堕落
街に帰ってきた時、とうに日は落ちていた。舗装された敷石に足を踏み入れたとき漸くそれに気付き、どれだけ己が虚脱していたのかを知る。
そうだ、……この無様を見て、教育係がなんと言うか……あるいは、処分されるか。
……ひどく疲れた。今日はもう稽古はないようだし、寝よう……。
何も考えたくない……。
夜が来る。魔物の時間が来る。もはや魔に逢う時間は過ぎて、光も届かぬ深い闇が辺りを包み込む。
――嫌な夢を見ていた。いやどうだろうか。嫌ではなかった気もする。
本来この世に存在しない、あるべからざる世界に無意識で臨んでいたその時、頭に重い衝撃が走った。
――殴られたのだ。誰だ。敵か。
常であれば気付けた筈の襲撃に己を罵倒し、しかし周囲に視線をやれば、本日担当していた教育係がすぐ傍にいたことに気付く。
何時も理不尽な彼らであるが、今日はとりわけ酷い。抗議しようと口を開きかけ、己の今日を思い出して口を噤む。それしか選択肢は無い。
「来い」
押し殺した声だ。彼らは常に抑揚のない声で話すが、このように何か……感情を表に出さぬよう苦心している様子は初めて見た。
先ほど同様ついていく。向かう先も同じ方向である。
ただ一つ先程と異なるのは、僕の首に鎖がかけられていることだ。
懲罰であろう。それはそうだ。あんな無様を晒したのだから……いや、殺されるのか。
それも不思議ではない。最初からわかっていたことだ。
ここまでか。
抵抗することもできた。己はその素養を見出され、英雄を目指し、勇者候補としてこれまでたゆまぬ訓練を積んできたのだ。
彼は外に追い立てられ、引きずられるように、何処かへ連れて行かれようとしていた。
……最早彼を物理的に留めることができる者などこの街にはいなかった。
だが、彼は抵抗しない。己の不実を自覚した彼が、反抗するということはあり得ない。教育係はそう考えていただろうし、事実その通りで、彼は無抵抗のまま、滅多に人の来ない街のはずれの広場に連れて行かれ、そこで俯いていた顔を上げた。
震えた。
あれはなんだ。高々と掲げられたあれは。我らが王国旗の隣に、掲げられた、あれは。
そこにはためくのは青いマントだ。それがまず目についた。何故ここにあれがある。いや、それより。
竿だ。あの竿は…………槍だ。
槍が旗竿代わりに使われている。そして、ああ、そして、そのシルエットを歪にしているのは。
仰向けに貫かれ、辱められているのは、僕の右腕に今も残っている歯形を付けた、あいつだった。
「本日行われた、勇者候補最終選抜試験の結果を、試験監督官サレスが告げる」
先ほどと変わらぬ声で、教育係が、言う。こちらを見ず、ただ淡々と。
強い風の音がする。が、常と異なる嫌な音である。妙に………耳に障る。
これだけ音がするなら、もっと、そう、もっと……。
「貴様は、失格だ。与えられた状況から任務達成条件の一つ、即ち証拠の隠滅を理解しなかった。並びに、明らかな弱敵を前に敵前逃亡。論外だ」
そうだ、もっと旗が強くはためく筈なのに……。じゃぁ、この音はなんだ……?
「貴様の尻拭いは我々の職務の範疇にはない。故に貴様が始末しろ」
闇が退く。三歩離れただけで見失いそうな目の前の男が、松明に火を付け、掲げた。
足元に、大きな穴が掘られていた。大きな……大きな穴だ。
そこに、七つの影が浮かぶ。松明の光が届ききらぬ、そこには。
僕の足を掴んだあの幼生も含め……全員が、そこにいた。
先ほどから風の音と思っていたのは、……猿轡をかけられた彼らの、呻き声だった。
「油を撒いておいた。火をかけよ」
催促するように、言う。
黙れ。
……黙れ? 彼の言うことは、正しいはずだ。ああ、何も間違ってなんか……。
そうだ、彼は常識を口にしている。
彼の温情に応えるため、口を開く。
「できません」
「そうか」
彼は松明を放り投げた。
落ちる。穴の真ん中に落ちる。とっさに手を伸ばすが、届かない……!
出来ることは一つしかなかった。その際、何も考えてはいなかった。
自分の今までを否定する筈のその行為に、躊躇といえるものは一切無かったように思う。
一匹のみ。助けられたのは一匹のみであった。
鎖を引きちぎり、穴に急いで飛び込み、それでも背を焼かれ、手の届かなかった魔物達の声にもならぬ悲鳴を耳にしながら、森の方へ駆け出した。
ああ……ああ。
自分は、何処へ向かうというのか。
何処へも行けない。そんなことはとうに知っている。
先程の行いが、決定的に己の道を閉ざした。
英雄どころか。
英雄どころか、裏切り者である。ああ。
――ああ。
……せめて。せめて己の足で裁かれようと………戻ろうと。
先程の、胸に抱いたままであった魔物の生き残りを森中で放し、振り向きもせず、街へ戻る。
どうしても重くなる帰りの道すがら、先程の光景を思い出す。
火が放たれ、彼らは泣き叫んでいた。
教育係が、堰を切ったように笑い出した。
見ろ、これを。これこそが正しい行いなのだ。お前はこやつらと同じ運命をたどらせてやる。明日、王都へ連れて行き、王の御前で処刑してやる。裏切り者! せめてそうして他の者の士気を挙げる位にしか、貴様の価値など最早無いのだ。馬鹿者が。馬鹿者が!
戻れば死刑である。
故に戻るのだ。
彼には最早、明日は見えない。終わらせてくれるというなら。