第2節 ロック
(誰、この子……)
少年の空気は一種独特だった。そこにいるのにそこにいないような、彼の周りだけ世界が干渉し得ないような、何とも不思議な空気を醸し出していた。
空気だけではない。見た目も独特だった。エステルよりも少し渋みがかった金髪で、それと同じ色の瞳をしていた。前髪には黒いメッシュが二筋入っている。長めのメッシュと、短めのメッシュ――その二つはまるで時計の長針と短針に見える。時刻で表すと、ちょうど五時半を示しているようだった。
時計のような少年は、教室をさっと見渡すと、迷わず教壇に向かった。
手に持っていた、プロフェッショナル用の大きめの六法を静かに教壇に置くと、教壇に軽く手をつき、受講生の方を真っ直ぐに見た。
「いつから、時空法は……こんなに人気がなくなったんだ?」
(は……?)
「テレサ先生は、校長の急な命令で調査官としての任務に就いている。私は今日から、彼女の代わりに時空法の授業を担当することになったセシル・ロックだ。よろしく」
(はい~~~~~!?)
「ちょっと待てよ!」
声を上げたのはダンテだった。
「いきなり何なんだよ! テレサ先生から何も聞いてねぇぞ! 俺は、テレサ先生の時空法を選択したんだよ! いきなり人代わるなんて詐欺じゃねぇか!」
ロックと名乗った少年は、いきなり怒鳴られたにもかかわらず、一切動じることなく穏やかに言葉を返した。
「申し訳ない。君が怒るのも尤もだ。しかし、学園側の事情にも配慮してほしい。代わりに私が精一杯、満足のいく授業を提供したいと思っている」
ロックの言葉は普通であれば、誰もが納得しそうなものであった。
しかし……誰もが納得しそうにない、普通でないポイントが一つあった……
「何で、てめぇみてぇなガキに、時空法、習わなきゃいけないんだよ!」
そう――どう見ても十五、六歳の彼が、時空法を人に教えられる程に修めているとは思えない。大体、アカデミーに入学するだけでも通常は何年もかかる。そして、修了するのにも最低三年はかかる。この少年は、アカデミーさえ卒業しているようには見えない。
「ハァ……」
ロックは、あからさまにため息を吐いた。
「ッ! 何だてめぇ! ケンカ売ってんのか!」
ダンテが椅子からガッと立ち上がった。
「いや、すまない。この展開は、予想していたんだが……そこまでハッキリ言われるとは思っていなくてね……君の主張はこういうことか? 『セシル・ロックには時空法を教えられる程の力がない』と」
「分かってんじゃねぇか!
「なら、心配はいらない。私はテレサ先生よりも力が上だ。テレサ先生だけではない。おそらく、今生きている魔法律家の中で、一番強いのは私だ」
サラッと飛び出したトンデモ発言に、教室中の空気が凍る。
ダンテでさえ立ったまま口をポカンと開け、固まってしまった。
「きっと信じていないな。こう言えば、良かったか。私は『時空の賢者』セシル・ロックだ」
ロックの次の発言は、更に威力のあるものだったが、すでに極限まで凍り付いた教室の空気が変化することはなかった。
「ちょ、ちょっと質問です!」
エステルが手を挙げた。
「どうぞ、エステル」
ロックが丁寧に指名する。
「あ、あの! 『時空の賢者』は、テオドール・ロックさんだったと思うんですけどっ!」
賢者はわずか十五人しかいない。そして世界に大きな影響を与える彼らの名前は、魔法律家でなくとも誰もが言うことができた。
「前賢者テオドール・ロックは、私の父だ。彼は死に、私が新しい賢者となった。一週間前のことだ」
「テオドール・ロックが死んだ!? それは、本当なのですか!?」
驚きの声を上げたのは、エステルでもダンテでもなく、アレクサンドル・ケーラーという三十代半ばの男性の受講生だった。
「あぁ本当だ。私が最期を看取った……」
ケーラーは放心状態となった。信じられないといった様子だ。
「ねぇ……それって証拠あんの? 賢人会議の緊急集会、開かれたって話聞いてないんだけど」
今度は、ユーリ・カンディンスキーという名の男子学生が質問する。
「賢人会議は、来月、開かれることになっている。そこで、他の十四人の賢者と顔を合わせ、新賢者として承認される予定だ」
