前篇
【プロローグ】
少しばかり昔のことを思い返そう。
高校入学を明日に控えたその日の夜、私は一匹の犬と出会った。見たこともない犬種で、毛は短い。体長は二メートルくらいあって、動物好きの私でも少しどきりとする程。黒い毛並みが艶やかで、首輪こそしていなかったものの、一見して野良犬じゃないということが解った。野良にしては随分と小綺麗だったし、餌に困窮している風でもなかったからだ。
でも、そうなるとこんな時間に、それもこんな人通りのない路地で出会う意味が分からない。辺りを見回しても、この犬の飼い主らしい人の姿は見えなかった。首輪もしてないし、散歩の途中ではぐれたということも、あまり考えられそうにない。
もしかしたら、今まさに捨てられたばかりなんだろうか。もしそうなら、妙に小綺麗なのも理解できる。綺麗に毛繕いされた短い黒毛は、誰かの目に留まるようにと、この子の主人が最後に見せた優しさなのかもしれない。何とも自分勝手な飼い主だ。そんな同情心、犬にはまったく関係ない。
私は少し考えてから、さっきコンビニで買ったチーズのおやつを犬に差し出した。こんな同情心、ハッキリ云って私らしくないのだけど、何となくその日はそんな気分だった。気まぐれというヤツだ。
これから始まる野良生活、まあいいものばかり食べられるとは限らないのだから、餓死する前にいいのを食べておきなさい。
犬はひくひくと鼻を鳴らし、私が摘んでいるチーズの臭いを嗅いだ。別に毒なんて入ってないから安心なさい――と、まさにそう云おうとしたとき。
ぱくりと、犬が食べたのだ。
私の右肩から先の方を。
「――はい?」
その時は本当に何が起こったのか解らなくて、もし仮にちゃんと理解してたなら、泣き叫ぶとか咬み千切られた痛みにそこら辺を転げ回るとかの反応ができたんだろうけど、とにかく私は、ただただ唖然とすることしかできなかった。
えっ、嘘、あれ、私の右腕が、とかそんな感じ。
結局正しく理解できたのは、私の右腕を犬が乱暴に咀嚼している場面を見てからだ。これがまた、思い返してみると本当に美味そうに食べていたのである。最高級品のドックフードを与えられた犬だって、あんな反応はしないだろう。まあ、考えてみれば当たり前の話で、所詮、ドックフードはドックフード。直前まで生きていた新鮮なお肉には敵わない。
右腕を食べられたのだ、と気付いたときには、当たり前のことだけど、切断面からだくだくと血が流れていた。うわ、このままだと死んじゃう――なんて当たり前の心配を抱くのが、この場合、普通なんだろう。けれど、そんなことあまり気にならず、私は私の右腕を食べたその犬がいったい何なのか、そちらの方が遙かに気になっていた。
今、こうやってその当時のことを冷静に思い返せば、何とも莫迦なことに疑問を抱いたな、と思う。そんなこと気にせず早くその場から逃げようよ、と当時の自分に云ってやりたいほど。けれど、その時はその犬がいったい何なのか、そればかりが気になって仕方なかったのだ。きっと、その場の雰囲気とか、その時の私の感覚とか、そんなものが上手いこと混じり合って、感覚が麻痺したんだと思う。
とにかく右腕を食べられた。
それから向こう、私の右腕は義手だ。
それも、少しばかり普通のものとは違う特別性の義手。最初の方こそ扱いに四苦八苦したけれど、今となっては失ってしまった元の右腕と同じくらい扱えるようになった。否、元あった右腕以上に扱えるようになった、と云った方が正しいか。
まあ、そんなことはさておき、その時の私は、さっき右腕を食べられたばかりだというのに、その犬にまた近づいたのだ。こればかりは、莫迦な行動と非難されても仕方ない。実際、莫迦だと思うし。でも、その時はそんなことまったく考えてなかった。それに、右腕といってもかなりの量だ。食べるために襲ったんなら、もうこれ以上は襲われないだろうと、そんなことを考えて安心していたこともある。
結果から云うと、あまっちょろかったけど。
どうやら犬は相当にお腹が減っていたらしく、近づいてきた私に容赦なく襲いかかってきたのだ。鋭い爪によってばりっと皮膚が割け、ついでといった風に右の眼球も削られる。本当なら、やっぱりそこで叫び声を上げるのが普通なんだろうけれど、私はさっき同様、その時は叫び声も上げず、ただただ呆然とすることしかできなかった。
なんでだろう。
もしかしたらリアリティを感じられなかったからのかもしれない。だって、そうじゃないかな。深夜、コンビニ帰りに犬に食べられそうになりましたなんて、質の悪いギャグでしかない。そこにリアリティを持てという方が無理な相談というもの。
もちろん、今となって思い返せば、恐怖心を感じない方がおかしいとは思うのだけど。
まあともかくそんなわけで、私としては再び襲われた時点で、「あ、もう駄目かも。死ぬのかな」とか思ってたのだけど、こうして昔を邂逅できていることから解るように、何とか一命を取り留めた。
運が良かったとしか云いようがない。
もっとも、その所為でまたややこしいことに首を突っ込むことになったわけで。けれども、結果として命が助かったのだから、もうけものというところだろうか。命がなければ何もできない。
私が?犬?に襲われてから二ヶ月ちょっと。
屠ったはずの異形は種々の形で現れ、そしてまた新たな犠牲者を出し始めていた。
【 第一幕 咬む 】
一、
夏に向けて日差しが強くなってきた六月中旬。
文芸部員として多少の自覚を抱くようになった私は、素人であることを十分に理解しつつ、秋にある文化祭に向け、文芸誌を作るための準備をしていた。評論やポエムは難しいし性にあってないので、書くのは短篇小説と決めている。小説は読んだことはあれ書いた経験は一度もないので、その点は少し不安だけど、文芸部として看板を出している以上、やはりそういうものを発行しないと駄目だろう。
ただ、問題は山積みだ。
一つに部員が少ない。私を含め、文芸部の部員はたったの二名だ。その上、もう一人はとある事情で休学をしていて、実質私だけという状態になっている。一人だけで文化祭に発行する予定の文芸誌を作るとなると、これはもう大変な労力だ。けれど、部を名乗っている以上、やらなければならない。
そしてもう一つが、顧問の存在。普通、部員が私一人しかいない状況なら、顧問も二人三脚で部活をしていくものだと思う。というか、そうあるべき。だというのにあいつときたら、「俺は内容をチェックするだけだ。あとはお前がすべてやれ」と、いけしゃあしゃあに返しやがって。
「あいつ、本当に教師か?」
思わず、そんなことを独り呟く。
場所は部活棟にある文芸部の部室。
私は机に向かい、これまで文芸部が出していた文芸誌を読んでいた。書くにしても、まずはこれまでの前例を読まないことには始まらない。
文芸部が出している文芸誌『蔵然』は、なかなかの出来で、内容やデザインも含めて、とても高校生が作ったものとは思えないものだった。主な内容は書籍の批評やコラム、それに小説など。殆どが文字で構成されていて、挿絵や写真の類は殆どない。
内容も文句なく面白い。けれど、これに興味を持つ高校生がいったいどれだけいるかというと、まあ、ぶっちゃけ少ないだろう。小説よりは漫画、漫画よりは動画だ。わざわざ文字だけの媒体を読むなんて、私たちくらいの年代じゃ圧倒的に少ない。
今の文芸部の状態は、少なからずそこに原因がある。こんな凄い文芸誌を作ったって、読む人がいなければただの紙の束にすぎない。文章を読むというのは、それだけマイナなことなのだ。
とはいえ、やはりこれだけのものを作れるのは凄いな、と思う。文芸誌の厚さは二センチほど。コミックス二冊分くらいの厚さだ。これを年三回も発行していたというのだから、当時の文芸部にどれだけレヴェルの高い人材が集まっていたのかが窺える。
それが今や廃部寸前の人数。
栄枯衰退とは正にことのことか。
別に私は、もう一度文芸部を立て直そうとか、そんなことはまったく考えてないし、また興味もない。ただ、文芸部員として文芸部に所属しているのだから、これまでどおり文芸誌を出さなければ、と思うだけだ。もちろん、私一人で年三回も発行することはできないので、今年は文化祭の時のみ発行する予定なのだけど。
つまりは義務みたいなもの。
同情心は、多分ないと思う。
読んでいた文芸誌を閉じ、部屋の隅にある冷蔵庫までのんびり歩く。そこに飲み物が常備されているのだ。冷蔵庫自体は学校の備品だけど、中にある飲み物はすべてこっちの私物。ばこ、と間抜けな音を立てて冷蔵庫の扉を開けると、中にはミネラルウォータのペットボトルが数本あった。それ以外は何も入れない方針になっているのだ。
未開封のものを取りだし、扉を閉める。ペットボトルの封を開け、席には戻らず、その場で一口飲んだ。うーん、相変わらず美味しいじゃないか。
大体三分の一ほど飲んで、さあまた続きでも読むか、と思ったとき、不意に部室のドアが開いた。そちらを見て、そして次の瞬間、私は顔を顰めた。うげ、もっとも来て欲しくないヤツが来たな。
「露骨だな、風燕」そいつは無表情にそう云う。「もう少し顔に出さない訓練というものをした方がいい。ストレートに感情を顔に出すと反感を買うぞ」
「心配しなくても結構。私、あんた以外にこうやって苦々しい顔をすることなんてないから」
「ふん、特別扱いと云うことか」
「悪い意味でね」
「特別扱いには変わりない」
そう云って、外園は奥のソファに腰掛けた。
どこまでポジティブシンキングなんだ、この男。
いや、というより、解った上での発言か。
まったくもって、嫌らしいことこの上ない。この男はどうも、人の神経を逆撫ですることに関して天才的なのだ。律儀に付き合ってたら、こちらの精神が擦り切れてしまう。
文芸部顧問、外園外縁。二十七歳、性別男。性格は最悪。けれど、モデルですら裸足で逃げ出す顔と体型、そしてこれまた天才的な猫かぶりによる人当たりの良さから、周囲の人間からの評価はすこぶる高い。それは生徒側からしても例外ではなく、まだ入学して二ヶ月強くらいしか経っていないというのに、私のクラスにもこいつのファンがいるほどだ。
まあ、慥かに顔と背格好だけはいい。
悔しいけど、それだけは認めるところだ。
灰色の髪に、彫りの深い、けれど整った顔立ち。顔には黒いセルロイドの眼鏡をかけている。それがまた妙なアクセントになっていて、顔の印象をいい方向に際だたせているのだ。くそ、まったくもって忌々しい。どうして神様はこんなやつに上等な顔を与えたんだろうか。訊ねられるのなら訊ねたい。
