親
1-1
暗い部屋があった。唯一の光が高い高い小さな窓から刺して、床を照らしていた。
光はホコリを照らすことでキラキラと輝き、その光は高い高い窓から鉄の鎖が伸びており、その鎖が鳥籠のような鉄格子に繋がっている様子を照らしていた。
鉄格子の中には小汚ない部屋に似つかない、小綺麗な服を着た十幾ばくかの少年が横たわっていた。
鉄格子のそとに目を向けると、数匹の傷ついた野良犬と、野良犬同士で共食いをしたのだろうか、白骨化した犬の死骸とがあった。
飢えた野良犬がガシガシと鉄格子を食い破って子供を食べようとしている。
しかし、その異常な光景にも関わらず、子供は唯一の光がある場所でキラキラと輝く光を目をクリクリで何を見ているのかわからない目で見つめていた。
「ヘレン!!」
キンキンとした声が高い窓から聞こえてくると、少年はビクッとして一瞬目を恐怖でしかめるが、すぐに何を見ているのかわからない、目で出入り口を見つめる。
ガチャンと重苦しい音がすると鎖が引っ張り挙げられてヘレンは窓のそとに鉄格子ごと出た。
するとそこには厚化粧で、目が驚くほど吊り上がった女が立っていた。
女は自らがヘレンと呼んだ少年にツカツカと歩いて行き、光を遮るように仁王立ちすると、またキンキン声を張り上げて「反省した?」と言った。
ヘレンはこくり、こくりと首を振ると「ごめんなさい、お母さん」と美しいが、抑揚の無い声で言った。
「そう、なら師匠様が待ってるから、お勉強に戻りなさい」
女はそう言ってヘレンを立たせ、ゆっくりと歩く子供の背中を蹴り上げると「早く行きなさい」とキンキンした声で子供を急かした。
そこはヘレンが反抗すると入れられるお仕置き部屋であった。
勉強部屋で少年はカリカリと鉛筆を動かし、師匠からの話を左から右へと聞きながら、ふいと何度も何度苛立つ母親を見る。
間違えるたびに母親は少年の頭を叩き、そのたびに「ごめんなさい、お母さん」というフレーズを繰り返した。
なんとか勉強が終わると母親は子供の手を引いて、豪邸の庭に連れ出し木で出来た剣で大きな男と戦いを教えられる。
日が傾いた頃、豪邸を守る兵士が身なりの悪いと大人の男を庭に連れて来て、ヘレンと対峙させる。
大人と子供、流石にヘレンに勝ち目は無いように思われたが、驚くことにヘレンが圧倒する。
しかしやはり最後の最後、やぶれかぶれの一太刀がヘレンにぶつかる。
そのさまを見た母親はチッっと舌を鳴らすと小汚い男に銀貨を投げ、ヘレンの頭を打つ。
また機械的な言葉でヘレンは「ごめんなさい、お母さん」と唱える。
夜になるとヘレンは床に座らされ、母親は柔らかいパン、おいしいフルーツ、お肉、スープを食べながら、切ったパンが床に落とされる。床に落ちたパンをヘレンは拾ってそれを食べた。
母親が食事を済ませると、ヘレンを小さな部屋に押し込んだ。
小さな部屋は薄暗かったが、一人になれる部屋であった。
僕はこの部屋が好きだとヘレンは思っていた。
ヘレンの目は急に生き生きとし始め、部屋の中にある一冊、ただ一冊の本を手に取った。
「龍と男」
それがこの本のタイトルであった。ヘレンが何度何度も読んだ本だった。
ヘレンはその本の中の主人公、ザックが好きだった。
ザックの彼女のステラは謎の奇病によって昏睡してしまい、それを救うために万病を直すと言われる龍の血を得るために龍倒す話である。
ヘレンはこの話が大好きだった。ヘレンはザックに成りたかった。
ザックの体には傷があった、一度龍を倒せず、龍の尻尾でつけられた大きな傷である。
切り傷は龍のいる方向に向かって何かが飛び出そうとするかのようにジンジンと痛むのであった。
ヘレンは母親に殴られた箇所をさすってこれが龍につけられたものだったらな、と思った。
そして自分も龍を倒して、皆からちやほやしてもらうのだ。
そんな空想しながら硬いベットに入る。夜に寝てしまえば苦痛な朝が来る。そのせいでいつもあまり寝付きは良くない。
