第九話 1000万ゴールドの恋
セルジュ侯爵様の部屋で、おいでおいで踊りとワルツをお互いに教え合っている間に夜がやってきた。お互いに足腰がくたびれるくらいに踊って、夜会で踊れなさそうな程に疲れたので本末転倒だが、その際それはよしとする。
というか、全く色気も何もなく侯爵のお部屋に入ってしまったわけだが、本当に何もそんな展開がなかったので割愛する。強いて言うなら、ベッドがすごく大きくて天蓋がひらひらだったのが気になったが、貴族様の趣味だからそんなものだろう。
「君が好きそうだと思って取り寄せたのに残念だ」
「心を読まないでください。あとまた幾ら使ったんです?」
「内緒」
「その技いい加減飽きてきてますからね!」
とにかく。問題なのはこれからだ。
セルジュ侯爵様には、幾つかの試練が待ち構えている。
如何にも貴族の部屋といった体の大きな部屋の真ん中で、セルジュ侯爵様は神妙な顔をして見せた。金色の眉がぎゅっと寄せられているせいで眉間にしわができている。
「ともかくだ。エリザベート、これから俺たちは夜会に出るわけだが」
「はい」
「俺は皆への謝罪をしなければならず」
「はい」
「あと婚約者予定の娘と顔を合わせなければならない」
「そうですね……」
「それが一番憂鬱過ぎて、貧困な語彙力で言うのならやばい」
「本当に貧困ですね!?」
やばいだとか貴族の使う言葉ではない。元庶民なのがうかがい知れてちょっとだけ親しみを感じてしまった。
私は侯爵様の用意してくれた白い真珠の耳飾りをつけて、髪にはティアラ、飴細工のような生成りがかった、艶やかな生地でできた衣服で準備は万端だ。しかし侯爵様は未だに準備ができていないようだ。というか、したくなさそうだった。夜会に出たくないのだ。
最も、存在自体が絵のような人なので、どんな格好をしていても許されてしまいそうではあるが。今は軽めの服装に着替えて、白いフリルブラウスにベルトを締めて、黒いズボンを纏っただけの簡素な格好をしているが、これだけでも夜会の庭でくつろいでいる様が目に浮かびそうな程には絵になる。
「……まあ、貧困な語彙力はともかく。俺は夜会にいくのがものすごく憂鬱だ」
「そのようで」
「できるならこのまま放っておきたいぐらいだ。君を連れて逃亡劇したい」
「追われますね?」
「城に立てこもる。戦争だ」
「戦争はちょっと」
「では二人きりで静かな暮らしを営みたい。今すぐ結婚してくれ」
「冗談はそこそこにしてください」
「俺は冗談など言ったことなどない」
「そうでしたね……」
いつでも本気だった。
「とにかく、侯爵様、お着替えを」
「着替えさせてくれ」
「私は侍女じゃありませんね?」
「メイド服なら持ってこよう」
「どさくさに紛れて何しようとしてるんです!」
「着替えさせてくれ」
あっ、これエンドレスになるやつ。
そう思って私は少し黙り込んだ。憂鬱に立ち向かおうとする侯爵様の我が儘を一つくらい聞いてあげてもいいのではないだろうか、と心の中で声がする。そもそも、彼は断ったのに勝手にご両親が進めた婚約話という事だったし。自分は悪くないのに相手のご令嬢に謝らなければならないというのは、相当な重圧だろう。
本人が色々うやむやにしていたのなら本人の責任だが、はっきり拒否したのに強引にゴリ押したとなれば責任がどちらにあるのかは明白に思える。
心の中の天使が囁いた。
着替えさせてあげようよ。セルジュ様だって色々悩んでるんだよ。
「私の心の中の天使が……セルジュ侯爵様を甘やかそうと……」
心の中の悪魔が囁いた。
着替えさせてやるといい。その際に抱きついてもう婚約を受けてしまえ。
気づいたら耳元で侯爵様が囁いていた。
「くすぐったいと思ったら!」
「君の心の中の悪魔を演出してみたのだが、どうだっただろうか」
「いいから着替えさせますよ!ほら、脱いでください!」
「大胆だな……」
「そういうのじゃないので」
「冷たい君も好きだ」
「ありがとうございます」
「とても魅力的だ」
「ありがとうございます」
「一生手元に置いておきたい」
「ひぅ……あ、えっと、マゾなんですか?」
「君限定だ」
それはちょっとな。
侯爵様のベルトを抜き取って、なるべく無心を意識しながらそれを片付ける。
衣装ダンスの中を探ると沢山の衣装があって、迷っていたらセルジュ侯爵様の手がついと横から伸びてきて、紺色の夜会服を取った。
「これでいいだろう。着せてくれ」
「あ、でも、ズボンやブラウスは……」
「ああ、それはこっちで」
「……。流石に素肌を見るのは恥ずかしいのですが」
「ではズボンとブラウスだけは俺が自分で着よう」
「そうしてください……」
