運命の席替え
当時の俺には片桐汐里のどこに惚れたのかと聞かれてもハッキリとは答えられなかった。他を寄せ付けない圧倒的な美貌と言われればそうだし、それだけの美貌を持ちながらも一切鼻にかけることもない謙虚な心かと言われればそうとも言える。好きな所が多すぎで逆に分からなくなっていた。とにかく分かっていたことはただ一つ。俺は片桐汐里の全てが好きだった。
引っ越しの準備のため部屋の掃除をしていたら、本棚の奥から古い卒業アルバムが出てきた。
「こんな所にあったのか」
俺はアルバムを手に取りそう呟いた。所々剥がれている茶色の皮の表紙には金色の文字で1998年名和第二高校とだけ書いてあった。胸に込み上げてきた懐かしさに耐えきれず掃除をする手を止めてアルバムを開いた。
顔を見てもどんな奴だったが思い出せないのが大半だったが、あどけない顔がズラッと並ぶクラス事の個人写真を見て懐古の念が更に高まった。自分の写真を見て今とあまり変わっていない自分に笑ってしまった自分がいかに老け顔だったのがよく分かる。順調にページを捲っていた手がふと止まった。そして、目線の先には当時の男子が誰もが憧れた凛々しい顔がそこにはあった。彼女の名前は片桐汐里。その一分の隙もない整った顔立ちは、証明写真と並んでブサイクに写りやすいと女子の誰もが悲鳴を上げる悪魔の法則は通用してなかった。更にページを捲り、ある写真を見つけて釘付けになった。その写真は彼女の横顔を写していた。教科書を読んでいる真剣な横顔は彼女の見せる表情の中で最も美しいと俺は思っていた。20年たった今でも思わず見とれてしまう。その後もページを捲る度に押し寄せる思い出に酔いしれた。人生で最も濃密で儚い三年間。その時は他の高校生よりも自分は大人だと思っていても、こうしてアルバムを捲りながら高校時代を思い返せば、いかに子供であったかを痛感させられた。
アルバムの最後の方にある白紙のページには親友達やクラスメイトからの寄せ書きが書いてあった。どれもこれも大した内容ではなかったが、書いてくれたと言う事実がただ嬉しかった。隅っこに片桐汐里からの寄せ書きがあった。今更緊張も何もないと言うのに、読む時はドキドキした。彼女からの寄せ書きはこんな内容だった。
『サブローのお陰で楽しい三年間を送れたよ。ありがとうございました。建築家の夢を絶対に叶えてね。それと、秘密にしてたけど、私はサブローのことが大好きだよ。ずっとずっと前からね。そして、例の賭けを忘れないでね。またね。片桐汐里より』
例の賭け。その言葉にハッとなった。そう言えば、そんなことがあった。今の今まですっかり忘れていた。そして、自分の通う高校に言い伝えられているとあるジンクスを思い出した。
アルバムを閉じて背もたれに大きく体を預けた。今でも不思議に思う。何故、学年いや学校一のマドンナが俺みたいな冴えない男を気に入ったのか。一度、本人に問うてみたことがある。しかし、彼女は笑って誤魔化すだけで教えてくれなかった。あれから20年経っても謎のままだ。もしかしたら、一生謎かもしれない。なにがともあれ学校一のマドンナとの想い出は20年経った今でも俺の中で色褪せることなく燦然と輝いている。俺は部屋掃除を完全に放棄し、20年前の片桐汐里との想い出の一ページを捲った。
「小林」
誰かが俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。しかし、俺は無視した。
「小林!」
今度は強く怒気を孕んだ声だった。机に突っ伏していた俺はわざと怠そうに起き上がった。教卓から数学教師の杉崎がこちらを睨んでいた。
「小林。早く取りに来ないとお前のテストを黒板に張り出すぞ」
その言葉でようやく俺は今日が中間テストのテスト返しであること思い出した。俺は立ち上がりノロノロとテストを取りに行った。
「お前が呼ばれたのは一番最初だぞ」
解答用紙を受け取る際に杉崎が嫌味を言ってきた。
杉崎はテストを返す際、点数が悪い生徒から呼ぶようにしている。つまり、最初に呼ばれた俺はクラスでビリだったという訳だ。杉崎が何故そのようなわざわざ生徒を辱しめる方法で返すのか。答えは簡単である。見せしめにして勉強をさせようという魂胆なのだ。このやり方はプライドが中途半端に高く勉強が出来ない=頭が悪いと思っている連中には絶大な効果を発揮する。なので、杉崎のテストの学年平均は一様に高い。この時代は今と違い学歴至上主義であり、杉崎のようなやり方はある意味で正義だった。しかし、俺のような学歴なんぞこれっぽっちも気にしない人間には全く通用しない。
「そうですか。何事においても一番なんて簡単に取れるものじゃないので、誇りに思います」
皮肉で返すと、クラスの何人かの忍び笑いが聞こえた。
「俺のテスト返却で最初に呼ばれる意味が分かってるのか?」
杉崎のこめかみに青筋が立っているのが分かった。
「はい。確か点数の伸び代がが一番高い奴から呼んでるんですよね」
物は言いようである。杉崎の意図とは真逆だが、俺の言ってることは間違ってはいない。
「そう思うんだったら、授業を寝ずに受けろ」
嫌味に嫌味で返された杉崎は更に色めき立った。クラスの連中も二人のやり取りを見守っている。
「俺だって寝たくて寝てるわけじゃないんですよ。眠くなるから寝てるんですよ」
「なんだと!俺の授業がつまらないと言うのか!」
「そんなこと言ってません。でも、先生自身がそう思うなら生徒が寝むくならない授業をやってみるべきですね」
「もういい!さっさと座れ!」
杉崎は怒りに震え肩を弾ませて息をしていた。
「はーい」
大満足した俺はクルリと背を向けた。そして、クラス中の視線が自分に集まっていることに気付いた。あからさまな非難を向ける者もいた。そんな視線は痛くも痒くもなかったが、ただ唯一気になったのは片桐汐里の視線だった。席に戻る中でチラッと片桐汐里を見た。彼女は何とも言えない目で俺を見ていた。一瞬だけ目があったが、すぐに逸らした。その後は順調に名前が呼ばれていった。片桐汐里は最後から三番目に呼ばれていた。そして、最後の番が来た。
「七瀬勇人」
「はい」
そいつが立ち上がると何人のかの女子生徒が黄色い悲鳴をあげた。
「今回も一番だ。最終問題を解けたのは学年でもお前だけだ。流石だな」
杉崎は俺の時とは、うって変わって上機嫌で持て囃した。
「ありがとうございます」
七瀬は頭を下げてテストを受け取った。
「皆も七瀬を見習うように。よし、席に戻って良いぞ」
七瀬が席に戻るときは皆が一様にして称賛の眼差しを送っていた。もちろん俺はその皆の中ではない。
片桐汐里が学校のヒロインならは七瀬勇人はプリンスだった。説明は面倒なので省くが、大半の女子が理想とする男子高校生であることだけを言っておく。
だが、俺は七瀬勇人の事が嫌いだった。イケメンで勉強が出来るのは認めるし、それだけならどうでもいい奴としての認識なのだが、七瀬勇人の事が決定的に嫌いな理由は七瀬勇人も片桐汐里の事を好きだという所だ。俺なんかでは絶対に勝てない。だから、嫌いなのだ。つまり、嫉妬である。俺には七瀬勇人に勝るものが一つもない。
「凄いね。七瀬君」
後ろの席に座っていた片桐汐里が七瀬に声をかけていた。俺はその様子を見て胸がざわつき始めた。
