戯言
頭に霧がかかった様だった。
何も考えられないまま、城に入り、無闇に大きい風呂場に案内を受け、見慣れない器具の使い方を説明され、何日も風呂に入らず悪臭を放つ自らを洗い清め、温まり、体を拭き、用意された服を着て(思いの外つくりが良く、動きやすい)、その足で再び赤マント――周りの者が警戒していた為、案内役を態々買って出た――の後について女王の間に向かった。
やはり豪奢な扉を前に、赤マントが失礼します、と一声かけて、両開きの扉を押し開いた。
光が徐々に差し込んでくる様を見やる。
ああ、僕はどうなるというのか。
本来ならば今頃彼岸に向かい、神の裁きを受けて地獄で蠢いているものだとでも思っていたのだが、まったく先行きがわからなくなってしまった。
女王とやらの様子からみて、僕の首が所望というわけでもなさそうであったし。
状況が読めず重い頭を抱えたまま、彼は勧められるままに毛足の長い絨毯を踏み、前に進み、玉座に座る彼女と対面することとなった。
「見違えましたね……疲れはとれましたか?」
開口一番がこれであった。疲れか。貴様の顔を見て思い出したよ。
「いや」
生来の愚かさからか、素直に答えてしまった。即座に顔をしかめる無様を見せてしまい、なお惨めな心持ちとなった。
「そうですか……あの大浴場は、我が城の自慢の一つではあるんですが」
残念そうに、そんなことを言う。そして、その表情からまだ戯言を繰るつもりであると知れたので、こちらから本題を促すしかないとわかった。相手の思い通りである。
「囀るな。何が目的だ」
「おや、聞きたいことがあると言っていたのは貴方ではありませんでしたか?」
よくわかった。
こいつは性格が良くない。赤マントと比べると雲泥の差だ。
こちらが振るう暴力を持たないことまで見透かしているに違いあるまい。周りに誰も控えさせていないのがいい証拠だ。何がおかしいのか、笑み続けていやがる。
これが女王としての振る舞いか。そうだとでも言うつもりか。
魔物の考えることはわからない。
「これ以上は怒らせてしまいそうですね……ふふ、望み通り本題に入りましょう」
臆面もなく、躊躇せず。
女王は、人間と停戦したいのだ、とさらりと口にした。
「正気か?」
正気ではあるまい、という含みが大方である。
その様なことができるか? できるはずがない。そう思ったままに口にした。
「できるのですよ。あなたさえいれば」
救世主殿。そう呼ばわり、この女は僕を流し見た。
その目だ。その目で僕を見るな。
「戯れるな。何を根拠にそのような」
「勘ですわ」
「戯れるなと言った」
「私の勘ではありません。外れることのない、我が国の誇る星詠み師の判断です」
口を噤む。
……確かに、王国にもその様な者はいた。彼女だ。
勇者候補の選抜は、彼女の占いを持って行われていたし、今もそうだろう。
人々にとって最も良い結果を引き寄せるその人知を超えた卜占と慧眼をもって、彼女が主だった農作物の育成の指導をし、建築の監督を行い、そして彼女が選別した赤子が勇者候補として育成されるのだ。
確かに彼女の占いが外れたのを見たことはない。少なくとも、僕の知る限りは。
今までは。
しかしその結果は確実なものではない。何せ、自分がその最たる例である。
こほん、と咳払いが聞こえた。
前に意識を戻すと、先程よりもなお真剣な眼をした女王がいた。
「このまま戦争が起これば、我々に勝ち目はないでしょう」
それは、そうだろう。恐らくそうなる。
そして恐らく王国は、汚れた生き物である魔物たちの鏖滅をもって、初めて戦争の終結とするだろう。
「では、お伺いします。貴方は我々が皆死すべき、悪辣な者に見えますか」
……。
「お答え、いただけますか」
…………。
「……我々には、わかり合う時間が必要なのではないかと、………私はそう考えています」
………………。
「………今日のところはお疲れでしょう。寝室を用意していますから、どうか体をお休めください」
どうか、私たちのことを知ってください。
女王はそう言い残し、扉を一瞥し、退室を促した。
達観している様で、傲慢で、それでいて卑屈なようで、冷酷で、自己嫌悪にまみれて。
総じて邪悪と言って過分でない。
嫌な目をする女だ、と。そう思った。それは人間の目だ。