1-2
苦痛な日々が繰り返される。
だからその事はヘレンにとって、とても嬉しいことであった。
その日は母親の言いつけにより兵士の一人と共に邸宅の庭を走っていた。
兵士は優しげな顔立ちの好青年で、性格のキツイ母親をなだめる事の出来る男であり、母親からも気に入られていた。
彼と一緒にいるときは、ヘレンも普通でいられた。
そんなとき、目の前に小さなリスが傷ついて横たわっているのをヘレンは見つけた。
ヘレンはそのリスの前で座り込み、じっと見つめて呟いた。
「かわいそう」
その様子を見ていた兵士はにっこりと笑ってヘレンの横に座り、リスを掬うように持ち上げ、まじまじとそのさまを見て「大丈夫ですよ」と呟いた。
「治るの?」
ヘレンは呟く。
「ええ、足に少し木の枝が刺さってしまっているようです、それを抜いて水で傷口を洗い、きれいな布で保護してあげれば大丈夫ですよ」
「僕、それをやりたい!!」
ヘレンは目を丸くして言った。
「じゃぁ、この近くの川にいきましょうか」
二人は訓練を休んで川に向かった。
ヘレンは川で兵士に言われる通りにリスを治療してあげる。その途中でヘレンは清潔な布がないことに気がついた。
そこでヘレンは自らの服を切り裂いて、水で洗ってからリスの傷口を覆った。
リスは傷ついた足を一度フリフリと振ってから、ヘレンのての上をかけあがり、服のなかに入って行った。
ヘレンは服の中に入ったリスにくすぐったいと言って大笑いして兵士を見る。
「リスが服の中に入っちゃった。可愛いね」
しかし兵士はしかめっ面でヘレンを見つめる。
「どうしたの?」
ヘレンはおどおどとした声で言った。
「いえ、お母様になんと言えばいいのかと思いまして......」
兵士に言われてハッとした。
破ってしまった服を見つめる。
「どうしよう?」
しばらく考えていた兵士はヘレンに向かって笑いかけると、「良い案が思いつきました」と呟いた。
それからヘレンはリスを懐に入れながら、リスの食べる木の実を拾い集めると、母親の元へと帰った。
母親はヘレンの服が破れているのを見ると、拳を振り上げた。
兵士はすかさずその手を優しく掴むと、「お母様、実はこれには訳があるんですよ。道中で毒蛇に袖が噛まれてしまい仕方なく服を切り落としたのです」と母親に優しく微笑んだ。
母親は少し怪訝そうな顔でヘレンを見つめていたが、お気に入りの兵士であったのもあり、手をおろしてヘレンを部屋に着替えをさせに行った。
ヘレンは部屋の戸を完全に閉めると、懐からリスを取り出して部屋のベットにドングリと一緒に隠すと服を着替えて苦痛な訓練をしに出かけた。
夜がきて、ヘレンが部屋に帰ると布団の中を覗き込み、小さなリスが居るのを確認した。
「おいで」
そういってヘレンは手を前に出してリスを乗っける。
可愛いなぁと、ヘレンはそのリスを見つめていた。
リスはヘレンを見つめながら木の実をくちいっぱいに頬張っていた。
それからヘレンの毎日はちょっとだけ良くなった。
母親の虐待も、リスとふれあってると、心が和らいだ。
1-3
苦しい毎日にドングリを拾ってリスと触れ合う日課が加わってが幾週が経った日の事である。
父親が王国の仕事を終えて帰ってきた。
庭には大きな御輿とその周囲を取り囲むたくさんの兵士たちが居て、御輿の元へとヘレンは母親に手を引かれ歩いて行く。
母親は厚化粧をして、普段見ないような服を着て、普段からは考えられないような猫なで声で父親に接する。
ヘレンも母親から丁重に扱われ、綺麗な御召し物をして、化粧をしていた。
御輿の中から父親は出てくると、母親は父親に手をさしのべるが、父親にそれをはねのけられる。
ヘレンはそのさまをぼけーっと見ている。
母親は一瞬、般若のような顔を見せるが、すぐに顔を取り繕って父親の後ろを歩いて、食堂へと向かう。
食堂には驚くほど豪勢な料理が並べられており、ムスッとした父親に続き母親も座る。