「いやぁたまたまだよ」
そう言う七瀬の顔は満更でもなかった。
「私最後の問題はどうしても解けなかったの。後で休み時間に教えてくれない?」
「あ、ああ。もちろんいいよ」
七瀬の頬はさっきから緩みっぱなしだった。
「ありがとう」
片桐汐里がニコッと笑った。決して自分に向けたものでは無いと分かっていてもその笑顔を見て胸が高鳴った。そして、あんな可愛い笑顔を向けられる七瀬勇人が憎かった。それ以上二人の様子を見てられなくなった俺は机に突っ伏した。
俺は机に頬杖を付きながらボーッとしていた。そのボーッとした視線の先には片桐汐里と七瀬勇人が映っていた。片桐汐里は数学の授業が終わると早速七瀬勇人を呼んでテストの最後の問題を教えてもらっていた。誰も二人の邪魔をしようとはしなかった。それもそのはずである。傍目からはこの上ない美男美女のカップルであり、その中に割って入ろうだなんて勇気のあるやつはいない。もっとも、俺が見ているのは片桐汐里だけだった。そんな好奇な目で見られてることを他所に片桐汐里は真剣に問題に取り組んでいた。例え最後の問題が解けなかったとは言え、クラスで三位という立派な成績を取っている。なのに、どうして解こうとするのか俺には全く理解できなかった。ただ、真剣に問題を解いている片桐汐里の横顔は美しかった。
「何見てんだ?」
有原哲平が声をかけてきた。哲平は中学からの付き合いで俺の一番の親友だった。哲平は見た目涼やかだが、喧嘩が滅法強かった。哲平もこの高校では不良として名が通っているが、実のところはめちゃめちゃ勉強が出来た。その気になれば学年一位も余裕で取れるほどだ。勉強の出来ない俺がこの高校に入れたのも哲平が高校受験の時に勉強を教えてくれたからだ。その哲平の隣には青山浩介がいた。浩介は高校に入ってから出来た悪友だ。女癖は悪いが、気のいい奴だった。去年同じクラスだった俺達はすぐに意気投合し仲良くなった。俺と哲平は帰宅部なので放課後もつるんでが、浩介はテニス部に所属していたので時と場合によっては居ない時もあった。三人の関係を簡単に説明するのならば、俺と哲平がルパンと次元で浩介は五右衛門と言ったところだ。今では自他共に認める学校の三バカトリオと認識されている。
「何も見てねぇよ」
「おいおい。誤魔化すなって。顔が完全にマドンナに恋する観客になってたぜ」
肩を回しながら浩介が茶化した。
「う、うるせぇな」
今の声がうるさかったのか片桐汐里がこちらに目を向けてきた。俺はばつ悪そうに顔をすくめ教室から出て男子便所に向かった。
「なぁ、今日の帰りSATに寄ってかねぇか」
付いてきた哲平が言った。
SATとは俺達三人が贔屓にしてる喫茶店だった。夜は酒も販売しており今風で言うとカフェ&バーのような店だった。
「まぁそれは良いけどよ」
「汐里も誘ってやろうか?」
浩介がニヤリと笑った。
羨ましいことに浩介はあの片桐汐里の幼馴染だった。この学校で片桐のことを気軽に下の名前で呼べる男子はこの男しかいないだろう。ただ、全く不思議なことに大の女好きである浩介は片桐に手を出そうとしない。
「やめてくれ。わざわざ恥を欠かせなくてもいいだろ」
「そんなことないだろ。七瀬は固くお断りだけど、三郎なら喜んで誘うぜ」
「いつも思うけど、何で七瀬はダメで俺なら良いんだ?」
「三郎だからだろ?」
「答えになってねぇよ」
「そんなこと言われてもそうなんだからしょうがねぇだろ。なぁ哲平?」
「そうだな。俺も浩介の立場なら三郎だったら誘ってもいいな」
「哲平までどうしたんだよ」
「どうしてそんな頑なに断るんだよ。汐里のこと好きなんだろ?だったら、大チャンスじゃないか」
「あのなぁ。俺みたいな凡人に片桐が振り向くと思うか?七瀬みたいな奴ならまだしも」
「片桐は七瀬みたいな奴には興味ないと思うけど」
哲平が言った。
「何でそんなことが分かるんだよ」
「何となくだけどな」
「七瀬に振り向かないなら、尚更無理だろ」
「んなこと分かんねぇじゃん。汐里がお前のことを好きになることだってあり得るだろ」
浩介の言葉に舞い上がりそうになるが、現実は言葉一つさえ交わしたことはない。仮に席が隣になったとしても何て会話をしていいのかも分からない。
「分かった分かった。お前らの優しい心遣いには感謝するよ。けど、何もしないでくれ。俺は遠くから見てるだけで十分なんだよ」
浩介はまだ何か言いかけたが、哲平が手をかざしてそれを制した。
「本当に良いんだな?」
「ああ。さてと、俺は先に帰るわ」
「この後HRだぞ」
「だからだよ。別に出なくたっていいだろ。じゃあな」
「あれ?SATには行かないのか?」
浩介が聞いた。
「今日はめんどくせぇや」
「そうか。じゃあな」
「じゃあな。浩介」
「ああ」
何か言いたそうな浩介に背を向けて俺は教室に戻った。
俺はカバンに適当に教科書を詰め込み、席を立つ前に片桐汐里を盗み見た。問題を解いたのか、今は友達とお喋りに興じていた。俺は少し心が楽になった。一方で用済みとなった七瀬は片桐汐里の近くで複数の男と話していた。しかし、興味は片桐にあるようで、チラチラと様子を窺っていた。俺は小さく鼻で笑い、席を立った。その瞬間、片桐がこちらを見てきた。俺は石のように固まった。俺がカバンを持っていることでサボることに気付いたのか、片桐汐里はどこか非難がましい目つきを送ってすぐに俺から目を逸らした。その視線を受けた俺は半ばやけくそになって教室を出て行った。
学校をサボった俺は家に帰る事もせず、高校の近くを流れる川の土手で寝っ転がっていた。こんなことなら最後に片桐を見るんじゃなかったと後悔した。まさかあんな目を向けられるとは思ってもいなかった。どうして俺があんな目を向けられなくちゃいけないんだ。俺が授業をサボるかどうかなんて片桐には関係ないはずだ。落ち込んでいた気持ちが段々と怒りへと変わってきた。片桐にどう思われたって関係ない。どうせ俺みたいな落ちこぼれなんて相手にする訳ないんだから。だから、気にすることなんてないさ。そう無理矢理自分を納得させたが、結局その日は片桐汐里の目が頭から離れることはなかった。
どうやら私のさっきの目に小林君は気付いたようだ。逃げるように立ち去った後ろ姿が目に焼き付いてる。どうして授業をサボるのだろうか。学生の内に勉強出来る事がどれだけ大切なことか。だから、あえて非難がましい目付きをしたのだが、逆効果だったようだ。もちろん、帰ってほしくなかった理由は他にもあった。担任の教師が教室に入ってきてLHRが始まった。今日は何をするんだろうと思っていたら、小関君が席替えをしようと提案した。皆、笑った。私も内心は笑っていた。中学生までは席替えは一大イベントだったが、高校生にもなって席替えで嬉しいとはならなかった。結局、小関君の政治家の演説と突っ込みたくなるような仰々しい力説によって担任教師が納得して、席替えを行うことになった。
席替えの結果、私は小関君に感謝することになった。それと同時に明日からどうしようと言う不安に包まれた。まさかこんな展開が待っているなんて思ってもいなかった。どうして今日に限っていないのだろう。私は空席になってる隣を睨んで恨めがましく思った。