彼は気づけない。人間にも邪悪があると、その論法では成り立ってしまうのに。
宛がわれた部屋で、窓から夜空を見上げている。
未だに考えは何一つまとまっておらず、指針もなく、信念もなく、今後、自分は生きてゆくのか、それすらも定かではない。
ふと、叢雲が流れ、鮮やかな月が空を彩った。
綺麗だ。その一言に尽きる。
魔物達も……奴等も、これまで我々と同じ月を見てきたのか。
『どうか、私たちのことを知ってください』
女王の言葉が、頭をよぎった。
彼らはこの月を、どう評すのか。この月を見て…………何を思うのか。
同時刻。
暗い部屋。女王の間の奥にある一室。でありながら、灯りも取らず、不似合いな陰鬱さを孕むこの空間にて、部屋の持ち主ともう一人が密やかに会話を交わす。
「……彼のことは………気の毒でした」
「御気になさらないでくださいませ。そう言って頂けるだけで、奴は果報者です」
「しかし」
「率爾ながら。……今は、彼奴のことを」
「………解りました。気になることがあるようですね。……申してごらんなさい」
「……彼女の卜占を疑うつもりはありませんが、あれが本当に、我等の救世主と成り得ると?」
「ええ」
「私には、ただの物狂いに見えます。それも、死にたがりの癖があるようです」
窺うように、近衛隊隊長を象徴する赤いマントを付けた女は、女王を見上げた。
「……続けなさい」
「人並みはずれた腕力こそあるようです。技量もありました。しかし、それだけです。奴らの用いる『奇跡』でもないようですし……」
「…………貴女の言いたいことはわかりました」
女王は、赤マントの目の前で目をつむり、僅かな思索に耽っている。
……その様に見せる。何せ、答えは決まっているのだ。
「……しかし、それでも彼が鍵です。今後の予定に変更はありません……退がって良いですよ」
「はっ」
近衛隊長が退出したのを見て、数を頭の中で数え始める。
人間と比べてのこと故に実感はあまり沸かないものの、我々の聴力は高いらしい。
足音が聞こえなくなってからも、なお数え続ける。そして。
もう、けして誰も周りにいないことを確信して。
「死にたがり……ね」
一人座る少女は。ふふ、と笑ってみせたものの。
限界だった。片手で頭を抱え、逆の袖を噛んで嗚咽を噛み殺す。
あぁ、私は…………なんと罪深いのか。この地におわす精霊よ。……私をけして許さぬよう。
どうか地獄を。どうか苦行を。伏してお願い奉ります。
その豪奢な造りの窓もカーテンで遮られた、暗い部屋。月の光は届かない。
王国。人間の住まう国。
その城の一室、豪奢な玉座にて、王と一人の女が話している。
「………聞いておらんぞ。奴は『奇跡』を与えられなかった………貴様は我にそう申した。そうだな?」
「ええそうです。あれは『奇跡』ではありません。取るに足らない人の業です。ただまあ……少しばかり調教が上手く行きすぎた感はありますが」
目の前の女。胡散臭いものの、農業。工業。他、あらゆる産業の発展、王国の栄華のきっかけとなったこの女の占いは、手放すにはあまりに魅力的に過ぎた。
だからこそ、『勇者候補制度』などというものも言われるままに作り、その育成も任せてきたのだ。
だが、外れる筈の無いこの女の占いが、此度の事態を予測していたというなら。我の命が脅かされることを予見していたというのなら。
首を飛ばす。そう意を込めて睨みつけるものの、飄々としたものだ。
――あまりに取るに足らないものは、私の目にも映りません。
――彼の者如きに、王たるあなたが害されるはずもないでしょう。
そんなことをぬけぬけと口にした。
「………まぁ良い。あの落ちこぼれは貴様がしかと始末せよ…………退がれ」
「御意」
王の間から退室し、一、二、三歩。口に解毒薬を含む。
人間の鼻は我々に比べ劣っている。王の間に染み付いたこの匂いには、今後も気づけまい。
人間の耳は我々に比べ劣っている。耳を落とした私と同じ程度にしか利かないのだ。
だからこんなことも言える。
「尊大ぶっても小物は小物。哀れね」
さて、仕込みは済んだ。後は神のみぞ知る……といったところか。
神、神か、くそったれ。……ああ、でも願わくば。
………いや、自分にそんな資格はない。だがそれでも。
「精霊よ……あの子達に、どうか、御加護を」