この日ばかりはヘレンも普通に椅子に座ることが出来て、目を輝かせている。
父親が無言で料理に手をつけると母親に続きヘレンも料理を食べる。
ヘレンはこの日にしか得られない豪勢な料理を無言でひたすら食べる。
ヘレンは毎日がこんな風に椅子に座って、美味しい料理が食べられれば良いのにと思った。
この日ばかりはご飯を食べることに満足をして、すると部屋にいるリスの事を思い出した。
リスにも自分が食べている料理を食べさせてあげたい。
そう思ったヘレンは卓上のお肉を一切れポケットにしまいこんだ。
食事が終わると、父親は深く椅子に腰掛け直し、自分がしてきた仕事について話を始めた。
ヘレンにはその小難しい話が全くわからなかった。
ただ父親がスラムと呼ばれる人間達が嫌いで、そのスラムと呼ばれる人間がこの国から無くなるよう願っているということだけがわかった。
ヘレンにとっては父親の難しい話より、リスに届けたいお肉の方が大事であった。
長々とした話が終わるとヘレンは父親の気まぐれとして、稽古をつけてくれることになり、庭へと移動した。
ヘレンは早くリスに会いたいと思いながら木刀を持ち上げると、父親が気持ちよくなれる程度の負けかたをしなければと父親の相手をした。
パァン、パァン、パァン、と木と木が打ち付けられる音がした後、ヘレンは父親が打ちやすいように脇を上げて、パァン!と父親の木刀が入って稽古を終える。
そこまではヘレンの考える通りに事が運んだが、ヘレンが倒れたときにポケットから肉のかけらがころりと床に飛び出てしまった。
父親はその肉をつまみ上げると、父親は顔をニヤリと歪める。
「これはなんだ?」
父親は言った。
ヘレンはしばらく黙って考えた。
もし本当の事を言えば、リスの事が家族にばれてしまうからである。
「あとで食べようと思って」
ヘレンはそう答えた。
ふと横に目をやると、母親がもともと強烈につり上がっためじりをもう一回りつり上げてヘレンを見ていた。
「そうか、卑しい子だ」
父親はそういって木刀を振り上げ、ヘレンを殴打した。
何度も何度も繰り返し殴打されるのをヘレンは頭を抱えてひたすら耐えていた。
父親は楽しそうに何度も何度も木刀でヘレンを殴った。
それからその木刀の行き先は母親に向かった。
「しつけがなってないじゃないか」
そういって父親は母親を殴打する。
ヘレンはそのさまを見ながら、きっとこのあと母親に殴られるんだろうなと、楽しそうな父親とその父親の足に抱きついて「ありがとうございます」と呟く母親を見ていた。
それからはあまり覚えておらず、気がつくと庭に横たわっていた。
からについた血混じりの土を払い、井戸で傷口を洗った後にヘレンは自分の部屋に戻った。
ヘレンはいつものように、リスを呼んでとってあったドングリを食べさせる。
父親も母親に負けず劣らずおかしかった。
しかし父親の矛先はおおよそ母親に向いていて、何をしても怒り散らして機嫌が悪ければ、母親の頭を叩いた。
特にヘレンがミスをすれば母親に育て方が悪いと、それはもう烈火のごとくしかるのが常であった。
だからヘレンは父親がいるときは、よりいっそう劣ってみせた。
早朝のランニング、昼の馬術、武術の練習も最後の勉強もいっそう出来ないようにしてみせた。
そうすれば母親は父親に木刀を何度も何度叩きつけた。
無論その後にヘレンは母親に木刀で殴られるのであるが······。
いつもより少しだけ気が晴れる日常は父親の王国の首都へ戻る事で終わりを告げ、ただただ殴られるだけの日常が戻ってくる。
1-4
父親が居なくなった後すぐは母親はいつもより荒れている。
こういうとき、ヘレンは母親をなだめることのできる優男と行動を共にする。
朝の優男とのランニングが終わった時、母親が2人を出迎えた。
母親に殴られるかと一瞬身を強張らせたが、その日は違った。
母親はその代わりに優男の手を握って腕に絡み付くと、邸宅の中に入っていった。
