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後篇

      四、


 六月最終週の始め、また新たな事件が起きた。

 今度の標的は、またしても犬。

 けれど、その数が尋常のものじゃなかった。

 十五体。

 総じて十五体もの犬が、一ヶ所に集められ、そして殺された。その殺し方もまた、決して尋常とは云いがたい、言葉にすることも憚れるような――新聞などではバラバラにされていたと書かれるに留まった――そんなものだったらしい。

 外園からもたらされた情報によれば。

 というか。

「なんであんたまでここにいるわけよ?」

 真向かいで優雅に珈琲を飲んでいた外園外縁を、私は思いっきり睨んだ。折角、暫くの間、こいつの顔を放課後に見ないで済むと思っていたのに、それなのにこれだ。何をちゃっかりと、お前も魔女さんの家に上がり込んでいるのだ。

「ふん、知り合いの家に遊びに来てはいけないと?」

「タイミング的にどう考えても嫌がらせっしょ」

 他人の嫌がることには全力投球。

 それが外園外縁という人間だ。

 ――改めて考えると最低だな、おい。

 もちろん、そんなことを云ったところで、この外園外縁という男が反省するとは思えないし、そもそも自分の非を解った上で、それを表層的には認めないのだから、やっかいとしか云いようがない。命の恩人であることには違いないし、助けてくれたことに関しては感謝してもしたりないけれど、それとこれとは話は別だ。こいつとは、近い将来にどんな形であれ決着を付けなければならないだろう。

 ま、それはさておき。

「それにしても、また事件が起きたのよね」

 それも十五頭の犬が殺されたという、もはや凄惨の一言では語ることの出来ない規模の事件が。

 これだけ大きな事件であるにも関わらず、犯人の目撃、その他の情報が集まらないのは、外園が云うように、犯人が裏技を使って警戒の眼をすり抜けているからだろう。だから特別、そこには注視していない。問題なのは、そう、どんどんと事件の規模が大きくなっているところだ。最初は三十匹の猫の首、次は犬の死骸を使ったモニュメント、そして今度は十五匹の犬を筆舌し難い方法で殺し、先の事件と同様に、グロテスクなモニュメントを形成した。犠牲となった動物の数こそ上下しているが、事件の残虐性は明らかに後半になるにつれ増している。

 幸い、今回もまた、標的は人間じゃなかった。

 けれど、事件のあまりの残虐性と連続性を理由に、宮蔵高校は昨日から三日間、臨時休校となっている。生徒は自宅待機を命ぜられ、教師たちはどうすれば生徒たちの安全を確保できるか、という会議を、連日開いているとのことである。

 まあ、中には風邪を理由に、会議を欠席をしている莫迦教師も約一名、いたりするのだが。

 そのことを私が指摘してやると、外縁は珈琲が入ったカップを片手に、調子よくこう答えた。

「病気ではない、仮病だ」

「解った。やっぱり、あんた莫迦でしょ?」

「お前よりは聡い」

「殴るわよ」

「事実だろ、この貧乳が」

「唸れ鉄拳っ!」

 ヤツの顔面目がけて繰り出した私の渾身の右ストレートは、しかし、あと少しのところでヒョイと鮮やかに躱された。カップを持ったまま、それも中の液体を少しも零さない辺り、その余裕具合が知れるというもの。くそ、私ではまだこのド変態メイドマニアには敵わないということか。

 にしても、こいつ、ひとが気にしてることをっ!

「ふん。風燕、何をそんなに怒ってるんだ。俺はただ、客観的な事実を云っただけだと思うが?」

「事実を云われるほどむかつくことはないのよ。もしあんたが次、あの言葉を云ったら、五十二の関節技と四十八の殺人技であんたをボコるからね」

「いいじゃないか、別に。何も巨乳が正義というわけでもあるまい。人の嗜好はそれぞれだ。お前のような、見ているこっちが思わず同情してしまうような貧相な躰でも、好いてくれるヤツは必ずいるさ」

「フシャーッ!」

 奇声を上げ、私は外園に襲いかかる。

 淑女が取るべき行動ではないと、頭の片隅ではもちろん理解してたけど、ヤツの言葉はこっちの阻止臨界点をあっけなく突破するだけの破壊力があった。

 こいつだけは。

 こいつだけは八つ裂きにっ!

「はいはい、おふざけもその辺でね」

 ひょいと、襟首を後ろから掴まれ、持ち上げられる。その格好は、さっきの奇声も相まって、まるで首根っこを掴まれ持ち上げられた仔猫のようだ。

 この場でそんな芸当ができるのは一人しかいない。私は恨めしそうな顔で後ろを振り返る。

 そこにいたのは、果たして、魔女さんだった。

「魔女さん、離して、離してくださいっ! こいつだけは、こいつだけはもう我慢できませんっ! ひ、ひとのことを、ひ、貧乳呼ばわりしてっ! 今日という今日は貴様を修正してやるっ!」

 もはや命の恩人だとか、そんなことは些細な問題だった。やはり一度、こいつには痛い目にあってもらわなければならない。人を莫迦にした人間には、それなりの報復が来るということを骨身に染み込ませてやる。だから魔女さん、離してくれっ!

「離さないわよ。くるみちゃんと外園が本気で暴れたら、こんな家、三分も持たないんだから。まだ引っ越してから半年も経ってないのに、さすがに壊されるのは、ね。それにご近所の目があるし」

「そういうことだ、貧乳娘。魔女の迷惑にならないよう、無い胸同様、大人しくするんだな」

「フシャーッ! シャーッ!」

 ぜんぜん反省してないぞ、この野郎っ!

「くるみちゃんはとにかく落ち着いて。まったく、外園、少しばかり云い過ぎよ」魔女さんは大仰に溜息を吐いた。「くるみちゃんをからかうと面白いのは解るけど、やり過ぎ。今回はこの辺にして止めなさい。従わないならそれでもいいけど、その場合、家の修理費はあなたに持ってもらうけど?」

「ゾッとする話だな。了解、この辺で切り上げよう」

「切り上げても私の怒りは収まらんぞ、こらーっ!」

 とはいえ。

 このまま暴れ続けても魔女さんに迷惑をかけることにしかならないので、引っ込まざるを得ないのだけど。もしや、それを込みで計算して、私をからかっていたのだろうか。外園のことだ、十二分にあり得る。だとしたらこの男、計算高すぎるぞ。

 そんな疑惑を抱きながらも、しかしそれを外園相手に追求するのはあまりにも労力を消費するので、私は仕方なく、学校から持ち出していた文芸誌『蔵然』を読み進めることにした。

 つい先日、漸く折り返し地点まで読んだのけど、読み進めれば読み進めるほど、その出来の良さに感心するばかりだ。本当に自分にこれと同等のものができるのだろうかと、読んでいて不安になる。そんなのできっこない、という囁きが、頭の裏側から聞こえてくることも、最近では珍しくない。

 けれど、やらくちゃならない。

 それはもう、殆ど意地といってもいい感情だったけれど、意地なくしてはなにもできない。一度やろうと誓ったのだ。なら、たとえそれがどんな形になったとしても、必ず完成させるつもりである。

 とりあえず、執筆予定の小説に関しては、大体どんな風に書けばいいのか、それなりに解ってきたつもりだ。もっとも、どういうものを書くかは、まだこれっぽっちも決まってないのだけれど。

『蔵然』に掲載されていた小説は、恋愛小説と、不思議な日常を描いた作品の二種類に分類できた。やはり私も、それに倣った方がいいだろう。ただでさえ経験が少ないのだ。身近にお手本があるのなら、それを参考にするのは、自然な流れだ。もちろん、筋が被らないよう注意はするが。

 家から持ってきたノートパソコンを開き、試し書きで少し書いてみる。なあに、二十分もあれば、一ページくらいは余裕で書けるだろう。

 などという予測は、まあ、甘かった。

「――小説を書くのって、やっぱり難しいのね」

 一時間後、机に突っ伏している私の姿が、そこにあった。ちなみに画面に映る文章の量は、原稿用紙一枚分にも満たない。ふん、笑えばいいさ。

「まあ、慣れてないとどうしてもね」魔女さんは微苦笑を浮かべて云う。「けれど、書こうという気概は重要よ。それがなかったら、そもそも書けないんだからね。そういう意味じゃ、くるみちゃんは今のところ、十分やってると思うけど」

「うーん、でも、自分じゃ満足できないですよ」

「それが大切。満足したら、それで終わりなんだから。ねえ、外園。あなたからも、何かアドバイス、云ってあげたらどうなの。顧問なんだから」

 さっきから優雅に珈琲を啜る外園に、魔女さんは云う。外園が何かアドバイスをくれるとは思えなかったけれど、しかし、溺れる者は外園をも掴みたくなるというもので、私は思わずヤツの方を見た。

「ふむ。アドバイス、か」

 そう云って、外園はまた珈琲を啜る。やがてカップをコースターに置き、そうして暫くこちらを観察してたかと思うと、ヤツは不意に口を開いた。

「とりあえず、牛乳でも飲んでろ」

「何のアドバイスだっ!」

 テーブルの上に置いてあった筆記具を、左手で思い切り放る。投げたのはボールペンにシャープペンシルなどなど、先端が尖っているものばかり。

 すべて本気の力で投げたけど、しかし外園は、都合四本投げた筆記具すべてを、指でキャッチした。

 どこまで非常識人間だ、こいつ。

「非常識はお前だ、風燕。ボールペンやシャープペンシルなんぞ投げおって。俺だから良かったものの、他の人間なら間違いなく刺さっていたぞ」

「うっ――悪かったわね」

 外園の言葉に、一気に熱が下がる。慥かに相手がこいつだから良かったものの、他の人間なら眼に刺さって失明の危険性だってあった筈。まったく、こういうときばかり、教師っぽいこと云って。

 まあ、私のことを慮っての発言なんだろうけど。

「投げるならせめてメイドグッズにしろ」

「訂正、あんたやっぱり真性の変態だっ!」

 ていうか、ありえないだろ、その発想。

 まあ、ある意味では実にこいつらしい、と抵抗なく云うこともできるのだけど。それにしても、もし仮に私がメイドグッズ――具体的にどういうものがそれに該当するのかは解らないが――を投げていたら、こいつはいったいどういう反応を示していたのだろうか。さっきみたいに手で掴むか、それとも、わざと当たるのか。

