3.世界の強制力って最低です。
翌朝。早朝。
一人、学院の寮を出てきたエステルは、寮から近い裏門へ向かおうと、並木道を歩き出した。
まだ朝もやが残る、しんと静まり返った並木道を歩きながら、エステルはこの学院で学んだ三年半の時間を思い返す。
この並木道もよく仲間たちと歩いた。
並木道の奥にはベンチが設置されていて、そのベンチで昼食をとることもあった。
ウォーレンやイグニスと、教科書や問題集を広げて、議論したことだってあった。とても楽しくて、充実した時間だった。
(ゲームが終わったら、みんなはどうなるんだろう?)
強制的にエステルに恋させられていた仲間たちは、エステルがゲームから去ったあと、どう変化するのだろうか。
すでに告白に対してお断りをしているので、彼等の恋心も整理はついているだろうが。
どうしてエステルなんかに恋をしたんだろうと、不思議な気分になったりするのだろうか。
目が覚めたような気分になったり? 若気の至りだと、笑い話になったりするのかもしれない。
エステルも彼等も、まだ十六歳。
ようやく成人で、社交界デビューもこれから。
執行部の仲間たちは、誰もが魅力的なので、きっとすぐに素敵な相手と恋に落ちることだろう。
この学院での三年半、エステルなんかに恋をして、とても無駄な時間を過ごさせてしまったことは、とても申し訳なく思っている。
並木道の半ば、木に寄り掛かるようにして立ち、エステルを睨んでいる人を見つけ、エステルはぎくりと足を止めた。
真っ赤な髪に、晴れ渡った空の青の瞳。男らしく精悍な美貌。王太子イグニスだった。
イグニスは、エステルが自分に気が付いたことを見て取ると、寄り掛かっていた木からゆらりと立ちなおす。
「出発は明日の予定だったよな、エル」
「おはよう、イグニス。早いのね」
「俺たちに黙っていくなんて、何考えてる」
大股でイグニスはエステルの前に歩み寄ってきた。
(これって、世界の強制力ってやつね。強すぎだわ)
オーレリアが話していた、エステルとイグニスの最後のイベント。
本当なら、昨日の執行部の引継ぎの後、中庭で起こるはずだった。
勿論、エステルは中庭にも、イグニスにも決して近づかず、イベントの発生は回避できたと思っていた。
だが、一日遅れ、場所も変え、それでもイベントは発生するようだった。
「イグニス。ごめんなさい。改めてみんなにお別れを言ったり、見送られるのが恥ずかしかったのよ」
「理由はそれだけか?」
「他にどんな理由があるって言うの」
じっとまっすぐに、イグニスが目を見つめてくる。
エステルのどんな小さな表情の変化も見逃すまいとしているように。
「お前、昨日から変だ」
一歩、イグニスがエステルに近づいた。
エステルは思わず、その一歩分、後ろに下がってしまう。
「俺と目を合わせようとしないし」
「合わせてるじゃない」
「話もしようとしない」
また一歩、また一歩と近づかれ、エステルはその分を下がり、ついに背中に木の幹がぶつかった。
もうこれ以上下がれなくなったエステルに、イグニスは早足で距離を詰めると、エステルの顔の両側にどんと両手をつく。
エステルはイグニスの両腕と木の幹に囲われてしまうようになった。
イグニスは、この二年で驚くほどに背が伸びた。
十四歳のときはエステルとそれほど変わらなかったのに、今はもう見上げるほどだ。
縦にぐんぐん伸びすぎたせいか体はまだ薄く、青年になりかけの少年のような存在で、ふと見せる大人っぽい表情や長い手足にドキリとさせられることもあった。
だからといって、異性として強烈に意識したことなどなかった。
これほどまでに、接近したことだってなかったのに。
「お願い、離れて」
エステルは必死に顔をそむける。
オーレリアにゲームの話を聞き、イグニスがエステルを愛しているのだと聞かされ、今までになく意識してしまっていた。
