第五話 賄賂999万ゴールド
唇の距離が、零に、
「妖精宅配便でーす、侯爵様いらっしゃいますか?」
触れあおうとしていた唇が、止まった。
「……くそっ、なんて運んでくるのが早いんだ。いつもにこにこ妖精特急配達便~なんて魔導広告を流しているだけあるな」
突然歌い出すな。
「……いいことじゃないですか」
私はかろうじてそれだけ言うのがやっとだった。
キスされかけた。年下の青年に。これでも私だって二十を超えている、多少の恋愛経験だってあるし、精神的にはそこそこ大人なはず。それなのに、何の抵抗もできなかった。大人の余裕で諫める事もできなかった。ああ、もう、本当にだめだ。この人の真っ直ぐな愛情表現に抗うのは難しいのだ。こんなにも真っ直ぐ好きだと言う人を無碍に突っぱねる難易度は案外高い。
彼は今も、大好きな物を取り上げられた大型犬のようにしゅんとしていた。
「悪いことだ。君にキスができなかった」
「困ります!」
「俺は困らない」
「私が困るんれす」
噛んだ。
心臓がばくばくして呂律が上手く回らない。顔が熱い。セルジュ侯爵が少し距離を開けた瞬間どっと体の力が抜けて、へたり込みそうになった。
彼は立ち上がって思い切り嫌そうな顔で扉を開けに行く。扉を開いた先に僅かに残った気力で目をやる。真っ赤な帽子の郵便屋のような出で立ちの妖精が立っていて、後ろのペガサスに引かせた荷馬車から包みを幾つか出してきて渡した。これ、あれだ。偶に上の方を飛んでいくのを見る。妖精の宅配便の馬車だったのか。ペガサス二頭立て、なかなかに豪華な馬車だ。
「こんにちはお嬢さん。あ、侯爵~、判子お願いします~」
「ああ」
「どうしましたか侯爵~、不機嫌そうで?」
「お前たちが私と妻の甘い時間を邪魔したんだぞ」
いや甘くないし。妻でもない。突っ込みどころ満載だ。
「甘さなんてありましたか……?」
「とても甘かった。あのままいけば間違いなくキスができたのに……っ、くそ……!」
「赤裸々に悔しがらないでください!」
はははと妖精が笑って帽子を被り直す。大きなどんぐり眼で、彼はぱちんとウインクをした。枯れ木のように細い手足と大きな頭がアンバランスだが、表情のお陰で随分と愛嬌があるように見えた。
「仲がよろしいようで何よりですなあ。それより侯爵~、都で噂になっていますぞ。」
「噂ですか?」
「おや、お嬢さんはご存じない?この方ねえ、今大変なご身分なんですよ。婚約者を見繕われそうになって、『私は好きな人がいる!』って言って王都から離れて早三日」
……なんだって?
何も聞いていなかった、そんなこと。
思えばでも、不自然な所はあったのだ。突然家にやってきて、突然城を建造して、突然結婚をせかすような事を言っていた、彼。何故そんなにも急ぐのか、不思議に思っていたのに勢いに流されてこの瞬間まで何も尋ねる事ができなかった。
「セルジュ侯爵。私何も聞いてないんですが」
侯爵は黙ったまま目を反らして、それからそっと妖精に札束を渡した。
「なんですかい、これ?」
「口止め料だ。999万ゴールドある」
「節約!」
「君の動悸息切れ眩暈のために三桁にしただろう!」
「ほぼ四桁じゃないですか!」
ああ、だからもう、この人は毎度毎度!
「口止めしなければ父上母上の捜索部隊が飛んでくる!賄賂で何卒!」
ド直球ストレートを浴びた妖精は目を白黒させてから肩を竦めた。
「どうか父上母上には内密に……」
「いやあ無理だと思いますねえ。カレンジ村に行ってたお嬢さん方が侯爵様の姿を見てるんで。そのうちこの山にも山狩りが入るかと思いますよう、侯爵様のお父様お母様の執念と心配性は貴方が一番ご存じでしょうが」
ところでこのお嬢さんはどなたで?
