などあるものか。
「いやいや、むしろ最近は作戦局と軍務局の方が忙しいよ」
「ん、そうなのか?」
「あぁ、何せ昨日防衛線が突破されたばかりだからな」
続いて、ロターリオの口から吐き出された『突破』の二文字にニーナとセヴラールは二人揃って凍りつく。確かに一ヶ月ほど前、協商連合が帝国の国境を越えかけているという報告は学院長から受けていた。だが、まさか本当に防衛線が破られるとは誰も想像していなかったに違いない。
「突破されたのはどの辺りなんだ?」
それを知ったところでセヴラールにできることなど有りはしないが、情報は多いに越したことはないだろう。
「……ジタレダスニアだ。今はまだ国境線付近に配置していた既存の部隊のみで凌いでいるが、長くは持たない。いずれはライロレーブ市での市街戦に発展するはずだ」
「……ライロレーブ?」
ニーナは聞き覚えのあるその地名を復唱する。同時にニーナの頭の中で二つの事柄が繋がった。
「リーヴィアの……家」
そこは、夏季休暇を利用して帰省しているはずの、少女の故郷だった。




