鏡台の秋月
届いた文には、囁くようにたおやかな女の筆跡で次のように綴られていた。
「お願いです、誰も見たこともない目立つ髪型をして、好い男と恋に落ちてさらわれてみたいのです」
三日後、お待ちしております。きっと頼まれてくれますように。・・・・・・
女髪結のいとが受け取ったそれは、贔屓の客の中でも一番暖簾の大きな商家のお嬢からの文であった。
(お嬢が、恋か。・・・)
いとは鬢づけの染み込んだ好い色の櫛を耳に引っかけ、ごろりと仰向けになってあれこれ思案を巡らせはじめた。
三日後、いとはお嬢の商家を訪ねていた。
木戸口をくぐって裏にまわり、髪結ですがと声をかけると、見たことのない新しい奉公人の女中であったが、いとのことは心得ていたようですんなりとお嬢の部屋に通された。
お嬢の部屋は、広い。
人形のように華奢なお嬢一人では、きっと持て余してしまうだろう。
行燈の央の蝋燭の火が緋々としているその部屋の中央に、黒漆をたっぷり塗りこめた立派な鏡台が沼のように深いつやを湛えて底光りしていた。
お嬢は鏡の中を覗くでもなく逸らすでもなく、眠っているかのように瞑目して静かに佇んでいる。
少女の背面の、いとの背丈ほどもある大きな衝立が視線を奪う。波に戯れる唐獅子の画題と背景の全体に施された金箔が行燈と蝋燭のわずかな灯を吸いとって胎内に蓄積し、箔の皮膚から滲むような荘厳な耀きを放っている。
客間や表店に飾ってもまったく遜色ないほど立派で、むしろ爰に置かれているといかめしい印象を受けるくらいだ。
「とにかく目立つように」
切れ上がった眼でお嬢は云った。
・・・目立つ、ですかえ。
いとは少し、思案した。
「私ゃようがすけど、御両親に何か云われやしませんか」
「いいの。普通じゃだめ。とにかく変わった髪にして」
ぴしぴしと云うお嬢は波千鳥の振袖、裾や袖の網干の意匠がなんとも洒落ている。髪に櫛を通す。ほとんど絡まることのない美しい黒髪。
人の毛髪は木の葉と同じで、若い時分には一本々々水分に満ち溢れ滑らかでつやつやしている。
「お嬢は幾つになりました」
「十四。」
「お糸は」
「もう二十七です」
「お嫁には行かないの」
「へえ、こうしてお嬢の髪を触らせていただくのが楽しくて。手前の髪や身なりには頓着しねえで新しい髪型考えては髱差し作ってみたり、四六時中人様の髪のことばかり考えちまうから、男どころか犬にも見向きもされねえままこの歳です。いつも手はぼろぼろだしね」
「綺麗だと思うけど」。・・・
・・・
「え?」
「私はおいとの顔も髪も、好きだけど」
「へえ、そりゃもうお嬢にそう云っていただけるだけで私ゃ満足です」
不覚にも、胸がどきついた。
荒筋立で毛を分け、根を決める。
元結の端を口で咥え、一周、二周して反対の端を指で引き締める。
ここで、一晩かけてこさえた手製の髱差しを道具箱からいかにも大事そうに取り出して、その根に鬢づけ油をつけ、元結の下にくくった。
ノの字よりもっと先が跳ね上がった髱差し。
己でつくったものながら、ちょっと見は異様なかたちをしている。
ここで鬢づけをなるべく少なく手に取り練ってから右の髱の毛に引き、櫛でとかしてゆく。
油が多ければ多いほどまとまりがいいのは勿論なのだが、どうもお嬢の毛流れはもともと癖がなく綺麗に揃っているため、歌舞伎の生締めのようなのではなく、もっと自然な張りと艶を生かしたかった。
さて、髪結いはここからが今回最も肝心なところで、二本の櫛を使って新しく考案した髱を実際に作り上げる。
油を引いた髱の毛に二本の櫛を入れ、地肌から垂直にとかす。このとき内側の櫛は右手で髱先にとどめ、左に持った外側の櫛は真上に抜き上げる。
櫛が毛先を抜ける時に左手で直角に立った毛先を持ち直し、右手の櫛と左手の引き合いをうまく加減して、ノの字の髱さしに添うようにお嬢の髪をたわませてゆく。
指先で器用に押してゆくと、お嬢の艶のある黒髪はこまやかに咲き紘がる水紋のように精緻に紘がった。髱差しを完全に覆ったら、毛先を元結に結いつける。
反古紙で髱を押えて表面の毛筋を整えたら、左の髱でも同じ工程を繰り返す。やがて今まで見たこともない、可愛らしく跳ねた、表情豊かな髱が完成した。
ふう、と一呼吸大きく吐いて、取り戻すように大きく吸い込んだ。
鬢にはいつものように鬢みのを付け、引いた油を櫛でよくとかしたのちにもう一度二本の櫛を使い、ふくらみを持たせる。このふくらみを保たせるには型紙が必要で、左右に鬢張りをいれととのえてから更に内側に紺紙を貼る。
前髪は根にくくって毛先を左右の後ろに出すのではなく、その場で輪を作って元結でくるくると結いつけた。毛先が額の左側にしどけなく垂れかかるのが、お嬢の持つ初心な色気を掻き立てる。
髷を結い、細長い櫛である元結通しを使って中程を黒元結でくくったら、あとは仕上げだ。跳ね上げた髱のかたちをもう一度ととのえ、櫛を飾り、銀のびらびら簪を前髪の右に挿した。
「できました」
どうです、と合わせ鏡で襟足の方を見せながら訊くとお嬢は無邪気に喜んだ。
「なあにこのたぼ。尻尾みたいに跳ね上げてあってかわいい」
「恋の叶う髱です」
鶺鴒髱。
鶺鴒の尾のように跳ね上げた髱だ。鶺鴒という鳥は日本書紀に「恋教え鳥」として出てくる。
その真っ直ぐ伸びた特徴的な尾の動きで、イザナギとイザナミは肉体的に恋を成就させる方法を知った。
お嬢はようやく十四歳。まだ恋も知らない可憐な乙女だ。
「ああ、好い男が現れなかったらどうしよう」
「現れますよ。役者のような好い男がきっとお嬢をさらいに来ます。でなければ」、
少し間を開けて云った。
「その時は、私がきっと、さらいましょう」。・・・
「え?・・・」
威丈高で涼しい表情を崩したことのないお嬢の眼が意外なほど大きく開かれ、怯えたように潤んだ。
冗談の心算なのに、そう怖がられてはこっちが本気にしてしまいそうになる。
「お嬢はもう、・・・ッ本っ当にかわいいですねエ」
私は笑いながら、思わずお嬢の肩を抱きしめた。
「キャッ!やだおいと!」
腕の中でいやいやをする力の儚さも、振袖から香る馥郁とした香りも、お嬢が紛れもなく良家の姫御前である証明だ。
この美しい乙女が私が結ったこの髪のせいで悪い男にさらわれてしまう前に、
(本当に私がさらっちまおうかしら。・・・)
障子窓の外には、黄色い月。
好い匂いのする女をおぶった美しい男が今にも駆けてゆきそうな、美しい金の薄野がさわさわと揺れていた。