イグニスは腕の中に閉じ込めたエステルが、頬を真っ赤に染めて顔を背けている横顔を、じっと見つめていた。
「お前、もしかして、俺の気持ちに、……気が付いたとか?」
「なっ」
「マジか。超絶鈍感女のくせに、今頃になってようやくかよ」
「イグニス!」
腕の中から逃れたくて、エステルはどんとイグニスの胸を両手で突いた。
だが、イグニスはびくともしなかった。
逆に、片方の手首をとられ、木の幹に押し付けるようにして、動けなくされてしまった。
「エステル、話がある」
エステルは、強い非難の気持ちを込め、イグニスを見上げる。
「聞きたくない。イグニス、あなたにそれを話す権利はないはず」
「……お前ならそう言うだろうと思ってた」
「当たり前でしょう」
イグニスには、オーレリアという婚約者がいる。
当人同士が愛し合って決まった婚約ではないが、家と家が正式に結んだ契約だ。
他に好きな人が出来たからと、簡単に破棄できるものではない。
「光の魔法使いを、王太子の婚約者にという声が高まっている」
「!」
「当然だろうな。この国はようやく現れた光の魔法使いを絶対に手放せない。丁度よく、王太子と同じ年齢だ。王太子妃に、王妃にしてしまえば、光の魔法使いはこの国からどこにも行かなくなる。オーレリアとの婚約は破棄すべきだという声は、日に日に高まっている」
まさかそんな状況になっているとは、エステルはまったく知らなかった。
青くなり震えだしたエステルを、イグニスはとても優しい目で見つめる。
「エル、お前が俺を恋愛対象にしていないのはわかっていた。光の魔法使いだと、お前を家族から引き離した国を恨んでいることも知っている。光の魔法使いになってしまった自分自身さえ嫌っていることもな」
エステルはイグニスを見上げる。
仲間内では乱暴な言葉遣いの、楽しいことが大好きで、平気な顔でルール違反をやらかす、問題児。
でも、本当はちゃんと正しく王太子で、強くて、優しい人。
「そんなお前を、光の魔法使いだからと王妃に望めば、お前の人生お先真っ暗だろ? 俺はお前には幸せになってもらいたい」
きっと、イグニスが望めば、エステルを婚約者にするのはもはや容易という状況になっているのだろう。
だが、イグニスはその動きを止めてくれている。
自分のためでも、国のためでもなく、エステル自身の幸せのために。
エステルの胸は熱くなったが、続くイグニスの言葉に冷水を浴びせられたように凍り付いた。
「愛している、エル。もし俺と一緒に幸せになろうと思ってくれるなら、俺は俺に出来るすべてでお前を幸せにすると誓う」
イグニスの告白は、オーレリアのノートに書いてあったとおりだった。
一言一句正確に同じで、エステルはこの世界の強制力というものを、改めて強く感じさせられた。
「俺と一緒に新しい家族を作ろう。お前が自分を愛せるように、俺がお前のいいところを沢山教えてやる。それでも自分を愛せないなら、俺が二人分、お前を愛してやる。だから、エル。考えてみてくれないか。俺を恋人として夫として愛せる未来があるかないかを」
俯いたまま、エステルは首をふるりと横に振った。
「エル」
「ごめんなさい、イグニス。私は、考えられない。あなたのことは友人として大好きだけど、それ以上にはならないと思う。王妃になんて、絶対に無理だし」
婚約者のオーレリアを破滅させるとわかっている未来を選択することなど出来ない。
イグニスは愚かではなく、それどころかとても賢い人だが、短気だしひどく感情的になってしまうときがある。
それは彼が類まれなる火の使い手であることも強く関係している。
オーレリアが話してくれた、パーティーでの婚約破棄や断罪も、感情的にかっとなったイグニスがやらないとは断言できなかった。
「返事を急ぐなよ。少しは考えてみてくれてもいいだろう? 卒業式まで」
「いいえ。ごめんなさい」
きっぱりと、エステルは断った。
そして、イグニスに捕まれている手を動かし、放してくれるように意思表示する。