賢人会議は、賢者十五名により開催される世界で最も影響力のある会議である。賢者の力を得た者は、ここで承認されてはじめて、公式に『賢者』として社会に認められることになる。
「じゃあ、まだ『賢者』になれるかどうか分かんないんじゃん。て言うか、そもそも、あんたが賢者の力を持ってるのか、オレは疑問に思ってんだけど」
ユーリの発言は、受講生全員の気持ちを代弁していた。
「……証拠を見せろということか」
「そう言うこと。そしたら、オレらも黙って授業受けるよ。簡単でしょ? 『時空の賢者』の力、少し見せるくらい」
ユーリはニヤリと笑ってロックを挑発した。
「……仕方がないな。来月まで授業を受けてもらえないのは困る」
そう言うと、ロックは、ズボンのポケットから鎖の付いた金色の懐中時計を取り出した。
「――『ストップ』でいいか?」
『時空の賢者の力は、ブラックホール、タイム、ストップの三つである(賢者の法十一条)』。
『ブラックホール』(時空法九〇条)は、対象を異次元に送り込み、空間から消滅させる効果を生じさせるものである。しかし、その効果の強大さから『禁忌』となっている。
『タイム』(時空法三五二条)は、一定の空間を時間軸の影響から免れさせる――すなわち時を止める効果を発生させるものである。これも、世界に対する影響の大きさから『禁忌』となっている。
『ストップ』(時空法三六七条)は、人や物といった個別の対象の時を止める効果を発生させるものである。他の二つが『禁忌』となっているため、人前で見せられる力はこれしかない。
(『ストップ』が見られるの……!?)
エステルはワクワクしていた。エステルだけではない。挑発したユーリでさえ、ロックから徐々に解放されつつある異常な魔力に、否が応でも期待を高められていた。
「ダンテ、君に協力を頼みたい」
「――へっ!?」
ロックの魔力にすっかり気圧されていたダンテは、思わず大げさな反応を返した。
「その腰に提げている魔銃器で、ここを狙って撃て」
ロックは、自分の眉間を左の人差し指で示す。
「はぁ!?」
「大丈夫だ。『ストップ』で止める」
失敗したら死んでしまう――時空法の教室はかつてない緊張感に包まれていた。
「ほら、早くしろ。本当に今日の授業ができなくなる。テレサ先生に会わす顔がない」
「ッ! 知らねぇからな!? ほんとに撃つぞ!」
ダンテは、半ばやけくそ気味で腰のホルダーから魔銃器を引き抜くと、銃口をロックに向け、そのままの勢いで引き金を引いた。
パァンッ! 「『ストップ――』」
大きな破裂音がしたのとほぼ同時に、ロックは条文を唱えると、金時計の頭をカチッと押した。
「ひゃっ!」
エステルは思わず目をつぶってしまった。
目を開けていた他の学生たちも、緊張と興奮から、目の前の状況を上手く分析できないでいた。
「ほら、見てみろ」
ロックが受講生へ語りかける。
魔銃器の弾丸は、ロックの顔から約十センチ離れた場所で静止している。弾丸の周りは、時空の歪みが生じているせいか、蜃気楼のようにユラユラと揺らいでいる。
エステルも目を開けて確認した。
「すごい……」
教室中からため息がもれる。
ロックは静止した弾丸を指で摘むと、教壇の上に、弾丸の先端が天井に向くように立てて置いた。
「『ストップ』は、対象を静止させるだけでなく、同時にそのエネルギーをも止める」
そう言って、金時計の頭をもう一度カチッと押した。
ヒュンッ――ガッ
弾丸は地面に垂直に飛んでいくと、教室の天井にキレイに刺さった。
大理石のかけらが教壇に落ち、パラパラと音をたてる――
パチ、パチパチ――
ケーラーの手をたたく音が、教室の静寂を破った。
他の学生も、感動と興奮で訳が分からない状態のまま手をたたき始める。
拍手が徐々に大きくなる。
パチパチパチパチパチパチ――!
誰も席を立ち上がったり声を上げたりしないのに、教室の体感温度はかつてない程に上昇し、拍手の音だけがこの場の興奮を外界に伝えていた。
学生たちは、初めて見る『時空の賢者』の力に、魔法律家を目指す者としての野心を強く刺激されていた。
パチパチパチパチパチパチ!
パチパチパチパチパチパチ――
拍手の嵐は、隣の教室から苦情が来るまで止むことはなかった。