東日本大震災のこと
2011年3月11日のことは、メモにのこさずとも鮮明におぼえている。金曜日で、翌日は休みだった。私はそのとき集荷の4t車に乗り、国道122号を北上中。旧K町の倉庫へ、トレーラー積みこみの応援に向かう途中だった。信号待ちで停車中だったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。車に乗っていてもわかるほどの、激烈な縦の揺れ。ラジオからは大竹まことが、この感じたことのない地震を実況していた。「ラジオのまえのみなさん、おちついて行動してください」と。私はサイドブレーキを引いていた。しばらくつづく揺れ。信号が色を喪った。これはまずいと、カタストロフを実感していた。
やがて揺れがおさまり、車列が動きだす。けれど信号が動かなくなっているので、そろりそろりと交差点をゆく。私は行きさきの倉庫へ向かう。携帯電話は、まったくつうじない。
倉庫へ着くと、業務はストップしていた。作業員から運転手から事務員がみな、外に出ている。私は同僚のもとへゆく。倉庫の奥のほうで、菓子のケースが散乱していた。
東北便のトラックは荷台半分まで飴を積んでいたが、それをおろさなければならないらしかった。私たちの荷物は、まだ出きっていなかった。同僚は荷待ちの状態であった。不幸中の幸いというべきだろう。
携帯電話はつうじないから、会社とは連絡が取れない。妻とも、親とも連絡が取れない。もはや、出荷集荷どころではなかった。倉庫は業務停止を決め、従業員に帰宅を促していた。私たちもどうしようもなく、会社へもどることにしたのだ。信号が止まっているので、細心の注意を払いながらの帰社である。
会社にもどると、被害らしい被害はなかった。新築したばかりの社屋には罅ひとつ入らず、重ねあげていたパレットが崩れているということもなかった。まったく無事ではあるが、まったく無力であった。外部との連絡が、まったくつかない。運行車を出したところで、それを運ぶフェリーは動かないだろう。業務を停止せざるを得ない。
「あそこの客、ちょっと行ってきてくれ」
配車に言われ、同市内の自動車部品メーカーへ向かう。電話がつうじない。やっているなら、荷物だけ預かってこいと。信号の止まった市街を、おそるおそる走らせて着いてみると、メーカーの門は閉まっている。そのままとおりすぎ、帰社の途に就く。道が混みはじめる。20分で行ける距離に、1時間をかけてようやく帰社できた。
帰社したのが19時くらい。そこで業務終了を告げられて、帰宅の運びとなる。いつもよりも2時間は早い帰路である。尋常ではない。「あした出てくれないか」と支店長に出社を打診されたが、即答で断わった。東京に出かけると言っていた妻との連絡もつかない。17時から1時まで、派遣の仕事を予約してあったのだ。それとてどうなるかはわからないが、予定は予定である。
東北の惨状は、ラジオのニュースで流れていた。だから、わかっていた。わかっていたつもりだった。家に着いてつけたテレビ。すべてを呑みこむ津波の映像を観て、私は息を呑んだ。日本は終わった……繋がらない電話を手に、家にひとりの私はそう思っていた。
翌朝になってようやく、妻と連絡がつく。私よりも妻のほうがずっと、過酷な体験を強いられていた。電車は動かないので、商業施設で一夜をすごした。「迎えにこられないか」という懇願を、私は断わった。信号は止まっている。東京まで走れば、燃料を大きく消費する。その日の夕方には、入れていた派遣には行かなければならないらしい。打算と怠惰によって、私は妻を迎えに行かなかった。電車は復旧して妻は自力で帰ってこられたわけであるが、迎えに行ってあげるべきではなかったかと自問しつづけている。派遣仕事などキャンセルして、何時間もの渋滞を往復しようとも。私はどこか、人間として欠けている部分があるのではないか……自己嫌悪に囚われる。派遣の予約などしなければよかったのだと、後悔する。
「通常どおり行ってください」と、派遣会社からのメールが来る。非情を押して、派遣さきへと出向く。冷蔵倉庫の食品仕分けの仕事であった。私よりも十歳は若いような男女が、きびきびと動いている職場であった。そこでの実働7時間時給850円を、なんとかやりとげる。虚しさがこみあげてくる。この非常時に、こんなことをしていてよかったのかと。
ゆるぎなき 労働精神 銭の奴婢 人としての 意義を問はれん