後ろを向いて目を瞑る。その間に服を着る気配がして、いいぞ、と言われて振り向くと彼は既に簡単に洋装を整えていた。選ばれた夜会の上着を取って、背中からかける。薄くではあるがしっかり筋肉のついた腕がそこに通されて、何だか見ているだけで少しどきどきする。彼も男の人であるのだと、着替えている様を見て思った。
前に回って、ボタンを留めていく。金色の縁のある美しいボタンは、金の髪をした侯爵様によく似合っていて、その美しさにほうと溜息が漏れた。
「はい、完成ですよ」
「ありがとう。……これで夜会に気兼ねなくいける」
微笑んだセルジュ侯爵様の笑顔は、どこまで本物だろう。
家出していた事を謝るのも(思えば子供みたいな理由だな)、令嬢に頭を下げるのも嫌だろうに。この人は満足げに笑ってみせるのだ。
「エリザベートに服を着せてもらった。まるで新婚だな」
「…………」
あっ、本当に満足してただけだ、この人。
*
レインワーズ家主催の夜会はそれはそれは賑わっていた。
王家に連なるものではないとはいえ、政治の世界でも金に物を言わせてそれなりの権力を握っているのだという。
それはともかく。
この、魔導カメラやら何やらを構えた記者やら報道陣の群れは一体……なんだろう……。
「セルジュ様、家出をなされていたとのことですが――何か一言!」
「皆様を混乱させて申し訳なかった、少し気分転換がしたくて家を出ていただけだ」
「王家の遠縁のマリアベル様とのお話が持ち上がった直後に姿を消したということですが、ご関係は?」
「それに関しては本当に申し訳なかったと思っている。言葉もない」
「つまりマリアベル様の事が気に入らなかったと言うことでしょうか?」
「彼女は素晴らしい女性だと聞いているが、実際に会った事がほぼないんだ、その件に関しては嫌いようがないとだけ言わせてほしい」
「今日連れ帰られた女性とのご関係は!」
「何っ。彼女の事を知っているとはお前間者でも我が家に潜ませているのか……!?」
「それはどうでしょうか、うふふ」
何か報道陣の中にやばいのがいるのはわかった。
とにかく、セルジュ侯爵様はシャッターを切られまくって瞳を眩しそうに細めている。その中心で、申し訳なかった、を繰り返す彼を見ていると、貴族の仮面を被ったその姿はどこか遠い人のように思えた。
少し離れた所から眺めている此方に、未だ視線は向けられていない。侯爵様が『連れ帰ってきた女性』がこんな所に堂々といるとは誰も思っていないのだろう。
そんな事を思っていた時だった。
「ちょっと貴女!」
聞くだけで高飛車だと分かる声がした。
振り返ると、美しいストロベリーピンクの髪のご令嬢が立っていた。盛りに盛った髪に花や宝石がこれでもかとばかりに飾られている。服もまたストロベリーピンク、少しだけくすんだ趣味のいいピンクだが、こうも全面に使われるとちょっとばかり目にうるさい。可愛くはあるのだけれど。
「は、はい、私でしょうか?」
「あなた、セルジュ様が連れ帰ってきた娘ね?」
何だろうこの人。
そう思ったところで、思考回路が一瞬でたどり着いたのは、彼のご令嬢だった。
婚約者だ。間違いない。
「そうです」
「民間での聖女の称号を取得した、エリザベート・スカーレットよね」
「その通りです」
「まあ……こんなちんちくりんをセルジュ侯爵様が気に入ったですって?まあ分かりますけど!」
分かるんだ。
「あの方昔からそういう趣味でいらっしゃるのよ、俺の好みは黒髪で緋色の瞳で謙虚な聖女の称号を持ってる子だ!とか仰って」
「ピンポイントですね」
「ええ。ピンポイントですわ!わたくしのストロベリーブロンドも、わたくしの貴族の称号も気に入らないと仰られたも同然。まあわたくしも実は他に好きな方がいるんですけど」
ん?
どういうことだ。
どういうことだろう、これ。え、え?
セルジュ侯爵様はこの令嬢との婚約を断りたくて、でも実はそのお相手の令嬢にも好きな人がいて?つまり?双方別の好きな人が?
「あのね、貴女。お願いがあるのよ」
「は、はい?」
「わたくしの恋を応援してちょうだい」
「え、えっと……?」
「協力しなさい。わたくしの恋には1000万ゴールドくらい価値があるかもしれないわ。あなたを取り巻く微妙な状況も、全部解決して差し上げられるかもしれないわよ」
「どこで私を取り巻く情報の収集を?」
「秘密の伝手からですわ」
この令嬢もやばかった。
ともかく。何に巻き込まれようとしているのか、私はさっぱり分からないままに令嬢を見つめ返した。
夜会のシャッター音と喧噪が、何処か遠くに聞こえた気がした。
後から駆けつけてきたセルジュ侯爵は、状況がさっぱりわからないとばかりに私と令嬢を見比べて言った。
「一体何がどうなっているんだ?俺を巡って喧嘩か」
「残念ながら全然違うんですよね……」
ここから話ががっと動いていく予定です、よろしくおねがいします。
あと、添削ミスのご指摘ありがとうございました!ありがたいです!