第10話
「お疲れさまです、ニーナさん。お顔のお怪我は大丈夫なのですか?」
ニーナがリーヴィアとの試合を終えるとほぼ同時に、ユーフィアが心配そうな表情で声をかけてきた。ニーナは未だに血の止まっていない頬へ触れると思わず苦笑する。
「自分では浅いつもりだったんだけどね。意外と深かったのかしら。でも、大丈夫よ。ユーフィアこそ怪我はないみたいで良かった」
血液が滴る傷口を親指で雑に拭い、ニーナは足元に倒れ伏すリーヴィアへ視線を向ける。手加減する余裕などなかったとはいえ、流石にやりすぎてしまったかもしれない。少なくとも止めの一撃は明らかなオーバーキルだった。
「……これは、学校医に見せた方がいいわよね?」
「そう、ですね……」
まさかこのまま放置するわけにもいかず、ニーナはリーヴィアの身体へ手を伸ばす。だが。
「その必要はありませんわ。この子は、私が見ておきます」
ニーナの動きを封じるように、背後からスピカ・ヴァーゴが声をかけた。動きを止めて振り返ったニーナは、リーヴィアとスピカを交互に見たあと静かに首肯する。
「そう、なら任せるわね。ついでにあなたも医務室に行ったら? 背中の傷は相当深いでしょう。セヴには私から伝えておくわよ」
「……えぇ、最初からそのつもりです」
スピカはユーフィアとの試合で背中を大きく負傷していた。当然ながら制服も裂けてしまっているため、医務室で替えのものを支給してもらう必要があるだろう。
「ね、ユーフィア。戦績表の記入に行きましょ? セヴが待ってるわ」
ニーナは気まずそうに下を向いているユーフィアの腕を引いてその場を離れた。それはスピカに怪我を負わせたことを気にしているユーフィアへの配慮であると同時に、スピカへの配慮でもある。敗者に対する余計な声掛けは逆効果だ。ましてや知り合って間もない自分に言えることは何もない。
横目で様子を伺うと、ユーフィアは小さく返事をしたものの明らかに落ち込んでいた。優しすぎるのがユーフィアの欠点だな、とニーナは思う。受け取った記入用紙に対戦相手と結果を書き記し、ニーナはセヴラールに差し出した。
「これ、ユーフィアの分も私が書いておいたわ。もう分かってると思うけどあの二人は医務室だからよろしくね」
「あぁ。次、ベクルックスに渡してくれ」
セヴラールは一度頷くと試合を終えたばかりの男子生徒に視線を向ける。その視線に気がついたのか、ライオネル・ベクルックスはニーナから用紙を受け取り記入を始めた。
「私の戦績、見なくていいの?」
「どうせお前らは順当に勝ち上がったんだろ? 見なくても分かる」
セヴラールとしてはニーナが負ける未来を想像することの方が難しい。長年、自分が鍛え続けてきた少女だ。入学試験を突破したばかりの素人に、そうあっさりと負けられては困る。結果の分かりきった試合を観戦するよりも、自クラスの戦力を把握しておくことの方が大切なのは当たり前だ。
だが、生徒たちからしてみればニーナやユーフィアのような存在こそが気になるに違いない。事実、二人は多くの生徒から注目を集めていた。
「できる限り目立ちたくなかったのに……」
セヴラールの背後に隠れて視線から逃れたニーナは、手の中でASSを弄りながらため息をつく。すると先ほどの男子生徒がニーナの隣に座って口を開いた。
「でもよ、今日の模擬戦で二連勝したのってアグラシアだけだぜ? 女の子なのにすげぇじゃん」
ライオネルの素直な称賛が全く嬉しくないと言えば嘘になるが、かといって手放しに歓迎できる事態でもない。少なくとも、リーヴィアにはニーナの体質がバレてしまっている。ニーナの心境は複雑だった。
「叶うなら、平穏な学生生活を送らせてほしいんだけどね」