そう聞かれて、青くなっていたセルジュ侯爵はそれでも胸を張った。
「妻だ」
それは変えないのか。
「妻じゃないです。友達です」
「未来の妻」
「ほう、つまりこのお嬢さんが例の……?」
「そうだ。そのうち父上母上にも紹介しよう」
「多分直ぐだと思いますよう」
「それは何故?」
「いや、だってねえ」
妖精はあきれた顔で言った。
侯爵様、この家の裏手に城生やしたじゃないですか。
そういえばそうだった。
この侯爵様、家出したのにこんな派手な事するなんて、やっぱりちょっとおばかなんじゃないだろうか。
*
妖精が帰った後、私はセルジュ侯爵を無理矢理食卓の向かいの席に座らせた。
沈黙が落ちる。侯爵は居心地が悪そうにもじもじしている。美青年はもじもじする様でも絵になるのでずるいと思う。
多分私に隠し事をしていた事が不安なのだろうが、こっちはセルジュ侯爵の現状がものすごく不安だ。婚約者を見繕われていたのに私を選ぶために此処へ来た?しかも、城を生やして――本当は建設だが、一晩で生えたイメージが強いので敢えてこう言おう――という事は、家に戻らず此処に住むつもりであった事が如実に分かるわけで。
つまり、家出して戻らないつもりであったのだ、彼は。
こんなこと、問いたださずに一緒に住んだり恋人になったりなんてできるわけがない。分からない所はきちんとさせる主義だった。
「侯爵様、……どうするおつもりなんです?」
セルジュ侯爵は、妖精が持ってきたもふもふ雲羊クッションを抱いてしおしおと萎れた声を出した。
「君が許してくれるのなら結婚がしたい」
「今そういう話をしてないので!」
この人こういうところがずるいんだよなあああ……と私は頬が熱くなりかけるのを必死で押さえて落ち着いた声を出そうと努力した。
「家出をしておきながら、あんな派手な城を作った意味は?」
「家を作れば立てこもれるかと思った」
「立て籠もり……」
「あの城には対空対人対魔法装備が万全だ」
「戦争できるじゃないですか」
「君のためならできる」
「まだ国家権力相手の逆賊になりたくないです」
とにかく、と一呼吸置いて会話の主導権を取り返す。
「セルジュ侯爵様。あのですね、一度家に帰った方がよろしいかと思います」
「今夜は帰りたくない」
「じゃあ明日帰りましょう」
「明日も帰りたくない」
「だめですね?」
「エリザベート、結婚してくれ」
「だめですね?」
「キスがしたい」
「だめですね?」
「じゃあ一緒に来て欲しい」
「それくらいなら……えっ」
まんまと策にはまった返答した気配がした。
雲羊のクッションを手慰みに触っていた侯爵は、満面の笑みだ。さっきのしおらしい大型犬のような顔は何処へ行ったのか、今は打って変わって尻尾を振ってご機嫌なのが見て取れるようだった。
金色の髪、青い美しい瞳なのに、どんどん『美しい』から『可愛い……かもしれない』に印象がシフトしていく侯爵。
「いいのか!では一時的に帰るぞ!君を連れて王都へ行き、ドレスと宝石と君が住むための家を買い与えよう」
その様が本当に嬉しそうで、私は頭を抱えた。
「お金をぽんと使わない!あと結局さっきの人に賄賂あげたんですか!?」
「あげた」
「簡単にあげちゃだめ!」
ああ、本当にだめだこの人。
私が着いてないとぽんぽんとお金を使ってしまうし、私が側にいても私のためにぽんぽんと何か買おうとするし、ずっと積極的にくっついて浪費癖を押さえ込まなければならないのではないだろうか。
「本当にだめな人ですね侯爵様……側に、そのお金を使う癖を止めてくれる方を置いておかないとだめですよ」
「いいんだ」
不意に手を取られて引き寄せられる。
私が何か反応する前に、唇が、そっと額に触れた。愛おしげに、壊れ物にでもするように、優しく。心臓が跳ね上がった。口から飛び出しそうになった。さっきのキスされそうになった余韻があったからこそ、尚更。大きな手、温かな感覚。触れている手のひらから、鼓動が伝わってしまいそうだ。
そんな私を知ってか知らずか、セルジュ侯爵は微笑んで見せた。
「君がずっと側にいてくれるから、いいだろう?」
「ひぅ……」
普段は淡々と話すくせに、時折こうやって優しい声をかけてくれるから、ずるいのだ。
「ところで。思いついたぞ、王都に行く前に通販で君用のドレスを買おう」
「無駄遣いは……」
「俺の両親は貴族だぞ、身だしなみは大切だと思う」
「……はい」
「ドレスを手配する」
「……はい」
「色は白で」
「はい?」