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一 王都に引っ越して来ました

 そこだけ、空気が違っていた。


 ヨーロッパの中でも古い貴族制度が残るブレンデル王国の王都ミレール。その旧市街の外れ、下級貴族の居住区に問題の屋敷はあった。広大な敷地は白い塀に囲まれ、黒い門は全てを拒絶するかのように固く閉ざされている。

 三十分も前にここに到着したフェリル男爵家の一行は、この屋敷に直感的な危険を感じて中に入るのを躊躇していた。

「ご近所が空き地だらけで、近所付き合いが必要なさそうなのはいいわね」

 人との付き合いが得意なはずの男爵夫人メリナが言った。貴族の居住区だというのに周囲は整備もされておらず、雑草が伸び放題の空き地か一目で空き家だと分かる傾きかけた屋敷しかない。

「お父様、今日はホテルに泊まった方がいいんじゃないかな?」

 十八才の男爵令嬢マーチェが提案した。ここに着く直前からマーチェの全身には鳥肌が立ち、今すぐ逃げ出したいという衝動に駆られていた。

「カーナビも紙の地図もここが私達の新居だと言ってるから、とにかく中に入ってみようじゃないか。うちにはホテルに泊まる金がないからね」

 フェリル男爵ルークはあっさり言うと、ポケットから鍵束を出してその一つを門の通用口の鍵穴に差し込んだ。

 門の上に止まっていたカラスが一声鋭く鳴いて、屋敷の奥の方に飛んで行く。

「……」

「……」

 マーチェとメリナが絶句する中、ルークは通用口の鍵を開け、門の向こう側に消えてしまった。

「お母様、今のうちに逃亡しては駄目……だよね?」

 屋敷の方から感じる不気味な気配に身震いしながらマーチェが訊く。

「私はルークを信じてるし、マーチェにもそばにいてほしいわ」

 マーチェは母の言葉に肩を落とした。

 フェリル男爵領は王都から遠く男爵はほとんど領地から出なかったので、王都に頼れるような知人もいない。今夜だけ何とか我慢して、明日対応策を考えようとマーチェは決意した。

「仕方ないよね。お屋敷の中はまともかも知れないし……」

 自分を納得させるように呟いたマーチェは、門が耳障りな音を立てながら開いて行くのを暗澹たる思いで眺めた。

 門を開けたルークは必要最低限の家財道具だけを積んだトラックまで戻ると、二人の女性に乗るように促し、トラックを門の内側まで移動させた。

「通用口の鍵は閉めたが、門は内側から閉めるしかない。マーチェ、頼んでもいいかな?」

 マーチェとしては全力で拒否したかったが、仕方なくトラックから降りると門に向かった。

 空き地とボロ屋敷しか見えないのに、外の方が明るく感じるのは何故だろう。マーチェは暗い気分で重い門を閉ざし、内側から閂を掛けた。

 マーチェが戻るなりトラックは動き出した。手入れされないまま放置された木々は、敷地内の道路にも枝を伸ばし、トラックの行く手を阻もうとする。トラックはそんな枝をへし折りながら進み、やがて母屋と思われる建物に到着した。