それこそが嘘偽りのない本音。ニーナ・アグラシアという少女の唯一、誰にも譲れない目標である。入学前の決意を思い返しながら、ニーナは支給されている軍用チョコレートを噛み砕いた。ついでに近くで資料と睨み合いを始めたセヴラールの背を軽く小突く。
「ねぇ、セヴ。あの女、私の体質に気づいてるわよ」
「別にいいだろ。隠さなきゃならねぇことでも……」
「私は! 目立ちたくないの! 学年全体に知れ渡って見世物扱いなんて絶対に御免よ!」
まともに取り合おうとしないセヴラールの脇腹に、ニーナは手刀を叩き込んだ。
「なら適当に負ければ良かっただろうが。そもそもバレるのだって時間の問題だぞ」
「それは……分かってるけど……」
今のところ、ニーナが【無能力者】であることを知っているのは学院関係者のみである。ユーフィアは気がついたとしても言いふらすような真似はしないだろうし、リーヴィアも口が軽いタイプには見えなかったが人を見かけで判断するのは危険だ。ニーナは一人頭を悩ませる。
「そんなに気にしなくても、お前に直接確かめる度胸のある人間はそういねぇよ」
「まぁ、それもそっか……」
ニーナが引き下がったことを確認してからセヴラールは戦績表を一瞥した。
「よし、全員終わったな? 昼休憩の前に学科試験の説明だけさせてくれ」
試験の二文字に生徒たちが悲鳴を上げる。ニーナはわざと音を立てながらチョコレートを咀嚼し、学生として至極当然の疑問を投げ掛けた。
「テストって難しいの?」
端的かつシンプルな質問。だがそれはここにいる全生徒が答えを求める問いのはずだ。セヴラールは資料から顔を上げると視線が自分に集中していることを確認した上で説明を始めた。
「基本的に試験の難易度は毎回変動する。試験毎に問題を作る教師が変わるからだ。特に隣のクラスの担当教諭が作るテストは最高難易度と言っても過言じゃねぇ」
「隣のクラス、というと……ラシアイム先生ですか?」
少し離れた場所から声が上がり、眼鏡をかけた少年が問いかける。入学学科試験第一位、ルドウィン・アケルナルだ。セヴラールは一度頷いて首肯した。
「あいつは性格悪いからなぁ。気を付けろよ? 成績上位者はまず大丈夫だろうが……」
セヴラールの忠告に数人の生徒が青ざめる。その内の一人であるライオネルは勢いよく立ち上がると一縷の望みに賭けて口を開いた。
「アグラシア先生の作るテストは簡単ですかッ?」
身も蓋もない質問に、セヴラールは苦笑しつつも肯定して見せる。
「あぁ、平均点が八十点くらいになるだろう過去一簡単なテストを作ってやる。わざわざ補習するのも面倒だからな」
「セヴのお墨付きなら問題ないわね。まぁ、どっちにしろ私は勉強しないけど」
そう言うニーナは既にセヴラールの話からは興味を失ったのか、チョコレートを齧る作業に専念し始めた。隣ではユーフィアがニーナの手からチョコレートを取り上げようと躍起になっているが、セヴラールに止められて諦める。
「いいよ、食わせとけ。そいつは何かに没頭してる時は大人しいから。癇癪起こされるより余程マシだ」
セヴラールは自分の分のチョコレートをニーナに差し出すと解散を宣言した。
「それじゃ、各自昼食を取ったら教室で待機しているように。ニーナ、行くぞ」
「んー」
ニーナは雑に返事をしながら最後の一欠片を口に放り込み、スカートに付いた埃を払って立ち上がった。
こうして生徒たちは徐々に、だが確実に帝国学院での生活に順応していく。慣れない環境に身を置く彼らにとって、入学後の一ヶ月はあっという間の出来事だった。そしてニーナたち一年生にとっての最初の試練が訪れる。
気が付けば中間試験までは残り一ヶ月を切っていた。