次の日は寝坊して遅刻した。授業中に入って変に注目されるのは嫌なので、1時間目が終わったタイミングを見計らって教室へと向かった。教室に入りいつも通り自分の席へと向かったが、何故か自分の席に哲平が座っていた。
「哲平。何で俺の席に座ってるんだよ?」
哲平はゆっくりとした動作で俺に顔を向けた。
「何でってここが俺の席だからに決まってるだろ」
「はぁ?」
「ああそうか。お前昨日サボったから席替えしたこと知らないんだったな」
少し面白がっている口調だった。
「席替えだぁ?」
高校生にもなって席替えがあるなんて思ってもみなかった。
「小関の野郎が中間テストも終わったし、新しいクラスにも馴染んできた頃だろうから、このタイミングで席替えするのが一番だって言ったら、担任も納得して昨日のHRで急遽席替えが始まったんだよ」
小関とはこのクラスの学級委員だった。頭の良いお調子者でクラスのムードメーカー的な存在だった。しかし、俺はずる賢く狡猾な男だと思っていた。大方、自分の席に不満でも持っていたのだろう。それでこの時期に席替えなど言い出したのだろう。全くもっていやらしい奴だと思った。
「それで、俺の席はどこになったんだよ?」
俺がそう言うと哲平が口元を緩めた。
「なんだよ?」
「良かったな三郎。お前にとっては学園天国な席だぞ」
その時は何を意味するのか分からなかったが、哲平が俺の新しい席を差してその席を見た瞬間に全てを悟った。
「マジかよ・・・・・・」
思わずそう呟いていた。
「七瀬や小関の顔をお前にも見せてやりたかったよ。まぁ頑張れ」
哲平はそう言うと、立ち上がってどこかへ行ってしまった。
一人残された俺はその場に立ち尽くして自分の席を見つめていた。場所は窓側の一番後ろ。それは良い。問題は隣の席だった。片桐汐里が机に肘をついて窓の外を眺めていた。
俺は覚悟を決めてゆっくりと自分の席へと向かった。俺が席に着いても片桐汐里は無反応だった。俺はそれに少し傷つきながら席に座った。
こんなことなら昨日はサボらなければ良かったとひどく後悔した。何か言葉をかけるべきなのか迷った。しかし、無視されたらそれこそ立ち直れないくらいにショックを受ける気がしたから、結局何も言わないままじっと座っていた。
浩介が教室に入ってきた。俺の姿を見た途端に嬉しそうに頷いていた。そして、良かったなと合図するかのように親指を立た。俺は何が良いものかと思った。ここだけ空気が薄くなったのではないかと思うくらいに息苦しかったし、心臓の音がよく聞こえた。
片桐汐里は微動だにせず窓の外を眺めていた。明らかに俺から顔を背けているとしか思えない。何故、隣に座るだけこんなにも傷つかなければならないのか。俺は悔しいやら悲しいやらで胸が詰まりそうだった。俺は耐えきれず顔を机に突っ伏した。俺のことを見たくないなら見せないでいてやるよと勝手に意固地になっていた。
授業が始まる鐘が鳴った。隣で片桐汐里が教科書を並べる音が聞こえてきた。どんな顔をしているのだろうかとか何を考えているのだろうかとつい想像してしてしまう。気にしないようにすればするほど、全神経を注いで片桐が出す音に耳を傾けていた。
カリカリとノートに何やら書き込んでいる音が耳に心地良かった。隣で真剣にノートを取っていると思うと、顔を上げてその横顔を見たくなった。しかし、顔をあげたくない。あげて昨日のような冷たい目で見られるのが怖かった。意固地なくせに意気地はない。そんな自分が情けなくなった。
最初の50分間はあっという間に終わった。片桐汐里が席を立ってどこかへ行った。俺はタイミングを少しずらして、さも寝起きですよと言わんばかりに大あくびをしながら顔をあげた。
浩介が猛然とやって来た。
「おい三郎。何で寝ちまったんだよ。せっかく汐里の隣になれたって言うのに」
「授業中はいつも寝てるから良いだろ」
「バカ。汐里のやつお前のこと横目で睨んでたぞ」
「んなこと知るかよ」
「どうすんだよ。そんなことで嫌われたら」
「だから、知らねぇよ。それに俺が来たとき、ずっと窓の外を見てたぜ。もう嫌われてるようなもんだろ」
「それは違うぜ」
「何が違うんだよ」
「いや、まぁ、汐里はそんな簡単に人を嫌ったりしないってことだよ。とにかく、これ以上寝るなよ。何なら教科書忘れたとか言って汐里に見せてもらえよ」
浩介はそれだけ言うとそそくさと自分の席に戻った。
全く昨日からなんなんだ。どうしてそこまで俺と片桐汐里をくっつけようとするんだ。それに教科書を見せてもらえだと?そんなこと出来るなら俺は今頃テストで100点を取っているはずだ。視界の端に片桐を捉えた。俺はすぐに机に突っ伏した。浩介が何やってるんだと言った顔をしているのだろうと思ったが、そんなことは関係なかった。嫌われるなら嫌われてるやるよ。
片桐が横にいる時に顔をあげたのは最後の帰りのHRの時だけだった。だが、一切横を見ようとはせず、担任が終わりを告げたと同時に立ち上がり一目散に教室を後にした。校門を出る頃には信じられない程の罪悪感と後悔が押し寄せていた。
この時、俺は気付いていなかった。三階の廊下から校門に向かう俺の後ろ姿を哀しく見つめる片桐汐里の姿があったことを。
SATに着いた俺はお気に入りのカウンターに座り、これまたお気に入りのロイヤルミルクティーを注文したのだが、ストローでクルクルと氷を回すだけで全く手をつけずにいた。
突然、後ろから小突かれた。
「痛っ」
後ろを振り向くと浩介と哲平が立っていた。
「何すんだよ」
「うるせぇ。これくらい我慢しろ」
哲平と浩介が自分を挟むように両隣に座った。
「お前。どうして一日机に突っ伏してたんだよ。昨日の夜寝てねぇのか?」
早速、浩介が詰め寄ってきた。まるで、尋問のようだ。
「お陰さまでタップリ寝たよ」
「じゃあ、どうして起きなかったんだよ」
「タップリ寝たって授業中は眠くなるんだよ」
「本当は寝てないくせに何言ってるんだ」
哲平が鋭く指摘してきた。
「寝たフリしてたってことか。何でそんな勿体無いことをしたんだ?」
「・・・・・・別に良いだろ」
「あのなぁ、俺はお前のために言ってるんだぞ。せっかく好きな女子の隣になれたって言うのに」
「片桐のことなんか好きじゃねぇよ」
「じゃぁ、俺が七瀬に協力しても良いんだな?」
「それは・・・・・・」
「三郎。素直になれって。お前が汐里のことを好きなのは俺も哲平も十分に承知してる。俺らは三郎に幸せになってもらいてぇんだよ。だから、協力しようとしてんじゃねぇか」
「あーうるせうるせ。余計なお世話だって言ってるだろ。ただでさえ気分が最悪なんだから放っておいてくれ」
俺はカバンを持ってSATを飛び出した。
「何だよ三郎のやつ。こっちは好意で協力してやろうとしてんのに」
逃げた三郎の背中に向かって浩介が愚痴た。
「そう言うなって。三郎もどうして良いか分からないんだろ。それにまだ席替えしたばっかりじゃねぇか」
哲平はブラックコーヒーを優雅に啜った。高校生のくせに無駄に嗜好が大人なのが哲平の特徴だった。
「汐里のやつきっと落ち込んでるぞ」
「じゃあ、片桐のフォローしてやれよ。このままお互い誤解したまんまは可哀想だろ」
「全く。どっちも素直じゃねぇんだから」
浩介はやれやれと言わんばかりに両手を頭に置いた。