 うわあ――なんか、考えるに後者っぽいぞ。

 恍惚の表情を浮かべ、投げられるメイドグッズを受け止める外園外縁二十七歳子持ち。

 どこをどうとっても、変態だ。

 それ以外の表現は困難と云える。

「ふうむ。またぞろ、こちらのイメージを貶めるような妄想を勝手にしてるようだな、風燕」

 外園は脚を組み、どこか嫌らしい、調子の外れた笑みを浮かべて云った。おっと、表情に出てたか。

「別にいいでしょ。口に出して云ってるわけじゃないんだから。想像するのは自由よ」

「なるほどな。なら、俺は妄想の中でお前にメイド服を着させても、これは自由だな」

「発想が気持ち悪い」

「いいぞ、もっと罵れ」

「あんた、マゾだったのかっ!?」

「いや、どちらかと云えばサディストだ」

 納得の回答だった。

 まあ、こいつの日頃を逐一観察していれば、外園がマゾでないことは、それはもうすぐに解ることなのだけど。もし外園外縁がマゾならば、世界中に生きる人間全員がマゾだということになる。

 いや、というか、そんなことはどうでもいい。

「だから、アドバイスよ、アドバイス。こうして教え子が困ってるんだから、それを助けるのが担任であり、顧問であるあんたの役割ってもんでしょ。この前は全部私に任せるとか云ってたけど、それならそれで、基本くらいは教えて欲しいものよね」

 自分でも結構無茶を云ってることは自覚できたが、なにせ相手は外園だ。これくらいのレヴェルで物事を頼まないことには、話は一向に進まない。

 外園は私を眇め見た後、ふむ、と頷いた。

「まあ、偶には力を貸すのもいいかもしれんな。無償奉仕というのは柄ではないが、まあこれもいいだろう。それで、風燕、具体的に何を訊きたい」

 思いの外、あっさりと外園はこちらの要求を呑んだ。またぞろ、先日のように何かよからぬことを考えているのではないか、計略がないかと訝しんだけれど、しかしそんなもの、疑ったところで回避する方法がない。訊かなければ回避できるのかもしれないが、その場合、本末転倒となるわけだ。

 なんだか結局、上手いことことが運んでいるように見えて、その実、弄ばれているような気がする。

 いや、というより、そのものか。

 ならば、まあ、こっちも利用するだけだ。

「じゃ、まあさ、ひとつめの質問。具体的に小説って、どういう風に書けばいいわけ?」

「自由に書け」

 ――おおう。

 たったのそれだけか。

「いや、もっとなにかあるんじゃないの?」

「別に決まりごとなんてない。書いた人間が小説と云い張れば、それは立派に小説だ」

「かなり無茶な論に聞こえる気がするのは、もしかして私だけだったりする?」

「さあな。だが、俺は前のヤツらには、たったこれだけしか云ってこなかったがな」

「前って、つまり、あの文集を作った?」

「ああ。実際俺は、何もしてないに等しいよ」

「ふうん、なるほど。自由に、ね」

 役に立つか立たないかという観点で云えば、悔しいことにちょっとばかし役に立つ外園のアドバイスだった。なんだ、どういう風に書いてもいいわけか。

「まあ、読んでる側を飽きさせないようにできれば、尚のこといい、とは聞いたがな」

「なんでそんな伝聞調なのよ」

「元文芸部部長の言葉だ」

「――――」

 慥か、顧問だったんだよね、あんた。そんな技術的なことを生徒から教えてもらってどうする。

「ああ、でも、飽きさせないようにする、か。うん、慥かにそれって、重要だよね。どんなに面白いことでも中だるみがあると、駄目になっちゃうし」

「まあな。そしてそれは別に、小説のみに限ったことでもない、ということは知っておくべきだ」

「他にも適用できるってこと?」

「そういうことだ」外園は脚を組み替える。「例えば、そう、今起きてる事件にしても同じだ。向こうは、こっちを飽きさせないよう、事件の内容を、それ以前より意図的に凄惨にしていってるのさ」

「えっ」私は目を瞠った。「どういうこと?」

「そのままの意味だ。最初のうちは、まあそういう気概はさほどなかったようだがな。しかし、ふん、この前の犬の事件以降は、その傾向が顕著だ」

「飽きさせない、ように?」

「ああ、それが犯人の目的の一つだ」

 どういうことだ?

 飽きさせないことが目的っていうのは、つまり、興味を持って欲しい、注目してもらいたいという意味と同義――いや、少しばかり、それは意味合いが違うか。飽きさせないようにっていうのは、注目してもらいたいというより、娯楽を提供し楽しませたい、といった意味合いの方が強いような気がする。

 楽しませる?

 何を莫迦な。猫や犬の死骸を見て、そんな感慨を抱く人間なんて圧倒的少数に決まってる。

「ふん、その顔は勘違いしてるな。おそらく、お前はこう考えているんだろう。犬や猫の死骸を見て喜悦を感じる人間は限りなく少ない、とな。だが、焦点はそこではない。お前の考えはずれている。問題は犬や猫の死骸に喜悦を感じるのではなく、事件それ自体がシ見せ物としての特性を持っているか否か、それだけだ。故に、この場合、犬猫の殺し方は慥かに一つの注目すべきポイントだが、しかし本質的な要素として、そこが必ずしも重要視されるべきポイントかと云えばそうでもない。あくまでもそれは要素だ。内容それ自体に深い意味はない。猫の首を不気味に並べたのも、犬の死骸でモニュメントを作成したのも、そして十五体の犬を屠ったのも、すべては事件に見せ物的要素を取り込みたいがための発想だ。観劇、というわけだな」

「観劇?」私は首を傾げた。

「別に珍しいことじゃないさ。歴史を繙けば、これに似た例は腐るほどある。ただ動機まで一緒かどうか、それは蓋を開けてみなければ解らないが」

 そう云って外園は、また珈琲を啜った。

 私は、ヤツが云ったことを頭の中で反芻する。

 見せ物としての犯罪。今回の事件がそれに当て嵌まるというのは、なるほど、慥かに少し考えてみれば、納得できないこともなかった。けれど、完全に納得できたかといえば、それはそういうわけでもなく、むしろ混乱は増すばかりだ。

 どうして犯人は、そんなショーのような犯罪に手を染めたのだろう、という疑問。犯人はこちら側、つまりテレビなどを通して犯罪を観察している私たちを楽しませるために犬や猫を殺していると外園は云うけれど、私にはどうしても、それが理由で何か罪を犯すことができるとは思えないのだ。

 だって、慥かに今回の事件は、多くの人を退屈させることなく、むしろ世間の話題を掠い、決して少なくない人たちの関心を集めただろう。

 けれど、究極的に云えば、それだけだ。

 別に世間の人たちがこの事件に関心を示し、そしてショー的な要素に楽しみを覚えたとしても、それは犯人にとってなんのプラスにもならない。自分の得にならないことで、どうしてここまでの犯罪行為ができるのか。私にはそれが解らなかった。

「得ならあるさ」

 またしてもこちらの表情から云いたいことを機敏に読み取ったのか、外園は静かな口調でそう云う。相も変わらず、変なところで器用なヤツだ。

「否、得と云うと、これもまた少しばかり焦点がずれるか。だが大きなところは変わらん。犯人にとってこの事件は意味のあることだ。それは違いない」

「どうしてそう思うわけ?」

「犯人の考えを頭の中で奔らせれば自ずから解る。こういう風に事件のことを離していること自体が、既に犯人の思惑なんだ、今回の事件はな」

「事件のことを話すのが? それじゃあ、犯人はやっぱり愉快犯ってこと?」

「近いが、しかし、それでもやはり遠い。まあ、殆ど正解と云っても誤差はないのだがな」

 相変わらずこいつの言葉は、どこかふわふわと空に漂う雲のような感じで、輪郭はハッキリと見えるのに、その意味を正しく掴みとることが難しい。

 近いけど遠い。

 いったい、どういう意味なんだ?

 そんなことを考えていると、これまで黙っていた魔女さんが不意に、「感心しないわね」と口を開いた。気のせいか、その声はちょっと剣呑だ。

「外園、あなた少し喋り過ぎよ。そんなぽんぽんと解答を口にして。あなたが饒舌なのは十分知ってるつもりだけど、それはくるみちゃんの思考力を低下させる原因になるんじゃないかしら?」

 普通なら戦慄いてしまいそうになる魔女さんの静かな剣幕も、ヤツにとっては微風と同じらしい。いつもの調子を崩すことなく、外園は微笑を顔に滲ませ、それがどうしたと魔女さんに問うた。

「どうせこいつのこと、もう少し調べていればすぐにこの答えには辿り着いただろう。だから、俺が教えても教えなくとも、結果的には変わらんかったさ」

「結果はね。けれど、考えさせて理解できることなら、あえて教える必要はないでしょ?」

「まあ、慥かにな。それに、答えを教えるのは正直面倒だ。しかし、今回はそうもいかんからな」

「今回はって――まさか、やる気?」

「そういうことだ」

 風燕、と魔女さんから視線を切り、私に呼び掛ける外園。その表情は、ついさっきまで私をからかっていたときとはまったく違う、引き締まったものだ。

「右腕の調子は良好か?」

「えっ、ああ、それはもちろん」

「それは重畳」

 そう云って、外園はまた珈琲を啜り、それから黙ってしまった。どういうわけか魔女さんも、外園同様、無表情にして沈黙を守っている。

 あれ、もしかして置いてけぼり喰らってる?

