血を飲む青年水を飲む
スプラッタ映画ってグルメ映画だよね?
え、俺が変態?
俺からすれば、キャラの名前呼びながらアニメ見てるお前の方が変態だよ。
血を飲みたい。21にもなって、そんな欲求が出てくる自分が恥ずかしかった。ただ、味を知りたいとかの好奇心から、ロールプレイマニアで吸血鬼になりきりたいから、というわけではない。食欲のような、三大欲求にはいってしまうんじゃないか、というようほど強烈に感じられて自分としては大ピンチだった。
いつからかと思い返せば、20歳になってからの冬辺りからだろうか。その頃体調を崩し、しばらく寝込んでいたことがあった。それから向こう1ヶ月くらい食うことに抵抗を感じていた。胃腸の調子が悪かったんだと思う。抵抗が薄れてきて、食べる量も以前と同じとはとても言えないが、そこそこ増えてきたころ、血を欲するようになってしまった。
そして今、危機が訪れている。目の前に鼻血を出している女性がいるのだ。ちょっと買い出しに、と商店街を歩いてたらとんだデンジャーゾーンに紛れ込んでしまった。
血を見ると口にしたくなる。女性はどうやら痴話喧嘩の末殴られてしまったらしい。その血の味はきっと芳醇でとろけるような舌触りなんだろうな。周りの人は我関せずと歩き去る。涙で血が流れる。ああ、血が薄まってしまう。
血への欲求で、状況判断が難しい。大丈夫ですかと声をかけたいけれど、まず自分が大丈夫じゃない。
そこで取り出したるは、塩水。生理食塩水である。それを一口飲み、パチンコ玉を口に放り込む。血のイメージがこんなもんだからやってるがちょっとくらいは効果がある。効果のほどを例えて言うなら、飢餓に苦しみ泥水を飲む人の前に、香り立つ赤ワインを置いたような…
あ、だめだこれ、本物の血を前にしては、この対処法は呼び水にしかならねえ。血への欲求が強すぎて、例えも不適切な形容になっちまったし。
まずはこの発作を鎮めなければならない。女性のことはともかく、買い出しがままならない。
落ち着け、俺、落ち着け。この状況をコントロールするんだ。ただの欲求じゃないか。血を見ると、その波長と放たれる物質を目と鼻の受容器で刺激を受け、その信号を鍵として脳味噌のどこかから、なにか伝達物質だか電気信号が出て、どこかの受容器に受け取られたりすると、赤くどろりとした匂いたつ液体を飲みたくなるってことじゃないか。ただの反射だ、反射。止められるものではないけれど、理由がそれだけであるならば、この勝負は理性の勝ちだ。へっ、俺の大脳新皮質の厚みをなめんなよ。
目を開ければ、すぐ目の前に件の女性がいた。
電柱の側で拳を握りしめプルプルしている俺を見て、私のことでこんなにも怒ってくれているんだ、と感銘を受けこちらにきたと彼女は言う。まさか向こうから来るとは思いもしなかった。こういうこと言うから、痴話喧嘩からの流血沙汰になるんじゃないかと思ったけれど、それは落ち着いてからの話。今は驚きのあまり頭が真っ白で、瞳孔は開き目の前も結構真っ白だった。
思いがけないことでアドレナリンとか電気信号とかが全力で全身を駆け巡った結果こうなっているんだろうな、どこか頭の上のほうで、もう一人の自分がそう考えているような気がした。高校までの知識で下手に推測するのは止めろ。
グッバイ、理性。念願の血が目と鼻の先にある。女が何か言っているが何も聞こえない。本能に飲み込まれつつある俺は血をなめる機械になってしまうだろう。
口が渇き、手が震える。かろうじて残る理性かなにかが懸命に引き留めていた。こんなところで女性の鼻の下をペロペロするとか、社会的に死んでしまう。足が震え、欲求に抗いきれず思わず手が上がる。このまま相手の肩をつかんだら俺の負けだ。この場はいったん逃げよう。
すると女性が手をつかんできた。両手でしっかりと捉え、軽く振り、そのまま離さない。
いや、握手じゃないよ。離してくれよ。逃げられなくなったよ。
思わずごくりと喉を鳴らす。確かになめればこの女性は逃げ、この事件は終わりを迎えることができるだろう。そして、俺はお縄になり人生の終わりを眺望するだろう。あるいは新たな人生を始めるのだろう。なんにしてもそんな顛末は嫌だ。かといって、話し合いしようにも頭が回らず言葉が出ない。今の人生を続けたい。一人の人として、社会に受け入れられ、社会に貢献し、人として死にたい。けれどやっぱりなめたい。
口を開ける。そのとき、喉に違和感を覚えた。反射的に体を折り曲げ下を向きせき込む。何かが喉に張り付いているようだ。というより、喉に詰まったような。必死に咳をするが、いっこうにとれない。しまいにはえずき、吐いてしまった。これには女性も驚き逃げていった。
サンキュー、反射。ごくりと喉を鳴らしたときに、パチンコ玉を飲んだのだ。それが乾いた喉に張り付き、おう吐反射で行動上書き。そんなところだろうか。とにかく、女性の鼻の下をペロペロして警察のお世話になることは避けることができた。
カバンからペットボトルを取り出し、口をゆすぎ、一口飲む。
周りの目、足元の吐しゃ物、生理食塩水。顔を汚した逃げる女。
「しょっぺえ」
読んでいただきありがとうございます。
もし楽しんで頂けたのなら、私は血沸き肉躍り、死にゆくセミのようにもだえるでしょう。