「それにしても、片桐は三郎のどこを気に入ったんだ?」
「さぁな。それは聞いても教えてくれねぇ」
「あれ?サブちゃんは?」
事務所から出てきたSATの店主である道本陽二が三郎の姿を探した。
「あ、ごめんなさい陽二さん。あいつ金も払わず出ていきました」
浩介が言った。
「全くしょうがないな」
陽二は怒ることもなくただ笑った。この店の大きな魅力の一つが店主である道本陽二の存在だった。
「ちゃんと明日払いに行くように言っておくので」
浩介が頭を下げた。意外に礼儀正しいのが浩介の美点でもあった。
「大事な常連さんだしいつでも待つよ。それより、サブちゃん何かあったの?」
「恋煩いですよ」
哲平が平然と言った。
隣に座っていた浩介は驚き、陽二は笑った。
「あの硬派のサブちゃんがね。それで相手は誰なの?」
「俺達の学校のマドンナですよ」
「へぇ。じゃあ凄い可愛いの?」
「アイドルになっても不思議じゃない顔立ちしてますね。顔もすこぶる小さくてスタイルも良いですよ」
「それだけ可愛いならライバルも多いんじゃないの?」
「学校の男のほとんどがライバルみたいなもんですよ」
「それは熾烈だなぁ。二人はライバルじゃないのかい?」
「俺は特に恋愛に興味ないんで」
哲平が澄ました顔で言った。
「俺は好きでも嫌いでもないです。まあ、でも、汐里と何かあることはないっすね」
「なるほど。それで二人はサブちゃんのサポーターって訳ね」
「俺達はそう思ってるんですよ。でも、三郎のやつ拒否るんです。特に俺は汐里とは幼馴染みで仲が良いから、いつでも紹介してやるって言ってるのに」
浩介は不満そうに言った。
「サブちゃんからしたらそれはズルいって思ってるんじゃないかな?ああ見えて、とても真っ直ぐな子だし」
哲平は内心で感心していた。三郎のことをちゃんと見抜く大人は始めてだったからだ。三郎は見た目で損していることがままある。確かに、大柄で目付きも鋭く近寄りがたい雰囲気を醸し出している。しかし、実際の三郎はその見た目からは想像できないほど優しくて真っ直ぐな男である。曲がったことは大嫌いで、人として大事なものはきちんと守っていた。だが、学校の教師は点数でしか評価しない。どれだけ優れた人間性を持っていたとしても、低い点数ならばダメ人間という烙印を押す。
しかし、陽二は三郎の本質をしっかり見抜いていた。哲平は陽二の人としての器の大きさを改めて実感した。
「俺だって三郎の片想いならそこまで積極的には協力はしてないですよ。それは三郎にも汐里にも悪いし」
「えっ、それってつまり?」
浩介は哲平の方を見た。言っても良いのか目で聞いたのだ。哲平は小さく頷いてOKの合図を出した。この人ならば言っても三郎に余計なことを言うはずがないと信用できた。
「汐里も三郎のことが好きなんですよ」
「へぇ。それはそれは‥‥‥」
陽二は少し驚いた顔をした。
「まぁ好きって言うか、気になってるって感じですかね。でも、汐里が男に興味を示すのは初めてのことだと思うので、多分好きなんだとは思いますけど」
「へぇー。学校のマドンナに好かれるなんてサブちゃんも隅におけないねぇ」
「これ三郎には内緒にしておいてくださいね」
「大丈夫大丈夫。お客様から聞いた話しを漏らすのは店主として失格だからね」
「だから、俺達はやきもきしてるんですよ。二人ともお互いを意識し過ぎて空回りしてるもんだから」
哲平はまたコーヒーを一口啜った。
「それに今日から二人は隣の席同士なったんですよ。こんなビックチャンスが訪れたのに、三郎のやつ一日中机に突っ伏すし」
「だから、サブちゃん今日は元気が無かったのか。恐らく、後悔してたんだろうな」
「三郎は超奥手だからな。隣になったからって、上手く話せるような柄じゃない。多分、今日一日で一年分の緊張を体験したんじゃないか」
「汐里も汐里で一人で傷つくし、全くこれからどうなることやら」
浩介が溜め息混じりに言った。
「まぁまぁ、こうゆう時は周りが何かするのは逆効果だよ。二人が両想いなら自然と仲良くなるって」
「そうだと良いんですけどねぇ」
「それにしても、サブちゃんは本当に純真だね。好きな女の子と隣になって、そんなに緊張しちゃうなんて」
「それが三郎の良い所なんですよ。俺らもそんなあいつだから協力したくなるんですよ。これが浩介みたいな下心満載の男だったら、思いっきり蹴っ飛ばしてるところだけど」
「おいおい。そこで俺を出すなよ」
2人のやり取りに陽二は笑った。
「お前、去年何人の女に手を出した?」
浩介は右手の指を折り始めた。
「えっと、4‥‥‥いや5人か」
「万が一、片桐がお前に惚れたら俺は片桐の頬をひっぱたいて目を覚まさせてやる」
「ちぇ、ひでぇな」
浩介が舌打ちした所でSATのドアが開いた。
「おっとお客さんだ。じゃあ、2人ともゆっくりしていってね」
そう言って陽二は接客に戻っていった。
「そう言えば、明日の日直って片桐だったよな」
哲平がふと思い出したように言った。
「あーそういえば、そうだったような」
「一つ面白い事思いついたんだけど、乗るか?」
哲平が思案下な顔つきで言った。
「いいね。乗ろう」
浩介は即答した。
哲平はニヤリと笑って浩介にその企みを話した。
「あー寝みー」
俺は大欠伸をしながら、学校に向かっていた。昨夜、浩介から電話があり、どうしても朝早くに渡したいものがあるから、登校時間の30分前に教室に来てくれと言われた。何でわざわざそんなめんどくさいことをするのか分からなかったが、浩介の厚意をいつも無下にしているので嫌とも言えず、頑張って早起きしてきたのだった。
眠い目をこすりながら教室の扉を開けた。そして、黒板の前に立っていた人物を見た途端一気に目が覚めた。その人物は片桐汐里だった。片桐汐里もまた驚いたように俺を見て固まっていた。暫し、見つめ合った二人だが、片桐汐里の方が先に目を逸らした。それが合図になったかのように俺の硬直も解けた。
ぎこちない足取りで自分の席へと向かう。片桐が何故こんなに早くいるのかはすぐに分かった。黒板を掃除している所をみると日直だからいるのだろう。
あの野郎絶対知ってて俺を呼び出しやがったな。浩介への怒りが胸に渦巻いた。
カタン。何かが落ちる音が聞こえて我に返った。どうやら、片桐汐里が黒板消しを落としたようだ。ようやく気づいたが、俺は今あの片桐汐里と二人きりでいる。その事実を改めて認識すると、急に気恥ずかしくなってきた。教室を出るべきかと思ったが、せっかくの二人きりの時間をふいにしてしまうのはもったいないと思った。それに、そこまであからさまに避けるのは片桐に申し訳ないと思った。いつものように机に突っ伏そうかとも思ったが、わざわざ早く来て寝るのは何て馬鹿げているんだと思われるだろう。仕方なしに窓の外を眺めようと思ったが、どうしても目が片桐の後ろ姿を追ってしまう。
黒板の真ん中辺りで片桐の動きが止まった。そして、黒板の上部をジッと見ていた。視線の先には微かに残っている白い線があった。片桐汐里は背伸びしながら目一杯手を伸ばして消そうとしたが、絶妙に届いてなかった。その様子を見かねた俺は立ち上がって片桐汐里に近づいた。
「貸せよ」
後ろから声をかけられた片桐汐里は肩をビクッと振るわせ俺の方を向いた。