「ねえ、外園。いったい何をやる気なのか、できれば私にも教えてもらいたいんだけど?」

 右腕の調子を訊ねられた時点で、殆ど何をするかは決定的だったけれど、ちゃんと説明はしてもらいたい。何も知らされず、ただ流されるだけという状況は、ちょっと気持ちが悪かった。

 外園はちらりとこちらを見遣り、それからまた、窓の外、機関車が走る予定の庭を見た。

「娘がな、気持ち悪がってるんだ」

「娘って――水琴ちゃんが?」

「ああ。俺としては本来、放っておいても一向に構わない事件だったんだが、水琴が気持ち悪がっているなら仕方ないと、つまりはそういう次第だ」

「なるほど、ね。あんたもつくづく親バカだ」

「否定はせんさ」

 ま、しかし、外園の気持ちも解らないではない。

 慥かに水琴ちゃんの可愛らしさは犯罪級だからなあ。もし、あの娘が何事かに困っていれば、きっと大抵の人間はそれを解消しようと、頼まれてもいないのに東奔西走することだろう。

 外園は懐から煙草を取り出すと、火を点けることなく、ひょいとそれを口に銜えた。

 そういえば私は、その煙草に火が灯された瞬間を、これまで一度も見たことがなかった。


      五、


 魔法は架空の力などではない。

 そのことを私が認識した――認識せざるを得ない状況に追い詰められたのは、右腕を?犬?に喰われた、あの悪夢のような日のことである。その日まで、私は魔法という存在は想像上のものに過ぎず、そんなものが現実世界にあるわけがない、と何の根拠もないにも関わらず、頑なにそう信じていた。

 魔法はない、などという謝った認識。

 それは不正解だ。

 魔法という存在は慥かにある。

 ただ、今までそれを私がまったく認識していなかっただけの話だ。存在していないことと、単純に認識していないことは、これはもうまったく意味合いが違う。前者が文字通り存在していないことをさしているのに対し、後者は観測者が認知していないだけで、それがある可能性を残している。これまで観測したことがないからと云って、それがない、などと断じることは、そもそも無理なのだ。

 忘れもしない、四月六日の深夜。

 あの日、私は一匹の?犬?と出会い、そして右腕をまるまる、その?犬?に食べられた。

 あまりにもショッキングなことだったからだろうか、その時のことは、二ヶ月ほど経った今も、鮮明に思い返すことができる。心許ない光を放つ街灯、薄暗い住宅地、星の輝きを遮る雲、冷たい空気、左手に持ったコンビニの袋の重さ、それらすべてを。

 陳腐な言葉を述べさせてもらうなら、あの日から、私の生活はちょっとばかし変わった。もちろん、大本のところはさほど変わらない。高校にはちゃんと進学できたし、友人も中学までと同様、それなりにできた。けれど、それでも、やっぱりそれまでの生活と比べれば、変わったとしか表現できないものがある。例えばそれは、右腕のことだったり、それに付随する外園との契約であったり。

 ま、しかし、である。

 生活が変わってしまったことに関し、私はこれといって不満らしい不満を持ってはいない。

 別に、これまでの生活が嫌いだったわけじゃない。むしろ、昔の方が断然良かったと云える。けれど、知らないことより知っていたことの方が有利であると、私はそう思うわけだ。無知は罪である――とまで云うつもりは、これっぽちっもない。問題なのは知ってるか知らないか、ただそれだけだ。

 昔の私は、魔法という存在を知らなかった。

 今は、魔法という存在を認識している。

 その違いはきっと、いつか私に有利に働く筈。

 そういう、ある種ポジティブな思考のためか、現状に対し、不満らしい不満は少しも持っていない。

 ま、多少、女子高生らしからぬとは思うけど。

 けれど、それにしたって、今更と云えば今更だ。

「にしても、さすがに埃っぽいわね」

 口元を無地のハンカチで抑えながら、身を屈めた状態で、私は独りぽつりと呟いた。

 場所は川沿いにある、建設途中で工事がストップした廃ビル。少し前までは勢いよく工事が進んでいたのだけど、近年の後退気味な景気の風をもろに受け、つい数ヶ月ほど前に建設会社と土地を所有していた会社が揃って倒産。それ以降は土地の買い手にも恵まれず、今はこうして建設途中の面影を殆ど残したまま、地元ではちょっぴり有名な肝試しスポットとしての機能を新たに獲得し、存在している。

 この手の廃墟は別段、珍しいものじゃない。ちょっとばかり自分の住んでいる地域を探検すれば、一件くらいは見つかるものじゃないだろうか。もちろん、その大小を問わなければ、という条件がつくけれど。この廃ビルにしても、それはまったく同じだ。

 繰り返すが、特別珍しくもなんともない。

 少なくとも外観上は、である。

 中の方はもちろん知らない。

 というわけで、つい十分前に這入ったわけだ。

 不法侵入であることは十分に理解していたけど、そんなものを気にしているときではない。それに、そんなことを馬鹿丁寧に守っている人間も、またそれほどいないことは、建物の壁に描かれた芸術的とは決して云えない落書きを見れば一目瞭然だった。

 建物一階、正面玄関と思われる入り口を潜った先は、ちょっとしたホールになっていた。物が置かれていない分、かなり広く見える。慥か予定ではマンションが建つとのことだったけれど、なるほど、この規模から察するに、どうやらマンションではなく億ションと云った方が適切かもしれない。ま、会社が潰れりゃそれも関係ないけれど。

 ぐるりとホールを一周し、続いて奥へ。

 玄関ホール奥にはエレベータホールと階段、それに左右に伸びる通路があった。エレベータは当然のことながら作動しない。私は左右の通路を一瞥した後、そちらには行かず、階段に足をかけた。

 二階、三階と順調に上っていく。

 落書きは一階だけじゃなく、階段の方にもかなりの量が描き込まれていた。ただ、状態からして、どれもここ最近描かれたものではなさそうだ。

 三階の踊り場まで来たところで持っていた携帯電話が震えた。外園からの電話だ。一旦周囲を見廻し、それから壁に背を向け、私は電話に出た。

「こちら外園。そっちの調子はどうだ?」

「こちら風燕。予定どおり、今、階段のところ」

「そうか、順調なようだな」

「別段、トラブルもないからね。そっちは?」

「こっちも特段、変わったことはない」

「そう、それは重畳ってやつかね。ところでさ、本当にこの廃ビルに、事件の犯人がいるわけ?」

 外園が事前に得た情報によれば、この廃ビルの中に、件の連続動物殺傷事件の犯人が潜んでいるらしい。慥かにその情報を裏付けるかのように、最近ここに人間が侵入したであろう形跡がそこかしこにあった。例えばそれは、玄関ホールに捨てられてあった、賞味期限が比較的最近のものであるコンビニ弁当であったり、例えばそれは、つい三日ほど前に発売されたばかりの漫画週刊誌であったり。

 とはいえ、それらの物品が、必ずしも、ここに事件の犯人がいるという証拠になるわけでもなく。

「その情報は信頼できるものなの?」

「信頼できるものでなくては動かんさ」

「そう。それなら、まあ、いいんだけど」

「それより探索は進んでいるんだろうな?」

「ええ、それはもう。あんたの云いつけどおりの方法でね。でも、こんな簡単な方法でいいわけ? もっと一階一階、仔細に調べた方が良くない?」

「構わんさ。もし何か異常を感知すれば、お前の右腕がどうしたって反応する。それは事前に説明した筈だ。お前はその感覚を素直に受け取って調べていけばいい。このビルに這入った時点で、既に何かしら感じてはいるだろうが、犯人が近くにいれば今とは比べものにならない違和感を右腕に抱く筈だ。そうなれば俺に連絡する。それがお前の仕事だ」

「あんた、どっかから私をモニタしてるんじゃないでしょうね? なんだかそんな気がしてきたわ」

 右腕を見る。外園の指摘どおり、慥かにこの廃ビルに侵入したときから、妙な疼きは感じてた。もっとも、それは強く意識をしなければ感じることもできない、本当に微弱なものだったけれど。

「簡単に云えばレーダのようなものだな。もっとも、魔女曰く、さほど精度は良くないとのことだ。その辺りは使い方が難しいと云えば難しい」

「ま、本来の用途は義手だしね。ところでもう一度だけ確認するけど、ひとつのフロアを入念に調べ廻る必要はないのよね?」

「ああ。そうする必要はない。大まかにワンフロアを廻ったら次の階へ行く。それだけだ」

「思ったより簡単」

「まあな。無い乳のお前でもできる仕事だ」

「無い乳は余計だっ!」

 怒鳴ったときには、既に通話は切られていた。くそ、一言多いとかそういう次元じゃないぞ、あいつ。やっぱりいつか、痛い目に遭わせなくては。

 そんなことを頭の片隅で考えながら四階へ。

 それまでの階同様、四階の方もかなり荒んだ状態だ。壁は落書きが目立つし、表面が剥離、剥落している箇所も少なくない。ひび割れも散見し、割れ目からは茶色い錆汁が滲み出て壁を汚していた。

 打ちっ放しの状態とはいえ、たった数ヶ月でここまで劣化するものだろうか。もしかしたら、施工の段階でなにか重大なミスがあったのかもしれない。

「案外、倒産の原因もそこにあるのかもね」

 最近珍しくないし、そういう問題。

 まずはエレベータホールのところまで行き、これまでの探索どおり、反時計回りに廊下を進んでいく。このマンションはエレベータが建物のほぼ中心にくる構造になっていて、そこから放射状に各戸が配置されている。ワンフロアに五戸。この規模のマンションとしては少ない方と云えるが、その分、一戸一戸の専有面積はかなり大きくとられていた。

 と。

「――うん?」

 三戸目の家を通り過ぎたところで立ち止まる。

 右腕に左手を軽く添えると、それまでの疼きとはまったく違う、どくんどくん、と何か脈打つような反応を掌に感じ取ることができた。もう二ヶ月ほどこの義手を付けているけど、このような反応を示したことは、これまで一度もない。

「これが外園の云っていた反応、か」

 私は周囲を見廻す。

 反応があったということは、すぐ近くに相手がいるということ。しかし、視界に映る範囲には、それらしき影や形を発見することはできない。

 ――とりあえず、外園に連絡するべきだろう。

 そう思い携帯電話を取り出したところで、

 私の躰は勢いよく水平方向に弾き飛ばされた。


      ※    ※


 舞い散る砂塵と、目まぐるしく回転する世界。

 受け身を取ることもできず、弾き飛ばされた私の躰は途轍もない速度で、右肩から床へとダイブした。床と接触したあともその勢いは衰えず、衝撃を受けた方向へと転がり続ける。その勢いが床との摩擦によって殺されたのは、先ほどまで立っていた地点から十メートルも吹き飛ばされたあとだった。

 っていうか、ありえないだろ、この威力っ!