 敷地の広大さに比べて、屋敷はそれほど大きくなかった。二階建ての白い建物は瀟洒で、郊外のリゾートホテルのような佇まいだった。ただし、纏う空気は禍々しい。

「……」

「……」

「……」

 三人は押し黙った後、互いに顔を見合わせる。

「この場所は一人で行動しない方がいいと思う。全員で中を調べよう」

 ルークの言葉に不承不承頷いたマーチェは、荷物の中からライトを出してルークとメリナに渡した。

「とりあえず荷物はこのままにして、中を確認しよう」

 ルークの声もわずかに震えていた。この屋敷が発する異様な気配は、どんなに鈍感な人でも感じるだろう。

 ルークが扉の鍵を開け取っ手に手を掛けようとした時、マーチェは酷い吐き気を感じた。あまりの苦しさに膝を付いてしまう。

 すぐにマーチェの異変を察したメリナは、鋭くルークに言った。

「ルーク、開けちゃ駄目! 鍵を掛けて扉から離れて!」

 ルークは反射的に手を離してから振り返り、マーチェを見て目を見開いた。

「マーチェ、大丈夫か!?」

 駆け寄ろうとするルークを制したのはメリナだった。

「早く鍵を掛けて!」

 ルークは震える手で何度も失敗しながら鍵を掛けた。

「マーチェ!」

 マーチェは手で口を押さえ、激しい吐き気を堪えていた。ルークが鍵を掛けたのが良かったのか、数分後には吐き気が引いた。

「トラックに乗って少し休みましょう」

 ルークとメリナに体を支えられながら、マーチェはトラックの座席に座った。

 マーチェが息を吐いて、ペットボトルの水を飲もうとした時だった。キャップを開けた途端みるみる中の水が淀み、くすんだ緑色の得体の知れないドロリとした液体に変化した。

「ヒッ……!」

 マーチェは大きく震える手でボトルを必死に掴み、すぐに投げ捨てたい衝動を抑えてキャップを固く閉めた。それからトラックの窓を開き、ボトルを力いっぱい遠くに投げる。

「こ……ここはやっぱり出た方がいいよ! 色々とおかし過ぎる」

 マーチェの訴えにルークも同意した。

「わたしには少し変な感じがするだけだが、マーチェの顔色がどんどん悪くなってるから異常なのは分かるよ。ここを離れよう」

 しかし……トラックは一ミリも動いてはくれなかった。マーチェの体は傍目にもはっきり分かるほど震え出す。顔色も青というよりは白くなっていた。

「マーチェ、大丈夫よ」

 メリナは何の根拠もない慰めを口にしてから、マーチェを強く抱き締めた。

 ルークはシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出した。

「電源が……」

 液晶画面は真っ暗なまま、どんなに操作しても起動しなかった。

「お、お父様、これをトラックの周りに撒いて来て」

 マーチェが震える手でバッグから取り出したのは、開栓済みの水のペットボトルだった。

「これはルテルの教会で神父様に頂いた聖水なの。ちょっとずつトラックの周りに撒いて」

 ルークはマーチェからボトルを受け取ると、転げ落ちるようにトラックから降りた。キャップを外し、透明なままの水を確認してから地面にほんの少し落とす。

 水が地面に触れた瞬間、白い蒸気のようなものが立ち上り、ルークは驚いて水を三分の一ほど溢してしまった。

「あ! クソ!」

 思わず毒づくルークだったが、気持ちを立て直し慎重にトラックの周りに水を撒く。完全に聖水でトラックを囲むと運転席に戻った。

「マーチェ、調子はどうかな?」

 マーチェの顔を覗き込んでルークが訊いた。

「ちょっとずつ楽になってる気がする……」

 マーチェの声は弱々しいものの、数分前までの震えはなくなっていた。

「マーチェはタブレットを持ってたでしょ? 気分が良くなってからでいいから、使えるかどうか確認してね」

 メリナが優しく言った。

「うん、分かった……」

 マーチェは外の景色を見ないように目を閉じ、ゆっくりとした呼吸を繰り返した。気持ちが落ち着くと目を開き、バッグの中からタブレットを取り出す。スリープ状態になっていたのを叩き起こした。

「あたしのは大丈夫みたい。でもタブレットだから電話は出来ないけどね……」

 マーチェはメールボックスを確認する。ルテル伯爵領に置いて来た弟のマークと、ルテル伯爵の息子のウェインからのメールに埋もれるように兄のザックからのメールがあった。

「お兄様からメールが来てる! えーっと、中国の奥地にいるから返事が遅くなってごめん、金がないからいつになるか分からないけれども、大使館のある都市(まち)に辿り着いたら、何とか帰国費用を借りて帰るから待っててほしい……ですって」

 この場にいる全員ががっくりと肩を落とした。ザックは約二年前、世界中を探せばフェリル男爵領を救う方法が見付かるはずと信じて旅立ってしまった……。

 フェリル男爵領は、十年ほど前まで酪農が盛んな牧歌的でのんびりとした土地だった。豊かとまでは言えなかったが、領民は温厚で明るい人が多く、貴族であるマーチェ達とも気安く付き合っていた。

 それがいつの頃からか徐々に牧草が枯れ始め、最終的には草一本生えない土地になってしまった。原因は調べたものの全く分からず、フェリル男爵ルークは領民と残った家畜を避難させるという苦渋の決断を下した。

 男爵夫人メリナは元々ルテル伯爵家の出身だった。ルテルは工業が盛んな領地で、フェリルのような田舎と比べると大都会だった。ルテル伯爵イアンは快く領民達を受け入れ、住居や仕事の面倒も見てくれた。

 子供の頃からプライドが高く、都会に強い憧れを持っていたマーチェの弟のマークは、領民達よりも早く伯爵家に移り住み、以降フェリルに戻らなかった。ザックはそんな時に旅立って行った。家族全員が力を合わせて乗り越えなければいけなかったのに……。

 それでも残りの男爵一家とわずかな使用人は、フェリルでの生活を続けるために頑張った。

 そして約半年前、王都からルークに国王からの召喚状が届いた。慌てて王都に向かったルークは、絶望的な知らせを持って帰って来た。国王は領民がいなくなった土地を領地とは認めず、男爵一家は王都に移り住み、宮殿の仕事をするように命じた。

 国王の命には逆らえない。しかしルークは王都に屋敷を持っていないし、知人も友人もいなかった。

 そんなルークを助けてくれたのは、一通のメールだった。王都に住むという差出人は破格の安値で屋敷を売ってくれるという。都合の良過ぎる話に疑問を持ったメリナとマーチェだったが、ルークは絶対に信用出来る人物だからと購入を決めてしまった。

 一家は金目の物を売り払い、屋敷の代金を振り込んだ。一週間後に送られて来たのは権利証と住所の書かれた紙、そして鍵束だった。

「ザックもいつ帰ってくるか分からないというのに、これからどうしたら……。絶対に信用出来る方から買ったのに、どうしてこんなことに……」

 運転席で頭を抱えてしまったルークにマーチェは訊いた。

「ずっと教えてもらえなかったけど、この家を売ったのは誰!?」

 ルークは力の抜けた声で答える。

「内緒にしてくれと頼まれたんだが、こうなっては仕方ないね。この家を売ってくれたのはジョーン王子だよ」

 マーチェは驚きのあまり立ち上がり、天井に頭をぶつけてしまった。痛みに悶絶すること数分、声が出せるようになると絶叫した。

「はああ!? 第二王子のジョーン殿下!?」

 このとんでもない物件を売り付けたのは、ブレンデル王国第二王子のジョーンだったのだ。

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