「消したいんだろ。それ」
俺は白い線を指さした。
「うん。まあ」
片桐は明らかに困惑していた。
「消してやるから、それ貸せよ」
俺は片桐とは目を合わさずに黒板消しだけを見ながら言った。こんな近距離で片桐と目を合わせるのが恥ずかしかったからだ。片桐は戸惑いながらも黒板消しを渡した。
俺は黒板消しを受け取ると白い線をサッと消して、黒板消しを置いてすぐに席へと戻った。クールに装っていたが、内心は今にも吐きそうなくらい緊張していた。今思えば何故わざわざ手助けにいってしまったのか後悔していた。別に絶対に消さなければならないような場所でもなかった。もし背が低いことをバカにされたと思ってしまったらどうしようか。後ろからずっと見ていたなんて気落ち悪い男だと思われたら。一度、悪い方向に考えてしまうとそれに流されてしまう。そんな癖が俺にはあった。
そんなことを考えていたら、片桐が日直に仕事を終えて席へ戻ってきた。完全に席を立つタイミングを失った俺は内心慌てふためいていた。声をかけるべきだろうか。おはようは遅きに逸している。お疲れか。いや、それじゃアルバイトみたいだ。良い天気ですねか。しかし、今日はまがうことなき雨だということを思い出した。
「さっきはありがとう」
「は?」
完全に虚をつかれた俺は一瞬思考が止まった。
「黒板掃除の時。上のやつ消してくれてありがとう」
片桐がこっちを見た。
「あ、いや、あれくらい別に」
片桐にじっと見つめられたのが恥ずかしくて顔を逸らした。
「お陰で椅子に上らずにすんだよ」
「そこまでして消したかったのか?」
「ああゆう風に中途半端なの嫌なの。あなたもそうは思うでしょ?」
全くそんなことは思わない。片桐だから手助けしたにすぎない。だが、そんなことを言えるはずもなかった。かと言って、同意する気にもなれない。そして、あなた呼びであることに俺はまた少し傷ついた。
「別にあれくらいどうってことないだろ。書く時に邪魔になるわけでもないし」
「まぁあなたみたいに授業中居眠りしてる人には分からないでしょうね」
「何?」
予想だにしない皮肉に眉毛が動いた。
「真面目にノートを取ったらきっと分かるよ。あれくらいでもうっとおしいなって」
「そっちの集中力がないだけだろ」
つい皮肉で返してしまう。
片桐汐里はさも心外そうな顔をした。
「寝てばかりのあなただけには言われたくないわね。どうしていつも寝てるの?そんなに、勉強が嫌いなの?」
「嫌いだね。わざわざ成績を晒す教師もいるし」
「まぁ確かに、杉崎先生のようなやり方は私も嫌いよ。皆はあなたのこと悪く言ってたけど、ここだけの話、私はスカッとしてた」
よもやそんなことを言われるとは思ってなかった。片桐は絶対に教師の味方をすると思っていたからだ。
「あなたって実は頭が良いでしょ」
「俺が?」
藪から棒に何を言い出したかと思えば、俺のことをからかっているのだろうか。
「だって、すぐにあんな皮肉が思いつくなんて頭の回転が速い証拠じゃない」
「あれくらい誰だって思いつくだろ」
「そうかな。少なくとも私には無理だけど」
「片桐は優等生だから、そんなことを思う必要がないだけだろ。俺だって、片桐みたいに勉強が出来るなら、わざわざあんなこと言わねぇよ」
片桐は少し考えこんだ後に俺にこう言ってきた。
「ねぇ、ちょっと数学の教科書出して」
「はぁ?なんだよ急に」
「良いから出して」
有無を言わせない口調だった。
訳が分からないまま俺はカバンから数学の教科書を取り出した。片桐は教科書を手に取り、パラパラと捲った。適当なページで手を止めて俺の机の上に置き、載っていた問題を指さした。
「ここの問題解ける?」
本当になんなんだと思いながらも、問題を読んだ。
「全く分からねぇ」
「そう。じゃぁ、次は・・・・・・」
そう言って、何ページ前かに戻り同じように問題を指差して解けるか聞いてきた。
指された問題は答えは分からないけど、解き方は解る問題だった。
「あー何となくだけど、分かるって感じだな」
「そう。じゃぁ、ここから教えてあげる」
「は?」
俺は唖然とした。
「勉強教えてあげるって言ってるの」
「は?いや、何で急に?」
困惑が強すぎて言葉が上手く出てこない。
「だって、せっかく勉強出来るのにもったいないでしょ。それに、これからは授業中寝てばっかりいられても困るし」
「何で困るんだよ」
「あなたが隣でスヤスヤ寝てるせいで私も眠くなってくるの。だから、もう寝ないでほしい」
「だからって、俺に勉強を教える理由にはならないだろ」
「あなたに勉強を教えて、難しい問題が解けた時の気持ち良さを教えてあげたいのよ」
ありがた迷惑もいいとこだった。
「だから、授業中は寝ないで真面目に聞いてね。じゃないと、席を変えてもらうように申し出るから」
「なっ‥‥‥」
それは困る。片桐がそんなことを申し出ればあの嫌味な秀才やずる賢い子悪党が諸手を挙げて立候補するに決まっている。あんな奴等にこの席を明け渡すくらいなら、死んだ方がマシだ。
「ちっ、仕方ねぇな。分かったよ。寝なきゃいいんだろ」
俺の言葉に片桐汐里は満足げに頷いた。
「よし。ほら、早く解いてみて。分からなかったら教えてあげるから」
「寝ないんだから、勉強は良いだろ」
「ダメ。起きるならちゃんと勉強しなさい」
まるで母親みたいだった。
俺は渋々ペンを出して、問題に向かった。片桐も勉強道具を机の上に取り出していた。
全く何と言うことだろうか。好きな女子の隣になれたのに、大嫌いな勉強をする羽目になるとは。それにしても、こんなにも強情な女だとは思ってもなかった。遠くから見つめてる限りでは、もっと物静かでどこか冷たい印象を持っていたのに。少し裏切られたような気持ちになったものの、自分みたいな男にも気さくに話してくれる優しさに胸が高まった。早起きは三文の徳と言うが、三文どころか宝くじに当たったような気分だ。さっきまでは浩介をぶっ殺してやろうと思っていたが、今は逆に感謝までしていた。
そして、この日から俺の長い長い青春の旅路が始まった。
鬱陶しい梅雨の季節が半分が過ぎ去り、街角には綺麗な紫陽花が至るところに咲き誇っていた。
この一ヶ月で俺と片桐汐里の関係は明らかに変わっていた。あの日、突然始まった勉強会のお陰で俺は授業中に寝ることはなくなった。その姿勢に満足したのか、片桐は俺に勉強を教える熱が高まり、範囲は数学にとどまらず主要五教科に及んでいた。片桐が丁寧に教えてくれるお陰で俺は以前ほど勉強が嫌いではなくなっていた。片桐の言っていた難問を解く楽しさが徐々に分かってきたような気がする。
確かに片桐の仲は縮まったかもしれないが、だからと言って、どうこうあるわけではない。俺が片桐と二人きりになれるのは机で勉強を教えてくれる時だけだ。一緒に帰ったりしたこともない。哲平や浩介からは早く誘えとせっつかれてるのだが、見た目以上にビビりな俺には片桐を誘う勇気が無かった。
今日もいつも通り哲平達とSATで暇を潰していた。
「どうだ。勉強の調子は」
浩介が聞いてきた。その口調はどこかからかっているように聞こえる。
「どうもこうもねぇよ。半強制の勉強に意味があるかよ」