 蹌踉めきながらも何とか立ち上がり、衝撃――おそらくは蹴りだろう――を受けた右腕を左手でさする。さすがは魔女さん特製の義手といったところで、パッと見たところ異常はない。手を握ったり閉じたりして挙動を確認。うん、大丈夫そうだ。

 正面を見据える。電灯一つもない荒んだマンションの暗がりの中に、そいつは泰然と立っていた。体格からしておそらくは男、顔はフードをすっぽりと被っていてよく見えないが、服装のセンスからして、それほど歳はとっていなさそうに見える。

 手には何も持っていない。

 しかし、否、だからだろうか。私の頭は先ほどから最大音量でアラームを鳴らしている。

 先ほどの蹴り。もし、受けたのが右腕じゃなかったら、おそらくそれだけで致命傷だっただろう。それが確信できるだけの威力だった。もし他の部位に攻撃が当たっていたらと思うとゾッとする。

 まったくもって非常識極まりない。

 けれど、その非常識が罷り通るのがこっちの世界だ。それはもう十分に理解している。何しろ最初が、《?犬?に右腕を喰われる》という事態だったのだから。どれだけ常識が通用しない世界なのか、それは文字どおり身をもって体験しているわけだ。

 にしても、今回のこれは、相当にやばい。

 まず、普通に命の危険性がある点。もちろん、そんなことは最初から覚悟の内だったけど、しかし、相手が想像以上の厄介物件であったこと、これは認めざるを得ない。さっきの蹴りで理解した。今回の件、どう考えても私一人で処理するのは難しい。

 となると、外園の助けが必要になるわけだが、しかし、携帯電話で連絡することはできない。携帯電話はさっき蹴られた際、床に落としてしまっている。今はちょうど、男の足下辺りにあった。回収はかなり難しいだろう。無理に取りに行けばそれで終局。良くて内臓破裂、悪ければ蹴りによる頭部破裂のバッドエンディング、というところか。

 思わず舌打ち。

 周囲に人影がないからと云って一瞬気を緩めていたのがまずかったか。けれど、今更そんなことを悔いても仕方がない。とにかく、今は外園にどうやってこの状況を伝えるか、それを考えるべきだ。

 しかし、相手も莫迦じゃない。

 床を蹴り、仕掛けてきた。

「――ッ、考える暇くらい与えろってのっ!」

 そもそも思い返せば、こいつは携帯電話を使おうとしていた私を襲ったのだった。仲間に連絡をさせる気なんて、さらさらないに違いない。

 繰り出してきた蹴りを、右腕でガードする。

 それによって右腕が破壊されることはなかったが、その衝撃に脚の方が耐えられなかった。またも後方に弾き飛ばされる。その距離三メートルと云ったところか。踏ん張りを十分に利かせていたにも関わらずこれだ。破壊力が並大抵じゃない。

 ともかくまずはっ――!

 こちらが体勢を整えるより前に、男は更に攻撃を仕掛けてきた。乱舞のように繰り出されるその蹴りは、一撃一撃がナパーム弾の爆撃のように重い。

 それらをすべて、右腕一本で何とか防いでいく。

 幸いにして腕による攻撃は仕掛けてこない。攻撃は蹴りのみだ。これが今のところ、結果的に私の命を救っている。もし仮に、蹴りと見せかけてパンチを仕掛けてこられたら、私は何の反応をすることもできず、命を落としていたことだろう。

 そういう意味において、現状は正にギリギリ。

 この状態が長く続けば、先に疲弊するのは確実に私だ。その証拠に、私より運動量が遙かに多いはずの向こうは、先ほどから連続で攻撃を仕掛けているにも関わらず、息一つ切らしていない。私の方は、既に疲労を覚え始めているというのに。

 下唇を強く咬む。

 このままじゃ埒があかない。

 少なくとも、このまま攻撃を受け続けるなど愚の骨頂だ。展開として、こちがら疲弊する以外の道はない。ならば危険はあれど、仕掛ける他なかった。

「フッ――!」

 繰り出された蹴りを右腕で受け止め、それを弾き飛ばすように腕を振るう。

 突然の反撃に驚いたのか、男は必要以上に後ろへと跳び、こちらとの距離をとった。

 そこで一旦、攻撃の手――いや、この場合は脚か――が止まる。しかし、緊張感はいまだに持続したまま。何せ、現状は何一つとして私側に好転してはいないのだ。まだまだ向こうのペースと云える。

 とにかく、圧倒的にこちらが不利だ。

 まず第一に、向こうの方が私なんかよりぜんぜん強い。いくら右腕が尋常のものでないとは云え、それ以外は普通の肉体だ、男のように格闘戦に長けているわけではぜんぜんない。そして次に、携帯電話。外園との唯一の連絡手段である携帯電話は、今や十メートル以上も向こう側にある。私単独ではこいつに勝てない以上、外園に救援を求めるしかないが、しかし携帯電話を回収しようと思えば、どうしたって男の脇をかいくぐらなければならない。

 脳裡に思い浮かぶは先ほどの攻防。

 男の脇をすり抜ける?

 冗談じゃない。さっきの連続蹴りを見るまでなら、ギリギリ賭けてもいい作戦だったかもしれないけど、見てしまったあととなっては、そんなもの、考慮にすら値しない愚策だ。現実的な案ではない。

 しかしそうなると、封殺されてしまう。

 少なくとも、正攻法では。

 となれば奇策をとるか――、

 と。

「なんだ、誰が来たかと思えば、存外、かわい娘ちゃんじゃねえか。役得ってやつだな」

 考え得る限りの軽薄な口調で、男はそんな言葉を呟いた。声の感じからしてかなり若そうだ。二十代、否、もしかしたら同年代かもしれない。

「ふん、なんだ。殊更に警戒されてるっぽいな、俺。まあ、いきなりあんなことをしたら、それもしゃーねーか。悪いな、ここに来る奴は、俺、片っ端から潰すことにしてるから。さっきのは挨拶ってことで」

「――にしては随分、強烈な挨拶だったけれどね」

 蹴りが挨拶とはなかなかにジョークが利いている。普通の人間だったら即死ものだった筈だが、どうやら向こうにとって、そんなことは些事らしい。

「そう睨むなって。折角のかわいい顔が台無しだ。ま、怒った顔もいいけれど」

「それはどうも。けれど私は、見ず知らずの人間から可愛いとか云われても、あんまり喜べない質なんだよね。むしろ不信感を表すタイプだったりする」

 特に目の前にいる軽薄そうなヤツから云われるのは大嫌いだ。どうせ表層ばかりの言葉に決まってる。そういう意味では、まだ外園の悪辣な言動の方がずっとマシだ。あいつの場合、多くはそのまま本心なのだから、素直に受け取っていればいいし。

 ふん、と男は肩を竦めた。

「あらら、こりゃ嫌われたもんだな」

「いきなり蹴られたら、そりゃそうでしょ」

「違いねえ」

 へへ、と男は嫌らしく笑う。

「ま、さっきも云ったけれど、ここに来る奴は容赦なく蹴り殺すことにしてるんだ。ま、あんたみたいな可愛い女の子は、本当は例外に入れてもいいんだろうがな。ま、でもどうやら、あんたはただ可愛いだけの女の子ってだけじゃなさそうだし」

 そう云って男は私の右腕を見た――ような気がした。フードをすっぽりと被っているため断言することはできないが、しかし、おそらくは注視した筈。男が自分の性能を正しく理解しているのであれば、私の右腕は相当奇異に映っている筈だ。

 男は眼を細め顎に手をやった。

「ふうむ。どうやらあんたの右腕も、俺の脚同様、相当に面白いことになってるみたいだな。まさか、他にもそんなヤツがいるなんて思ってもみなかったぜ。へへ、案外、自分たちだけじゃなくて他にもこういうヤツは結構いるのかもしれないな」

 いい勘をしてるな、と思う。否、勘などではなく洞察力、か。軽薄な口調とは違い、もしかしたら存外、頭の方は切れるタイプなのかもしれない。もしそうならば少しばかり厄介だ。少なくとも、莫迦が瞞されてくれるタイプの策は通用しそうにない。

 もし相手がこちらの罠に簡単に引っかかってくれるタイプの人間だったなら、いかにパワーは相手の方が上といっても、まだ対処の仕様はあった。もちろん対処とは云っても、それは携帯電話を回収するまでの、いわゆる一時凌ぎ程度のレヴェルでしかなかったのだけれど。

 しかし、奇策も駄目となると。

 いよいよもって厄介だ。

「困ったなあって顔してるな」野卑な笑みを、男は浮かべる。「ま、あんたの腕が俺の蹴りに耐えられるっていうのは、ちょっと驚いたけどな。でも、どうやらそれが限界っぽいじゃん。防御だけじゃ相手は斃せない。これ、当たり前の公式な」

「ふん、慥かに当たり前だね」

 それ故に、手が出ない。

 少なくとも、今の状態では。

「にしても解らねえ。あんたどうして、こんな時間、こんな場所に居たわけ? それもたった一人で。これまで肝試しでここに来たヤツは、えっと、慥か五人くらいいたけれど、そいつら全員、二人以上で来てたぜ? もしかして友達いないとか?」

「見ず知らずの人間に心配されるほど、私は友達に恵まれていないわけじゃないよ。ちゃんといる。それより、さ。あんた、今、私以外に五人ほど、この場所に来たことがあるとか云ったけど、その人たちはどうしたわけ? まさか――」

「殺した――とでも云えば、まあ格好いいんだろうが、安心しろ、殺してないぜ。ただ、今考えると、別にぶっ殺してもぜんぜん良かったんだけど、その時は他のことで手一杯だったからよ」

「殺す、ね。それは犬や猫みたいに?」

 瞬間、男は私を眇めた。

 口元は三日月型、まるで蛇のよう。

「なるほど、な。つまりあんたは、それが理由でここに来たわけか。偶然、俺の居るところに来たわけじゃなく、必然的に来たと、そういうことか。なるほどなるほど、そいつは正義感の強いこと」

「認めるんだ。犬や猫殺しの件は」

「ああ、アレは俺がやった」

 己がやったことを自慢するように、男は大仰なアクションを交えながら、自らの罪を告白した。その振る舞いに、犯した罪に対する反省の色はない。むしろ、その口調には誇りさえ感じ取れる。

「凄かったろ。簡単にやってるように思われるかもしれないけどな、あれは結構苦労してんだぜ。特に最初にやった猫のやつはな。なんせ三十匹だ。それも野良猫ばかりを。殺すよりまず野良猫を見つける方がむずかったわ。ま、その分、殺すのは楽だったんだが。首を固定してねじって終了、だかんな」

「――へえ。その調子で犬も?」

「そのとおり。犬も苦労したぜ。といっても、集めるのが、だけどな。殺すのは猫と同じ、簡単なことさ。蹴り殺して終わり。何も難しいことはねえ」

「ふうん、あそう」

「へえ――意外な反応だな。てっきり、それは悪いことだ、なんて説教たれると思ったのに。女ってそういうのにうるさいだろ? 犬や猫が可哀想だなんだ、とか云ってな。ヒステリィなんだよ。俺はそういう風にぐちゃぐちゃ云われんのは大嫌いなんだ」