「なんだ、妙に機嫌が悪そうだが?」
「あんたの顔を見たからよ」こいつの顔を見て機嫌が良かったことなんて、これまで一度もない。「ねえ、あんたもやっぱり少しは手伝ってよ、文芸誌作り。チェックだけ自分でして、あとは素人の私に全部やらせるっていうのは、やっぱり無理があると思うんだけど。指導をするのが顧問でしょ」
「サンプルがあるだろ」
「これのこと?」私は文芸誌を手に取った。「そりゃ、ないよりは断然マシだけどさ、これだけじゃさすがに無理でしょ。文章を書くことくらいはできるけど、内容が伴ったものを書けるかはまた別問題だし。それに、どうやったらこういう風に綺麗にレイアウトできるのかぜんぜん解らないんだけど」
「解らないなら学べ」
ピシャリと云うな、この男は。
「あんたは教えてくれないわけ?」
「当たり前だ。俺は別に、風燕が文芸誌を出さなくてもぜんぜん困らんからな。部員が一人しかいないんだ。例年のように文芸誌を発行できなかったとしても不思議じゃない。むしろ、出せんのが普通だ。俺からすれば、どうして風燕がそこまで拘るのかがよく解らん。休刊では駄目なのか?」
む、それを云われれば慥かにそうなのだけど。
私は腕を組む。さて、どうやって説明したものか。
「うーん、単純に、私で止まるのが嫌なわけよ」そう、それが一番強い理由だろう。話しながら考えるのは昔からの癖だ。「だってさ、今年まではずっと文芸誌をコンスタントに発行してたわけでしょ? それを私で止めるっていうのは、ちょっと具合が悪くてさ。ま、端的に云えば気持ち悪い」
「なるほどな、解りやすい理由だな」
「――なによ、その小馬鹿にしたような云い方は」
「別に。特に意味はない」
あるだろ、ふんだんに。でなくちゃ、そんな腹立つような云い方はできないぞ。くそ、相変わらず言葉だけじゃなくて抑揚や視線で人を莫迦にして。
思わず、心の裡で嘆息する。
こいつが命の恩人だというのが、本当に、人生における最大の汚点のような気がしてきてならない。
恩義はちゃんと誠意を持って返すのが礼儀だし、そうするべきだとは思うけど、こいつだけは例外として扱ってやろうか。こいつの人を小馬鹿にした顔を見てると、それも許されるような気がしてくる。
「ふむ、また失礼なことを考えているようだが、まあいい」外園はそう云うと、スーツのポケットから封筒を取りだし、私に差し出した。「残念だが、暫く文芸誌作りは中止だ。奇怪なことが起きてるぞ」
「なに、これ?」
意識的に顔を顰めながら、差し出された封筒を受け取る。開けると、中には紙が一枚だけ入っていた。それに目を通す。内容自体は簡潔で、読むのに五分と掛からなかった。ただ、あまり愉快な内容とは云えないものだったけど。
「一時的に全クラブの活動を休止にする、ねえ」
つまり放課後にクラブ活動をするな、という学校側からの通達だ。本日作成されたばかりのものらしい。今日は遅くとも五時までには部活動を終えて下校するようにとの指示が、ご丁寧にアンダライン付きで書かれている。また見出しのとおり、明日以降は放課後のクラブ活動を暫くの間休止するとも。
「どうしてそうなるか、覚えはあるだろ?」
「ええ、そりゃまあ。有名な話だからね」
ことの始まりは一ヶ月と少し前。
最初は猫だった。
私が通っている宮蔵高校の通学路に、猫の屍体が転がっていたのだ。この文面だけでは、まあトラックにでも轢かれたとかのかな、とか、衰弱死でもしちゃったのかな、なんて想像が膨らむかもしれないけれど、事実はまったく違う。
その猫の屍体には、在るべき四肢が欠けていた。
ナイフのような鋭利なものですっぱりと。まるで初めからなかったかのような鮮やかさで、切断されていたのだそうだ。そのあまりにもグロテスクで、かつ猟奇的な猫の屍体は、たちまちこの界隈のトップニュースとなった。地方のテレビ局も取材に来たほどで、不謹慎な云い方をすれば、ちょっとしたお祭り騒ぎ。うちの学校の生徒も、何人かテレビのインタビューに答えていたらしい。
けれど、そのお祭り騒ぎも長くは続かない。お祭りは、いつか終わるのが解っているから、あれほどまでに盛り上がれるのだ。終わりがないお祭りなんてものは、ただの地獄でしかない。最初は誰しもがこの一件で終わりだろうと思っていた――正確に云えば思いたかった――けれど、一週間も経たないうちに、また次の事件が起きることとなる。
最初の事件から僅か三日後、また事件は起きた。
今度の標的はまたしても猫。
けれど、今度は四肢じゃない。頭部だ。といっても、頭だけを切断させられた屍体が転がっていたわけじゃない。その逆。猫の頭部だけの屍体が、宮蔵高の生徒たちがよく使う道に転がっていたのだ。
それも一つじゃない。
二つ、三つ、それとも飛んで五つ分?
いやいや、そんなもんじゃない。都合、三十匹分の猫の頭部が、道路に鎮座していたのだ。それもただばらまかれていたわけじゃない。三列に別れて十匹ずつ、測量でもしたかのように、ちゃんと等間隔になって綺麗に並べられていたというのだ。
ばらまかれているより、綺麗に並べられている方がずっと気味が悪い。外園はそれを、「人間の手がやったことだという事実を、嫌でも理解させられてしまうからだろうな」なんて分析してたけれど、なるほど、外園の考えに同意するのは誠に遺憾だけど、しかしこればかりは賛同しなければならない。猫の頭部を測ったように地面に整列させることができるのは人間だけだ。理性のない化け物には絶対できっこない。人間に嫌悪感を抱かせるオブジェを作れるのは、やっぱり人間だけなのだから。
さて、たった一回だけ猫の屍体が出たのならともかく、ここまで異様なことが起きてしまった以上、全国区のニュースにならないわけがない。すぐにテレビ局が駆けつけ、取材合戦が始まった。警察も会見を開き、犯人を必ず捕まえると鼻息を荒くするほど。この事件に対する世間の注目度は高まった。
けれど、今日に至るまで犯人は捕まってない。
どころか、被害はどんどん増えるばかり。
さすがに猫の屍体を三十匹分ばらまくような、そんな大きな事件はなくなったけれど、小さな事件はコンスタントに続いている。猫はもちろんのこと、犬、鳩、鴉など被害は増えた。四日以上開けることなく、動物の屍体は増え続けているのが現状だ。
市民は事件を一向に解決できない警察を批判して、マスコミはコンスタントに続く事件を面白おかしく報道している。ホント、冗談みたいな状況だ。
もう、今日までで何匹の動物が殺されただろう。今のところ、ペットは殺されていない筈だけど、これから先はどうなるものか知れたものじゃない。ペットを飼っている御家庭は、かなり神経をすり減らしていることだろう。
まあ、けれど、危機を感じなければいけないのは動物だけじゃない、と思う。人間だって、いつ狙われるか、それこそ知れないのだ。犬や猫と人間は違う。けれど、大きな括りで見れば動物の範疇だ。狙われたとしても、まったく不思議じゃない筈。
だから、突然の部活休止令にしても、こっちとしてはあまり驚かなかった。むしろ、少し遅いくらいだと感じていたほど。なんというか、どうにも対応が遅いんじゃないの、みたいな。まあ、これまで人間が狙われたケースはまったくなかったのだから、これくらいが当然なのかもしれない。
でも、どうして今更、このタイミングで部活休止の令が出されたのか、という疑問がないわけじゃない。出すのなら、そう、猫の首事件の直後でも十分よかった筈だ。あの事件からも一ヶ月近く経った今に部活を休止する理由が、どうにも解らなかった。
やっぱり、まだコンスタントに事件が続いてるのが理由なのだろうか。けれど、その場合にしたって、拭い去ることのできない疑問点がないわけじゃない。
「ねえ。もしかして、一ヶ月前にあった猫の首事件に似たような事件が、また起きたわけ?」
それなら、こんな今更過ぎるお達しが出たことにも、納得ができるというもの。
そのとおり、と外園は私の疑問に答えた。
至極つまらなそうに。
「まったくもってそのとおりだ、風燕。また起きたんだよ。今まで腰の重かった学校側が漸く動くほどの事件がな。もっとも、今回の事件の被害は猫じゃない。犬だ。全身を六分割にされた犬が発見されたんだよ。それも三体も同時にな」
「ふうん。犬が六分割に――ね」
多分、私の声は若干固くなっていたことだろう。
二ヶ月前のこととはいえ、まだ犬に対する名状しがたい感覚は、澱として心の底に沈殿している。
「ああ。前足と後ろ足、それに胴体と頭、合わせて六個のパーツに分解したそうだ。発見されたのは近くの河川敷、橋桁の下だったらしい。三体とも野良犬らしいが、どれも大型の犬種だったそうだ」
「なるほどね。それで休止なわけだ」
「野良で弱っているとはいえ、大型犬が無惨に殺されたわけだからな。それも三体も同時に。学校側としては、生徒の安全を蔑ろにするわけにはいかんだろ。些か遅いが、部活動の休止は仕方あるまい」
「へえ。なんか、教師っぽい発言だね、それ」
こいつにしては、なんともまあ普通な意見だ。風邪でも引いて、頭の中の回路でも壊れたのかもしれない。もしそうなら、思いっきり歓迎したいところ。
ま、そんなことないんだろうけど。
希望的観測なんて虚しくなるだけだよね。
その証拠に、ヤツはやっぱりお得意の、人をどこか小馬鹿にするような厭らしい笑みを浮かべた。
「心外だな。俺が教師らしくないと?」
「まあ、私の心証では」
別に教師らしくない行動を目立って取っているわけじゃない。むしろ、他の先生より、こいつは真面目に教師を装ってる。けれど、それはあくまで私以外の人たちに対して。変なところで秘密を共有してるからか、私に対しては別扱いをしているのだ。
別扱い。
特別扱い。
つまり、お互い様というわけか。
「それにしても、ふうん、犬が六分割に、か。うぇ、現場を想像しただけで気持ち悪いな、それ。いや、うん、気味悪い具合でいったら、一ヶ月前の猫の首事件の方がよっぽど気持ち悪いんだろうけど」
「犬の四肢でオブジェを作成したらしいが?」
「訂正。今回のが気持ち悪い」
動物の屍体でオブジェを作るなんて莫迦か。少なくとも、今の日本に住む人間の良識と常識からいって、その行いは狂気の沙汰だ。けれど、多分、あれなんだろうな。作ってる側からすれば、きっと、酷く真面目にやってることなんだろう。じゃなきゃ、んなグロテスクな作品は作れない。
「ていうか、なによ、オブジェって」
「さあな。俺が聞いた話では、何とも形容しがたいものだったらしいが。しかし、大事なのは何を作ったか、ではなく、どうしてそれを作ったのかだ。所詮、形は理由から作られた二次的なものに過ぎん」