ヘレンは優男一緒に居たくて「どこに行くの」と口を滑らせると、母親から顔面へとパンチを食らった。
その後は虐待に近い剣術と馬術の訓練を受け、ボロボロになりながら邸宅に戻ると、優男が母親の部屋から出て、ヘレンのいる方の反対側に向かって走り去っていった。
男の顔は歪んでいて、その中で何があったのかヘレンはわからなかった。
ただ、男が通った後に点々と血が滴り落ちているとこが、ただ事ではないことを物語っていた。
それからしばらくの間、ヘレンは優男会うことができなくなってヘレンの心の支えはリスだけになった。
ヘレンは部屋でいつもリスを手の上に乗っけて遊んでいた。
餌を与えていると、リスの方もヘレンになつき、ヘレンの袖から中に入って体を駆け回ったりするようになった。
「クフフ、クフフ」
ヘレンはくすぐったくて笑った。
すると部屋の扉がガン!!と叩かれ、振り向くと仁王立ちしている母親が居た。
手に持っているろうそくが母親の顔をいっそう恐ろしくさせていた。
きつくつり上がった目元に口角を醜く歪ませた母親は「見ぃつけた」と呟いた。
ヘレンはとっさにリスを守ろうと、両手で掴み抱え込んだ。
「こら!!放しなさい!!」
母親は怒鳴って木刀でヘレンの背中を殴った。
「止めてよ、お母さん止めてよ!!」
ヘレンは弱々しく、精一杯の声で叫んだ。
しばらくすると木刀で叩かれることは止まった。
許してもらえたのだろうか、そう思いヘレンは顔を挙げて母親を見る。
しかし、現実はそんなあまっちょろいものではなかった。母親は男を手でヘレンの部屋に押し入れた男は優男であった。ヘレンはその優男に精一杯助けてと叫んだ。優男は何も答えない。
いつものようにヘレンに目を合わせる事すらしてくれなかった。
それからヘレンに優男はのしかかるとヘレンを羽交い締めにして、その隙に母親がヘレンの手をほどき、リスを掴みあげた。
「どうして?」
ヘレンは悲痛に呟き、後ろの男を見た。しかし男はヘレンを見返さない。羽交い締めにされたまま担がれて、前を歩く母親の後ろをついていく。
ヘレンの体はどういうわけかこわばって動かなかった。どくどくと心臓が鼓動し、全身から血が吹き出そうに感じた。
これからどんな悲痛な事が待ち受けているのか、ヘレンには検討がつかなかった。
その後、ヘレンは後ろの優男ーもう優男ではないのだがーに食堂に座らせられた。母親はヘレンの目の前にかわいらしいリスを持ってくると、首根っこを持って、パキリと折った。
ヘレンの目は血走り、はぁはぁと息が荒くなっていく。大事なリスが殺された。それはヘレンにもわかった。
死。
ヘレンにははじめての体験で、心の奥底から何かが沸き上がって、声になろうとしたところで、男に口を塞がれる。声を出すこともできずに心がねじまがるのを感じた。
その苦しみを嘲笑うかのような母親の満面の笑みと、椅子に押さえつける男の腕が憎くて憎くてしょうがなかった。
その後、母親は調理人にそのリスを調理するように言った。
どうして、どうして、どうして、······。
ヘレンには何もかもがわからなかった。
リスは料理人の手でスープにされて、ヘレンの前に提供された。
「食べなさい」
母親はヘレンに諭すように言った。
ヘレンは、食べた。食べるしかなかった。味なんて感じない。感じたくない。
ヘレンの口の中には涙と鼻水でいっぱいだった。
一口一口スープをすすって肉を食べるたび、リスとの思い出が甦った。
「美味しいでしょう」
母親は言った。
「美味しいよ」
ヘレンがそういったとき、ヘレンの心が奥底に沈んでいき、別のお誰かがヘレンの上っ面を支配するように感じた。
その日は一晩、お仕置き部屋に入れられた。
信頼していた大人の裏切り。大事にしていた唯一の友達を奪われたヘレンは、死んでやると腕を犬に差し出そうとしたが、自分の命の惜しさにできなかった。
死ぬことすらできない自分がみっとも無くて、その夜はただただ泣いていた。