第2話:直感が1番正しい時もある
「よくここに来るんですか?」とは言ったものの、答えが否定文で返ってくることを華音は知っていた。華音は入学後から頻繁に通っていたし、夏休み中に至っては、週5でバイトに行く夕方までの時間をここで潰していたのだ。今まで他の人間を1度も見なかったのだから、常連であるはずはない。
そこそこに頭の回転が早い華音は、瞬時に相手の返答を予測して当たり障りのない受け答えを脳裏に準備した。
しかし、相手は何も言葉を発しなかった。
その代わりにふっと口元を緩め、顔を少し左に向け、そして慣れた手つきで右耳にかかっていた髪の毛をよけた。
実物を見たのは初めてだったが、あらわになった耳に取り付けられた機械が何であるのか、どうして付けられているのかを華音はすぐに理解した。
華音の反応を確認した彼は、髪から離した右手を体の正面に持っていき、開いた手の横側をこちらに向けて「ごめん」というジェスチャーをした。
何千回と繰り返されてきたであろう一連の動作は、悲しいほどに滑らかで、自然で、作業的だった。
完璧な長さの間を置いて、彼が再度本に目を落とそうとした瞬間、華音は衝動的に立ち上がって背後を振り返り、壁に取り付けられたホワイトボードに目を向けた。そばで取り残されるように転がっていた2本のペンのうち1つを掴み、埃をはらって白い板面に言葉を走らせた。
『私は音が嫌いです』
『だから、音が要らない会話に少しだけ憧れてたんです』
そこで少しだけ手が止まったが、きっと躊躇うべき場面ではないと直感し、この擬似的な彼の「耳」に最後まで言葉を届ける。
『ここで話しませんか?』
*
華音は何度目か分からないクリーナーでホワイトボードいっぱいの文字を消し、もう少し後で帰るという彼に会釈をしてバイト先に向かった。
耳栓を付けることも忘れ、時間が迫っているわけでもないのにだんだん早足になった。呼吸が調子に乗って弾んでいるのが自分でも分かる。頭は今日1日の思い出でいっぱいだった。
彼は白井 奏多という、同じ大学の2年生だった。
四国から上京し、近くのアパートで一人暮らしをしているらしい。この図書館にはよく来るが、小部屋の存在は今日初めて知ったそうだ。「名瀬 華音」という珍しくもない名前を素敵だと言って笑い、1つ下の華音に『敬語は使わなくていいですよ』と敬語で言うような人だった。
宝物を手に取るような気持ちで、華音は1つ1つの会話を思い出しながら歩いた。聴覚過敏のことだけでなく、自分についての話をあんなに臆せず出せたのは初めてだった。
実を言うと、華音にとって会話の声はそれほど苦痛ではなかった。だからわざわざ筆談で話したいと思ったこともないし、普段は友達と普通に声で会話している。
それでもホワイトボードに文字を書いたのは、少しの好奇心と、彼と話してみたいという強い感情だった。
今まで同じ悩みを持つ人が周りにおらず、誰にも理解されない1人ぼっちのような感覚だった。悩みは逆だが「音」に苦しめられている点で、奏多に強い親近感を抱いたのだ。
その日はいつもと比べて体が軽く、周りの音も少しだけ気にならないような気がした。
第2話を読んでくださり、ありがとうございます。
華音は元々好奇心が強く、ピンときたことにはすぐ突っ走って行くし、感情が豊かで楽しいことにはめちゃくちゃはしゃぐし、反対に悲しいことには酷く落ち込むタイプの女の子でした。
成長して落ち着いたものの、所々に残った片鱗がたまに顔を出すような人物像をイメージしています。