「二次的なもの、ね。ま、慥かにあんたの云うことにも一理あるかも。けれど、そう、それとは別に気になるのが、人間の心理ってものじゃないの? 少なくとも私は、ちょっと興味あるかな」
「呻いていた割には剛胆な意見だな」
「怖いもの見たさなのかもね」
けれど、得てしてそういうものは、見たあとに後悔をするものだ。こんなことを云っている私も、実際にそれを見たら、見るんじゃなかった、と思うに違いない。ま、だからこそ後悔なのだけど。
外園はポケットから煙草を取り出すと、それを口に銜えた。火は点けない。部室棟は全館禁煙だ。
「ま、見たいというなら俺は止めんさ。ネットで検索すれば、すぐに画像が見つかるだろ。だがな、聞くところによれば相当にグロテスクらしいから、見るのならそれなりの覚悟をすることだな。なんでも、暫くは肉を食えなくなるらしい」
うっ、それはちょっと嫌だな。別に肉が好きってわけじゃないけれど、ベジタリアンということでもないし。それにしても、そうか、そんなにすごいものなのか。うーん、やっぱり見るのは控えようか。
「にしても、さ。私にはぜんぜん解らないな」
「ん、何がだ?」
「だから、そういうのをする思考が」外園が座っているソファの真向かいにある、色違いのソファに腰を下ろす。「犬の死骸を使ってオブジェを作ったり、猫の頭を綺麗に整頓する、その思考がね。何でそんな発想ができるんだろ。私には、なんだろな、つまり、普通に生活をしていたらそんな発想はでてこないんじゃないかって、そう思うわけよね」
「ふむ、なるほどな。それは慥かに、真っ当な意見だろうよ。だがな、風燕、そもそもそういうものは、実際にそれを行っている本人にしか解らんことなんだよ。俺たちにできるのは、精々が分析と見当違いな共感くらいで、理解はほぼ不可能に近い。仮に、自分は他人の思考を理解できている、と云っている人間がいれば、それはほぼ十全、勘違いだ」
「絶対に勘違い、とは云わないんだ」
「絶対はないからな」
まあ、それもそうだ。
絶対なんてものはない。
「必要なのは理解ではない。そんなものは不要だ。考えなければならない方向は、いったいどうしてそれをしたのか、だ。行動によって結果が生まれる。結果とはつまり目的だ。それが目に見える形のものなのか、はたまた目に見えない形のものなのか、それは個々のケースに異なるがな。もっとも、行動それ自体が目的と化している場合も、あるんだが」
「はあ」と生返事をする私。
残念ながらよく解らん。つまりこいつは、犯人がどうして犬の死骸でオブジェクトを作ったのか、それを考えるのが最重要事項だと、そういうことを云いたいのだろうか。そこから犯人が求める結果、つまり目的が解れば、犯人の確保に繋げられると。
私は一口ミネラルウォータを飲み、喉を潤わせる。
よし、この際だ。一連の動物殺傷事件について、いろいろ訊いてみようじゃないか。どうせこいつのこと、事件のことをこそこそ調べてるに違いない。
「ねえ、外園。ちょっと二三、訊きたいことがあるんだけど。当然、こんなところで暇そうにしてるんだから、こっちの質問に答える時間はあるわよね?」
「ふん、直接的に云っているようで、無駄に迂遠な訊ね方だな。まあ、しかし、暇であることは慥かだ。ふむ、俺はこれでも生徒から信頼されている教師だからな。生徒からの質問には確りと答えよう。それで、何を訊きたいんだ? カードの暗証番号とスリーサイズ以外なら答えよう」
「スリーサイズなんか死んでも知りたくないわっ!」
いったい何処の世界に、男のスリーサイズを知りたい女子がいるというのか。いや、まあ、絶対ということはないのだからいるのだろうけど、それほど多くはない筈。というか、そうであってほしい。
ちなみに、暗証番号は、ちょっと知りたいな。きっとこいつのことだから、どうせ男子中学生が喜びそうな、くっだらない番号なんだろうけど。
「こっちが訊きたいのは事件のことよ。あんた、どうせ、この事件についてちょこまかと調べてるんでしょ。ならちょっと教えてよ。一応、地元で起きてる事件だし、なにも知らないのは危険だと思うわけ。生徒の安全を確保する意味でもさ、教えてよ」
「嫌らしい攻め方だな。俺はマゾヒストじゃないんでそんな攻め方に喜悦は感じんが、ふむ、まあ、生徒の安全意識を高めるためなら仕方がない、か。それで、風燕、具体的には何を訊きたい?」
「うーん、そうね。まずはさしあたり、その犬の話から。何たって、それで部活動が休止することになったんだから、やっぱり関心度は一番高いわよ」
「なるほどな。しかし、俺もまだそれほど情報は持ち合わせていない。解っているのは犬の屍体が三体出てきたこと、それぞれが六分割され、それを使った奇妙なオブジェができたというくらいだ。場所は、さっきも云ったが美祢川の河川敷、橋桁の下だよ。発見したのは昼頃。発見者は犬の散歩をしていた近所の主婦だ。解っているのは、このぐらいだな」
「いや、今日の昼に発覚した事件にしては、かなり調べられてると思うけど。というか、どうしてそこまで知ることができたのか、不思議で仕方ない」
私の記憶に違いがなければ、外園は慥か、午後はずっと授業をしていた筈。当然、授業中に事件のことを知ることはできないから、放課後の短い時間の間に調べたことになる。速すぎだろ。
外園は神妙に、ふむ、と頷いた。
「それなら機関は簡単だ。知り合いに情報通がいてな、そういう、きな臭い事件が起こったら、逐一、携帯にメールを入れるように頼んでいる。早い話がメールニュースみたいなものだ。大抵の情報は、これのおかげですぐ得られるようになっている」
「へえ、そうなんだ」私は頷く。
蓋を開けてみればなんてことはない、極々ありふれた情報の取得法だ。驚きがない。
にしても、携帯のメール、か。こいつなら、もっとそれっぽい連絡手段を持っていても、まったく不思議じゃないように思うのだけど。ふうん、意外と文明の利器に頼ってるんだ。
「ふん、俺たちだって普通に携帯電話くらい使うさ。パソコンも当然のように使う。勝手なイメージで機械音痴と思うのは止めてもらいたいものだな。ああいうのは漫画やアニメの中だけだ。良くも悪くも現代の科学技術に毒されているんだよ、俺たちは」
こっちの云いたいことをずばり読み取った外園は、抑揚のない平坦な声でそう云った。
なるほど、慥かにイメージ先行だったのは否定しきれない。けれど、それはこいつの特性と属性上、どうしたって仕方のないことだろうに。
ま、どう云ったところで所詮は言い訳か。
なら、この件に関しては口を噤もう。
「あとは、そうだな、お前が知っている以上のことを俺が知っているとは思えん。目撃情報がないからな。どうしたって知ることができることに限りがでてくる。強いて云えば、この事件は限りなく、こちら側の範疇にある事件だと、それくらいだな」
「いや、それが重要じゃん」
あまりにもあっさり云ったけど、それが一番、重要なことだろ。むしろ、私はそれが聞きたかったのだ。どうもこいつの判断基準が解らない。
「でも、うん、予想はしていたけど、やっぱりまた、そういう関係の事件なんだ」
「気付いてたか。まあ、しかし、こうも立て続けに事件と遭遇していれば、嫌でも感づくか」
別に好きこのんで遭遇しているわけじゃない。けれど、慥かに外園の云うとおり、二ヶ月前に?犬?に襲われてから、どうもそういう、一筋縄ではいかない事件に遭遇したり巻き込まれたりすることが多くなった。一度でも異常なことに巻き込まれたら、その後も巻き込まれ続ける、なんてことはアニメや漫画でよくありがちなことだが、つまりはそういうことなんだろうか。だとするなら、あまり歓迎したくない状況だ。人間、何事もなく暮らせていけば上々だというのに。残念ながら今の状態では、それを望むことは難しいのかもしれない。
とりあえず、外園には他の事件のことも一応話してもらったけれど、最初にヤツが断ったように、私が知っている以上の情報は何一つ出てこなかった。
不気味な、というよりは気持ち悪い事件なので、できることなら早々に解決してもらいたい。外園の言に拠れば、こういう事件を専門的に捜査するチームがあるらしいので、彼らの活躍に期待したいところだ。ここ最近はどういうわけか、私や外園が厄介な事件と接触をし、解決することが多かったけれど、やはりそういうのはプロがやるべきだろう。ごく普通の女子高生と、あまり普通とは云えない高校教師がやることじゃない。それはもう、間違いなく。
「でも、そうなると、事件がちゃんと解決するまでは、文芸誌作りは家でやらなくちゃならないのよね」
はあ、と大げさではない溜息を吐く。
家でその作業は、果たしてできるのだろうか。
「ほう、さっきまで文芸誌作りに熱意を燃やしていたとは思えん発言だな。吹奏楽部のように場所や機材が必要なわけじゃあるまいに」
「いや、そりゃそうなんだけどね」
外園の云ってることはいちいちこっちの癪に障るけど、概ね正論だ。慥かに吹奏楽部に比べれば、こっちは実際、家でも十分できる作業である。読むにしろ書くにしろ、特別な機材はなにもいらない。最低、紙と鉛筆があれば、それでいいのだから。
けれどなあ。家の場合、ここと違って問題がある。
まあ、些細な問題ではあるのだけど。
「実は最近、うちのアパートの前、工事してんのよ」
なんでもマンションの修繕工事らしく、足場まで組んで本格的にやってたりする。夜は工事がストップするからそれほど問題はないのだけど、昼間はもう相当に喧しい。大体六時にはその日の工事が終わるからいいけれど、部活がこれからできないとなると、大体二時間は工事の音に悩まされることになる。
つまり、ふがいないといえば実にふがいないわけだけど、その工事の音がうるさくて集中できない、というわけだ。その点、この部室は、外園がいることさえ除けば、実に理想的な環境といえる。壁は防音仕様だし、外園も、こちらから話しかけなければ殆ど黙っているし。ときとして静寂は何よりも尊い。
「ま、そういうわけでね。こりゃ、静かな場所を探さないといけないなあ、なんて思ってるわけ。私ってば、音にはちょっとばかし敏感な方だから」
「なるほどな。慥かに喧しければ集中力は欠く」
「あ、そこは賛同してくれるんだ。あんたのことだからてっきり罵倒するもんかと思ったけど」
「人に優しくするキャンペーン中だ」
「――――」