イグニスの熱い体温が離れると、エステルはすぐに木の幹とイグニスの間から離れた。
二歩、イグニスから離れると立ち止まり、振り返る。
「さようなら、イグニス」
「……卒業式、ちゃんと戻って来いよ」
エステルはあえて軽い感じに、ひらりと一度手を振って、イグニスに背を向ける。
そのままゆっくりと、裏門へ向かい、並木道を歩き出した。
(よかった。キスされなかった)
短く切った髪に触れ、エステルはほっと息をつく。
オーレリアのノートによると、エステルがイグニスから告白された後に、このイベント最大のポイントがあった。
エステルがイグニスから離れようとしたとき、エステルの長い髪がイグニスの服の飾りボタンに絡まってしまうのだ。
ボタンに絡まった髪を外そうとするエステルを、イグニスは衝動的に抱きしめる。
抱きしめてしまったことで、恋しさが募ったイグニスは、エステルから奪うようにキスをしてしまう。
その結果、イグニスはエステルへの恋心を激しく募らせることになり、卒業式でエステルから告白されると、その恋心が頂点まで高まってしまう。
そして、卒業式後の婚約破棄とオーレリアの断罪へとつながってしまうのだ。
裏門に、魔法省が用意してくれた馬車がエステルを待っていた。
この国の王家と魔法省、双方の援助でエステルは留学をすることになっている。
期間は三年。そのあとは帰国し、この国で光の魔法使いとして働くことを条件に、エステルは何不自由なく勉強させてもらえることが決まっていた。
馬車に乗り込み、エステルはふかふかなシートに寄り掛かり、深いため息をつく。
イベントは起きたものの、不完全に終わった。
長い髪をばっさり切ったのは、最後のイベントが起きてしまっても、キスをされないためだった。
目論み通りキスは回避できたのだから、イグニスもこれ以上エステルへの恋心を拗らせることはないだろう。
残るは卒業式でエステルがイグニスに告白するかしないかだが、勿論するつもりはない。
それどころか、卒業式に帰国するつもりも、エステルにはなかった。
エステルがいなければ、オーレリアとの婚約破棄も断罪も絶対に起こらないはず。
(もう大丈夫。これでゲームは終わりよ)
長い留学を終えて再会する頃、イグニスも他の執行部のメンバーたちも、エステルへの恋心を過去のものにしているはず。
なぜエステルなんかに恋をしたのか、それも若さゆえの過ちかと、笑い話になっているだろう。
もしかしたら、そうなってからやっと、エステルは彼等四人と本当の友達になれるのかもしれない。
目を閉ざすと、涙が頬を零れ落ちていく。
(まがい物の恋は消えていく)
本当の気持ちではないのだから、当然だ。
(……私の気持ちは?)
オーレリアは、エステルだけは世界の強制力から自由なのだと話していた。
エステルだけが、この世界の中で自分の意思だけで選択できるのだと。
だとすれば、エステルの気持ちだけは、本物だということではないだろうか。
いつも言い争いをして、じゃれあっていたイグニスが、あんな風にエステルを見つめ、思っていてくれたなんて知らなかった。
エステルの抱えていた暗い思いも、誰にも話せなかった自分を否定する思いも、イグニスはちゃんと気付いてくれていた。
そのうえで、二人分愛するからと言ってくれた。
エステルは、そんなイグニスに恋をしてしまった。
イグニスの恋心は、世界に強制されたものでしかないのに。
エステルの心を揺さぶった告白の言葉だって、どこまでイグニスの本心なのか、世界の強制力で言わされただけなのか、わからないのに。
(……きっと時間が解決してくれる)
遠い異国で新しい生活を始める。
勉強はとても大変で面白いだろう。きっと夢中になれる。
イグニスへの思いは、今はとても強く鮮明で苦しいぐらいだけれど、時間とともに薄れていくはず。
それまでは泣いていようと、エステルは馬車で一人、泣き続けた。