第十話 善意は0ゴールドにもならない
女の子同士で話をまずはさせてくださいな、と前置きをして、令嬢は私を薄暗い庭の隅に連れ込んだ。どうしよう、こんな所でもし彼女の部下か何かに襲われたら。私は治癒術が使えるだけで聖女の称号をもらった娘なので、何も抵抗しようがない。
明かりは宮廷から漏れてくるものだけ。セルジュ侯爵様は少し離れた所にいてくれるものの、私たちがいる場所からは遠い。
「……貴女は今、貴方自身が気づいていないだけで、大分複雑な状況にいますわ。お分かり?」
彼女はいきなりそう切り出した。
「いえ……何も……」
「これだから庶民は。貴族の世界は色々複雑なのですわ、セルジュ侯爵様ともあろう方が民間の、しかもちんちくりんにうつつを抜かしているとなったら社交界での噂も回るでしょうし、そもそも私の家であるメイガス家との権力的な結びつきも危うい所です。それに……」
そこで彼女は少し言い淀んだ。
「……あなたは、レインワーズ家の噂はご存じ?」
「噂……ですか?」
「その様子だと何もご存じないのね!……レインワーズの資産は、半分が侯爵様、つまりセルジュ様が作られたものだというお話ですわ。しかも、」
非合法なルートで。
「……え」
「レインワーズは表向きにはただの商家です。でも、裏には含むものがあります。貴女はその家に踏み込もうとしているのですわ」
「あの、……何故、そんな話を私に」
「あなたはこのままだと、覚悟なくレインワーズ家に嫁ぎそうでしたから」
「嫁ぎ……っ」
「セルジュ侯爵様から求愛されているのでしょう?」
「えっ、その」
「うちの手のものに調べさせましたわ。あんな事やこんな事まで」
「プライバシーが欲しいです」
「貴族の世界に関わった時点でそんなものはありませんわ。これだから庶民は!」
「す、すみません……?」
まあとにかく。
とお嬢様は言葉を切った。
「わたくしはレインワーズ家に行けと言われれば、行く覚悟を決めていました。……でも今は、好きな方と一緒になりたい一心なのです」
「それで、どうして私に話を……」
「馬鹿ね、同じ所に囚われそうになっていた貴女だから話をしたのです」
つまり、彼女は。
レインワーズの裏に何があるかを知っていて、事前に私の存在を察知して警告に来たのだ。勿論己の恋を応援してもらうというメリットが欲しいのもあるのだろうけれど、少し私への心配もあるに違いない。
このお嬢様、実は結構いい人なのでは……?という考えが頭を過ったところで、ストロベリーブロンドの彼女にぺしんと扇で頭を叩かれた。
「いたっ。痛いですお嬢様……」
「マリアベルです。わたくしはメイガス家の長女、マリアベル・メイガスですわ。よく覚えておきなさい」
「はあ……」
「それでですね、本題なのですけれど」
「はい」
「わたくし、恋をしている方がおります。つまり、あなたが懇意にしている侯爵様とはわたくし自身はどうともなる気がありませんの」
私の側から見ると、この状況は少し安堵するところだ。
ただ、先ほどの言葉と合わせると、本当に安心していいのか分からないけれど。
状況を整理しよう。
まずレインワーズ家について。
レインワーズの資産は非合法な手段で作られた。セルジュ侯爵様が作られたもので、レインワーズ家には何か秘密がある。
婚約の件について。
セルジュ様の婚約者候補のお嬢様には好きな人がいて、セルジュ侯爵様にも好きな人がいる。それは多分……多分私で、私も少しばかり、その、最近絆されかけている以上、ここで彼が別の人と突然結婚してしまったら気持ちの行き場を持て余すわけで……。否、否、好きとかそういうのではないけども!言うなれば淡い気持ちを抱いていた隣の家のお兄さんが、突然彼女を連れてくるような気分。
その、『お兄さんの彼女』になりそうだった人は、ひとつ息を吐いた。
恋の色を滲ませた横顔で。強気な彼女に相応しくない、それは弱さを滲ませた少女の顔だった。本当に恋する、女の子の顔だった。
「好きになった方とは、……わたくし、あまり会えないんですの」
「遠いところにお住まいなんですか?」
「いいえ、そうではないのですけれど……わたくしのメイガス家は王家の遠縁、わたくしは言うなれば王家に連なる娘なのです。そんな簡単に、殿方に会いに行くなんてできません」
だから、手紙を書いたのです。
と、彼女は続けた。
「いつ会ってもいいようにいつも持っていましたのよ。でも、全然会えませんでした。どこへ行ってもすれ違いばかり……。大抵あの方は、わたくしの行けない町の方にいるのですわ」
「……お忍びで会いに行くというのは?」
「メイガスの家は娘を簡単に外に出すほど甘くありません」
軽い軟禁ですわ、と自嘲したような声。
それから、マリアベル嬢は綺麗な便せんの手紙を取り出す。なんてことのない、変哲のない手紙。添えられた苺と花の模様だけが、目の前の令嬢を思わせる。
「これを」
令嬢マリアベルは、私の目を真っ直ぐに見た。
「スワロ裏市場まで、届けてください。わたくしの好きな人は、そこで白烏と呼ばれています」
あなたの現状、わたくしの恋。
両方が上手くいったら、それはとても素敵なことだと思いません?
*
「それで、渡してきたんだ」
夜会の後、静まりかえった舞踏室で、誰かが言った。
ストロベリーブロンドの髪が、ふわりと月の光の下で揺れた。
「……ええ。彼女は人が良さそうでしたわ。きっとわたくしの頼みを聞いてくれるでしょう」
「いちかばちかだったけど、上手くいくもんだね」
その誰かは小さな声で笑う。
手の中で古びたトランプを弄ぶ様は、まるで奇術師か何かのようだ。
月の明かり、少女のドレスが衣擦れの音をさせて相手に歩み寄る。数時間前まで美しいドレスの貴婦人と、正装の男性で溢れていたこの場所も、宴が終わればまるで時が止まったかのように静けさだけが横たわる。
少女は小さく声を出した。
「……いいんですの、こんな事をして」
「いいんだよ」
「嫌われますわよ?」
「嫌われればそれで満足だ。もくろみが思い通りに行ったら、もっと満足さ!」
溜息を一つ。
どうして、この人はこうなのだろう。出会った時からそうだった。昔から変わらず、今もまた、変わらずに。この人は直ぐに自分を傷つけようとする、他人を傷つけることで、自分もまた傷つくのを知っているのに。
「あなたって本当にひねくれてますのね」
「そんなひねくれ者に協力するそちらもそちらだよ」
「……貴方が好きですから」
それだけいって、ドレスの少女は出て行く。
後ろ姿は儚げで、華奢で、普段自信に満ちたその様子とはまるで違って見えた。
「……馬鹿だな、君って。善意なんて0ゴールドも儲からないのにさ」
誰もいなくなった部屋で、小さくぽつりと、その声は呟いた。
無感情に吐露するように、薄く唇に笑みだけ乗せて、自嘲するように呟いた。