「とか言って、楽しんでるだろ。それにしても、黒板消しがラッキーアイテムになるなんて朝の情報番組の占いコーナーに伝えてやれよ」
浩介が笑いながら言った。
「アホか」
「それで片桐とはいつ一緒に帰るんだ?」
哲平が言った。
「またその話しかよ。いつも言ってるだろ。ただのお勉強友達なのに一緒に帰れるかってんだよ」
「七瀬みたいに気軽に誘ってみろよ」
哲平が言った。
「あの野郎と同じ轍は踏みたくねぇな」
七瀬は最近ことあるごとに片桐を誘っている。カラオケ、喫茶店、映画。しかし、その全てを難なくかわされているそうだ。浩介が言うには、七瀬が急に片桐のことを誘い出したのは俺の存在が関係してるらしい。俺と片桐の勉強会の様子を見て俺達が良い仲になるのを恐れているそうだ。だとしたら、何ともバカな話しである。もっとも、このまま勝手に妄想を膨らませて自滅するのであれば最大のライバルが消えてありがたいが。
「一緒に帰るくらい問題ないだろ」
「七瀬が断られてるのを見て、よし俺なら行けるって思える男子がこの高校にいるかよ」
「俺なら誘えるけどな」
浩介の余裕綽々の表情にムカついた。
「お前はな。第一、片桐は七瀬のどこがお気に召せないんだよ。学校のプリンスだぞプリンス」
プリンスの部分にありったけの皮肉を込めた。
「七瀬は下心が丸見えだろ。頭の悪い女は引っ掛けられても、汐里のような賢い女には通用しない」
「あいつ別に浩介みたいに女なら誰でも良いってタイプじゃないだろ」
「まぁな。でも、あいつが手に入れたいのは汐里じゃなくて、汐里の見た目の良さだけさ」
「意味わかんねぇ」
「つまりだな、七瀬は汐里が好きじゃないんだよ。例えば、汐里の親友の木下優子がいるだろ。もし、その木下優子が汐里のような見た目だったら、あいつは木下優子のことが好きになるってことだ。分かったか?」
「つまり、外見にしか興味ないってことか?」
「まぁそうゆうこと。後は自分と釣り合うから片桐汐里を手に入れたいのさ」
「くっだらねぇ」
俺は吐き捨てた。それが本当ならとことん嫌な奴だ。
「でも、世の中ってそんなもんだろ」
「にしても、何でそんなことが分かるんだよ」
「俺だって伊達に女と遊んでる訳じゃない。ちなみに、俺が遊んでいる女は七瀬に誘われたら付いてく女だ」
「つまり、頭の悪い女ってことか」
「汐里と比べたらってだけな。別に悪い女とかではないよ」
何故この生粋の女たらしが片桐の幼馴染でいれたのか分かったような気がした。浩介もまた頭が良いのだろう。片桐は浩介のような男には溺れない。そして、浩介も片桐のような女には手を出さない。その関係がハッキリと分かるからこそ二人は仲良くしてこれたのだろう。要は二人とも賢いのだ。
「浩介の言いたいことは分かったけどよ、だからと言って、俺が片桐を誘っても良い理由にはならないだろ。俺だって片桐の見た目好きだし」
「まぁ、汐里の見た目が嫌いな男はそうはいないからな」
「何にせよ、俺が誘うことはねぇよ。今の状況だけでも十分なんだよ。これ以上欲ばったらバチが当たっちまうだろ」
翌日、俺は哲平と一緒に帰っていた。
「あ、やべ」
ポケットをまさぐった俺は財布が無いことに気づいた。
「どうした?」
「財布忘れちまった」
「マジかよ。取りに戻った方がいい」
「悪いな。先に帰っててくれ」
「ああ。じゃあな」
俺は哲平と別れ学校へ戻った。
無事に財布を回収し、学校を出ようとすると雨が降ってきた。俺は最悪と呟いた。生憎、傘を持ってきていない。忘れ物をしなければこの雨に当たることもなかったのにと思った。俺は仕方なしに下駄箱に置いてある傘入れから適当なビニール傘を失敬した。傘は骨が一本曲がっていたが、この際文句は言ってられない。俺は小さくため息を吐き、今日、四度目の道を歩き始めた。暫く歩くと、前方に小屋が見えてきた。その小屋は高校の誰もが知っているちょっとしたスポットだった。その小屋はバス停なのだが、屋根付きベンチ付きということもあり乗客以外の利用も多かった。俺も雨宿りや駄弁るために何度か入ったことがある。乗客以外の人もいるので、バスの運転手が勘違いで止まることもしばしばあった。さすがに、運転手からも止まって違うと、うんざりするからどうにかしてほしいと会社に苦情が入った。そこでバス会社は小屋の入り口にある立札をかけた。それは、表と裏に乗る乗らないと書かれた立て札だった。乗る方の面が赤く塗られていて、乗らない方は青く塗られている。この立て札のお陰で運転手も無駄な停車を回避出来るようになった。
今日も急な雨で誰か雨宿りしているかもしれないなと思いつつ、小屋を通り過ぎようとすると「わっ!」と声を出しながら誰かが窓から身を乗り出してきた。
「うわっ」
俺はビビッて傘を落としてしまった。
「あはははは。良い反応だね」
高らかな笑い声。その声の主が誰なのかすぐに分かった。
「片桐。お前なぁ」
俺は呆れて見せた。
「私より早く帰ってたはずなのに、どうして今頃ここを通ってるの?」
「学校に財布を忘れたから取りに戻ったんだよ」
そう言いながら、傘を拾い畳んだ。
「ああ。なるほど」
「片桐こそどうしてここに?」
「見ればわかるでしょ。雨宿り」
「そりゃそうか」
「早く止んでくれないと困るんだよね。今日大切な用があるのに」
片桐は恨めしそうに空を睨んだ。
「大切な用って?」
「今日、おばあちゃんの誕生日なの。だから、今日家族でご飯食べに行くんだ」
「ふーん。飯は何時からだよ」
「18時」
「まだ16時じゃねえか。それまでには止むだろ」
「その前に着替えたり、おばあちゃんの誕生日プレゼントを取りに行かないといけないから、遅くても17時には家に着かないといけないの」
「そうか」
ふと、手に持っていた傘を見つめた。
「なら、これ使えよ」
俺は傘を差し出した。
「えっ。いや、いいよ」
「早く帰らなきゃいけないんだろ。遠慮すんなよ。それにこれ俺のじゃないし」
「でも・・・・・・小林君はどうするの?」
「俺は走って帰るから」
「そんなのダメだよ。風邪でも引いたらどうするの?」
「馬鹿は風邪を引かないってよく言うだろ。ここ置いておくから、好きに使えよな。じゃあな」
俺はカバンを頭にかざして大雨の中に飛び出した。
背後からちょっと待ってよと言っていたのが聞こえたが、俺は振り返ることなく降りしきる雨を全身で浴びた。その夜、俺は風邪を引いた。
二日連続で学校に来なかった小林君の席を見て私はため息を吐いた。先生の話しだと、風邪を引いたらしい。あれだけの雨を全身に浴びればそれも仕方ないことだと思った。あの時、一緒に入って帰ろうと言えなかった自分に後悔した。小林君の方から誘ってくれるのを待ってなかったと言えば嘘になる。けど、小林君は傘を置いて雨の中を走っていった。まだ私達の関係はその程度なんだと勝手に傷つきもした。幸い、傘のお陰で時間には間に合った。とても楽しかったし、私のあげたプレゼントにおばあちゃんも喜んでくれて嬉しかった。けど、常に心のどこかでは小林君の事が気にかかっていた。
「随分とつまらなそうな顔をしてるな」
そう言って、小林君の席に座ってきたのは有原君だった。
「三郎が風邪を引いたことを気にしてるのか?」
彼に誤魔化しや嘘が通じないことが少し話しただけで分かった。なので、素直に答えることにした。
