第21話
深層迷宮地下一階大広間にて。エリノラと別れたスピカは救難信号用の発煙筒を焚いていた。リタイアする際にはこうして迷宮内の教員に知らせるのだ。
「お前は……アグラシアのところの生徒か」
「はい、スピカ・ヴァーゴと申します。先ほどの戦闘で少し足を負傷してしまったため、大事を取ってリタイアしたいのですが……」
ほどなくして現れた男性教諭に、スピカは形だけのリタイア申請を行う。本当は怪我などしていないが、負傷者ということにしておいた方が何かと都合がいい。今は一刻も早くセヴラールと合流しなくてはならないのだ。
「了解した。自分で地上まで戻れるか? 難しいようなら救護班を呼ぶが」
「いえ、大丈夫です」
「そうか。ならいいが、後で学校医の診察を受けろ」
「分かりました」
形式上のやり取りを手短に済ませ、スピカはわざと足を引きずりながら階段を上がる。普段の二倍以上の時間をかけて地上に戻り、素早くセヴラールの姿を探した。だが。
「どうした、スピカ・ヴァーゴ。随分と早い脱落だな。見たところ大きな怪我もないようだが……何か、想定外のトラブルでも?」
「……っ!」
驚いたスピカが振り返るとそこには隣のクラスの担当教諭、べレス・ラシアイムが立っていた。咄嗟の判断で声を抑えることに成功し、スピカは作り笑いを浮かべると口を開く。
「実は足を負傷してしまって……念のため、今回はリタイアさせて頂きました」
震える手足を押さえ付け、もつれそうになる舌を必死で動かす。万が一にもべレスに不信感を抱かれるわけにはいかない。平静を装ってこそいるものの、スピカには今この場を切り抜けることしか考えられなかった。
「ほぉ、あれだけ成績にこだわっていたお前がその程度の怪我でリタイア? にわかには信じがたい話だ。何か、裏があるとしか……」
「スピカ、どうした。どこか痛めたのか?」
と、その時スピカにとっての救世主が現れた。
「アグラシア先生……!」
べレスの詰問から逃れるように担任教師の名を呼ぶと、セヴラールはスピカの足元に視線を向ける。
「怪我をしたのか?」
「はい、少し痛むんです」
スピカはもちろん怪我などしていないが、空気を読んでくれたのかセヴラールが救護用のテントを指差した。
「なら、学校医に診てもらう必要があるな。あそこまで俺が肩を貸してやる。歩けるか?」
「はい、大丈夫です」
セヴラールに促されるまま、スピカはその場を立ち去ろうとする。だが、そんな二人に背後から声がかけられた。
「おい、貴様。まさか、その程度の怪我で学校医の治療を受けさせようとしているのか? 大戦中の今、治癒能力者がどれだけ希少な存在だと思っている。命に関わるような怪我ならばいざ知らず……」
「うるせぇな、お前は黙ってろ。この子の担任は俺だ。治療が必要かどうかは俺が決める」
なかなか引き下がろうとしないべレスの言を一蹴し、セヴラールはスピカの背中を軽く押した。
「振り返らなくていい。そのまま進め」
「はい……」
二人の背後では未だべレスが何事かを喚いていたが、スピカもセヴラールも足を止めることはない。その際にも、スピカは足を痛めている演技を忘れず続けた。やがてべレスの姿が見えなくなると木陰にスピカを座らせ、セヴラールが本題を切り出す。
「さて、お前が戻って来るということはよほどの緊急事態だろうから手短に聞くぞ。何があった?」
「実は……」
スピカはエリノラから聞かされた話をすべてセヴラールに伝える。その間、セヴラールは口を挟むことなくスピカの話に耳を傾けていた。
「なるほどな……」
スピカがやや早口で話をまとめると、セヴラールは静かに頷き口を開く。
「悪いが、今の俺にできることは何もない」
「……ど、どうしてですの? このことを学院長に報告して中間試験を中止にしてもらえば……」
明確な解決策の掲示を期待していたスピカは、身も蓋もない返答にわずかな狼狽を見せた。だが当のセヴラールは首を横に振るだけだ。
「事態はそう単純じゃない。何の証拠もない状況で試験そのものを取り止めるのは無理がある。今は奴が行動を起こすのを待つしかないな」
「そんな……それでは手遅れに……」
スピカはセヴラールの説得を試みるが、それはあくまでも形だけのものだった。内心では、スピカとて悟ってしまっていたのだ。自分の話がどれだけ荒唐無稽なものであるかを。
こんな話をしても、大抵の人間には信じてもらうことすらできないだろう。スピカの言葉を疑わずに信じてくれただけ、セヴラールには感謝しなくてはならない。
「迷宮にはまだニーナがいるんだよな?」
「えぇ、ですがユーフィアがエリノラとの戦闘で負傷してしまって……続行は難しいかもしれませんわ」
スピカはユーフィアの傷を詳しく見たわけではないが、胸元の傷は深かったように思う。
「そうか、ニーナには応急処置のやり方も教えてある。ひとまず、ユーフィアは大丈夫だろう。それにアイツが迷宮にいるなら安心だ。俺の考えていることを察して動けるのは、今じゃあの子だけだからな」
「あら、随分と彼女を高く評価しているんですのね」
スピカは意外そうに声を上げた。セヴラールは元々褒めて伸ばすタイプの人間だが、それでもニーナに寄せる期待は一際大きいようだ。
「まぁ、あの子は昔から何でもできたからな。おかげで最近は頼りきりだよ」
そう言って苦笑するセヴラールの瞳を、スピカは直視することができずに目を伏せる。
「いいですわね。少し、羨ましいです。あなたたちが」
両親からの期待に苦しんでいたスピカとは違い、ニーナはセヴラールから期待されることをむしろ望んでいるようだった。試験開始前の作戦会議で、ニーナははにかみながら言ったのだ。
『セヴが私に期待してくれている以上、今回は私も頑張らないとね』と。
「私はもう、誰にも期待なんてされていません。それを、求めていたはずだったのに……」
最後の方は上手く聞き取ることができなかったが、スピカが落ち込んでいることくらいはセヴラールにも分かる。セヴラールはスピカの隣に腰かけると、ゆっくりと口を開いた。
「誰にも、なんてことはないんじゃないか?」
「……え?」
「少なくとも、俺はお前に期待してるぞ。もちろん、嫌ならやめるが」
相手は思春期真っ只中の少女である。教師としては、気を遣いながら言葉を選んでスピカに伝えなくてはならない。するとスピカはセヴラールに聞き取れるギリギリの声量でポツリと呟いた。
「……嫌では、ありませんわ」
「……そうか」
セヴラールはあえて、一言答えるだけに留める。スピカにはこのくらいの距離感がちょうどいいと思ったのだ。
「何となく分かった気がいたしますわ。普段、無気力なあの子があなたのことになると途端にやる気を出す理由」
自分一人だけ落ち込んでいるのも馬鹿馬鹿しくなり、スピカは顔を上げて空を仰ぐ。
迷宮内では見られるはずもない青空が、少しだけ目に染みた。