「なら別にいいじゃないの。大体さ、あんたみたいな人間に説教なんかしても、それは無駄ってもんでしょ。それで改心するようなヤツなら、最初から犬猫殺しはしないよ。説教って云うのは、つまり、云って効果があるから意味があるんだしね」

「おお、解ってんじゃん、あんた。こいつはマジで驚いたわ」本心から云ったのか、男はまるまると眼を見開いた。「いや、こいつは本当に驚きだ。そうだよ、そのとおり。説教かまされて改心するような輩なら、最初からそんなことしないっつー話なわけ。ホント、大多数のヤツらはそこら辺のこと、ぜんぜん解ってないよな。あんた、見る目あるね」

「そりゃどうも」嘆息する。繰り返すが、こんな男に褒められても、嬉しくとも何ともない。むしろ迷惑だ。「それで、関心ついでにひとつ訊きたいんだけど、どうして犬猫を殺してったわけ。私としては、それがまだぜんぜん解っていないんだよね」

「ふうん」男はこちらを眇める。「こっちに踏み込んできたわりには、そっちのことはぜんぜん理解してないんだ。ま、慥かに理解しがたいものがあるかもしれないな、客観的視点から立ってみれば。でもよ、少し考えたら解らねえか? 俺はこれ、かなり単純な行動原理で動いてるんだぜ?」

「とは云ってもね。ただ動物を殺したいだけの愉快犯ってわけでもないんでしょ、あんたは」

「おいおいおい、当たり前だろ。俺が犬猫殺して興奮するようなヤツに見えるってんなら、それはえらい心外だぜ? ま、幸いあんたは違うようだけど」

「でも、大多数の人間はそう思ってる」

 こちらの言葉に、男は渋い顔を浮かべた。

「あー、そりゃあ、仕方ない。こっちの内実はどうであれ、やつらから見れば俺は、慥かにそう見えるだろうさ、動物殺して愉悦感じてるっぽい真性の変態にな。けれど、俺を少しでも知っているヤツはそうは見ない、見えないだろうさ。あんたは俺を見て、そんな変態やろうに見えるか? いや、あんたは見えないと云った。ならばそれが真実さ。俺が変態野郎であることは、俺を実際に見た人間によって否定される。俺はいたって、極々普通の人間さ」

「普通の人間、ね」

 否定は、できない。

 脚力が常人のそれより強いことを除けば、慥かに目の前にいる男は、どこにでもいる普通の人間に見えた。魔女さんのように浮世離れした雰囲気を放っているわけでもなし、また突飛な思想を抱いているようにも見えない。向こうのいうとおり、極々普通の一般人。ただ一つ、普通の人間と違う点を上げるなら、それは犬猫を大量に殺した点だろう。

 けれど、逆に云えばそれだけだ。

 普通すぎて、疑問を抱く。

 本当に、こいつが殺したのか?

 五十体以上の、犬や猫を。

 嘘を吐いてる可能性が、あるんじゃないのか?

 ただ粋がりたいがための嘘。

 その可能性がないとは云えない。

 けれど、そんな嘘を吐いてどうなる?

 そんなことをしたところで意味はない。それに、たとえ犬猫を殺したことがまったくの嘘であっても、私に突然攻撃をしてきた事実に変わりはないのだ。

 だけど、慥かめる価値はある、か。

「それで、どうして動物を殺しているのかっていう質問には答えてくれるわけ? 一応、当初の質問は、そのことだったと思うけど。別にね、あんたが変態かどうかなんてことに興味はないんだけど」

「つれないねえ」男は口元をまた歪めた。「ま、興味がないって云うなら、そりゃしょうがねえ。俺だって興味のない話を延々と聞かされるのは退屈だ。絶対に御免だね。全校集会の校長の無駄話と同じ。あれ、俺の推論だとただの自己満だと思うんだけど、ま、んなことこそどうでもいいって話か。それで、あんたの質問に対する回答ってことだが――」

 男はそこで一拍、間を置いた。

「答えはノーだ。答える義理はねえ」

「おや、これは驚き。これまでの饒舌っぷりからいって、答えてくれるものとばかり」

「可愛い娘の質問に答えるのは本来、吝かじゃねえが、どうして自分がそれをやったのかっていう質問に関しては、そりゃ俺の口からは云えねえよ」

 だってそりゃ敗北宣言ってもんだろ。

 軽薄な調子を崩すことなく、男はそう云った。

 敗北宣言?

 不思議なことを云う。

 いったいどうして、自分の目的を他人に教えることが、即ち敗北ということになるのだろうか。少し考えてみたが、しかし、男の真意を掴むことはできない。教えるということ自体が、そもそも、屈辱的なことだと、そういうことなのだろうか。けれど教えることそれ自体は、特別、屈辱的な行為でもなんでもないように思える。むしろ逆だ。教えられる者が、そのような感情を抱くものと思う。

 知らないということは、それだけで罪なのだから。

「ふん、解らねえって顔してるな」

 男は笑う。にんまりと。

 気持ちが悪いな、本当に。

「そりゃあ、解らないことだらけだよ。どうして犬猫を殺したのかっていう理由は聞けないし、その聞けない理由が、教えることは敗北になるからっていうんだからね。それで理解しろって云う方が、そもそも無理な話ってものだと思うけど?」

「いんや、そんなことはない、と俺は思うね。通じるヤツには通じる。通じないヤツには通じない。ただそれだけのことさ。別にこれ、通じないのは頭が悪いからとか、そういうことを云いたいんじゃないぜ、念のために捕捉しておくとな。要は相性の問題なのさ。向こうが自分と同じ性質の人間なら、一発で解る。逆に、自分とはほど遠い性質の人間なら絶対に理解できない、そういうわけさ。つまりこの場合、あんたは後者に分類されるってわけだ」

「なるほど。慥かに私とあんたの相性――この場合は思考の方向性か――はまったく真逆っぽいからね。理解ができないのも当然と云えば当然、か」

「んー、俺はまったくの真逆とは思えねえんだが。ま、それを主張したところで、それこそ詮無いことか。どうせ水掛け論にしかならなさそうだしよ。それに好い加減、お喋りをしすぎたところだしな」

 瞬間、男の雰囲気が一変する。それまでの軽薄で軟派な空気から、肉食獣を思わせる陰惨かつ獰猛なものへと。気の弱い人間なら、その変化だけで腰を抜かしたかもしれない。ああ、これから自分は目の前の男に狩られるのだと、諦観の思いを抱きながら。

 もちろん、私はそんな念など少しも抱かない。

「ま、でも、あんたとのお喋りは存外、楽しかったぜ。だから殺すことはやめだ。俺は気に入ったヤツは殺さないことにしてるんだ。好きなヤツ、気に入ったヤツは殺したくない。誰だってそうだろ?」

「そうね。誰だってそうでしょ」

「けれどよ、だからってただじゃ返しやしねえけどな」にたりと、今度は値踏みするようないやらしい笑み。「女一人がこんな時間にこんな場所に来てよ。痛い目に遭うだろうことは、もちろん承知済みなんだろうな? 考えてなかったって回答はなしだぜ」

「まさか。そんなアホなこと云うわけないでしょ」

「なら」

「でも、大人しくしてるほど、私は淑女じゃないんでね」一瞬だけ後方を確認。「あんたのいいように扱われるつもりは、これっぽっちもないのよね」

「へえ。じゃあ、どうするつもりなんだ?」

「決まってるじゃん」

 三十六計逃げるに如かず。

 私はくるりと身を翻すと、その場から一気に駆けた。男の脇を抜け携帯電話を取りに行くのは不可能、斃すのは更に無理、奇策を使って相手を出し抜くのも無理となれば、もうこの手しか残っていなかった。敵前逃亡、もとい戦略的撤退。このままこの場に留まっていても蹂躙されるだけとなれば、この案も決してそう悪いものではないだろう。

 こちらの突然の逃亡に向こうは虚をつかれたのか、数秒の間、追ってくる気配を見せなかったが、暫くして、「待てっ!」という怒声を張り上げ、こちらを猛然と追跡し始めた。どうやら多少、こちらの予測より間抜けだったらしい。しかし、コケにされたとでも思ったのか、背後から迫り来る気配からは、濃密な怒りの臭気が立ちこめている。

「ふん。捕まったら殺されるかな?」

 どうもさっきから、向こうの云ってることは信憑性に欠けているように思えてならない。それは例えば、犬猫を殺したのが自分であるという告白であり、また殺すという発言であったり。もちろん、すべてがすべて、嘘八百ということはないだろう。しかし、嘘が一欠片も含まれていないかと云えば、それは限りなく低いに違いない、と見積もっている。

 しかし、どうして嘘を吐く?