どんなキャンペーンだ。いや、意味としては解りやす過ぎるくらい解りやすいけれど、わざわざキャンペーンの形を取るほどのことだろうか。あと、できることなら長く続いて欲しいものだけど、きっと凄く短いんだろうな。十分後には終わっていてもおかしくなさそうな感じがする。
「優しさついでだ。なに、先ほどは袖にしたが、暫くは部活もできんことだし、少しくらいは文芸誌の中身についてアイデアを出してやろうじゃないか」
「あっ、ホント? それは素直に嬉しいな」
さっきも云ったが、この風燕くるみ、文字書きに関してはずぶの素人だ。アイデアを出してくれるというのなら、素直にそれに縋りたい。溺れる者は外園外縁すらも掴み、そして利用する。
外園は、そうだな、と云って顎に手をやり、暫く天井を睨んだ。それからゆっくりとした所作で、こちらに視線を戻す。その瞳は研ぎ澄まされた日本刀のよう。おお、これは期待できるんじゃないか。
「どじっ娘メイドの奮闘記、という小説はどうだ?」
「期待した私が莫迦だったっ!」
なんだ、その、いかにもライトノベルの新人賞一次審査にも通らなさそうな駄目駄目なタイトルは。そもそも、どじっ娘にメイドが務まるわけがないだろ。失敗ばかりのメイドがいたら、そいつは確実にクビだ。萌えで何でもカヴァーできると思うなよ。
「ふん、ならばこれはどうだ。メイド戦隊ゴメイドジャー。児童向け小説だ。ジュブナイル小説」
「そこはかとなくインモラルな雰囲気が漂ってるわっ! だいたい、それ、児童向けじゃなくて大きな児童向けでしょ! ハードル高いつーのっ!」
「なら、魔法メイドパリキュ――」
「女子児童対象でも駄目っ! てかメイドからいい加減に離れろ、この莫迦外園っ!」
確実にどっちも日曜朝から放送できる内容のタイトルじゃないだろ。良くて深夜枠、悪ければ企画段階でぼしゃりそうだ。多分、イベントとか開いたら、それこそ大きなお友達しか来ないんだろうな。
というか、あんたがメイド好きなのはもう痛々しいほど知ってるから。契約違反とはいえ、メイド服を着せられたときのあの屈辱は、トラウマとして今も生きているぞ。くそ、写真まで撮りやがって。
「ああ、もう、あんたの助けはやっぱりいらない。少なくとも、そんなメイドメイドいってる間はね。なんか、ろくなものができそうにないから」
「残念だな。もう原案も考えたんだが」
「――――」
変態だ。
真性の変態がここにいる。
「なんだ、風燕。心なしか憐れむような視線を向けられているような気がするが?」
「いや、うん。なんていうか、あんたみたいな大人には絶対にならないでおこうって。あ、そうか、なるほどね。あんたやっぱり教師に向いてるわ」
ただし、反面教師としてだけど。
「ふん、当たり前だ。俺ほど教師に向いている人間は、そういないだろ。品行方正、性格も良くて教え方も優れている。同僚や上司、それに生徒からの受けもいい。誇っていいぞ、風燕。今どき、こんな教師が担任だというのは稀有というものだ」
「――まあ、あんたの本性を知らない人間からすればそういう評価が下るのは確実なんだろうけど、でも、それを評価される側が云うと、途端に嘘くさくなるのは、不思議と云えばとても不思議よね」
外面だけは、ホンットにいいからな、こいつ。
そこだけは評価してやってもいいかもしれない。
「ああ、もう。内容については私が考えるからさ、そうね、どこか静かに落ち着ける場所知らない? ここくらい静かでなくてもいいからさ。もちろん、本を読めるところでね。文芸誌まだ読んでないし」
膝の上に置いていた文芸誌を、私は手に取る。厚さが厚さなだけに、まだ半分も読めていない。三日前から空いている時間を使ってはちまちまと読んでいるのだけど、この前やっと二本目の小説を読み切ったばかりだったりする。まだまだ先は長い。
ふむ、と外園は頷き、また天井を仰ぎ見た。
さっきがさっきだけに、今度は期待をせず、どころか警戒心を持って、外園の一挙手一投足を注視する。さっきはメイド押しだったから、今度はメイド喫茶とでもいうつもりかもしれない。まあ、落ち着けないことはないのかもしれないけれど、女の私が行くのは、なんだか違和感があるような気がする。
「思ったが、図書館では駄目なのか?」
外園は気怠そうな視線をこちらに寄越し、云った。
思ったより常識的な意見。
いや、というか、これが本来普通なのだけど。
私は腕を組み、「それがね」と口を開いた。
「図書館は私も考えたんだけど、間の悪いことに、こっちも補修工事中なのよ。下手するとうちの前の工事より長引きそうな感じで、まあ、だからこそ困ってるんだけどさ。静かな、っていう点では喫茶店もいいんだけど、いかんせんお金が掛かるし」
一人暮らしの貧乏学生にとってお金は貴重な存在だ。生命線、と云ってもいい。文芸誌を出す意欲はかなり高いと自負できるけど、そのために自分のお金を捻出できるかというと、残念ながら否である。
というか、喫茶店の飲み物が高すぎるんだ。まああれは、場所代も取っての値段設定なんだろうけれど、それでもなあ。高いよなあ、あれは。
「なるほどな。しかし、風燕。お前、それなら一つ、うってつけの場所があるだろ」
「うってつけの場所?」
云われて、少し考える。
はて、そんなところ、果たしてあったっけ?
「魔女のところだ」こっちが答えを出す前に、外園は早々にその場所を口にした。「あそこなら大抵の場合、静かだろ。仮に騒音の元が近くにあったとしても魔女のことだ、防音を施しているに違いない」
「ああ、そうか。魔女さんのところね」
魔女。
文字通り、魔法を使う女。
二ヶ月前、外園が?犬?から私の命を救ってくれたように、彼女もまた、そのとき私を助けてくれた。云うなれば恩人の一人だ。幾ら礼を云っても云い足りない、尊敬する人。なるほど、慥かに彼女の屋敷なら、少なくとも騒音に悩まされることはない。
「けれど、それって迷惑なような気が」
究極的に云ってしまえば、今回の件は完璧に私の我が儘だ。それなのに、魔女さんをその我が儘に付き合わせるというのは、二ヶ月前に迷惑をかけた手前、ちょっと、否、かなり頼みにくい。
恩を仇で返すような、そんな感じがする。
けれど、外園はそんな私の考えを一蹴した。
「不安そうな顔色をしているな。だが、安心しろ。魔女は暇を持て余している。魔法の知識を詰め込めるだけ詰め込み、そして魔法に関して得るものが何もなくなってしまった存在、それが魔女だ。魔女は常に外部からの刺激を欲する。お前が来ることで喜びはすれ、疎まれることはまずない。それにあいつは、根っからの人間好きだ。歓迎するだろうよ」
「そういう、ものなの?」
「ああ。人間にとって刺激がないというのは大敵だぞ、風燕。刺激がないということは、何も得られないということだからな。魔法は多くのことに通じる。それを極めてしまった以上、得られる刺激というのは、もう極少数だけだ。魔女という存在は、常に刺激を求めている。刺激に饑えているんだ」
だから、人に会うのはヤツらにとって至上の娯楽なんだよ、何事にも代え難いな。
そう云って、外園は言葉を締めた。
気のせいだろうか、その言葉の中に、何か憐れみのような感情が籠もっていたように感じる。いや、憐れむと云うより、それは哀しみだったような。
けれども、それを考察するよりも前に、外園はいつものシニカルな笑みを浮かべ、こちらを見た。
その笑顔を見て、私はピンと来る。
しまった、嵌められたかっ!
「さて、風燕。等価交換という言葉は知ってるか?」
「――まあ、残念なことに知ってるわね」
それを聞き、にたにた顔の外園。
そして、この話の流れ。
間違いない。くそ、私としたことがとんだ失敗だ。けれど、今からならまだ軌道修正が可能かもしれない。反撃のチャンスが掴めるやもしれない。というわけで、今から可能な限り抵抗してみよう。
「で、それがどうしたの? 私は別に、そんな言葉に興味らしい興味はないんだけど」
「なに、こちらは情報を提供したんだ。なら、等価交換の法則に則るなら、そっちもそれなりのものを提供するというのが、この場合の正しい流れではないかと、俺はそう思うんだが、どう思う?」
その云い方に思わず舌打ちする。くそ、判断をこちらに委ねるような訊ね方しやがって。なんつー会話の運び方だ。変態の上にドSとか。敵としてはもう、確実に最悪の部類に入るぞ、こいつ。
「まあ、そうね。私としても借りを作ったままにしとくっていうのは具合が悪い。けれど、あんたにあげられそうなものなんて、これっぽっちもないのよね。情報はもちろん、金銭的なものも。だからさ、今度、私があんたのためにお弁当作ってあげるから、それで手打ちにしない? というか、是非に」
「お前の弁当か。ふむ、それはそれで魅力的だが、しかし、それはお前の手を煩わせる。自然、朝も早くなるし、教師としては生徒に負担をかけさせるような真似はできんな。それに、俺には娘が作ってくれる弁当がある。悪いな風燕、その提案は却下だ」
「そうなんだ。じゃあ仕方ないわね」くそっ、ならばこれはどうだ。「じゃあさ、クッキーは? 私、こう見えてもお菓子作りには自信があるんだから。めっちゃ美味いって、友達からも評判だし」
「ほう、それは寡聞にして知らんな。だがな、風燕、それは是非次の機会にしてもらおう。俺がお前に与えた情報は、あくまで無料の情報だ。質がということじゃない。金銭的な意味でな。クッキーを作るのには材料がいる。つまり金が掛かると云うことだ。それでは等価交換にはならない。交換するものはあくまで同等の程度のもの。そうでなければ等価でない。そういうわけで、俺はこれを提案させてもらう」
そう云って嬉々とした――破顔という表現が些かの誇張もないくらいの――笑顔で、外園はソファの裏側からそれを取りだし、自慢げに披露した。
黒を基調とした色合い。白いフリルが目を背けたくなるほどに眩しく、可愛らしい飾りが付いたキャップは、もはや芸術の域にあるといっていい。デザイン性と機能性を併せたそれは、もう何回袖を通したか知れない、外園ご自慢のメイド服だった。
けれど、それだけじゃない。
外園の左手が持つそれを見て、私はくらりと眩暈を感じた。いや、もはや戦慄と云ってもいい。ああ、もう、神はやっぱりこの世にいないのか。きっと、天国からこちらを見て微笑んでいるんだろうなあ。いいぞ、もっとやれ、みたいな感じで。
「メイド服は――まあ、もういいや」
悲しいけど、若干、着慣れたところもあるし。
だから、そう、問題はそれ以外だ。
「何でネコミミと尻尾を持ってんのよっ!」
外園の左手に持つ、それ。
ネコミミに、先端に鈴が付いた猫の尻尾。
マニアックだ。
それはあまりにもマニアックだぞ、外園外縁っ!