「うん、そうなんだ」
「あいつの事だから、今日は風邪なのか怪しいもんだけどな」
有原君は笑った。
「でも、風邪を引いたのは私のせいだから」
「そんなことないだろ。三郎が一緒に入って帰れば良かったんだ。自分のせいだよ」
そう言われたらそうかもしれないが、やはり風邪を引かせてしまったと言う気持ちの方が依然強かった。
「そんなに三郎のことが心配なら今日電話してやれよ」
「電話番号知らないよ」
「ほらよ」
有原君は制服のポケットから一枚の紙切れを私の机に置いた。
「これは?」
「三郎の家の電話番号だ」
私は反射的に手を伸ばした。
「電話するかしないかは片桐の好きにしろ。どっちにしたって明日からは三郎は必ず来るからよ」
「どうして分かるの?」
「片桐を見てれば分かるさ。お前ら二人は似た者同士だからな。三郎もきっと同じことを思ってるはずさ」
そう言い残して有原君は自分の席へと戻った。
私は紙に書かれた番号を見つめた。心はもう決まっていた。
翌日と翌々日は学校を休んだ。本当は一日で風邪はほとんど治っていたが、ずる休みすることにした。だが、何となくつまらなかった。以前の俺ならこれ幸いにとゲームやら漫画に興じるのだが、何をしていても片桐があの後傘を使って家に帰ったのかが気になってしまった。いつもなら負けるはずのない格闘ゲームのコンピューターにも初めての敗北を喫してしまった。俺は舌打ちをしてコントローラーを投げ捨ててベッドに寝転んだ。目を瞑るが眠気は一向に襲ってこない。むしろ、片桐の顔が鮮明に浮かび上がってくる。本当はあの時、一緒に傘に入って帰ろうと言いたかった。それか俺が代わりに雨が止むまでバス停で待つと言ったら、優しい片桐のことだから一緒に帰ろうと言ってくれたかもしれない。あの片桐汐里と相合傘をする大きなチャンスを俺は逃したのだ。このことを浩介に知られたらケツを蹴っ飛ばされるだろう。
扉をノックする音が聞こえて妹の彩香が入ってきた。
「お兄ちゃん電話きてるよ」
「誰から?」
「片桐って言ってたよ」
「えっ」
俺はベッドから跳ね起きた。
「何?お兄ちゃんの彼女?」
「ちげぇよ。何用だって?」
「知らない。お兄ちゃんに代わってほしいとしか言われてないから。早く出てあげなよ」
「ああ」
俺は部屋から出て、電話のある一階の廊下へと向かった。どうして片桐は俺に電話をかけてきたのだろうか。というか、どうして家の電話番号を知っているんだ。教えた記憶は一切ない。もしかして、浩介のお得意の悪戯か?彩香は浩介のこと知ってるし、彩香の性格的に浩介の悪戯に協力するのも吝かではないだろう。全くもってくだらない悪戯を思いつくようなものだ。俺は受話器を耳に当て相手が何かを言う前に先手を打った。
「残念だったな浩介。俺にはもう分かってる」
「何が分かってるの?」
その声は浩介ではなかった。驚きのあまり声が出なかった。
「浩介がどうかしたの?」
「あ、いや。別に何でもない」
「ふーん」
片桐はどこか釈然としてなさそうだった。
「どうして電話を?何で俺の家の番号を知ってるんだ?」
「番号は有原君が教えてくれんだ。電話をしたのはその・・・・・・」
片桐か言い淀んだ。
「その?」
「お礼を言いたかったから」
「お礼?」
「傘の。貸してくれたでしょ」
「あ、ああ」
それくらい学校で言えば言いものの。
「あの傘のお陰で間に合ったから。ありがとう」
「まぁ、それならよかった」
すぐに電話を切られると思ったが、片桐は切らなかった。少し間が空いた。俺は何か言わなくちゃと思った。
「お、おばあちゃんには何をあげたんだ?」
「薄手のカーディガン。おばあちゃん寒がりで、エアコンの冷たい空気とか苦手だから」
「それは喜んでくれただろうな」
「うん」
再び沈黙が流れた。
「明日も学校休むの?」
聞いた事のないしおらしい声に胸が苦しくなった。
「明日からは行くよ」
「良かった」
さっきとは打って変わって明るい声だった。
「ねぇ、一つ提案があるんだけど」
「何だよ」
「これから下の名前で呼んでもいい?」
「えっ?」
「ダメかな?」
「どうしたんだ急に?」
片桐に下の名前で呼ばれる。そう考えただけでドキドキした。
「せっかく仲良くなったし、いつまでも君付けじゃつまらないなって思ってさ。それに浩介や有原君がずっと三郎三郎って呼んでるのを聞いてるから君付けが変に感じるんだよね」
「そ、そうか。別に呼んでも良いけどよ」
「ほんと?良かった。あ、でも私は三郎じゃなくてサブローって呼ぼうかな」
「最後伸ばされるとバカにしてるようにしか聞こえねぇけど」
「そんなことないよ。サブロー。うん。これが良いな」
電話の向こうで一人でに納得していた。
「もう好きにしろよ」
「サブローも私を下の名前で呼んでも良いよ」
「よ、呼ぶわけねぇだろ」
何を言い出すんだと思った。
「浩介だって呼んでるじゃん」
「それは幼馴染みだからだろ。俺まで片桐のことを下の名前で呼んだら周りから誤解されるぞ」
「何て誤解されるの?」
「そ、その、なんだ。恋人同士だって」
言ってて恥ずかしくなった。
「あーなるほど。そうかもしれないね」
「だから、俺は片桐って呼ぶよ」
「そんなこと言って、本当は下の名前で呼ぶのが恥ずかしいだけだったりして」
電話で良かったと思った。間違いなく動揺が顔のどこかに出ていたはずだからだ。
「ちげぇよ。俺が女子を下の名前で呼ぶのは恋人だけって決めてるんだよ」
「そっかそっか。じゃあ、まだ無理か」
まだってどうゆうことだろうか。その事を聞こうと思ったら、片桐が先に言葉を発した。
「私はそろそろ寝るから切るね。サブロー。また明日ね。遅刻しないで来なさいよ。お休み」
「分かってるよ」
俺は受話器を置いた。何となく体がフワフワしている。片桐と電話で話すなんて一年前に俺が聞いたら嫉妬に狂うだろう。まだ片桐の声が再生されていた。いつまでもあの声を聴いていたかった。
部屋に戻りベッドに寝転がり込んだ。何故、ずる休みがつまらなく感じたのが分かった。片桐に会えないからだ。どうやら、学校で片桐に会って勉強したり話している時間が何よりも楽しいのだ。今もたった五分程度の会話しかしていないが、ゲームや漫画を読んでる時よりも遥かに充実した気持ちになっている。もう自分に嘘をつくことは出来ない。俺は片桐汐里が大好きだ。
片桐汐里と過ごす一分一秒を大事にするために俺はずる休みやサボりをすることは無くなった。片桐は相変わらず俺に勉強を教えてくれる。俺が分からな過ぎて匙を投げようとすると、優しく諭し、俺が理解するまで根気よく付き合ってくれる。哲平と浩介は俺が勉強しているときは絶対に声はかけてこない。ただ遠くから冷やかしてくるという一番質の悪いことをしてくる。何度、あいつらに向かって中指を立てたことだろう。逆に七瀬勇人はあからさまに邪魔をしてくる。俺なんかに用があるはずもないのに気さく話しかけてくる。ハッキリ言って大迷惑だが、片桐の手前露骨に嫌な素振りを見せられず、適当に相槌を打つしかなかった。
片桐の懇切丁寧な教えのお陰で、学年底辺だった俺の学力は右肩上がりに伸びていた。先日、行われた数学の小テストではクラスで五番になった。にも関らず、杉崎の顔は苦虫を潰した表情だった。根本的に俺のことが嫌いなのだろう。しかし、好成績を収めたがために、俺に皮肉を言うことが出来ないのが気に食わないのだ。