 いや、そんなことを今考えても仕方ない。

 ともかく、今は外園と合流することが先決だ。

 廊下を走り、更に階段を上って五階へ。

 後ろは振り返らずとにかく走る。このマンションは十階建て。外園は上から、私は下から探索することになっていたから、普通に考えれば、ヤツもそろそろこの階の探索を始めてもいい頃合だ。外園と合流できれば、あの男を相手に勝つことは雑作もない。そうなれば正々堂々――といってもこの場合は二対一になるのだが――正面切って勝負してやる。

 しかし。

「へ、甘いぜ、あんたっ!」

 後ろから聞こえる、空気を斬り割く男の声。

 私は反射的に後ろを振り返り、そして目を見開く。

 掌ほどの大きさがあるコンクリート塊がこちらに向かって飛んで来ていた。その速さは、まるで機関銃から放たれた弾丸のよう。それも一つだけではない。パッと見て十個ほどはあると推察された。

「んなっ!」

 慌てて回避運動をとる。

 しかし、気付くのが遅すぎた。

 躱しきれない。

「――ッ!」

 躰の隅々にコンクリートの破片が突き刺さり、私は走った勢いのまま、進行方向に転倒した。

 衝撃と、それに伴う鈍い痛みに、一瞬意識が飛ぶ。

 やばい、この状況はかなりまずい。

 状態を確認する。破片は、胴体はもちろんのこと、腕や脚にまで深々と突き刺さっていた。肩から上に一つも破片が突き刺さらなかったことは、不幸中の幸いだろうか。もっとも、幸いと云っても、それは結局のところ、不幸中のものでしかないのだけど。

 起き上がって再び逃亡しようと思うが、しかし怪我のためか上手く立ち上がれない。改めて見ると、臑のところに突き刺さったコンクリートは、完全に脚を貫いていた。これまた幸いなことに痛みはない。きっと、感覚がすっかり麻痺しているのだろう。

 男が近づいてくる。その顔は憤怒そのもの。

「まったく、あの局面であんな堂々と逃げるなんてな。どうやらすっかりコケにされたらしい。俺はああいうのが一番気にくわねえんだよ」

「そう」壁に手を付け、なんとか立ち上がる。「さすがにそこまでは予測できなかったかな。それにさっきの攻撃も。まさか、コンクリート片を蹴るなんて。いや、この場合、そこまで頭が回らなかった私の責任かな。飛び道具なんて、別段珍しくないし」

「いや、そうとも云えねえだろ。俺はさっきまで蹴り一辺倒だったんだからな。飛び道具が来るなんて普通は考えねえよ。ま、それが致命傷なわけだが」

 それにしても、と男は訝しむ。

「どうして上の階に逃げたかねえ。普通は下の階に逃げるもんだろうに。しかし、ふうん。考えられる可能性としては、そんな当たり前のことが解らないほどに混乱していたか」男はちらと、視線を天井に向けた。「あるいは、お仲間が上の階にいるか、か」

 男から顔を背け、短く舌打ち。

 やっぱりこの男、そのことにすぐ気付くことができる辺り、頭の回転が悪いわけじゃないようだ。私が先ほど相手の虚をつけたのは、偶然と迷いのない行動に寄るところが大きい、ということか。となると、同じ手は二度と使えない。相手の注意を引くような奇策も、成功する確率はぐっと低くなってしまったことだろう。それを考えると、先ほどまでの行動がすべて裏目に出てしまったように思う。逃亡するなら、逃げ切らなければならなかったのだ。途中で捕まってしまうなんて、最悪でしかない。

「ま、でも、その作戦はどっちにしろ失敗だったけどな。俺に捕まらなかったところで、結局のところ、最後は同じだ。上に行ったって助けなんてねえ」

「どういうこと?」私は訊ねる。

「仲間は俺にもいるってことさ」嗜虐的な笑みを面に張り付け、男は云う。「まさか、俺がたった一人で、こんな短期間にあれだけの犬猫を集めて殺したと思ってるのか? いくらなんでもそんなこと無理だ。猫を三十匹、犬を十五匹だぜ、それも短期間に。んなもん、常識的に考えて無理に決まってる」

「つまりは」と私。「あんたはその仲間と一緒に犬猫を殺し廻ってたわけだ。悪趣味なヤツって思ったよりいるんだな。それで、その仲間が上の階にいたら、どうして結末が同じなわけ?」

「んなことすぐに解るだろ。五階に俺の仲間がいるのにどうやってお前はお前の仲間と合流できるんだよ。そりゃ物理的に無理だ。お前の仲間は五階にいる俺の仲間が殺してる。俺みたいな強力な蹴りはねえけど、ヒト一人くらいは殺せるヤツだぜ? イかれちまってるのさ、頭の方がな」

 それはお前も同じだろ、と内心で毒づく。

 しかし、それにしても。

「そうか、仲間がいるんだ」

「ああ。多分、もう暫くしたら降りてくる筈だ」

「無事だったら、でしょ?」

 この言葉に、男は、「うん?」と首を傾げた。何を云っているのか解らない、といった風である。目元は依然フードに隠れていて見えないが、おそらくは眉間に皺を寄せ、理解に苦しむような表情を浮かべていることだろう。声の調子からそれが解る。

「おかしなことを云うな、あんた。無事だったらってどういうことだ? まさか、お前のお仲間が斃すとでも云いたいのか? 残念だが、それはねえよ。お前のお仲間がどんなに心強いヤツなのか知らねえけど、あいつを相手に敵うヤツなんていやしねえさ。あいつが負けるなんてこと、絶対にありえねえ」

「残念だけど」

 私はそこで間を取った。

「絶対なんてものはありえない」

 云いきった次の瞬間、薄汚れた天井が崩落した。


      ※    ※


 外園外縁という男は、世間一般が定義するところであろう魔法使いと呼ばれる存在でありながら、しかし同時に、その定義から大きく外れている為、魔法使いとは呼べない存在であるらしい。定義の内側にありながら、しかしその定義から大きく逸脱しているなんて矛盾した話だけど、真実そうとしか云えないようなのだ。もの凄く大きな括りで見れば、外園外縁という人間も、慥かに魔法使いに分類されてもおかしくはないらしい。しかし、ヤツ曰く、自分は魔法という技術を扱えないのだから、やはり魔法使いと定義することはできない、というのだ。

 それはおかしな話だろう、と私は思う。

 魔法を使えるから魔法使いなのであって、魔法を使えない存在を魔法使いとは、普通は云わない。この定義で云えば、魔法を使えないと公言する外園外縁は、慥かに魔法使いという定義からは漏れるのだけど、しかしヤツは、私の視点から観察すれば、やはり魔法使いとしか定義できない存在なのだ。

 魔法使いではない魔法使い。

 外園風に云えば、こんなところだろうか。

 空を飛ぶこともできなければ掌からビームを出すことも、ましてや肉体を強化することも外園にはできない。それはまさしく一般人の形でしかないが、しかしそれでも尚、私は外園を魔法使いと定義する。

 何故か。

 それは外園外縁という存在が、あまりにも逸脱しすぎているからだ。一般人として分類することは決してできない。一般人にはない力をヤツは持つ。

 特別な力。

 それはもう、大きな括りで魔法と見ても、私はぜんぜん構わないように思う。ヒトの力ではなしえないことをする力が魔法であるならば、やはり外園のそれは魔法なのだ。詠唱などなく、一目でそうと解る力では決してなくとも。

 二ヶ月前、私はヤツのその力で助けられた。

 そして、悔しいことに、今も。

 崩れた天井から降り立った外園は、私に視線を寄越す一方で、すぐ側にいる男を睥睨する。その視線は鋭い。まるで研ぎ澄まされた刀剣のよう。それでいて、しかし、常態の飄々とした雰囲気は身に纏ったまま、ヤツはいつもの調子で口を開いた。

「ふむ、風燕。存外に苦戦しているな」

「――存外って、あんたね、私はあんたと違って、二ヶ月前まで一般人やってたのよ。いきなりこんなバトル展開になって、当たり前のように対処できるわけないでしょ。いくらなんでも無理があるって」

 付け焼き刃の格闘経験しかない娘に何を期待する。しかもその格闘経験にしても、外園から教えられた怪しげな格闘術を一週間程度やったくらいで、習った身としても、ハッキリ云ってどれほどの効果があるのか正直疑問だ。それなのに、存外苦戦しているな、なんて言をよく口に出せるものだ。

 ふん、と鼻を鳴らし、外園はこちらに向けていた視線を切る。そうして次にあいつは、先ほどからずっと嶮しい眼差しでこちらを睨んでいた男の顔を、真正面から見据えた。一歩、外園は男の方へと近づく。こん、と乾いた跫音が周囲に響いた。まるでヤツ以外の生命すべてが活動を停止してしまったかのようなそれは、大胆なまでの静謐さ。きっと、空気ですら呼吸をすることを躊躇ったに違いない。

「大体のことは、上にいるヤツから聞いた」煙草をポケットから取り出し、それを口に銜えて外園は云う。「なかなか結構な理由で犬猫を殺していたようだな。器が小さいとはこのことだ。そんなに他人と何かを共有したかったのか? 莫迦らしい」

 俺には到底理解できんよ、と外園。

 他人と共有?

 どういうことだろう。どうして犬猫を殺すことが、他人と何かを共有すると云うことに繋がるのか、私にはさっぱり解らない。まさか死骸で作ったオブジェを他人と共有しているわけでもないだろうに。もちろん、可能性がまったくないとは云わないけど。

「――上の階にいた氷上はどうした?」

 フードの男が、震える声で問いかける。

「ん、ああ。あの絵に描いたような優等生のことか。彼なら、ほら、そこで蝉のように気絶している」そう云って、外園は崩れた落ちた天井の瓦礫を指さす。さっきは気付かなかったが、瓦礫の下に、詰め襟の学生服を着た男の姿があった。「ちょっと話をしていたらその途中で突然襲いかかってきてな。正当防衛として対処させてもらった。力はあったが、あまり荒事には慣れてなかったらしい。白旗を揚げさせるのに五分と掛からなかったよ」

「――俄には信じられねえな。けれど」男は瓦礫の下で伸びている学生服の男を見遣った。「あの氷上の状態をまざまざと見せつけられちゃ、部分的には信じるしかないな。ふん、けど、どうせ不意打ちで勝ったんだろ? でなきゃ、氷上と闘って勝つなんて芸当、絶対に無理だ。んなことはどうやってもできっこねえ。斃したのはホントだけど、どうせ汚い方法を使って斃したんだろ? 例えば、そう、背後から近づいていきなり襲うとかな」

「ほう。随分と悪く見られたものだ」

 心外だとばかりに嘆息する外園。

 しかし、ヤツならそれをやっても不思議じゃない。むしろ積極的にそれを採用しそうなところがある、と私なんかは睨んでいる。計略と策略。それは外園外縁がもっとも好むところだ。おそらくこの点に関しては、外園だって否定はしないだろう。なんたってヤツは生粋のサディストなのだから。

「しかし」外縁は眼鏡を押し上げる。「そんな狡い真似は、今回に限って云えばやってないさ。これは誓ってやろう。俺は正々堂々、正面から、その氷上とかいうヤツを相手にした。結果は見てのとおりだ。さっき云った五分、というのも誇張したつもりはない。真実、それくらいの時間でケリがついた」

「――やっぱり、信じられねえな」

「信じられないなら別にそれでいい。最初から信じてもらおうなどという気はないからな。それに、お前に信じてもらえなかったところで、俺に何かしらの不都合が発生するわけでもない」

「発生するだろ。自分の意が伝わらねえならな」

 苛立たしそうに、男は舌打ちする。

 それを見て、外園は息を吐き、肩をすくめた。

「莫迦か、お前は。他人に影響を与えようとする行為に意味があると、本気でそんなことを信じているのか? もしそう思っているのなら、早々にその妄想を棄却することを勧める。そんなものは、一片の価値もないくだらん幻想に過ぎん」

「くだらねえ、だと?」男の声が醜く歪む。

「ああ、くだらない。そもそも、他人に影響を与えようと自覚して行動する行為に、いったいどれくらいの意味があるというんだ。しかし、ふん、解らないからこそ、こんなことをしてるわけだな」

「殺すぞ、てめえ。莫迦にしてるのか?」

「何を聞いていた。最初に云っただろ、莫迦だと」

 瞬間、突風を顔に感じた。

 男の、胴を狙った蹴りによって生じた風だ。

 そう認識したのは、男の蹴りが外園に向けて放たれて暫く経った後だった。さっきまで数メートル先にいた筈なのに、いつの間に外園の正面に?