この前は、「俺はミニスカのメイド服は邪道だと思う」なんてことを云っていたのに、ネコミミて。なんかもう、駄目な階段を陸上男子顔負けのスピードで駆け上がっているとしか思えない。お前のメイドに対する真摯さはそんなものだったのか!
「勘違いするなよ、風燕」
「――この状況でなにをどう勘違いしないのよ」
メイド服とネコミミを持って喜悦の笑顔を浮かべ、女子高生に相対する男性教諭。怪しいなんてものじゃない。第三者的視点から観察すれば、これはもうどう見たって、いかがわしい光景である。
「俺が許容してるのはメイド+ネコ装備までだ」
「いや、それ、確実に致命傷だから」
自分はまだ寸前のところで留まってます、みたいな云い方をするな、この莫迦。どう考えてもブレーキ踏むタイミング見誤って崖から墜落してるから。
チキチキレース、大失敗。さようなら、一般人。こんちには、マニアックな世界。
ではなくて。そうじゃなくて。
「ちょっと、それは等価交換にならないでしょ」軽く脚を組み、私は反論する。「私が教えてもらったのは、静かな場所はないか、よ。たった一つしか訊いてない。それなのにメイドにネコオプション付き、っていうのは、ちょっとバランスが取れてないんじゃない? 一つのものには一つで交換。それが、等価交換の原則なんじゃないかしら?」
もちろん、そうじゃない場合もある。交換するものの重みが違えば、それは一対一でも等価交換にはならない。けれど、今回の場合に限っては、そんなことはない。一対一で十分に対応可能な筈だ。
外園は、しかし、そんなこちらの反論を予想していたのか、シニカルで、それでいて余裕の笑みを浮かべた。そんな反論は、まったく無駄だという風に。
「慥かにお前の云うとおり、たった一つだけならお前の云うとおりだ。だがな、風燕。俺はお前に二つ、情報を提供した。だから、これでちょうどいい」
「はあ? 何を云ってんのよ。私があんたから訊いたのは、間違いなくその一件だけで――」
いや、
そうじゃない。違う。ああ、そうか。なるほど、そういうことか。いや、けれど、それはあまりにも反則だろ。だってお前は、あの時、生徒の安全意識を高めるためなら仕方ないって云ったじゃないか。
「俺が提供したのは魔女の家のことと、今日発覚したばかりの犬の事件のことだ。合わせて二つ。要求は二つ。ちゃんと数は合っている。過不足はない。等価交換の原則はちゃんと成立する」
「反則すれすれもいいところよね、それ」雑巾を絞るように、私は云う。「慥かに教えてとは云ったけれど、にしても普通、それを含めるか? 仕方ないとか云っておいてさ。本当、やることがえげつない」
「だが、情報は情報だ。お前だって納得したろ?」
まったくもってそのとおり。
私は外園から半ば強引にメイド服を引ったくった。
「すぐに着替えてネコミミと尻尾付けてやるから、大人しく廊下で待ちやがれ、このクソご主人様」
二、
これまで経験したことのない最大級の恥辱を味わった後(裸にされるより屈辱的なことが世の中にあるのだと、このとき初めて理解した)、私は魔女さんの家を訪れることにした。
魔女さんの家は、丘の上にある閑静な住宅地にある。いわゆる高級住宅地で、大きな家がそこかしこに建っているけど、魔女さんの家はその中でも一際大きく、そして最近建てられたばかりのものだ。
魔女の住処と云えば、怪しげな煉瓦造りの洋館を想起するものだけど、魔女さんの家はそうじゃない。近代建築に乗っ取り、最新の技術を多く使った、庶民には手が出そうにない豪邸に、彼女は住んでいる。
建築雑誌に載っていてもまったく不思議じゃない、そのモダンなデザイン。好き嫌いが別れそうではあるけれど、庭を見渡すことができる大きな硝子窓は私の嗜好とあっていて、個人的には好きだ。
「何か、庭に設置しようと思ってるの」
紅茶をご馳走になって暫く世間話に耽っていた後、魔女さんは突然思い出したようにそう云った。
「でも、何を設置しようか迷っていてね。噴水を増設するっていうのも、なんだかありきたりだし。それでね、折角だから、この際、庭に線路を通そうかと計画してるの。まあ、まだ案なんだけれど」
「線路、ですか」私は首を傾げる。
「ええ、そう」魔女さんは微笑みを浮かべた。「それで、そこに機関車を走らせるの。人を少しだけ乗せられるくらいの大きさのをね。噴水を設置するより、そっちの方がずっと面白いし、楽しいと思う」
想像するに、慥かにそれは、噴水を作るより楽しそうだった。けれど、どうして線路なのだろう。数ある候補から彼女がそれを選んだ理由が解らない。
そのことを訊ねると、魔女さんは頬に人差し指を当て、「うーん」と、可愛らしく天井を見遣った。
「そうね、多分、昔、そういう玩具を買ってもらえなかったからじゃないかしら。昔はね、大人に強請ってもなかなか欲しい玩具を買ってもらえなかったのよ。その中に機関車があって、だからじゃないかしら。庭に設置して思いっきり遊びたいのよ。そうね、レールとかを自作できたら、もっと面白いかもしれない。ああ、そう、それは是非検討しないと」
「自作は大変そうですね。ところで、ガーデニングには興味、ないんですか? これだけ広いと、鉄道を走らせるだけ、っていうのも寂しい感じですし」
「別に興味がないってわけじゃないけれど、うーん、趣味の主軸にはならないかしら。まあ、面白そうだな、とは漠然と思っているけど、やっぱり今は、ちょっと機関車の方に興味があるかしら」
ふうむ、どうやら魔女さんは、本当に庭にレールを轢き、そこに機関車を走らせるつもりらしい。まだ案の段階、とは云ったけれど、どうやら近いうちに、この庭に鉄道網が轢かるのは間違いなさそうだ。
それにしても、庭にレールを轢くって、なかなか出てこない発想だよなぁ。誤解を恐れずに云うなら、あまり女性の発想じゃないように思う。
まあ、本人が楽しそうなら問題ないわけで。
いちいち私が意見を云うことじゃない。
紅茶を一口飲みながら、私は少し上目遣いになって、改めて目の前にいる女性を観察した。
肩に少しかかる程度の、艶やかな黒髪。人形のような――というこっぱずかしい表現が違和感なく使うことができる、整った容貌。私なんかと比較するのが莫迦みたいに思えてしまう美女だ。
「それで、慥か、暫くここに来て作業をしてもいいか、っていうお話だったかしら」
「あ、はい、そうです。もし、魔女さんがよかったら、なんですけれど。ご迷惑じゃないですか?」
「真逆。迷惑だなんてとんでもない。むしろ嬉しいくらいよ」魔女さんはそう云って、また微笑みを浮かべた。「このところ、ずっと退屈でね。秋野くんも暫く実家に帰ってるし、暇を持て余してたところ。あなたが来てくれるなら喜んで受け入れるわ」
「あれ、秋野さん、いないんですか?」
魔女さんの執事役とも云える彼がいない、というのは奇妙な話だ。そう、よくよく思い出せば、紅茶を用意してくれたのは、魔女さんだったではないか。
「親戚に不幸があったらしくてね、それで」
「あっ、そうなんですか」
「もっとも、あくまで形だけの参加です、なんて彼は云ってたけど。積極的に参加したいわけじゃなさそうだった。ま、お葬式なんて、そんなものだけど」
「楽しいお葬式なんてないですからね」
あるとすれば、生前に故人が、自分の葬式はド派手に明るいノリでやってくれ、と懇願した場合だけだろうけど、それにしたって限度はあるだろうし。
魔女さんは紅茶を一口、上品に啜ると、「ところで」と云って、私の右腕に視線をやった。
「その後、右腕の調子はどうかしら? あれから忙しくて全然会えてなかったけれど、何か不都合はない? もし何かあるようなら、このあとすぐに調整をして問題点の解消をするけれど」
「あ、それはもう、ぜんぜん大丈夫です」
そう云って、私は手を握ったり開いたりの動作を繰り返す。おかしいところは何もない。どころか、もうそれは、本物の右腕以上に、私に馴染んでいた。
魔女さん特製の義手。
初見の段階で、それが義手であると見抜くことは、まず不可能だろう。人間の腕、そのままの形をしている。考えてから実際に動かすまでのタイムラグはまったくなく、傷を付けられれば血も吹き出すというこり具合。繋ぎ目の部分も、よく目を凝らさなければまず発見されることはないだろう。機能と外観、その両方が兼ね合った一級品である。
この義手を提供してくれた魔女さんには、本当に、幾ら感謝してもしたりない。外縁が私の命を助けてくれたというのなら、魔女さんは私の生活を助けてくれた恩人である。もし、この義手がなかったら、今頃大変な苦労をしていた筈だ。
だから本当に感謝している。
そんな風なことを云って、改めて魔女さんにお礼を云うと、「ありがとう」と彼女は云った。
「そう云ってもらえると素直に嬉しいわね。あんまりお礼を云われる機会がない世界だから」
「そうなんですか?」
「ええ、そう。もちろん、対外的なことはあるわよ。けれど、心の底から、っていうのはなかなか、ね。まあ、でも、それを云ってしまったら、別にこの世界に限ったことではないのだけれど」
「こんないい義手なのになあ」
翳すようにして、私は義手を見る。本当に本物の腕そのものだ。爪もあるし、掌には線もちゃんとあって、うっすらと血管――厳密には違うらしいのだけど――も見ることができる。少なくとも、私は、こんな、人間の腕に限りなく近い義手をこれまで見たことがなかった。完璧じゃないか、と思う。
「そうでもないわ。くるみちゃんに渡したときはそうでもなかったけれど、今はもっと改良点があったんじゃないかって、反省する毎日よ。材質面や構造、それに機能性からの観点とか、いろいろね」
「満足してないわけですね?」
「そういうこと。満足したら、だって終わりだし」
満足したら、もう刺激がないから。
魔女さんは、呟くようにそう云った。
刺激。
それは、外園が指摘したこと、そのままだった。満足してしまえば、完成してしまえば、そう、魔女さんの云うとおり、そこで終わりだ。続きはない。それはつまり、もうこれ以上することがない、刺激が得られないことと同義だ。殆どのことを識ってしまっている魔女にとって、それはもはや、死への拷問にも等しい状態なのだろう。
だから、これまでやったことのない、手を付けていない分野に向かおうとする。それは例えば、人との接触であり、例えば、庭に機関車を走らせようという思考だったりするのかもしれない。
ああ、そうか。だから外園はあんな、憐れんだ声で云ったのか。常に退屈に悩まされる魔女さんのことを思って。普段のあいつならありえないことだけど、魔女さんとは旧知の間柄だからこそ、か。
ま、想像でしかないのだけど。
「とにかく、異常がないようならなによりね。義手に関しておかしなことがあったらすぐに連絡して。自分が作ったものの責任はちゃんと負いたいから」
「はい、わかりました。ありがとうございます、なんか、その、いろいろ良くしてくださって」
「いいのよ、好きでやってることだから」
ところで、と魔女さんは云った。
「くるみちゃん、外園とは上手くいってる?」
「――――」
文面だけ取ってみれば、なに、それほど大したことを訊かれてるわけじゃない。けれど、なんだろう。妙にニコニコした顔で訊いてくる辺り、何かを期待されているような感じがして途惑ってしまう。
魔女さんは尊敬する大人の一人だけど、こういうところは、実はちょっとだけ苦手だ。
「そう、ですね。それほど悪くはないと思います。まあ、むかつくヤツではあるんですけれど、アレでも私の命の恩人なわけですし」
「いえ、私の訊きたいことはそうじゃなくて、ね」
「はあ――それじゃあ、いったいなんですか?」
私は紅茶を啜る。さて、私はちゃんと質問に答えたつもりだったのだけれど、どうやらその回答はあまりお気に召さなかったらしい。では、なんと答えればこの場合、正解だったんだろうか。
「外園とあなたって――付き合ってるんでしょ?」
「――!」
飲んでいた紅茶を吹き出す。
正面に座る魔女さんの顔を避け、咄嗟に自身の顔を横に向けたのは、我がことながら神業と思えた。
いや、そうじゃなくて。
そんなことは問題でなくてっ!