「五位なんて凄いじゃない」
最後に呼ばれた片桐汐里が席に着くやいなや言ってきた。
「一位の人間に言われても嫌味にしか聞こえねぇな」
「あら、せっかく褒めてあげたのに」
「負けた相手から褒められても嬉しくねぇよ」
本当は褒められてめちゃくちゃ嬉しい。片桐の前で照れるのが恥ずかしくて、ついこんな態度を取ってしまう。
「私と争ってるの?」
「どうせなら勝った方が気持ちいいだろ」
「意外と負けず嫌いなんだね」
俺は鼻を鳴らした。
「そんなに私に勝ちたいなら、次の期末テスト私と勝負しようよ」
「勝負?」
「うん。五教科の合計点数が高い方が勝ち。それで、負けた方は・・・・・・」
「ま、待て。俺はやるとは言ってないだろ」
「逃げるの?」
絶妙な声のトーンと言い方だった。俺はカチンと来た。
「誰が逃げるかよ。やってやろうじゃねぇか」
「じゃぁ、決まりね」
「一つ条件がある」
「何?」
「さすがに俺の方が不利すぎるから、こっちは保健体育の点数を上乗せさせてもらう」
片桐は少し考えたが、頷いて了承した。
「それで負けた方はどうするんだ?水徳軒のラーメンでも奢るか?」
この近所で一番人気のラーメン屋だった。濃厚な豚骨スープが売りで、男子は勿論女子からも支持を得ていた。
「それじゃつまらない。それに私ラーメンあまり好きじゃないし」
「じゃぁ、何にすんだよ」
「そうだなー」
片桐が手を打った。何か閃いたらしい。
「負けた方は相手の言うことを何でも聞くこと」
「はい?」
「まぁ、あまりにも常識外れなのは無しだけど、可能な限りは何でも聞くこと。どう?」
「どうって。本当にそれでいいのか?」
「うん。ただし、その命令権は卒業までに使う事」
俺は腕組をして少し考えたが、すぐに答えを出した。
「良いだろ。乗った」
俺達は片桐のノートに誓約書を書き、お互いの名前をサインした。
「はい。これで完了。楽しみだなぁ。サブローに何をしてもらうかな」
どうやらもう勝った気でいるようだ。冗談じゃない。絶対吠え面かかせてやると誓った。
「期末テストで勝負するだぁ?」
浩介が言った。
「そうだよ」
そう言って俺はご飯を頬張った。昼休みは屋上で過ごすのが三人の日課だった。
「汐里に勝てんのかよ」
「こっちは保健体育の点数を上乗せさせてもらう。満点を取れば50点のアドバンテージだ」
俺はおかずの玉子焼きを口に放り込んだ。
「満点取れるのかよ」
「それは分からねぇけど、少なくとも40点以上は取れる。さすがに勝てるだろ」
「どうだが。汐里のやつ、ああ見えてむちゃくちゃ負けず嫌いだからな。猛勉強してるだろうな。もしかしたら、五教科満点を取るかもしれねぇよ」
「まさか。そんなの不可能だろ」
俺は驚いて浩介を見た。
「満点は不可能かもしれないけど、学年一位になれるくらいの点数を取っても不思議はねぇな」
「そうゆうの早く言えよな。それなら保健体育じゃなくて生物をハンデにすれば良かったぜ」
「お前らがそんな遊びをするなんて知らねぇもん」
「なぁ三郎」
黙って聞いていた哲平が口を開いた。
「なんだよ」
「その勝負に勝ったら三郎は片桐に何を頼むつもりなんだ?」
「そんなの決まってるのよな?」
浩介が俺の肩に腕を回してニヤリと笑った。全く持って淫靡な笑いだった。
「お前が考えてるようなことはねぇよ」
俺は浩介の手を払いのけた。
「なんだ、つまんねぇの」
「で、何を頼むんだ?」
「別に何でもいいじゃねぇか」
俺はこの話題は避けたかった。
「その言い方はもうあるってことか。言ってみろよ」
哲平が問い詰めてきた。
「やだよ」
「言わないなら、片桐にお前が頼みたいことは浩介が考えてるようなことだって伝えるぞ」
「お前、それはズルいだろ」
「じゃぁ、言えよ。そしたら、そんなことは言わない」
ここで言わなければ哲平は本当に言うだろう。俺は観念して言う事にした。
「まぁ、そのなんだ。俺が勝ったら修学旅行の班を一緒にしてもらおうかなって・・・・・・」
そう言って二人を見ると、二人とも見事に唖然としていた。
「本当に言ってるのか?」
浩介が聞いてきた。
「そうだよ。悪いかよ」
哲平と浩介は顔を合わせて吹き出した。
「何笑ってんだよ」
だから、言いたくなかったんだと思った。恥ずかしくなった俺は残りの弁当を掻っ込んでその場を去った。
「それにしても、最高だな。三郎は」
三郎の背中を見送りながら哲平は言った。
「全くだ。今すぐ汐里に伝えてやりたいくらいだぜ」
浩介が唐揚げを頬張った。
「片桐のやつ顔真っ赤にして倒れるんじゃねぇか?」
「いや、嬉しさを押し殺すために無表情になるな。で、家に帰って一人でニヤけるタイプだ」
「なるほど」
哲平は笑いを嚙み殺した。
「にしても、汐里があんなにサインを出してるのに、三郎はよく気付かないもんだな」
浩介は言った。
「まさか学校一のマドンナが自分のことを好いてるなんて思ってないんだろ」
「妙なとこで自信あるくせにな」
「片桐は鈍い三郎にやきもきしてるんじゃないか?」
「いいや。むしろ、楽しんでるみたいだぜ」
「余裕があるねぇ」
「でも、高校生で付き合うつもりはないみたいだぜ」
「何でだよ?」
「付き合ったら勉強が疎かになるから我慢するんだってよ」
「健気だな。本当に三郎のことが好きなのが分かる」
「にしても、いくら勉強が疎かになるからって好きなのに付き合わないっておかしな話しだよな。もしかしたら、三郎が他の女子と付き合うことだってありえるだろ」
「そうなったらそうなっただろ。別に片桐と付き合わなきゃいけないなんて無いんだからよ」
「そりゃそうだけどよ。せっかく、両想いなんだから、汐里と付き合ってほしいじゃねぇか」
「そう心配するな。三郎は一途だから、余程のことが無い限り片桐以外と付き合うなんてあり得ないさ。ま、なるようになるだろ」
「そうあってほしいもんだ」
浩介は立ち上がって空を見上げた。
期末テストが終わり、すべてのテストが返ってきたので、俺と片桐は放課後に少しだけ教室に残り合計点数を競い合った。予想通りと言うか俺はものの見事に負けた。ちなみに、片桐は自己最高点を記録した。
「やっぱり私が勝ったね」
片桐が隣で勝ち誇った顔を見せていた。むかつくとにその表情がまた可愛かった。
「ハンデを保健体育じゃなくて生物にすれば良かったぜ」
「どっちにしたって負けてたじゃない」
俺は舌打ちをした。どんな点差にしろ負けたことは悔しい。だが、約束は約束である。
「で、俺に何をさせるんだよ」
「まぁまぁ、そう焦らないで。卒業まではまだ時間はあるんだから」
片桐はカバンを持って立ち上がった。片桐には部活が待っている。
「そんなことを言ってると忘れちまうぞ」
背中を向けた片桐に言った。
片桐は立ち止まり振り返った。
「忘れないよ。だって、サブローとの約束だからね」
俺は目を大きく開けながら片桐を見た。すると、目が合った。
何秒間か見つめ合うと、片桐は口元を微かに緩ませ背を向けて教室を出ていった。
俺はしばらくの間、片桐が立っていた場所を見つめていた。窓の外から聞こえる蝉の声だけがいつまでも俺の耳に響いていた。