 向こうの動きをまったく知覚できなかった。

 さっきまでの攻撃とは勢いがまるで違う。

 今までは本気じゃなかったのか?

 もしそうなら、ゾッとする。

 正直、さっきまでの攻防は本当にギリギリのところだった。危うくという場面も少なくなかったほど。あの時に今の蹴りを繰り出されていたら、まず間違いなく防ぎきれなかっただろう。そのことを考えると、顔から血の気が引く。

 けれど――、

「ん――だと」

 そう呟く男の顔色は、私以上に悪くて。

「なるほど、なかなかいい動きだな」

 易々と攻撃を防いだ外園は、不敵な笑み。本当にいやらしいほど歪んだそれは嘲笑で。

「俺の蹴りが、まさか」

「まさか、なんだ?」嘲るように外園は云う。「自分の蹴りが絶対に当たると、そう確信でもしていたか? ふん、それこそまさかだ。この世に絶対というものはありはしない。それに、だ。お前の蹴りなど素人のそれに少し毛が生えた程度のもの。確りと相手の動きを観察していれば、こうやって防ぐことぐらい雑作もないことだ。もっとも、戦闘経験の少ない風燕からしてみれば、それでも十分に厄介だったようだがな。だが、俺には通用せんよ」

 男の顔はもはや蒼白を通り越して生気がない。それはそうだろう。自分の必殺の一撃を簡単に防御されてしまったのだから。外園はさも易しいことだったように云うけれど、私にはとてもそうは思えない。何せ、相手の動きがまったく見えなかったのだ。

 見えない攻撃を躱せる道理はない。

 向こうだって、きっと、外園に知覚できない程の一撃を放とうと考えていた筈だ。

 しかし、あっけなくそれは防がれた。

 おそらく、あれ以上の攻撃はもう放てまい。それは、圧倒的な化け物を見るような、絶望色に染まった男の憐れみに満ちた顔を見れば一目瞭然だった。

 もう、男には一片ほどの勝ち目もない。

「ふん、どうやら理解したようだな。自分には絶対的に勝ち目がないことに」男の顔を見て、外園は満足そうに頷く。「理解が早いのはこちらとしても助かるところだ。抵抗されると何かと厄介だからな。さて、俺はこのあと、お前の身柄を警察に突き出そうと思うわけだが、しかしその前に、少し訊ねたいことがある。知ってることを正直にすべて話せ」

 虚ろな視線を、男は外園に向ける。さきほどまで男の顔を隠していたフードは、先ほど蹴りを放った際に脱げていた。男はこちらの予想どおり若くて、パッと見た限りでは私と同年代くらいに見える。しかし、その顔立ちはこちらの予想と反して厳めしくはなく、どちらかと云えば、そう、可愛らしいと云った方が適切なほどだった。

 本当にこいつがあんな事件を?

 先ほどまで浮かんでいた疑問が、またぞろ浮上してくる。顔や雰囲気で判断するのは危険と解ってはいるけれど、それでもしかし、俄には信じられない。

「――何を訊きたいんだ?」

 男が掠れた声で訊ねる。

「なに、極めて簡単なことだ。お前のその力、いったいどうやって手に入れた?」

「俺の力?」

「その脚力のことだ。よもや、トレーニングでとは云わせんぞ。その歳でそれほどの脚力を得ることなど、通常あまり考えられないからな」

「――知らねえよ」

「最初に云った筈だ。素直に答えろと」

「だから本当に知らねえって」男は吐き捨てるように云う。「本当さ。気付いたらいつの間にか、こんな力があったんだ。別に何も変わったことなんてなかったのにだ。どうしてこんな力が宿ったのか、俺の方が訊きたいくらいだ。あんた、見たところどうやら普通じゃないっぽいよな。何か解らねえのか?」

「質問しているのはこっちだ。しかし、ふむ、突然か。てっきり風燕のケースと同じと思っていたが」

 どうやら現時点では違うらしい、と外園。

 私と同じケース。

?犬?と同等の存在の有無、か。

「結局は何も解らないわけか。ふん、ついでに原因の方も特定できれば良かったが、さすがにそう展開がいい方向に進むとは限らん、か。仕方ない」

 風燕、と外園が私の名前を呼ぶ。

 ヤツの右手にはいつの間に握られていたのか、銀製の針が。装飾の類は一切なく、持ち手の部分は赤い布でぐるぐる巻きにされている。実用向きというには、しかし、あまりにも無骨すぎる一品。

 ああ、やっぱり、やるのか。

 嘆息し、私は外園の隣に付く。

「さて少年。キミの身柄を向こうさんに渡す前に、一つ、やっておかなければならないことがある。ちなみに、このことに関する拒否権はキミにはない」

「あ? いったい何するんだよ?」

「簡単なことだ」

 云って、外園は私の右眼に針を突き刺した。

「お前のその能力、悪いが消去させてもらう」


      六、


「つまり彼は、何か一つのことに関して誰かと話をしたかっただけのよ」紅茶が注がれたカップを片手に、魔女さんは云う。「ここで気をつけなければならない点は、彼自身は世間から注目を受けたかったというわけではまったくない、というところね。彼の焦点は、あくまでも事件について誰かと話し合いたいっていう、要するに話題の共通だったわけ。だから、現場には犯人からのメッセジは一切残っていなかった。だって別に、この事件は自分が起こしたものだと主張したいわけじゃなかったからね。問題はあくまでも息の長い話題にすることで、だから彼は、猫の首を道路に配置したり、犬の死骸でモニュメントを作成したりして、事件それ自体がなるべく世間の注目を浴びるようにしたのよ。注目を浴びる事柄っていうのは、友達との会話の席でも話題に上るでしょ? 彼はそれを狙ったの」

「はあ、なるほど」私は頷く。

 そういえば、ひよりたちが家に来たとき、自然と話の流れがそっちにいったけ。好ましくないことでも印象が強ければ、どうしても話題に上りやすい。

「でも、えっと、一つの話題について話し合いたいから今回の事件を起こしたっていうのは、なんだか無茶苦茶な理由のような気がするんですけれど。私はまったく、なんていうか、その、共感はもちろんできなくて、理解もできないですね。どうしてそんなことするのかって疑問符が、頭の中をぐるぐる回ってる感じです」

 それに、何故、一つの話題を他人と語りあいたいのか、そこもよく解らない。事件を起こしてまでそんなことをして、いったいどうなるというのだろう。

 魔女さんは紅茶を啜った。

「慥かにあまり賢いとは云えない方法ね。けれど、彼にとってはそれがもっともいい方法に思えた。だからこそ彼は、今回の事件を起こしたのよ。己が正しいと盲目的に信じていなければ、今回のような事件は起こせない。私はそう思うわ」

 まあ、そう云われれば、慥かにそうかも、と思わないではない。第三者的視点が欠落してるから、暴走し、結果、行きすぎてしまうのだ。加えて、今回は下手に人間離れをした能力を持ってしまったが為に、誰ももヤツの凶行を止めることができなかった。パターンとしては最悪。結果、ヤツは百匹以上の犬猫を殺してしまうことになったのだから。

「でも、解らないなあ」

「あら、何が?」

「どうしてそこまでして、他人と一つの話題を話したかったのかがです」私は紅茶の水面を覗きながら呟く。「これもぜんぜん、想像ができなくて」

「そうか? 簡単なことだろうに」

 と、窓際で珈琲を啜っていた外園が云う。

 自分に視線が集まるのをたっぷりと数秒ほど待ってから、ヤツは口を開いた。

「誰かと何かを共有、共通したいという感情は、それほど珍しいものじゃないだろ。むしろありふれている。他人とコミュニケーションを取りたがっているんだよ、人間の大部分はな。ここで留意しなければならないのは、大事なのはコミュニケーションを取るという行為であって、その中身はこの場合それほど重要ではない、というところだ。例えばそれは、趣味の話であってもいいし、例えばそれは、今回の事件のようなセンセーショナルな内容であってもいい。今回の場合は、偶さか後者だっただけだ」

「ちょっと待って、今、整理するから」手を突き出しストップのジェスチャをする。そして外園の言葉を頭の中で反芻。「ああ、なんとなくだけど、解ったかも。慥かに、なんていうんだろ、そういう、コミュニケーションていうか、他人との繋がりっていうのは、私たちくらいの年代だと重要視されてるかな。授業中に携帯でメールのやりとりやってる娘とかいるけれど、つまりはあれと似た感じだよね。けど、うーん、やっぱり、魔女さんが云ったように、そのコミュニケーションを作るために事件を発生させるっていうのは、ちょっと賢い方法とは思えないなあ。第一、誰かとの共通の話題を作りたいなら、それこそやっぱり他に方法があったように思うし。別に犬や猫を殺す理由なんて、ぜんぜんないじゃんか。それにどうして息の長い話題を作ろうとしたのかも、ちょっと想像ができない」

「おそらくだが、息の長い話題を作ろうとしたのは、そうすればそうするだけその話題で盛り上がれると考えたからだろう。新しい事件が起きれば、また過去に遡って事件を語ることもできるからな。殺す対象や殺し方を変えたのは、こちら側を飽きさせない為だと推察できる。飽きられて話題にすら上らないようになってしまっては終わりだからな。前にも云ったと思うが、見せ物的要素が必要だったんだよ」

 ああ、と思わず口から声が零れる。

 慥かにそんなことを依然、外園の口から聞かされたっけ。今回のは見せ物としての犯罪だと。

「氷上とかいうヤツも、おおよそ同じような理由だったよ。ヤツは人々が事件について話しているという現象に喜悦を感じているようだった。方向性はあの男とは違うが、しかし種類としては似ている。まったく、とんでも能力を持ってる人間が複数いるとろくなことが起こらんな」