「付き合ってませんっ!」ダン、と私は力一杯テーブルを叩いた。「誰があんな、ド変態と付き合うんですかっ! 大体、私はあいつのこと、これっぽっちも好きじゃないですし、そもそも生徒と教師です。付き合う要素なんてこれっぽちもないですからっ!」
「あら、でも教師と生徒が付き合うって物語は、結構前からあるわよ。最近でも、そういう漫画はあることだし、現実にそんなことが起きたって、それほど不思議じゃないように思うけれど? 先生と生徒が付き合う漫画、読んだことない? 良かったら貸してもいいけれど。どれも面白いわよ」
「魔女さんのことはとっても尊敬してますけど、それだけは、それだけは勘弁してくださいっ!」
なんでだろ。別にあいつに好意を抱いているつもりは、これっぽっち――具体的に云えば地球と比較したときの蟻ほど――もないんだけど、それを読んだら今の自分が瓦解してしまうような気がする。
でも、慥かに少女漫画では黄金パターンだよなあ、教師と生徒が付き合うのって。
もっとも、そのパターンを踏むつもりはないけど。
「あら、そう。それは残念」魔女さんは微苦笑を浮かべた。「でも、そうね。私はてっきり、そういう流れになってもぜんぜん不思議じゃないと思っていたのよ。吊り橋効果ってあるでしょ。あれを完全に信じているわけじゃ、もちろんないけれど、そういうことがあっても不思議じゃないと思ってる。だから、どうなのかな、と思ったんだけど」
見当違いだったみたいね。
少し残念そうに、魔女さんはそう締めた。
いや、残念がられても、正直、困る。
慥かに、魔女さんの云ってることは解らないでもない。吊り橋効果というヤツはあるだろうし、私と外園がそういう危機的場面に瀕したことは、ある。けれど、相手はあの外園外縁だ。女子高生にメイド服を着させて、あまつさえ写真を撮るようなヤツを好きになるなんてことは、これはもうどう考えたってない。外見は慥かにいいさ。けれど、あの破綻しきった性格が総てを台無しにしている。
「私が外園のことをよく知らなかったら、慥かにあいつのことを好きになってたかもしれません。けれど、あの事件を通してあいつの本性が知れた以上、好きになることなんてありませんよ。魔女さんだって、いくら相手が格好いいからって、もしメイドコスをするよう強要してきたら、引くでしょう?」
「あら、私はいいけれど。だって、メイド服を着る機会なんて、滅多にあるものじゃないでしょう?」
「――――」
思いの外、魔女さんは寛大だった。
ああ、そうか、これもまた、刺激を求める結果か。
ていうか、そんな種類の刺激でもいいんだ。私の想像以上に、魔女さんは退屈を極めているらしい。
いや、でも、その刺激は駄目でしょ。
「と、とにかく。私はあいつのこと、命の恩人以上とは感じてませんから。まあ、担任で部活の顧問ですし、それなりに上手い関係を築けたらいいな、とは思いますけど、そういう、恋愛関係に発展するような仲にはなりませんし、なる気もないです」
「そう。それじゃあ、このお話はここまでね」
口元に手をやり、魔女さんは忍ぶように笑った。
少し必死に否定しすぎたか。けれど、あれくらい否定しないことには、こっちの気が収まらない。事実無根と反するものは、ちゃんと否定しなければならないのだ。火のないところにも、ときとして煙は立つ。良くない噂や推察は、駆逐してしまうに限るのだ。それも可及的速やかに。
「にしても、くるみちゃんは運がないわね」
不意にまた、魔女さんが口を開く。
「と、云いますと?」私はすぐに訊ねた。
「だって、そうでしょ。部員はたった二人しかいないのに、うち一人は休学。一人だけで文芸誌を出さないといけないのに、いろいろな事象が重なって、結局、こんな場所で作業をすることになったんだから。これを不幸と呼ばずに何を呼ぶってね」
「ああ、慥かに、ちょっと、良くないことが連続で続いている感じはしますね」
良くないことというよりは、都合の悪いことだけど。しかしそう、建物の修繕工事がなければ、否、そもそも猫の首や今日起こった犬の事件がなければ、部室で普通に作業ができたのに。
そういえば、魔女さんは今回の事件に関して、いったいどんな意見を持ってるんだろうか。
気にならないと云えば、それは嘘だ。
「ねえ、魔女さん。魔女さんは、今回の事件、えっと、動物の連続殺傷事件について、どう思います?」
「うん?」魔女さんは一瞬動きを止め、それから唇に人差し指を添た。「そうね、とにかく、やってることがいちいち派手、という印象を受けるかしら。派手、という云い方が気に入らないなら、センセーショナルな、と置き換えてもいい。世間の注目をとにかく引くように設計されてる感じ」
「それじゃあ、犯人は、自分の存在を世間に広くアピールしたいがために、今回の事件を?」
「いえ、それはどうかしら。私には、犯人はあくまでも事件そのものに関心を払ってもらいたいのであって、自分自身をアピールしたいがために事件を起こしてるとは、あまり思えないのよね。よしんば自らの存在を世間にアピールしたいと考えているなら、普通は犯行声明の一つや二つ、出すんじゃないかしら。けれど、今のところそれはないわけで、とするなら、犯人は自己のアピールのために事件を起こしているとは、少し考えにくいと思う」
「つまり、犯人はあくまでも事件そのものを広く認知させたいのであって、自分の存在を宣伝する気はないと、魔女さんはそう考えているわけですね?」
「ええ、そういうことよ。結果的に宣伝することになるのかもしれないけれど、それは犯人の本意じゃないと思うわ。ただ、私は、事件の存在を世間に広く認知させる以外にも、まだ目的があると思ってる」
「他にもまだ目的が、ですか?」
「ええ。というより、そっちが本丸かしら」
「それっていったい――」
「あら、駄目よ。そこから先は、くるみちゃん自身が考えること」柔らかな笑みを浮かべ、魔女さんは云う。「どうしてなのか、を考える姿勢は評価できるけど、思考を停止させ、正解を知っている人間からそれを聞き出そうとするのは、あまり褒められたことじゃないわ。少し自分で考えてみて」
「あ、そうですね。すみません」
慥かにちょっと、今のはあまりいただけない姿勢だった。まったく知らない分野に関する教えを請うてるわけじゃないのだ。想像力を膨らませれば、ある程度の推量ができる問題である筈だ。
とは云っても、しかし、思い浮かばない。単に私の頭が悪いからなのか、それとも情報が集まっていないからなのか――否、後者はないか。実際に魔女さんは推論を立ててるわけだし。
というか、そうか。推論なのだから、辻褄さえ合っていれば、現段階では、それで十分じゃないか。
ふうむ。となると、もっともらしい案を一つでもいいから出しときたいというのが、人情というもの。
そう思ったもの、しかし五分後にはテーブルに突っ伏し、頭から煙を吐き出す風燕くるみだった。
だ、駄目だ。
ぜんぜん駄目だ。
どう考えても思いつかない。
何故だ。私は莫迦か、莫迦なのかっ!
「うーん、くるみちゃんには、もしかしたら理解できない考え方なのかもしれないわね」
「理解できない、ですか?」
むくりと顔だけを上げ、魔女さんを見上げた。こうしていつもと違う角度から見ると、改めて目の前にいる女性が、現世離れしているということに気付かされる。それは見た目の問題じゃない。躰から発せられる雰囲気が、私なんかとはぜんぜん違うのだ。
何がどう、と云われると困るけど。
確実に違う、というのは解る。
あるいは、その、言葉にできない感覚こそが、魔女と呼ばれる所以なのかもしれない。
魔法を使える女。
魔女。
通称、魔女さん。
本名は知らない。
以前、一度だけ訊ねたことがあるけれど、上手い具合にはぐらかされ、結局、知ることはできなかった。外園なら知ってるかもしれないけれど、第三者から彼女の情報を取得するのは反則のような気がして、今現在まで訊ねたことはない。
考えてみれば。
お世話になってる割には私、この人のこと、ぜんぜん知らないんだよなあ。
それはさておき。
「理解できないっていうのは、うーんと、つまり、どういうことでしょう?」
「つまり、くるみちゃんと犯人。お互いの考え方が乖離しすぎてる、ってことよ。だから、犯人がいったいどういう風な目的で事件を起こしているのかが解らない。想像ができないわけね。相手側の思考をトレースできれば簡単なんだけど、くるみちゃんはまだ若いし、そこまで求めるのは酷だと思う。そういう意味で、無理かもしれないってわけ」
「思考をトレース、ですか」
それは慥かに難しい。
というか、そんなこと、可能なのだろうか。人が他人の考えていることを予測するなんて、それはもう神業のような気がするのだけど。
でも。
ちらりと、魔女さんを盗み見る。
彼女なら、出来るかもしれない。
なんとはなしに、そんな気がした。
三、
去年が茹だるような暑さだったとしたら、今年は太陽が季節を間違って頑張りすぎているとしか思えない暑さだった――などと、上手く決めようとしたのにまったく決まらないあたり、私もこの暑さにやられているのだな、と嫌でも実感してしまう。
最高気温三十一度。
まだ六月中旬というのに真夏日を観測。六月は何のかんの云って、気温が三十度を超すことなんてないだろう、と楽観的な観測をしていただけに、この展開はまったく予想していなかった。ジッとしているだけなのに、肌が汗ばむほどの熱気である。
お昼の報道番組では、このちょっとばかり早い真夏日に関するニュースを報じていた。六歳くらいの男の子がプールに飛び込んでいる映像が流れる。いい笑顔だ。私もプールに行こうかな。けれど、着ていく水着がないので却下。いや、そもそも、今日は来客が来るから無理なのだけど。
それにしても本当に暑い。
団扇で胸元に風を送り込みながら、そんなことを考える。本日の服装は七分丈のジーンズに薄手のシャツ。六月中旬という時期を考えれば少々薄着と云えるファッションだったけど、今日の気温、そしてこの部屋の劣悪な環境を考えれば適切と云えた。
場所は私が根城にしているワンルームのアパート。築年数五年。各部屋にバストイレ完備。最寄りの駅まで徒歩十分となかなかの物件だが、残念なことに備え付けのエアコンは壊れている。そのことに気付いたのは数日前。今のところ金銭的な理由から、修理の目処は立っていない。下手すると、エアコンが直らないまま本格的な夏に突入する、ということも考えられる。そうなるとさすがにつらいので、卓上式のでもいいから扇風機が欲しいところだった。
ピンポン、と来客を告げる電子音が鳴る。
漸く来たか。
窓際に下ろしていた腰を上げ、玄関に近づく。その間、インターフォンは沈黙を守った。必要以上に玄関脇のインターフォンを鳴らさないのは、それだけで評価できるポイントだろう、と思う。
「ちーす、くるみ。遊びに来てやったぞー」
「こん、にちは」
果たして玄関にいたのは、クラスメイトの夜鴉ひよりと小鳥遊由真の二人組だった。二人とも私と同じく、この時期にしたら随分と薄着である。それだけ今日の暑さが尋常ではないということ。二時間も外にいたら乾涸らびてしまうに違いない。
「よく来てくれたね、さあ上がってよ」
由真が買ってきたというアイスの入った袋を受け取りながら、私は二人を部屋の中に招き入れた。
部屋に入ったひよりたちは物珍しそうに部屋を見廻したけれど、特別面白いものはない。本棚にクロゼット、ベッドにテレビ、コーヒーテーブルと座椅子、それにノートパソコンが一台あるだけだ。女子高生の部屋としては、少し平均から遠いものかもしれない。つまり物寂しい、ということ。
「なんだか一人暮らしのOLみたいな部屋ね」
それが、私の部屋を一通り観察し終えた、夜鴉ひより開口一番の感想だった。言葉にこそしないものの、ひよりの隣にいる由真も、その意見に同調するかのように、こくこくと小さく頷いている。
「まあ、女子高生らしからぬとは思うけど」
それにしても、OLと来たか。
まだ十五歳の乙女なんだけどなあ。
「なんていうか、アレよね。さっぱりしてる。私の部屋なんか結構ごちゃごちゃしてるけど、他の娘の家に遊びに行っても、大体はそんな感じだし」
「別に欲しいものも、これといってないからね。あ、そこら辺に座ってて。お茶出すから」
そう云って、先ほど出しておいた座布団を指さし、もう片方の手で玄関すぐ脇に置いてある冷蔵庫の扉を開けた。作り置きの麦茶を出し、グラスに氷を入れ、そこに昨日作っておいたばかりのお茶を注ぐ。
お茶を乗せた盆を持って部屋に戻ると、二人はまた部屋の観察作業に戻っていた。
「そんなに私の部屋が珍しい?」苦笑しながら、私は二人に問いかける。「インテリアには結構気をつかってるつもりなんだけど、変なものでもあった?」
「おっ、ありがとう」ひよりは私からお茶のグラスを受け取る。「いや、別に変なところはないよ。ていうか、うん、かなり良い感じに纏まってると思う。あんたのイメージに合ってるよ、この部屋」
「それって私がOLっぽいってこと?」
繰り返すが、花も恥じらう十五歳の乙女である。
――いや、花も恥じらうは云いすぎだけどさ。
「違うって。なんていうのかな、落ち着いてるってこと。いや、それを云ったら由真の方がずっと落ち着いてるんだけど、じゃあこの部屋が由真のイメージに合ってるかっていうと、また違うんだけどさ。なんていうのかな、空気感が合ってるみたいな」
「まるっきり同じ意味に聞こえるけど?」
「微妙に違うの。由真なら解るよね?」
突然に会話を振られた由真は、びくりと小さく肩を振るわせた。まさか、ここで自分に振られるなんて思ってもみなかったんだろう。
由真は落ち着きなく、私とひよりを交互に見遣ったあと、蚊の羽音にさえもかき消されてしまうような小さな声で、そうですね、と呟いた。
「その、なんとなくでは、ありますけど」
「ほら、由真にも解ったじゃん」
そう云って由真に抱きつくひより。
由真は抵抗することも出来ず、流されるがままに、ひよりの胸に顔を埋めた。無駄に豊かに育ったひより胸の所為で、由真の顔色は、こちらからは殆ど窺うことができない。くそ、それで遠回しに自分の胸を自慢しているつもりか、ひよりのヤツめ。
「とりあえず、暑苦しいから早く離れなさい。見ているこっちが汗かくからさ」
あと肉体的差異に劣等感を抱くから。
小さい女と呼べばいいさ――あ、いや、それはさすがに墓穴を掘りすぎてるか。
「はいはい、解ったわよ」
あっさりと、ひよりは由真を解放する。
ひよりの胸から解放された由真は、まるで茹で蛸のように頭から首筋のところまで真っ赤にしていた。
まったくどうして、ひよりのヤツにも困ったものだ。四月に出会ったばかりのこの友人は、明るく付き合いやすい性格の持ち主だけど、ときどきどうも、スキンシップを過剰に取りたがるところがある。まあ、由真が相手ならば、慥かに多少強引にいかなければならないのも事実ではあるのだけど。
ひよりはお茶を一気に飲み干すと、「さて」と云って私たちを一瞥した。
「それじゃあ、そろそろ始めようか」
「何を?」訊ねたのは私だ。「今日は慥か、私の家に来たいってだけじゃなかったの?」
「いや、それは慥かにそうなんだけどさ。せっかくこう三人が休日に揃ったんだし、こう、何か一つのことに関して語り合うのも、いいかなと思って」
「なんだか教育番組みたい」
公共放送とかにありがちな。
「まあ、私は別にいいけどさ。それで、ひよりはいったい何について話したいの?」
「どうすればこの夏、寂しくないように過ごせるか」
「――――」
わりかしどうでもいい議題だった。
というか、訂正、ホントにどうでもよすぎる。
由真もどう反応していいのか解らないのか、ぽかんと口を開け、彼女にしては珍しく間抜けな表情をしていた。けれど、それが普通の反応といえる。
「やっぱりさ、今年こそは彼氏を作って、充実した夏休みを過ごしたいわけだよ、あたしは」
「ああ、これまで彼氏がいたことはないんだ」
寂しい話だ。
ま、それは私も同じなのだけど。
ちらりと、私は横目で由真を見る。由真も、まあ、多分、彼氏がいたことはないんだろうな。顔は可愛いんだけど、男の子とか、明らかに苦手そうだし。女である私やひよりですら、教室の隅にいた彼女と仲良くなるのに、一ヶ月くらいかかったから。
「冷めた反応だなぁ」ひよりは唇を尖らせる。「くるみはあんた、彼氏が欲しいとか思わないわけ?」
「うーん、そんな必死になるほど欲しいわけじゃないかな、今のところは。別につくらない主義ってわけでもないけれど、がっついて欲しいかっていうと、それは違うし。それに独りでも結構平気だし」
具体的には、ひとりでレジャープールに行ける。
――客観的に見て寂しいのは認めるよ?
ひよりは私の言を聞き、大仰に肩を竦めた。
「相変わらず寂しい女だな」
「ま、それは認める。私ってばどうも、そういう方面には疎いっていうか、関心が持てないんだよね。それにさ、別に夏だからって慌てて彼氏を作る必要性もあんまり感じられないし。ひよりだって、実はそんな風に考えてるんじゃない?」
「ばれたか」
ばつの悪そうな表情を、ひよりは浮かべる。
「だって、ばれるもなにも、ねえ」
二ヶ月という短い期間ではあるけれど、ひよりがそういう方面の経験に疎いことは、彼女の言葉の節々から薄々とは感じていた。なのに夏だから彼氏が欲しいだなんて、ちょっと違和感がありすぎる。
ひよりは、「あー」と呻き声を上げると、そのままゆっくりと後方に倒れ、仰向けに寝転がった。
「でもさ、彼氏が欲しいっていうのは、まあ別にして。いかにして夏を寂しくなく過ごすか、というのは、これ結構、重要な問題だとは思わない?」
「みんなでどこかに行こうってこと?」
「うん、掻い摘んで云えば、そんな感じ」
「ふうん。慥かに、それぐらいはあってもいいかもね。夏休みの間、一日中部屋の中でぼーとしてるのは、ちょっと微妙だし。彼氏云々の話はともかく、それには賛成してもいいかな。由真はどう?」
コップを両手で包むようにして持ってお茶を飲んでいた由真に、私は話を振る。
さっきのひよりの無茶振りで抵抗が出来てたらしい。先ほどのように慌てることもなく、由真は静かかつ平坦な口調で、「そうですね」と口を開いた。
「その、こ、恋人を作るっていうのは、ちょっと私にはハードルが高いな、とは思いますけど、あの、お二人とどこかに出かけるっていうのは、はい、くるみさんと同じで賛成したいと思います」
「おっしゃ、決まりだね」
勢いよく腰から上を起き上がらせ、パンと手を叩くひより。まったく、無駄に活力がある。まあ、彼女からすれば、私には活力が足りないのだろうけど。
「それじゃあ、具体的なプランニングと行こうか。私はとりあえず三人でプールに行きたい。くるみと由真は、何かそういう具体的な希望はない?」
「特になし」
「あ、わ、私も特には――」
「やる気ねーっ!」
ばたんと、再び床に寝転がるひより。
ふうむ。
慥かにいつも明朗快活な彼女ではあるけれど、ここまでテンションが高かったことが、果たしてあっただろうか。暑さで頭でもやられたか?