「あら、でも、それを云ったらこの場もでしょ?」

 魔女さんが楽しげに云う。

 ふん、と外園は肩を竦めた。

「そのとおりだ。だからろくなことが起こらん」

「あらあら。ま、実際、そのとおりだけどね」

 まったくもって。

 あと云い忘れたが、と外園。

「コミュニケーションを発生させるためにどうして犬猫を大量に殺したのか、というお前の疑問だが、おそらくそれくらいの大きな話でなければ切っ掛けが作れなかったんだろう。別にそれは、珍しいことじゃないさ。何か大きな話題がないと他人と会話もできない輩なんて、それこそ腐るほどいる。そう考えれば、案外、苦肉の策だったのかもしれんな」

「それくらいでしかって。そんなヤツには――見えないこともなかったけれど、でも、そんなことってありえる? 話題なんて沢山ありそうに思うけど」

「あり得るかあり得ないかの問題を語るなら、それはあり得るとしか云いようがないな。その人間の心のありようなんてものは、他人には決して解らない。それが親兄弟であろうとな。察することはできる。しかしそれは理解ではない。そういうことだ」

「あー、ちょっと待ってね」

 蟀谷に左手の人差し指を当て、考える。

 外園の云うことは、慥かに、そう、的の外れたものじゃない。他人の気持ちを慮ることはできるけれど、慥かにそれはヤツのいうとおり、その人間を理解しているという意味じゃない。それを考えれば、慥かに相手の雰囲気などからその人間の性質を理解しようというのは、まあ無理な話、か。

「うーん、慥かにあり得るかあり得ないかの議論をしちゃうと、結論はあり得るになっちゃうわね」

「そういうことだ」

「まあ、でもさ、事件がさっさと解決してよかったよ」テーブルの上のスコーンを、私は取る。「あのままの調子でいってたら、きっとあいつ、人間まで殺してただろうからね。さすがにそれは、ちょっと、動物と比べて洒落にならないしさ」

 もちろん、動物でも洒落にならないけど。

 外園は窓際から離れ、眼前のソファに腰を下ろす。脚を組んだその姿は、どことなく尊大だ。

「ふん、そのことか。しかし、結果はどうあれ、その心配は杞憂だったぞ風燕。あいつはどうも、最初から人間を殺すつもりはなかったらしい。少なくとも、あのとき、俺と対峙した時点ではな」

「えっ」一瞬息を飲む。「どうして?」

 どうしてそんなことが解る?

「あいつの攻撃」と外園。「胴体側部に対する回転蹴りだった。殺すと云っている割には、なんとも平穏な場所じゃないか。それに気力も迫力も、殺しにきてるにしては些か心許ないものだった。あれはな、最初から行動不能を狙った一撃だったんだよ。殺すつもりなど露ほどもなかった筈だ」

「つまり、殺すのは嘘ってこと?」

「ああ、ブラフもいいところだ。そう云っておけば、こっちがびびるとでも思ってたんだろう。向こうは俺のことを狡いと云っていたが、こっちから云わせれば向こうの方が何倍も狡いな」

「ああ――そうだったんだ」

 脱力し、ソファから滑り落ちそうになる。

 ただ粋がりたいがための嘘。

 その予想は当たっていたのか。

 紅茶を一口啜る。

 そして嘆息。

 事件は見事に解決したって云うのに、心の方はぜんぜん晴れそうになかった。


      ※    ※


 貫かれた右眼からはじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶと血が吹き出ている。とは云っても、それは私の血じゃないので、幾ら吹き出たところで問題はない。痛みもないから、まるで他人事のようにその現象を観察することができた。否、他人事のように、ではなく、真実他人事だ。この眼は私のものであって、私のものではないのだから。眼から吹き出る血は壁や床、そして天井を染め上げていく。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。まるで噴水のような勢いで、壊れた水道管のような激しさで。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。留まることを知らないその勢いは、宇宙へと飛び立つスペースシャトルのように。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。一分と経たない内に辺りは血の海地獄になって、目の前の男はその地獄絵図に解りやすいぐらい狼狽していた。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。出血は止まらない。それどころか、時間が経つにつれどんどんと勢いが増していく。じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ。ああもうどうしてこんなに血が流れているんだろうどうしてこんなに血が流れているのに痛くないんだろうそれどころかとても気持ちよくて気持ちよすぎて失神してしまいそうけれどそんなことは許されなくて私の意識は間断なく現実を見続けているいつの間にか目の前は本当に血の色一色に染まりきっていて男の姿は見えないああそうかきっとこの血の海の中にしずんでしまったのだろうじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶああいったいいつ流血は止まるのかと思っていると血の海から男がゆっくりと立ち上がるのが視界の隅に映ったどうやらまだ立ち上がるだけの気力が残っていたらしいああもうどうしてそんなにゴキブリみたいにしつこいのだろうこんなに気持ちがいいのにすっかり興が削がれてしまった邪魔だよお前とっとと膝を折れよ屈服しろよ斃れろよ邪魔なんだよなんだよその目は化け物を見るような目はお前は誰の許可をもらってそんな顔で私を見るんだああもう本当に邪魔だ排除してやるじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ眼から血を吐き出しながら私は男に突進してその体を血の海に押し倒すよく見ればまだ血は踝の所までしか溜まってなくて男を窒息死させるには少々心許ないだから私は右手で首を絞めて男を絞殺することにする右腕から流れる血は男の顔を綺麗に化粧して唇のとこはまるで口紅を塗ったようあらあら顔の造型はいいからまるで女形みたいよねおほほお前最高そのまま白粉塗って着物を着て夜の繁華街に出て行ったらどうかしらきっと女と勘違いしたお前を変態親父が買ってくれるかもしれないぞいやいやもしかしたら男と解った上でお前を買うかもしれないな考えただけで爆笑でもそんなことはさせないお前はここで死ね死んじゃえ死ねよお前なんて一片の価値もないんだからさとっとと死んだ方が環境に優しいよエコってやつだねお前が酸素を吸ってるなんて烏滸がましいんだよ二酸化炭素吐いてんじゃねえぞカスが地球温暖化って言葉知ってるか知ってるよなというわけで死ね息すんな私を見るなゴミ虫にすら蔑まれるような男が生きていたって何の意味もねえんだよ男の首を締める手に更に力を込めるじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶ男の顔は右腕の血で真っ赤と思いきやもはやその色は赤と云うより黒に近いななんて思ってると男がいきなりむせて口から血を吐き出したどうやら眼孔から流れる血が鼻から這入って気管の方に侵入したらしいごほっとまた男が咽せるそのとき男の唾が私の顔にお前何してくれやがんだよ首から手を離し男の顔を思い切り殴りつける右腕を思いきり振りかぶり左の頬を左腕を振り上げ右の頬を殴るその衝撃で歯が折れてまた私の顔に当たるああもう殺す絶対殺すお前が殺した犬猫のようにお前も殺してやる一つの躰を鏖にしてやるいいかよく聞けよゴミ虫お前みたいな糞野郎は社会に生きてたって何も生み出さないしむしろいるだけ邪魔なんだよ消費するしか芸のないヤツは駆逐されて然るべきなんだよだから死ねじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅぶさあもう一息で殺せるぞと思ったとき不意にヤツが暴れ始めたおい糞虫暴れるなそんなことを云うが聞いちゃいないみっともなく喚き暴れやがる黙れこの糞がと拳を振り上げ垂直に男の顔に叩き込むさっきまでの綺麗な顔はそれでもう台無しあははそれじゃあ男からも買われないなやっぱりお前は生きる価値のない塵屑だおい聞けよお前がどれほど暴れたって今の私には絶対に敵わないご自慢の蹴りも怖くはないよ本当さ嘘だと思うなら蹴ってみろほらほら痛くも何ともないぞ随分と非力になったじゃないかあははその顔マジ最高もしかしてお前私を笑い殺す気かなかなかいい作戦だと云いたいところだけどもう飽きた死ねよお前じゅぶじゅぶじゅぶじゅぶじゅじゅぶ死ね死ぬことぐらいしか価値ないんだからさ死ね。

「そのくらいで十分だ、風燕」

 トン、と首筋に衝撃を感じ、私の意識は血の海の遙か底へと沈んでいった。


      ※    ※


?犬?に咬まれて以降、私の右腕は義手だ。

 そして、抉られた右目もまた義眼である。

 見た目は普通の眼球とまったく変わらないし、元の眼と同じくらい違和感なくものを見ることができるそれは、まさしく魔法の義眼。けれど、それらの機能及び性能は、あくまでも義手を装着したことによる二次的な効果であり、一次的な機能はまた別の所にある。その一次的機能こそ、?犬?に咬まれたことにより発現してしまった能力の抑制だ。

 手に入れた能力は《デリート》とのこと。

 外園曰く、魔法使いが持っている魔力や能力といったものを、文字どおり消去させる力らしい。その有効範囲は私の視界が捕らえることのできる範囲すべて。段階を踏めば半永久的に能力を消去することもできる非常に稀有な力であるらしい。?犬?事件の際に命を助けてもらったという恩義もあって、私は時折、今回のようにこの能力を使って外園の手伝いをすることがある。能力の発現方法はいたって簡単で、義眼である右眼を抑制能力が発動できないほどに破壊すればいいだけ。本当にシンプルだ。ただ、いいことばかりじゃない。能力を発動している間は、その代償として理性や倫理観といったものが失われてしまう。何かを得て何かを失う。なるほど、物事っていうのは上手くできている。

 魔女さんの家を出て、家路を歩く。

 その途中で夕食の食材が尽きていたことに気付き、帰り道にあるスーパーに寄った。ちょうどタイムセールの時間帯でヒトが多い。籠を片手に精肉コーナのところまで来たところで、すぐ近くにいた主婦たちの会話が聞こえてきた。

「ねえ、奥さん聞きました? 実は――」

「あら、そうなの。そうだ、知ってます――」

 交わされ続ける言葉。その会話は実に他愛のないものだけど、しかし話題は尽きそうになかった。もしも時間という制約がなければ、本当にいつまでも話し続けていたかもしれない。私は観察することを途中で止め、他のコーナへと足を向けた。

「――やっぱり、理解はできないかな」

 誰に伝えるでもなくぽつりと呟く。

 まあいいさ。この世には理解できることの方が、ずっとずっと少ないのだから。



/end

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