ま、クーラーどころか扇風機もない部屋だし。
頭がやられたとしても、それは仕方ない。
うっすらと額に汗を浮かばせ、ひよりは云う。
「本当にあんたたち二人は、欲がないというかなんというか。今からこんな暑いんだからさ、プールの一つや二つに行きたいとか、そうは思わないわけ?」
「いや、プールに行くこと自体は賛成だよ。でも、うーん、それ以外でどこかに行きたいかっていうと――あ、訂正。一つだけ行きたいところがあった」
「おっ、なになに」むくりと、またぞろひよりは起き上がる。もしかしたら腹筋の訓練でもしてるのかもしれない。「くるみが自分からどこかに行きたいとか珍しいね。で、どこに行きたいの?」
「水族館」
「えっ、膵臓癌?」
「んなとこ行きたがるかっ!」
というか、あり得ないだろ、その聞き間違い。
「冗談冗談。それで、どうして水族館?」
「うん」私は頷く。「プールで思い出した。ほら、海浜公園のあたり、この前、新しいレジャープールができたじゃんか。あそこの近くに去年ぐらいに開業した水族館があるでしょ。前から気にはなってたんだけど、なかなか行く機会がなくってね」
「あっ、それ知ってます」由真が珍しく会話に入り込んできた。「私も実は、少し気になってたんです。でも、くるみさんと同じでなかなか機会がなくて」
「ふうむ、水族館ね」と、ひより。「よし、それじゃあ第二案はそれでいこう。プールの帰りに水族館に寄ればいいんだし、私も最近、そういうところには行ってないから大賛成。なかなかいい案じゃん。くるみ、由真。あんたたちグッジョブ」
そう云って、こちらに親指をグッと立てるひより。こういうのを恥ずかしげなくできるところが夜鴉ひよりという人間であり、彼女のいいところでもある。
「よしよし。それじゃあ、このテンポでどんどん予定を決めていこう――と思ったんだけど、まあ、私もプールぐらいしか決めてないんだよね」
「まあ、この時期ならまだそれくらいしか決まらないのが普通じゃないの?」私は云う。「これからまだ期末テストがあるわけだし。というか、まずはそっちをクリアしないと夏休みも何もないけど」
「あー、そうか。期末か。期末テストって厄介なものが、そういえばあったよなあ」
「忘れてたの?」
「綺麗さっぱり」
学生としてそれはどうなんだ。
というか、一応、宮蔵高校はこの地域ではそれなりに有名な進学校なのだけど。試験の日程くらいは、覚えていて然るべきだろうに。
ちなみにだけど、この三人の中で成績が一番悪いのは私だ。一番が由真で、彼女は先の中間試験で学年一位を取っている。噂では入学試験でも一位の成績を収めたとかなんとか。私とは雲泥の差だ。
「テストの成績が悪いと夏休みに追試があるんだよね。ま、あれはよほど成績が悪くないと引っかからないみたいなことを、先生は云ってたけれどさ」
「ああ、慥かにそう云うことを云ってたね。成績が悪い生徒は夏休み、地獄を見るから覚悟をしておけよって。ま、由真は当然として、私とひよりも、そこは大丈夫だとは思うけれど」
三人の中で一番成績が悪いとは云っても、赤点や平均点を下回る点数を取ってるわけじゃない。というか、由真やひよりの成績が良すぎるだけだ。全教科九十点オーバーは化け物すぎる。
「そんな驚くことじゃないような気がするけどね、あたしは。勉強なんて要は暗記でしょ。式を覚えて年号覚えて英単語覚えて、みたいな」
「まさしくそのとおりだけど、それを実際にできるのがすごいね、って話なわけよ」
突き詰めて考えてしまえば、慥かにたったそれだけのことなのだけど、しかしそれを実際にどれだけの人間が実行できるかと云えば、それはもうごく少数だろう。特に、由真やひよりのように学年トップクラスの成績を獲得しようとするなら、単純に暗記といっても、莫迦にならない量の情報を覚えなければならない。それは、とても私には無理だ。
記憶力、弱いからなあ。
「そうかなあ。あたしは、くるみならコツさえ掴めば簡単にできると思ってるんだけど」
「えっと、その、私もそう思います」
「由真まで――買いかぶりすぎだよ。そりゃ、物事には絶対がないから可能性はあるんだろうけれど、私は、ちょっと、自分がすらすらと物事を暗記できてるようになってる自分が、あんまり想像できないんだよね。なんていうか、それ私じゃないだろ、みたいな、そんな感じがしちゃってさ」
「あー、くるみってば意外と、自分の成功を想像出来ないタイプだったりするんだ」
「ん、まあ、そういうところ」
なにせ、これまで失敗ばっかりだったし。
加えて、つい二ヶ月前に、右腕を失ってしまうという最大級の失敗を犯したばかりだ。そんなことだから、成功像をイメージしろという方が難しい。
意識的に右腕を触る。ひよりにしろ由真にしろ、これが義手であると気付いている様子は、少なくともこちらから観察する限り、ない。外園や魔女さんから特に口止めされているわけではないけれど、二人に気付かれていないのなら、あえて教えることもないかな、と思う。教えるにしては、この義手はあまりにも異様すぎたし、それに右腕を失った経緯もまた、かなり現実離れしてしまっている。
慥かに右腕は失った。
けれど、失ったばかり、でもないのだ。
「あーあ、それにしても期末試験かあ。面倒といえば、面倒なんだよね、これが」
「この前の中間で学年トップテンに名前を掲載された人間が何を云うか。面倒と云いつつ、余裕でしょ」
「それをいうなら由真だっつーに。この子、保健体育の筆記を除いて満点だったんだから」
そうなのだ。まだそれほど難しい領域に這入っていなかったといえ、先日の中間テストで、由真はひよりの云うとおり、保健体育を除くすべての筆記テストで満点を取ったのだった。
由真は熟れたリンゴのように顔を赤らめ、ぜんぜん余裕なんかじゃないよ、と呟いた。
「試験前にはちゃんと徹夜で勉強もしたし」
「偉いなあ、由真は。私なんか、テスト前でも睡魔に負けちゃって十時には寝ちゃうんだけれど」
「むしろあんたが凄いわ」
呆れた口調で私は云う。
今日日、小学生でもそんな早くには寝てないだろ。
というか、それで学年トップテンの成績なのか。
容姿、学力、運動能力、胸、その他諸々。
天はこいつに何物与えたんだ?
「ま、でもさ。プールにしても水族館にしろ、このままだと今年の夏は、あんまり夜遅くまで莫迦騒ぎできるような雰囲気じゃないよね」
「あ、そうですね」ひよりの言葉に、由真が同意して頷く。「怖い事件が起きてますし」
心なしか、由真の表情は青ざめて見える。だが、稀にみる凄惨な事件なのだから、それも当然だろう。
怖い事件というのは、もちろん、件の連続動物殺傷事件のことだ。犬の死骸で作られた不気味なモニュメントが発見された事件以降、僅かに下火になりかけていた事件は、そんな状況を流転させ、大火へと変化させるほど話題になった。
事件から一週間ほど経った現在に至っても、学校の部活禁止令は解かれていないし、また生徒は夜遅くに外へ出ないようにと云う注意まで先生の口から聞かされるようになった。大人たちに関しても、そこらへんの事情は、私たち子供と変わらない。事件に関するニュースでインタビューを受けた多くの人は、夜遅くには家に出ないようにしている、と答えている。つまり、皆、この事件に脅えてるのだ。
今はまだ、標的は動物止まり。
けれど、次は自分たちかもしれない。
明確に口には出さないけれど、きっと皆、心の中ではそんな風に考えてるんだろう。これくらいの推察は、さすがに私でもできたし、おそらく大筋のところで間違いはないだろう、と思う。
「にしてもさ、これだけ派手なことしといて犯人がぜんぜん捕まらないっていうのは、本当に不思議よね。ここ数日、お巡りさんを見かけない日はないっていうのにさ。なんでだろ?」
「それだけ犯人は慎重なんでしょ。やってることは目立つけど、慎重を期して犯行を行ってるから、逮捕に繋がるような証拠が見つからないんだと、私は思う。云い方悪いけど、犯人が優秀ってこと」
ま、外園曰く、犯人は裏技を使ってるらしいけど。
裏技。
つまりは狡を。
ひよりは腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「うーん、悪いことをするヤツほど狡猾ってわけね。気持ちのいい話じゃないなあ、それ」
「――事件自体が気持ちのいい話じゃなかと」
「うん、由真の云うとおりだね。事件それ自体が気持ちのいい話じゃない。ま、だったらこんな話はするなってことなんだろうけれど、無視するにしては、ちょっと大きすぎる事件だからね。こうやって集まってたら、どうしても話に出ちゃうものだよ」
と、そこまで云ったところで、不意に、頭の中で何かが引っかかったような気がした。
えっと、なんだろう?
ガガガ、と単調な工事の音が、外から聞こえる。
喧しい。
こんなんじゃあ集中できないじゃないか。
いったい、私は、今、何に反応したんだ?
「でもさ、これだけ派手にやってんだから、そう遠くないうちに必ず捕まるでしょ。警察も無能じゃないんだから。ね、由真もそう思うよね?」
「はい。というより、そうなって欲しいかな、です」
「平和が一番だしね。くるみもそう思うでしょ?」
「えっ――あ、ごめん、ひより。ぼうとしてた」
「なんだ、聞いてなかったの?」
意外だな、という表情をひよりは浮かべる。その隣に座る由真も、珍しいものを見たという顔をしていた。えっと、そんなに意外なことだった?
「うん、ちょっとさ、さっき自分の云ったことが何か引っかかって。そのことを考えてた」
「さっきくるみが云ってたこと?」ひよりは怪訝そうに眉を顰める。「別に変なこと云ってなかったと思うけど。由真は、何か気になること、感じた?」
「さあ、私も特には」由真もまた、ひよりと同じような表情を浮かべる。「くるみちゃんが云ったことは、その、私も感ずるところでしたけれど」
「えっと、例えば?」私は訊ねる。
「無視がなかなかできない、ってところがです」
「そりゃ無視は出来ないでしょ」とひより。「だってこれだけの事件だよ? どうしたって話題に上る。特に、この辺りに住んでいる人なら尚更ね」
「うん、そうなんだよね。別にそれは、普通なんだ。なのに、なんで気になったんだろ?」
手の付け根の部分で、蟀谷のところをコンコンと叩く。当然、そんなことをしたって、理由が解明されるなんてことは、なかったのだけれど。